ハワード家の忘れられない日
「・・・暗いな」
先ほどまで涙を浮かべてうつむいていたハワード伯爵のノア・ハワードは壁に設置されている魔導灯を見上げぽつりとつぶやいた。
「聞いているのですか!ノア様!これくらいの計算ヘンリー様があなたくらいの時には完璧に計算されていましたよ。ヘンリー様の弟であるあなたも、これくらいは簡単にできると思いますがね?
なんでこんな簡単な計算もいつまでたってもできないんでしょう?
私ですか私の教え方が悪いんですか?」
家庭教師の男が金切り声で叫ぶ。
いつもなら
「ごめんなさい。僕が悪いです。もっと頑張って勉強します。」
とめそめそと泣きながら謝るノアだが、今日はいつまで経ってもお決まりの台詞が出てこない。
何故ならノアは、ずっと魔導灯を見つめたままぼんやりしていたからだ。
そしてゆっくりと家庭教師の男を見つめると
「基礎も教えずいきなり計算式を解けと言われてもねぇ・・・
教え方が悪いね。兄上はあなたに教わる前はドワーズ先生に教わっていたからね。
あの先生は丁寧に基礎から教えていたと思うよ。そんなに怒鳴ることもなかったし・・・ご高齢であったから大声が出なかったんじゃないよ。穏やかな先生だったからね。ご病気でなければ僕もあの先生に教わりたかったよ。」
「なっ!!」
顔を赤らめ怒りに満ちた顔で睨み付ける家庭教師の男を涼しい顔で見つめ
「兄上が優秀なのはよく知っているよ。両親も兄上しか見てないからね。父に兄上のついでに弟も見てやってくれと言われたのかな?悪かったね。もう来なくていいよ。あなたは優秀な兄上だけの家庭教師に戻るといいよ。ご苦労様でした。」
そう言うともう興味をなくしたように机に向かいノートになにやら書き始めた。
「ふざけんな!こっちだってこんな出来損ない押しつけられてうんざりしてたんだ!言いつけるからな!ハワード伯爵に!」
持っていた本を床に叩きつけ荒々しくドアを閉めて部屋を出て行く家庭教師を見ることもなくその後ずっとノートに書き連ねるノアは夕食になっても食堂に姿を見せることはなかった。
ノア・ハワードはハワード伯爵家の次男。
父親のエイダン・ハワードと母親のソフィア・ハワードの次男として生まれた。
銀糸の髪に紫がかった青い目は母親のソフィアに似ていたが3つ上の兄ヘンリー・ハワードは勉学も剣も大変優れていて周りから神童と呼ばれるほどであった。
両親の話題はいつも兄でありお茶会によばれるのもいつも兄。常に兄優先の生活であった。
それに比べ弟のノアは、引っ込み思案で大人しくいつもうつむきがち。
食事の時も何も話さずただそこに居て一緒に食事を取るだけ。うっかリすると居たのか居なかったのかも分からないくらい大人しかった。話に口を挟むこともなく、何かを聞けば「はい」「いいえ」のどちらかの返事しかしなかった。そして兄のヘンリーが10歳の時王家主催の『若葉お茶会』の時ヘンリーが第一王子のお遊び相手に選ばれた事で両親の関心は益々兄だけに向けられるようになってしまった。
『若葉のお茶会』とは王家が王子と同い年の貴族の令息令嬢を集め開催されるお茶会の事だ。
そのお茶会は貴族の令息令嬢にとって初めての王城でのお茶会であり、そこで王子のお遊び相手に選ばれると将来の側近候補であり将来の婚約者になれるかもという大変名誉な事であった。
今年10歳のノアももうすぐ第2王子の為の『若葉のお茶会』に招待される予定だがノアがお遊び相手に選ばれることはない。
貴族間の妬みや権力の偏りを防ぐためにお遊び相手は一家に一人と決まっている。
「ノアごめんね~私がアレクサンダー様のお遊び相手に選ばれちゃったからノアはもうお遊び相手になれないんだよね。ノアもお遊び相手になりたかった?」
ヘンリーにそう聞かれたときもノアは
「いいえ」
と答えがだけであった。
「ノアには無理でしょう。お遊び相手は荷が重いわ。それよりヘンリー、こんど王城に行くときの衣装を新しく作りましょう。後で採寸しますよ。」
