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最後の魔法と三つの夢

作者: 神谷嶺心
掲載日:2025/10/14

老いた魔法使いは、目を覚ました瞬間に感じた。

――今日が、その日だ。


不思議なことに、恐れや悲しみはなかった。

長い年月の中で、予言者が告げた「死の日」が、ついに訪れたのだと、静かに理解していた。


「もし……この魔法を完成させることができたなら……

きっと、安らかに逝けるだろう。

だが、それは叶わぬ願いかもしれんな。

せめて、弟子たちが研究を引き継いでくれれば……」


最期の一日をどう過ごすべきか。

そう考えながらも、彼の願いはただ一つ。

魔法を機能させるための新たな可能性を、最後まで探り続けることだった。


部屋の中は、先人たちの書物で埋め尽くされていた。

天才と呼ばれた魔導士たちの記録。

床にも、壁にも、ベッドの上にさえも、無数のメモや図式が散らばっている。


新たな魔法が生まれなくなって、すでに何世代も経っていた。

今、その責任は彼に託されている。

彼が成し遂げなければ、この研究は途絶えてしまうかもしれない。


かつての弟子たちは、現世の知識ばかりを求めていた。

だが、最後の弟子――ハヤトだけは違った。

彼だけは、今も傍にいてくれる。


魔法使いはゆっくりと立ち上がり、昨夜の研究資料を手に取った。

だが、あまりに多くの図形と複雑な式が並び、どこまで進めていたのか思い出せない。


机に向かい、積み重ねられた書物を開く。

すべて、先人たちの遺したものだ。

何度も読み返してきた。

毎日、同じページを繰り返し追い、どこかに見落としがないかを探していた。

たった一つの欠片でも見つけられたなら、それだけで満たされる気がした。


ページをめくっていると、扉が音もなく開いた。

ハヤトが入ってきた。

師がすでに起きていることに、少し驚いた様子だった。


「師匠……今日はお一人で静かに過ごされたいかと思って、

お茶をお持ちしました。

ここに置いて、呼ばれるまで待つつもりでした。」


魔法使いは、穏やかな目で彼を見つめた。


「気にしなくていい、ハヤト。

この数年、よく尽くしてくれたな。

知っての通り、今日は……予言された、私の最期の日だ。

お前は……どう思っている?」


ハヤトは言葉に詰まり、目に涙を浮かべた。

背を向け、袖でそっと拭う。


「……大丈夫です、師匠。

今日は、どう過ごされるおつもりですか?

お会いしたいという方々が、外でお待ちです。

お通ししてもよろしいでしょうか?」


魔法使いは少し考え、顎に手を当てた。


「いや……今はまだいい。

私は、最後の瞬間までこの魔法に捧げたい。

これまでの何十年と同じように。」


「私がやらねば……誰もこの研究を継がぬだろう。

お前が苦しんでいるのは分かっている。

だが、もしこの魔法を完成させ、予言を覆すことができたなら――

私は、悔いなく旅立てる。」


ハヤトは、何も言えなかった。

ただ静かに背を向け、師の顔を見ることなく部屋を出ていった。


彼は、あの予言を受け入れることができなかった。

どうにかして運命を変えようと、何度も試みた。

だが、師匠の意志によって、その手はいつも止められてきた。


老いた魔法使いには、ただ一つの願いしかなかった。

――この魔法を、完成させること。


身体が徐々に衰えていく中、彼は何時間も机に向かい、図式を描き続けた。

その模様を以前に描いたかどうかも思い出せない。

だが、確信があった。

――もうすぐだ、と。


窓の外では、夕日が沈み始めていた。

彼は一度も立ち上がっていなかった。

朝から何も口にしておらず、机の上の茶も手つかずのままだった。


夜が訪れた頃、ハヤトが再び部屋に戻ってきた。

時間が、残り少ないことを彼は知っていた。


「師匠……少しだけでも、何か召し上がりませんか?

