表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

   第一章 夜


 目を覚まして一番初めに思ったのは、父さんはぼくの誕生日を覚えているかなということだった。

 ぼくはため息をついて起き上がる。窓の外はまだ暗かった。冷え切った腕を軋ませながら頭の上へ伸ばし電灯のひもを引いたが明かりはつかなかった。電球が切れてしまったのだろうか。仕方なく机の前に座って埃をかぶったランプを探ると火をつけた。濃淡のある橙色の光と熱が部屋の中をゆっくりと照らし出し、霜で覆われた窓ガラスで弾けて消えた。

 のどの奥に感じた違和感を乾いた咳とともに吐き出した。数秒の間だけ破られる沈黙。そっとベッドから抜け出すと、四本の足が不気味な音を立てて軋み、あとには数枚の毛布が残された。氷のように凍えきったドアノブを掴みながら耳をすましたが、廊下からは何の音も聞こえない。おそらく父さんはまだ起きていないのだろう。キーキーと鳴く蝶番をなだめながら扉を開け滑るように外へ出た。静まり返った廊下は真っ暗で、ランプを持つぼくの手だけが異様に明るくそれが世界の全てだった。ぼくはいつかどこかで読んだ小説の一節を思い出す。気づかないうちに唇の隙間から声が漏れていた。さあ、火を運ぶんだと声は言った。


 隣の寝室は夜の教会墓地みたいに静まりかえっていた。毛羽立ったカーディガンの裾をかき合わせながらぼくは歩いた。冬眠から覚めたばかりの熊のようにどうしようもなく空腹だった。最後に食事をしたのがもう何百年も昔のような気がしていた。闇は深く夜明けは遠い。時計を見た限りでは父さんが起きだすまでかなり時間があった。それまで我慢することなどとてもできそうになかったから、ぼくは部屋を抜け出すとすぐにキッチンへ向かった。

 ランプの明かりを使いながらキッチンの中を探したが、たいしたものは何も見つからなかった。林檎のジャム、未開封のクラッカー、桃の缶詰が三個、乾燥したパン、ミネラルウォーターのボトル、ハム、チーズ、それにコーンビーフ。ぼくは胡桃の木で出来た食器棚からコップを一つ取り出すと水を注ぎ、それからハムを二片切り取ってランプの炎で炙って食べた。パンとジャムは朝食用だろうと思ったので元の場所に戻したがクラッカーの箱は部屋へ持ち帰って食べることにした。空腹感はいつまでも続き、永遠に食べ続けられそうな気分だった。ぼくは白い息を吐きながら部屋へ戻った。それはとても寒い夜であり、そして長い夜になりそうだった。


 ベッドに戻り、取ってきたクラッカーを齧って空腹を癒した。次第に腹は膨れてきたが、しかし眠気が訪れる気配は一向になかった。部屋の空気は妙に埃っぽく、途中で乾いた咳が何度も出た。ぼくはクラッカーの食べかすをズボンの裾から払うと部屋の端へ行き窓を開けた。冷たい夜風が入ってくる。まつり縫いで閉じられたカーテンの裾が風にあおられてはためいた。甘い雨の匂いが一瞬、鼻腔をついてそして消えた。耳を澄ませたが窓の外は完全に無音。星の囁きも雨の足音も聞こえない。誰かの声が聞こえたような気がしたが、どうやら気のせいのようだった。もしかすると、さっきまで見ていた夢の名残だったのかもしれない。

 クラッカーを食べ終えてしまうと何か暇つぶしを見つけなければいけなくなった。時計の文字盤に目をやっても、短針はようやく四の字を通り過ぎたあたりで眠気が訪れる気配もない。机の脇のキャビネットを漁ると、ラッキーなことにタイイングセットの入った木箱が見つかった。フライフィッシングに使う毛鉤を作るための道具箱で、ずっと昔にもらった父さんからの誕生日プレゼントだった。埃を払って箱を開けると、すでに完成していた毛鉤が数本落ちて机の天板で跳ね返る。ぼくは床においてあったランプを拾い上げると炎の大きさを調節してから机の上においた。注意しないと火が燃え移りそうだったが、これくらいならたぶん心配はいらないだろう。何を作ろうかと考えたが、どうせたいしたものが作れるわけでもない。箱の中身を漁ってワイルドドッグの八番を巻くことに決めた。今ある素材だけで作れそうだったし、それに消耗の激しいストリーマは幾つあっても困らない。たとえもう二度と釣りに出かけることがないにしても。


