最後の魔法と三つの夢
老いた魔法使いは、目を覚ました瞬間に感じた。
――今日が、その日だ。
不思議なことに、恐れや悲しみはなかった。
長い年月の中で、予言者が告げた「死の日」が、ついに訪れたのだと、静かに理解していた。
「もし……この魔法を完成させることができたなら……
きっと、安らかに逝けるだろう。
だが、それは叶わぬ願いかもしれんな。
せめて、弟子たちが研究を引き継いでくれれば……」
最期の一日をどう過ごすべきか。
そう考えながらも、彼の願いはただ一つ。
魔法を機能させるための新たな可能性を、最後まで探り続けることだった。
部屋の中は、先人たちの書物で埋め尽くされていた。
天才と呼ばれた魔導士たちの記録。
床にも、壁にも、ベッドの上にさえも、無数のメモや図式が散らばっている。
新たな魔法が生まれなくなって、すでに何世代も経っていた。
今、その責任は彼に託されている。
彼が成し遂げなければ、この研究は途絶えてしまうかもしれない。
かつての弟子たちは、現世の知識ばかりを求めていた。
だが、最後の弟子――ハヤトだけは違った。
彼だけは、今も傍にいてくれる。
魔法使いはゆっくりと立ち上がり、昨夜の研究資料を手に取った。
だが、あまりに多くの図形と複雑な式が並び、どこまで進めていたのか思い出せない。
机に向かい、積み重ねられた書物を開く。
すべて、先人たちの遺したものだ。
何度も読み返してきた。
毎日、同じページを繰り返し追い、どこかに見落としがないかを探していた。
たった一つの欠片でも見つけられたなら、それだけで満たされる気がした。
ページをめくっていると、扉が音もなく開いた。
ハヤトが入ってきた。
師がすでに起きていることに、少し驚いた様子だった。
「師匠……今日はお一人で静かに過ごされたいかと思って、
お茶をお持ちしました。
ここに置いて、呼ばれるまで待つつもりでした。」
魔法使いは、穏やかな目で彼を見つめた。
「気にしなくていい、ハヤト。
この数年、よく尽くしてくれたな。
知っての通り、今日は……予言された、私の最期の日だ。
お前は……どう思っている?」
ハヤトは言葉に詰まり、目に涙を浮かべた。
背を向け、袖でそっと拭う。
「……大丈夫です、師匠。
今日は、どう過ごされるおつもりですか?
お会いしたいという方々が、外でお待ちです。
お通ししてもよろしいでしょうか?」
魔法使いは少し考え、顎に手を当てた。
「いや……今はまだいい。
私は、最後の瞬間までこの魔法に捧げたい。
これまでの何十年と同じように。」
「私がやらねば……誰もこの研究を継がぬだろう。
お前が苦しんでいるのは分かっている。
だが、もしこの魔法を完成させ、予言を覆すことができたなら――
私は、悔いなく旅立てる。」
ハヤトは、何も言えなかった。
ただ静かに背を向け、師の顔を見ることなく部屋を出ていった。
彼は、あの予言を受け入れることができなかった。
どうにかして運命を変えようと、何度も試みた。
だが、師匠の意志によって、その手はいつも止められてきた。
老いた魔法使いには、ただ一つの願いしかなかった。
――この魔法を、完成させること。
身体が徐々に衰えていく中、彼は何時間も机に向かい、図式を描き続けた。
その模様を以前に描いたかどうかも思い出せない。
だが、確信があった。
――もうすぐだ、と。
窓の外では、夕日が沈み始めていた。
彼は一度も立ち上がっていなかった。
朝から何も口にしておらず、机の上の茶も手つかずのままだった。
夜が訪れた頃、ハヤトが再び部屋に戻ってきた。
時間が、残り少ないことを彼は知っていた。
「師匠……少しだけでも、何か召し上がりませんか?