もう、あまり時間がありません。

ほんの少しだけでいいんです。

外には、師匠に会いに来た方々がいます。

世界中から、最後に一目会いたいと集まってきたんです。

このままでは、きっと後悔されます。」


その言葉に、魔法使いは激昂した。

机の上の書物、紙束、茶の入った器――すべてを払い落とした。


「もういい! 出ていけ!

今さら諦めるものか!

何十年もかけて、ここまで来たんだ!

たかが知人たちの顔を見るために、人生をかけた研究を捨てるものか!」


激しい咳が止まらなかった。

衰えた身体は限界に近づいていた。

月が天頂に達するまで、もう数時間もなかった。


ハヤトは、怒りと悲しみを抱えながら部屋を後にした。

本当は、そばにいたかった。

だが、師の命令には逆らえなかった。


部屋に一人残された魔法使いは、ぽつりと呟いた。


「……あの弟子は、何を考えているのだ。

あれほどの才能を持ちながら、なぜ研究を継ごうとしない。

“私が生き続けてしまうから”だと?

それの何がいけないというのだ……」


彼は、床に散らばった書物に手を伸ばした。

それらは、代々の魔導士たちが遺した想いを宿していた。

一冊、また一冊と拾い上げていく。

最後の一冊――その巻末には、白紙のページが残されていた。


なぜ白紙なのか、これまで気にも留めなかった。

ただ、書ききれなかったのだろうと。


ふと、自分のグリモワールを手に取った。

この日のために書き続けてきた、自らの記録。

だが、それもまた――


「……白紙か。

そうか……そういうことか。」


限界を迎えつつある身体に鞭を打ち、彼は両手に魔力を集中させた。

頭に浮かぶ図式を、止まることなく描き続ける。

せめて、自分のグリモワールだけは、最後まで埋めておきたかった。


咳き込みながら、視界が霞み、呼吸が浅くなる中でも、

彼は筆を止めなかった。


そして――最後のページを描き終えた瞬間、

その顔は、静かに机の上へと崩れ落ちた。


表情はなく、

誰にも看取られることなく、

悔いを抱えたまま、

彼はこの世を去った。


ハヤトは、師匠の命令に従って部屋を出た。

だが、扉のすぐ外に立ち続けていた。

離れることはなかった。

そこにいた。静かに。黙って。


師の亡骸を目にした瞬間、ハヤトは言葉を失った。

静かに近づき、机に伏した師の顔の下からグリモワールをそっと取り出す。

それを両腕で高く掲げる。

まるで、師の遺志そのものを抱えているかのように。


家の外には、すでに多くの人々が集まっていた。

世界中から、師匠に最後の別れを告げるために訪れた者たち。

ハヤトがグリモワールを手にして現れた瞬間、沈黙が崩れた。

誰かが泣き崩れ、次々と人々が膝をつき、嗚咽が空気を満たした。


ハヤトは、師への最後の敬意として、グリモワールの最終ページを開いた。

そこに描かれた図式を、地面に正確に再現する。

そして、師から受け継いだ知識をもとに、詠唱を始めた。


魔法陣から、淡く輝く光が放たれる。

その瞬間、夜が昼のように変わった。

暖かく、優しい太陽のような光が、暗い空を照らした。


ハヤトは、感情に押し流され、涙をこぼす。

空を見上げ、静かに呟いた。


「……師匠は、成し遂げましたね。

もし、まだ悔いがあるとすれば……

それは、私が詠唱を試みなかったことです。」


――そして、目が覚めた。


「……俺、夢の中で物語を書いてたのか?