 ワイルドドッグは犬の毛(なかでもコリーのものが望ましい)を使った伝統的なパターンのフライで小魚を模したストリーマとして作られる。基本的な材料は以下のとおり。ボーダーコリーの背中の毛、卵を産みそこなったメンドリの羽、そしてシルバー系統のフラッシュティンセル。犬の毛は長く柔らかく独特の光沢を持っているため、実際のところは想像以上に良い材料になる。このフライを考えたのはポーラ山地の湖畔に別荘を三つ持ったイギリスの貴族で、彼はこのフライを使って一八二匹のトラウトを釣ったが一八三匹目を釣り上げる前に死んだ。イギリス人にしては珍しくパンフィッシュは一匹も釣っていない。彼が死んだ後、所有していた三つの別荘のうち二つは取り壊されたが最後の一つは売却されて人手に渡った。新しい所有者は初老の夫婦でよく別荘に友人を招いてはパーティーを開いたが、ただの一度も釣りをすることはなかった。飼われていた犬はどこかへ消えて二度と戻らず、卵を産みそこなったメンドリは老婦人が風邪を引いた日に卵を一つだけ産んだので彼女の子孫をぼくらは町の精肉店で買うことができる。


 ぼくにこのフライの巻き方を教えてくれたのは父さんだった。その頃の父さんは釣り好きで週末には必ずどこかの川へとぼくを連れて行った。何度かの例外を除いて海に行ったことはない。ぼくらの住む家からはあまりに遠すぎたし、父さんは海があまり好きではなかった。父さんは流れていく水を眺めるのが好きだったから、そんな彼にとって海はすべての生命の終着点で最高のどん詰まりにすぎなかった。死んだものは全て海に流れ着くと父さんは言った。人も魚も何もかも。生きることは逆らうことだ。たとえその先に枯れ果てた水源が待っていようとも。父さんがそう言ったとき岩魚の尾びれが水面を叩き、ぼくらはそれを釣り上げて食べた。死んだものは海へ流れるとぼくは今でも繰り返す。例えばこんな眠れない深くて暗く寒い夜には。


 何かがおかしいと気づいたのは七本目のワイルドドッグを巻き終わり、保存してあったメンドリの羽をほとんど使い切ったころだった。ランプの炎が弱まり少しだけ空いた窓の隙間から冷たい夜風がしのんでくる。時計の文字盤を見るとすでに六時を過ぎていた。そろそろ夜明けの気配が訪れてもいい頃だ。ぼくは部屋の隅に歩くと隙間に手をかけて窓を大きく開けた。外は依然として暗く、吹き込む風は夜の冷たさを保ったままだ。机の上に散らばっていたメンドリの羽がまとめて風に飛ばされてどこかへ消えた。夜明けはまだやってこない。


 短針が七の文字に差し掛かる頃になっても夜明けが訪れる気配はなかった。もしかするとよほど天候が悪いのかもしれないと思って一度外に出てみたが、空の様子なんてわからないくらいとっぷりと闇に包まれていた。新月なのか月の光は見当たらない。星の光も見えなかった。緞帳のように下りきったそれは確かに夜の闇だった。しんとした風景の中で申し訳程度にきらめく街灯が一筋の列を成している。ぼくは家の中へ戻りドアを閉めて鍵をかけた。どんな真冬の時期であろうと七時をすぎる頃にはたいてい夜明けが訪れる。時間が止まってしまったのかもしれないとロマンチックな空想をしたが腕にはめた時計は確かに動いていた。寝室に戻り壁の時計も確かめたが止まっていない。居間の置時計も同じ。少なくとも時計の故障ではなさそうだった。ふと死んだ祖父の言葉が脳裏をよぎった。時計を信じるなと彼は言った。時計の針は時を切り刻むことができんがお前にはできる。お前はお前の時間を生きろ。時計を信じるなと彼は言った。