気を遣うヘンリーに比べ新しい衣装に夢中な母は上機嫌でデザイナーを迎える準備に部屋を出て行ってしまった。
「うーん・・・ノアも新しい衣装作ってもらう?」
「いいえ」
うつむいて部屋に戻っていく弟をため息つきながら見送ったヘンリーは
「もうちょっとノアのことも気にかけてあげてほしんだけどね・・・ノアももうちょっと自分に自信を持って欲しいよ。」
と近くに居た家令につぶやいた。
「そうですね、春にはヘンリー様も王立学園に通学されますし、その間在宅されるノア様にご両親もお気にされるのではないでしょうか」
「そうだといいけど」
などと話していた数日後あの大人しかったノアが勝手に家庭教師を解雇してしまった。
父の執務室に呼び出されたノアは悪びれた様子もなくじっと父の目を見ていた。
「ザイール先生に楯突いたというのは本当なのか?真面目に授業も取り組まず反抗的な態度ばかり取っていたそうだな。なんでヘンリーのように出来ないんだ?何か言いたいことがあるなら言いなさい」
一方的にまくし立てこんな事で時間を取られたことに腹を立てているエイダンに
「反抗的な態度ですか・・・取ってないですね。図星突かれて腹たちついでに、あることないことお父上に報告したのでしょうね。全てにおいて残念は人でした。あの人は教師に向いてませんね。兄上だけの家庭教師をお勧めしましたが兄上も違う方を見つけられた方がよろしいかと思います。」
凪のような穏やかな口調で話すノアを呆然と見つめるエイダン。
「お、おまえは本当にノアか?」
「はい」か「いいえ」しか聞いたことのないノアの返事。今言ったのは誰なんだ?いつも通りうつむいてめそめそ泣く姿を想像していた。泣いたら
「分かったらザイール先生に謝って真面目に勉強しなさい。」
と言ってこの件は終わりの予定だった。姿は同じでも中身が別人のようで信じられない物を見ている気分であった。
「一方的にザイール氏の主張だけを取り上げるのも感心しません。もめ事においては双方の主張を聞いて判断してもらわなければねぇ。
僕の主張は、ザイール氏に僕に勉学を教える気はないと言うことです。基礎も教えずいきなり計算式を解けと言ってその間自分は読書なりお茶を飲んで自由に過ごされていたので。解けないとすぐに兄上なら簡単に解けた。兄上は素晴らしい。おまえは出来損ないだ。と罵られあの程度の授業で給金を払ってもらうのも馬鹿馬鹿しいと思い、もう教えてもらわなくて結構ですと言いました。あんな人を先生と呼びたくもないですね。尊敬するところが一つもない。あの人は優秀な人を自分が教えたというステータスが欲しかっただけでしょう。兄上が優秀なのは認めますがそれはあの人の力じゃない。兄上の努力とドワーズ先生のお陰であると思ってます。それを後釜で搾取するだけの人です。
今度からツテや紹介ではなく信用できる機関で雇用する人を探されるとよろしいかと思います。それでは失礼します。」
ペラリペラリと流れる水の如く話し終えるとそのまま部屋を出て行こうとするノアを、ハッと慌てて止めるエイダン。
「まだ話は終わっていない!ノア!お前の勉学のことだぞ!ヘンリーのようになれとは言わないが真面目に勉強しなさい!このままでどうするんだ!なぜそんなに反抗的なんだ!」
「はぁちょっと意見を言えば反抗的・・・先ほどはヘンリーのようと言われたのに・・・しばらく家庭教師は結構です。自分でなんとかしますので。父上はお仕事頑張ってください。お茶でも飲んで落ち着いて・・・あぁお茶とお菓子用意してあげてください。」
近くに居た家令に声をかけそのまま部屋を出て行ってしまった。
「ゼスよ・・・あれ本当にノアだと思うか?」
ぐったり椅子にもたれながら呟くエイダンに家令のゼズは
「よほど腹に据えかねる事があったのでございましょうね。私もあのようにお話されるノア様を初めて見ました。」
ハワード家にとっては忘れられない日となった。