もう、あまり時間がありません。
ほんの少しだけでいいんです。
外には、師匠に会いに来た方々がいます。
世界中から、最後に一目会いたいと集まってきたんです。
このままでは、きっと後悔されます。」
その言葉に、魔法使いは激昂した。
机の上の書物、紙束、茶の入った器――すべてを払い落とした。
「もういい! 出ていけ!
今さら諦めるものか!
何十年もかけて、ここまで来たんだ!
たかが知人たちの顔を見るために、人生をかけた研究を捨てるものか!」
激しい咳が止まらなかった。
衰えた身体は限界に近づいていた。
月が天頂に達するまで、もう数時間もなかった。
ハヤトは、怒りと悲しみを抱えながら部屋を後にした。
本当は、そばにいたかった。
だが、師の命令には逆らえなかった。
部屋に一人残された魔法使いは、ぽつりと呟いた。
「……あの弟子は、何を考えているのだ。
あれほどの才能を持ちながら、なぜ研究を継ごうとしない。
“私が生き続けてしまうから”だと?
それの何がいけないというのだ……」
彼は、床に散らばった書物に手を伸ばした。
それらは、代々の魔導士たちが遺した想いを宿していた。
一冊、また一冊と拾い上げていく。
最後の一冊――その巻末には、白紙のページが残されていた。
なぜ白紙なのか、これまで気にも留めなかった。
ただ、書ききれなかったのだろうと。
ふと、自分のグリモワールを手に取った。
この日のために書き続けてきた、自らの記録。
だが、それもまた――
「……白紙か。
そうか……そういうことか。」
限界を迎えつつある身体に鞭を打ち、彼は両手に魔力を集中させた。
頭に浮かぶ図式を、止まることなく描き続ける。
せめて、自分のグリモワールだけは、最後まで埋めておきたかった。
咳き込みながら、視界が霞み、呼吸が浅くなる中でも、
彼は筆を止めなかった。
そして――最後のページを描き終えた瞬間、
その顔は、静かに机の上へと崩れ落ちた。
表情はなく、
誰にも看取られることなく、
悔いを抱えたまま、
彼はこの世を去った。
ハヤトは、師匠の命令に従って部屋を出た。
だが、扉のすぐ外に立ち続けていた。
離れることはなかった。
そこにいた。静かに。黙って。
師の亡骸を目にした瞬間、ハヤトは言葉を失った。
静かに近づき、机に伏した師の顔の下からグリモワールをそっと取り出す。
それを両腕で高く掲げる。
まるで、師の遺志そのものを抱えているかのように。
家の外には、すでに多くの人々が集まっていた。
世界中から、師匠に最後の別れを告げるために訪れた者たち。
ハヤトがグリモワールを手にして現れた瞬間、沈黙が崩れた。
誰かが泣き崩れ、次々と人々が膝をつき、嗚咽が空気を満たした。
ハヤトは、師への最後の敬意として、グリモワールの最終ページを開いた。
そこに描かれた図式を、地面に正確に再現する。
そして、師から受け継いだ知識をもとに、詠唱を始めた。
魔法陣から、淡く輝く光が放たれる。
その瞬間、夜が昼のように変わった。
暖かく、優しい太陽のような光が、暗い空を照らした。
ハヤトは、感情に押し流され、涙をこぼす。
空を見上げ、静かに呟いた。
「……師匠は、成し遂げましたね。
もし、まだ悔いがあるとすれば……
それは、私が詠唱を試みなかったことです。」
――そして、目が覚めた。
「……俺、夢の中で物語を書いてたのか?