 七時半になった。世界はまだ眠り続けている。


 ぼくは居間を出て廊下を五歩分歩くと寝室のドアをノックした。右手に硬い木目の感触。耳をすませたが返事はなかった。何の物音もせず誰かが置きだした気配もない。父さんはまだ寝ているのだろう。ノブを握った手に力を込めると加工された真鍮はゆっくりと回った。鍵はかかっていない。細くドアを開けて隙間から中を覗き込んだ。部屋の中は一面の暗闇でランプの明かりもなく何も見えなかった。ぼくは自分の部屋からだいぶ光の弱まったランプを取ってきてドアの隙間にかざした。ベッドの上に人影が見えたがそれはぴくりとも動かなかった。父さんは子供みたいに毛布にくるまり死んだように眠っていた。

たいていの推理小説ではこうした場合父さんは死んでいて、ぼくがそれを見つけてさめざめと泣きながら物語は始まる。探偵の物語は誰かの物語が終わらないかぎり始まらないものだ。だけどぼくが生きているのは推理小説の世界ではないから父さんは当然死んでおらず、ただぐっすりと寝ているだけだがあまりにもぐっすり眠り込んでいてぼくが叩いても叫んでも目を覚まさない。


 部屋に戻りぼくは自分のベッドの上でひとり頭を抱えた。ランプの炎を出来るだけ小さくしてベッドサイドに置く。ふわふわと揺れる炎を見つめていると少しだけ気持ちが落ち着いてきた。電気がつかないのはぼくの部屋だけでなくすべての部屋がそうだった。窓から外を眺めてみても、町の明かりはほとんどついていない。こんなに暗い町の姿を見たのは初めてだった。

 ベッドの上でしゃがみこみ毛布を体にギュッと巻きつける。何かに怯える亀みたいだと思ったが震えを抑えるためにはそれしかなかった。自分でも情けないと思うくらい、ぼくの体はがたがたと震えていた。しっかりしろ、とぼくは自分に言い聞かせた。お前はもう十五じゃないか。何を怖がることがある。父さんが起きてこないだけじゃないか。大したことじゃないさ。そうだろ?

 父さんが生きていることは明らかだったがそれが逆に不気味でもあった。父さんは眠っていた。これ以上ないってほどにぐっすりと眠りこけていた。ぼくが耳元で大声を出してもベッドから右足が落ちるくらい体をゆすっても父さんは起きなかった。

 目覚めないのは父さんだけではなかった。もう朝の八時になるというのに窓の外は相変わらず暗く夜がいつまでも続いていた。町はもの音ひとつせず誰かが起きてくる気配もなかった。隣に住んでいるミホさんは毎朝七時になると犬の散歩をしながらぼくの家の前を通るのだがそれもない。夢を見ているのではないかと思って自分の頬を思い切り引っ張ってみたが痛いだけで何も起こらなかった。これは現実だ。

 夜明けの来ない世界のなかで、ぼくは一人ぼっちだった。一人ぼっちで起きていた。


 一人ぼっちで起きているという孤独感をぼくはよく知っている。小さい子供というのは大人よりも早く目が覚めるもので、それは昔のぼくも例外ではなかった。平日の朝は家族みんなが同じ時間に起きたけれど、土曜日や日曜日の朝は必ずぼくが一番初めに目を覚ました。それは決まって太陽が昇る時間のちょっと前で、部屋のなかはまだ真っ暗。父さんや母さんが目を覚ますまでの一時間、ぼくは無理やり目を閉じながら朝が来るのをひたすら待っていた。ときどきトイレに行きたくなって布団を抜け出すこともあったけど、そういうときには必ずといっていいほど幽霊を見た。白いぼんやりとした幽霊でそいつは玄関の前をいつもうろうろとしていてぼくに気づくとすっと消えた。ぼくはその話を何度もしたのだけどまともに取り合ってもらえず、父さんはある日うんざりした顔でぼくをメガネ屋に連れて行った。こいつにメガネを作ってくれ、と父さんは店のおじさんに言った。幽霊を見るっていうもんでね。魔法のメガネを頼む。