ちょっと書きすぎて、頭がおかしくなってきたかもな。」


目覚めてすぐ、彼女に夢の話をメッセージで送った。

彼女は笑って、「もう、完全にヤバいね」と返してきた。

うん、たしかにそうかもしれない。

でも、あの物語には何かがあった。

忘れられなかった。


狂ってるかどうかはともかく、頭から離れなかった。


その日、他の作品に取り組もうとしたけれど、何も書けなかった。

コーヒーを一杯。

また一杯。

タバコを吸いながら、少しだけ物語の断片をメモした。


でも、心配事が多すぎて、集中できなかった。

夕食後、風呂に入り、戻ってきてキーボードを見つめる。

あの魅力的な物語を、どうやって書けばいいのか――考え続けた。


美しいテーマだった。

誰かに読んでもらいたいと思えるほどに。

でも、俺はあの物語を、老魔法使いの目を通して見ていた。

夢の中で見たものを、現実で言葉にするのは……難しい。


夜も更けていた。

パソコンの前に座ったまま、何時間も動けずにいた。

そして、ようやくベッドに向かった。


布団にくるまり、眠りについた。


――そして、また夢が始まった。


今度は、自分の部屋。

いつものように、パソコンの前で執筆している。

でも、部屋の中の配置が少しおかしい。

いつも通りに整えていたはずなのに、何かがズレている。


何かを書いていた。

――でも、何を書いていたのかは思い出せない。

現実でいつもやっていることを、夢の中で繰り返している。

それが、あまりにも不思議だった。


けれど、その時はまだ――それが夢だとは気づいていなかった。


部屋の中は、少しだけ違和感があった。

物の配置が、微妙にズレている。

しばらくして、整理を始めることにした。


散らかった服を畳み、家具を元の位置に戻す。


前の晩、ベッドが少し寝づらくて、床にマットレスを敷いて寝ていた。

そのマットレスを持ち上げた瞬間――


「……なんだ、これ?」


思わず声が漏れた。

即座に部屋を飛び出し、扉を閉めた。


そこにいたのは、サッカーボールほどの大きさの奇妙なネズミ。

攻撃的ではなかったが、見たことのない生き物だった。


さらにもう一匹。

長くて縞模様の尻尾、小さなネズミのような体。

冷静に考えれば、キツネザルのようにも見えた。


深呼吸をして、自分に言い聞かせる。

「大丈夫だ。男だろ……向き合え。」


――でも、勇気は長く続かなかった。


扉を開け、マットレスを一瞬で戻し、再び扉の隙間から覗いた。


その間に、動物たちは静かに部屋を出ていった。

俺は、今度は部屋の中に閉じこもった。

驚きと混乱の中で。


数秒待って、再び扉を開けて覗く。

彼らは外にいて、穏やかな目でこちらを見ていた。


その瞬間――目が覚めた。


奇妙な既視感を抱えながら、朝起きた。

マットレスは、まだ床に敷かれたままだった。

それを元のベッドに戻し、いつもの朝のルーティンをこなす。


そして、あのネズミたちの話を書き始めた。

――どれだけ滑稽で、恥ずかしい話でも。


だが、またしても物語に形を与えることができなかった。

筆が止まり、思考が絡まる。


数時間、構成を練ろうとした。

その日は祝日だった。

午後、少しだけ横になることにした。


「起きたら、少しでも書けるように……」

そう思いながら、いつの間にか眠りに落ちた。


――そして、また繰り返す。


横になりながら、スマホで作品の下書きをしている。

今、書いているのは――この交差した物語。


夢の中で、俺は書いていた。

それに没頭しすぎて、夢だと気づかなかった。


あまりにも鮮明で、現実のようだった。

部屋の空気、日常の流れ――すべてが一致していた。

思考は滑らかに流れ、

俺は書いていた。

老魔法使いの物語。

目覚めた後の記録。

奇妙なネズミたちの夢。

そして、再び目覚め。


――そして今、偶然にも、三つ目の物語を紡いでいる。


夢の中で現実を書き、

現実で夢を記録している。


この数日、ずっと苦しかった。

書けないことに悩み、

新しい何かを生み出せないことに落ち込んでいた。


でも、もしかしたら――

ただ、もう少し眠る必要があったのかもしれない。


今、これを書きながら、

自分に問いかけている。


――俺は、まだ夢の中にいるのか?

それとも、もう目覚めているのか?

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