ちょっと書きすぎて、頭がおかしくなってきたかもな。」
目覚めてすぐ、彼女に夢の話をメッセージで送った。
彼女は笑って、「もう、完全にヤバいね」と返してきた。
うん、たしかにそうかもしれない。
でも、あの物語には何かがあった。
忘れられなかった。
狂ってるかどうかはともかく、頭から離れなかった。
その日、他の作品に取り組もうとしたけれど、何も書けなかった。
コーヒーを一杯。
また一杯。
タバコを吸いながら、少しだけ物語の断片をメモした。
でも、心配事が多すぎて、集中できなかった。
夕食後、風呂に入り、戻ってきてキーボードを見つめる。
あの魅力的な物語を、どうやって書けばいいのか――考え続けた。
美しいテーマだった。
誰かに読んでもらいたいと思えるほどに。
でも、俺はあの物語を、老魔法使いの目を通して見ていた。
夢の中で見たものを、現実で言葉にするのは……難しい。
夜も更けていた。
パソコンの前に座ったまま、何時間も動けずにいた。
そして、ようやくベッドに向かった。
布団にくるまり、眠りについた。
――そして、また夢が始まった。
今度は、自分の部屋。
いつものように、パソコンの前で執筆している。
でも、部屋の中の配置が少しおかしい。
いつも通りに整えていたはずなのに、何かがズレている。
何かを書いていた。
――でも、何を書いていたのかは思い出せない。
現実でいつもやっていることを、夢の中で繰り返している。
それが、あまりにも不思議だった。
けれど、その時はまだ――それが夢だとは気づいていなかった。
部屋の中は、少しだけ違和感があった。
物の配置が、微妙にズレている。
しばらくして、整理を始めることにした。
散らかった服を畳み、家具を元の位置に戻す。
前の晩、ベッドが少し寝づらくて、床にマットレスを敷いて寝ていた。
そのマットレスを持ち上げた瞬間――
「……なんだ、これ?」
思わず声が漏れた。
即座に部屋を飛び出し、扉を閉めた。
そこにいたのは、サッカーボールほどの大きさの奇妙なネズミ。
攻撃的ではなかったが、見たことのない生き物だった。
さらにもう一匹。
長くて縞模様の尻尾、小さなネズミのような体。
冷静に考えれば、キツネザルのようにも見えた。
深呼吸をして、自分に言い聞かせる。
「大丈夫だ。男だろ……向き合え。」
――でも、勇気は長く続かなかった。
扉を開け、マットレスを一瞬で戻し、再び扉の隙間から覗いた。
その間に、動物たちは静かに部屋を出ていった。
俺は、今度は部屋の中に閉じこもった。
驚きと混乱の中で。
数秒待って、再び扉を開けて覗く。
彼らは外にいて、穏やかな目でこちらを見ていた。
その瞬間――目が覚めた。
奇妙な既視感を抱えながら、朝起きた。
マットレスは、まだ床に敷かれたままだった。
それを元のベッドに戻し、いつもの朝のルーティンをこなす。
そして、あのネズミたちの話を書き始めた。
――どれだけ滑稽で、恥ずかしい話でも。
だが、またしても物語に形を与えることができなかった。
筆が止まり、思考が絡まる。
数時間、構成を練ろうとした。
その日は祝日だった。
午後、少しだけ横になることにした。
「起きたら、少しでも書けるように……」
そう思いながら、いつの間にか眠りに落ちた。
――そして、また繰り返す。
横になりながら、スマホで作品の下書きをしている。
今、書いているのは――この交差した物語。
夢の中で、俺は書いていた。
それに没頭しすぎて、夢だと気づかなかった。
あまりにも鮮明で、現実のようだった。
部屋の空気、日常の流れ――すべてが一致していた。
思考は滑らかに流れ、
俺は書いていた。
老魔法使いの物語。
目覚めた後の記録。
奇妙なネズミたちの夢。
そして、再び目覚め。
――そして今、偶然にも、三つ目の物語を紡いでいる。
夢の中で現実を書き、
現実で夢を記録している。
この数日、ずっと苦しかった。
書けないことに悩み、
新しい何かを生み出せないことに落ち込んでいた。
でも、もしかしたら――
ただ、もう少し眠る必要があったのかもしれない。
今、これを書きながら、
自分に問いかけている。
――俺は、まだ夢の中にいるのか?
それとも、もう目覚めているのか?