 メガネは二日後に出来上がり、ぼくはそれを必ず枕元において眠るようになった。それ以来ぼくが幽霊を見たことはない。


 外に出てみよう、とぼくはついに決意した。夜明けのこない町に出かけると思うと怖かったがこのまま家にいるのはもっと怖かった。外に出れば誰か他にも起きている人がいるかもしれない。町には夜遅くまで起きている人がたくさんいたけど、それと同じくらい朝早くから起きている人もたくさんいた。新聞配達をしているおじさん、パン屋の店仕度をしているおばさん、息を整えながら走っているお爺さん、それに犬の散歩をしているミホさん。朝日のなかで生きる彼らは小学校に入ったばかりの子供みたいに活き活きとして見えた。父さんはぼくにスフィンクスのなぞなぞを教えてくれたが、それによれば人間の一生のなかで子供時代は朝に、大人は昼に、そして老人は夕暮れにあたるのだそうだ。朝の光のなかでは誰もが子供に戻る。しかしスフィンクスのなぞなぞに夜はなく、夜の闇は人間のどんな姿も表すことはない。

 ぼくはベッドの下から釣りに行くときよく使っていたナップサックを取り出すと、ジッパーを開けて膝元においた。それは頑丈な帆布で出来ていて、いくら引っ張っても壊れず雨や雪にも強い。中に入っていたチョコレートの空き箱を屑篭にすてるとぼくは部屋から持ち出す荷物を選んだ。持ち物は最小限に抑えることが旅の秘訣だ。多すぎる荷物はトラブルのもとになる。

ぼくは洋服箪笥を開けて必要になりそうなものを探した。予備の靴下、ハンカチとマフラー。キッチンに行きステンレスの水筒にミネラルウォーターを注ぎいれる。クラッカーの袋。予備の芯とランプオイル。双眼鏡と鉛筆。父さんの寝室からは町の地図をもらっておいた。置手紙を書こうかとも思ったけれどやめておく。伝えたいことはなかったし地図に関してはあとでこっそり戻しておけば大丈夫だろう。集めたすべてを入れてもナップサックにはまだ余裕があったが、ぼくはそのままにしておいた。途中で何かを手に入れたときのためだ。

 最後にもう一度ランプの火を確認すると、ぼくは寝静まった家に別れを告げて明けない夜のなかへ最初の一歩を踏み出した。


 外へ出ると通りの空気は冷たく闇は静かで物音ひとつしなかった。区画整理のなされた土地の上に似たような形をした民家が等間隔で並んでいたが、どの家の窓にも明かりは灯っておらず人が起き出した気配もない。星ひとつない夜空を電線の影が横切り足元でマンホールが鳴った。町の様子は何一つ変わっていなかったがすべてが眠っていた。まるで世界中が眠りについて目を覚ましているのはぼくだけになってしまったかのようだった。見るべきものは何もなく語るべきことも何一つ残されてはいなかった。その眠りの王国のなかでは何もかもが無意味に思えた。

右の手首に時計の重み。しかし、それは時の重みではなくまったく違ったものになっていた。すでに短針は八の文字に差し掛かり、いつもなら通りは通勤と通学を行う雑多な人々で埋め尽くされ、卵を産みそこなったメンドリたちの声が響き渡っているはずだった。しかし夜が明ける気配はなく世界が目覚める気配もない。目覚めているのはぼくで眠っているのは彼らだった。すべきこともできることも何ひとつなかった。

何ひとつ。


 大通りを避けて路地裏を歩く。真っ暗なときに大きな通りを歩くと余計に寂しく不安になるからだ。建物が密集して道が狭いぶん、何かに包まれているような気がして路地裏の方が安心できる。路地に面している建物はどれも古く崩れかけていて、たいていの人間は通りたがらない場所だった。子どもたちは幽霊に怯えていたし大人たちは不潔だといってここを嫌っていた。父さんもそんな大人の一人だったがぼくは違った。じめじめとして昼でも暗いこの場所がぼくはとても好きだった。細く切り取られた空を見上げると両側に並んだ家の間をロープが何往復もしていて、そこにたくさんのタオルがオリンピックの国旗みたいにかかって揺れていた。洗濯物は夜になっても取り込まれずなすがままにされている。きっと朝が来れば誰かがロープを手繰って窓のなかに入れるのだろう。

 道のアスファルトはところどころ欠けて側溝の一部になっていた。無造作に置かれた屑篭の隣には錆びたカートが転がり箱や厚紙や紙屑のつまった袋が散乱していた。かさついた大気のざらざらした味。くぼんだ路面に水がたまり、歩くたびに音をたてた。壁面からは街灯がいくつも突き出していたが明かりはついていない。ランプの光だけが頼りだった。家々の影が幾重にも重なり影絵のような世界をつくる。どの家にも誰かが寝ているのだろうかとぼくは思った。くしゃみをしているみたいな顔をしたライオンのドアノッカーを見つけて叩く。乾いた音が路地に反響したが人の起きだす気配はなかった。


 路地裏にはかつて一人の老人が住んでいた。鬚をぼうぼうと生やし、薄くなった栗色の髪をふちの欠けた山高帽で隠した老人だった。その山高帽が五月の山みたいな若緑色だったのでぼくたちは彼のことをスナフキンと呼んだ。身なりは粗末だったが、彼の瞳は焦がしたバターみたいに優しくキラキラと輝いていた。

スナフキンは食器と乳母車と替えのズボンを持っていたが靴下と洗剤と温かいスープは持っていなかった。煙草の箱は持っているときもあったし持っていないときもあった。しかし彼が一番ほしがっているものは葡萄酒だった。一杯の葡萄酒は百斤のパンに勝るというのが彼の口癖だった。彼は厚紙とトタン板で作った家のなかに葡萄酒の瓶を何本も蓄えていたが、いったいどうやってそれを手に入れているのかは誰も知らなかった。それはスナフキンだけの秘密だったのだ。

 町の大人たちはこの老人を嫌っていたがぼくは彼が好きだった。スナフキンは話好きで手土産を持っていけばいろいろな話を聞かせてくれた。彼はこの町の路地について誰よりもよく知っていてまるで町の守り神のようだった。路地を歩いて屑拾いをすることが自分の仕事なのだと彼は言った。紙屑や金屑を拾っては町の外れにある工場に持っていきそれを売るのだ。仕事は半日もあれば終わったから残りの時間を彼は自由に過ごしていた。一日中ネコと戯れていることもあったし、住みやすいようにトタンの家を改良していることもあった。彼は誰よりもこの町を好いていて、そして誰よりも風呂に入ることを嫌っていた。町には彼のような人間のために小さな浴場があったが彼は決してそこへ行こうとしなかった。どうして風呂に入らないのかと聞くと、体についた垢が落ちてしまうからだと彼は答えた。

 わしらにとって垢は大切なものなのじゃ、と彼は言った。垢がたくさんついているほどわしらは寒さに耐えることができる。つまり、君にとってのコートやマフラーと同じじゃな。垢がなければ何がわしらを冬の寒さから守ってくれる?


 最後にこの老人の姿をみたとき、彼は青い服を着た大人たちに連れて行かれるところだった。男たちは乱暴な様子で彼の背中を小突くと無理やり車に乗せてドアを閉じた。ぼくは大人たちの一人をつかまえると彼をどこに連れて行くつもりなのかと尋ねた。

 森の中さ、と青い服の大人は答えた。

 どうして森に連れて行くの? 悪いことをしたから?

 いや。彼は困ったような顔をした。なんというのかな、つまり、あの人はこの町にいちゃいけない人だったんだ。

 だけど、あの人はこの町が好きだったよ。好きだって言ってたよ。

 うん。だけどこの町はあの人のことが好きじゃなかったんだ。


 可愛そうなスナフキン。風に吹かれた紙屑が名残惜しそうに足元を転がり暗黒のなかへ消える。かつて人の住んでいたその場所には車輪の外れた乳母車が墓標にように立っていた。


 路地裏の一番奥深くに、どんな夜中でも真昼のように明るい一角があった。けばけばしい化粧をした家が何軒も並んでいる。家たちはたいてい四角いアパートみたいな形をしていたけれど、なかにはまるで王宮か何かみたいに飾り立てられたものもあった。『オズの魔法使い』に出てくるエメラルドの都とか、シンデレラが舞踏会に出かけるお城とか、とにかくそんな感じだ。ぼくたちはその場所を幻影の家と呼んでいた。

 町の明かりがほとんど落ちている今でも、この一角だけは煌々と明かりが灯っていた。ただしどの家も頑丈な鎧戸で閉ざされ人の気配はない。紅い灯がひび割れた建物の壁を不気味に照らし出していた。家には看板がかかっていたが、どれも意味の分からない番号かアルファベットの羅列だったのでぼくはすぐに読むのをやめた。

 かつてこの場所で絵を描いていたころをぼくは突然思い出す。幻影の家はぼくたちの町のなかで一番派手な建物だったから、絵の練習にはちょうどよかった。家の形はダイナミックで描いていて楽しかったし、それにどの家もカラフルだったので絵の具をたくさん使うことができた。ここにイーゼルを立てて絵を描いていると、まるで遠い外国にやって来たような気分になれたのだ。

 理由はわからないけれど、父さんはそのことを嫌がっていた。たぶん中学校に上がる前の話だったが、ぼくがとびきり上手く描けた絵を父さんのところに持っていったことがある。看板も文字まで丁寧に書き込んだ自信策だった。ぜったいに褒めてもらえるはずだと思ったのに、絵を見た父さんはものすごい形相になってぼくの絵をくしゃくしゃに丸めて捨ててしまった。

 なにするんだよ!

 いいか。

 父さんは有無を言わせない声で言った。本気で怒っているときの声だ。どうしてそこまで怒られなければいけないのかぼくには理解できなかった。理不尽だ、とぼくは思った。

 二度とあそこに行ってはいかん。二度とだ。

 どうして?

 あそこは子供が行っていい場所じゃないんだ。

 だけど、絵の練習ができるんだ。

 絵の練習は別の場所でやれ。今度父さんがどこかいい場所を探してやる。だからもう二度とあの家には行くな。わかったか?

 うん、わかった。

 ぼくはうなずいたが、父さんが別の場所を探してくれることは結局なかった。


  監督のミスで音声を入れ忘れてしまった三流映画のワンシーンのように町の中は物音ひとつしなかった。メンドリの鳴き声も目覚めたばかりの人間がたてるあの雑多な物音も小屋から首をつきだした犬の遠吠えも何ひとつ聞こえない。閑散とした十字路の中心で三つ目の信号器が青林檎色の光をゆっくりと点滅させていた。その光を避けるかのように錆びついた歩道橋がぐるりと迂回して延びている。歩道橋の手すりは冷たく、鉄製の階段をのぼると軋んだ喘ぎ声が夜に響いていつの間にか降り始めた雪の中へと消えた。のぼりきった場所から街を見下ろす。街灯の列がどこまでの伸び続けているほかには何も見えなかった。橋の下では未だに信号器が辛抱強く点滅を続けていた。ライトはいつまでも青だった。前に進めと声は言う。


 あてのない状態のまま三ブロックほど歩いたが何の収穫もなかった。そばにあった煉瓦塀にもたれかかると思わずため息がこぼれ白い霧となって闇に消えた。ひどく寒い。長い時間夜の空気に触れていたせいで体がすっかり冷えきってしまっていて、間違いなくどこかで体を暖める必要があった。乳橙色にぼんやりと浮き上がる街灯の灯りであたりを探ると、一ブロック先に小さな喫茶店があるのを見つけた。父さんがよく行っている店だ。店自体には特に興味がなかったが重要なのはその店の窓が半開きになっている点だった。窓に鍵はかかっておらず、そこから中に入ることができそうだった。凍てついた石畳を鳴らしながら歩いて近づき様子を探る。そのまま道端に落ちていた石を拾い上げ、わずかに開いた窓の隙間から建物の中に投げ込んだ。石と石がぶつかり合う乾いた音が響いたが他には何も聞こえなかった。おそらく誰もいないのかいたとしても眠っているのか。ぼくはランプをかかげてもう一度誰もいない室内を覗きこむとそれを足元に置き両手に力をこめて窓の隙間を押し広げた。なんとか体が通るくらいまで隙間を広げ冷えきった窓枠に両手をかけて中に入る。

「こんばんは」

 硬い石の床に両足をつき、ランプの炎を高く掲げながらぼくは呼びかけた。声は狭い店内をわんわんと何度も跳ね返りどこかへ消えた。返事はない。散らかった雑貨の奥に二階へ上がる階段が見えた。

「誰かいませんか?」

「いるわよ」

 唐突に声がしてぼくは心臓が止まるほど驚いた。ゆっくりと後ろを振り返ると声の主が店の席に座っていた。黒炭みたいな髪、鳶色の瞳、真珠のように白い肌。

 見たことのない女の子がナイフを持ってそこにいた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