匂いと出会いと初体験
▶︎SIDE おじ
今日も彼女は現れた。
朝の同じ時間、同じ車両、同じ座席。
気づけばもう数カ月、必ず私の隣に座っている。
若い。まだ社会に出て数年だろう。
華やかな顔立ちに、ぱっと花が咲いたような笑顔。
ここ一カ月は、こちらを認知しているのか、毎朝ニコッと笑い軽く会釈してくる。その笑みに、私はどうしても視線を奪われた。
──無遠慮に懐へ入り込んでくるのに、不思議と不快ではない。
むしろ、その存在が日常に色を添えているのだと、自覚し始めていた。
いつしか心の中で“OLちゃん”と呼ぶようになった。
手元にはいつもスマートフォン。画面をちらりと見れば、ニュースでもSNSでもなく漫画。しかも“BL”らしい。思わず内心で苦笑する。他人が何を読もうと自由だ。
……だが。
おいOLちゃん、電車でR18はやめなさい。
よりによって、男と男が交わる濃密なシーン。青年漫画で黒塗りは見慣れているが、彼女のそれは──刻み海苔のような黒い棒線で隠しているだけで、ほとんど形が分かる。
ダメだろ、それは。
注意すべきか、見なかったふりをすべきか。
乙女が朝から男性の局部を覗き込んでいるという事実は、色々と問題がある。私は思わず、彼女の代わりに周囲の視線を気にしてしまった。……よし、他の乗客は気づいていないようだ。
彼女を危険にさらしたくない気持ちと、偶然とはいえ覗き見てしまった罪悪感の間で揺れる。
結局、ため息をひとつ。答えは出ないまま、電車が止まった。
彼女は髪をクリップでまとめ、美しい首筋を晒しながら颯爽と歩いていく。危機感が薄い。今日はワンピースか……。
階段を上るときもスカートを抑えない堂々さに、父娘ほど歳の離れた子を見守るボディガードの気分になる。
改札を抜ければ、私は東口、彼女は西口。
会話を交わしたことも、名前を知っているわけでもない。
だが最近、一番気になる存在である──色んな意味で。
▶︎SIDE OLちゃん
「うへぇーマジ無理」
夏の朝の駅ホームは、もう生き地獄だ。
隣の人のリュックから漂う“昨日の焼肉残り香”、こっちは“お風呂キャンセル界隈”。
常時、嗅覚フル稼働のウチ的には拷問でしかない。
子どもの頃から匂いに敏感で、小学校の帰り道でも玄関に入る前から「今日は肉じゃがだ!」なんて分かっちゃうくらい鼻がいい。
そんなウチにとって、夏の人混みは最悪だ。
汗と柔軟剤と香水と油……全部が混ざって、もうへろっへろ。
だから今日も“聖域”を目指す。
朝の電車、同じ時間、同じ車両、同じ座席。
そこには必ず、ダンディーなコロンのおじがいる。
──あ、いた!
おじが座っているのを見つけて、心の中でガッツポーズ。「おじ、おはよ!」って心の中で声をかけて会釈すれば、軽く頷いてくれる。
それだけで、汗と匂いに疲れた心がすーっと落ち着く。不思議だ。
カバンからスマホを取り出す。
今日の朝読BLタイム、開幕。
電車の揺れとおじのコロンが混ざって、最高の読書環境が完成。はあー今日も捗る。
最近思う。おじってイケオジだよな。
春のビシッとしたスーツ姿も良きだったけど、ワイシャツもいい感じだし、ポロシャツも可愛い。
いつも皺ひとつない服を着てるから、奥さんがしっかりしてるんだろうな……いやいや、ジェンダーレスの時代だ。
お家にいるのは庇護欲増し増しの年下黒髪イケメンかもしれない。
仕事デキおじ×家事デキ受けちゃん……最高じゃん。
妄想で頭ときめかせながら、指は次のページをタップする。昨日0時に発売された推しの新刊。帰宅後じゃ待てなかった。今、読みたい。
……この攻め、おじっぽい。
あ。駅着いちゃった。読み切れなかった。続きはランチタイムだな。今日はラーメン食べたい気分。
よーし、今日も働いちゃうぞ!
髪も完璧、アイラインもいい感じ!おろしたてのワンピースでテンション上げていく。
▶︎SIDE おじ
昼休み、会社近くの老舗ラーメン店。
行列の最後尾に並ぼうとしたとき、見覚えのある後ろ姿に目が止まった。
……え、あれ、まさか。
「おじ!」
振り返った彼女と目が合う。
口から飛び出した呼び名に、私は凍りついた。
「……OLちゃん」
頭の中でしか呼んでいなかったのに。気づけば、口にしていた。
一拍の沈黙。次の瞬間、同時にハッとした顔をして笑い合う。
「……おじとは?」
「……ウチの名前、おじに教えたっけ?」
ざわめく行列の中、名前より先に重なった呼び名。
それは、他人のはずの二人が、すでに何かを共有していた証のように思えた。
ラーメン屋のカウンターに並んで座る。
「ウチ、笑瑠。折原 笑瑠。だから”OLちゃん”って呼ばれた時、エルちゃんって聞こえてさ、おじに名前知られてんのかと思った。ウケる」
屈託なく笑う彼女に、諌める気すら起こらない。私はおじさんなのだから、おじと呼ばれたってしょうがない。
「ははっ。私も”おじ”と呼ばれた瞬間、桂木 光司だから下の名前を呼ばれた気がして驚いたよ」
氷の入ったグラスがチリンと鳴る。
「コウジさんね!ゆっくり言うと確かにおじっぽい!ねぇ、おじって何の香水使ってるの?めっちゃいい匂い」
名前を教えたのに、呼び方はそのまま。彼女の真っすぐさが眩しい。
「香水?使ってないよ。香りがあるとすれば整髪料かシャンプーくらいかな」
「え、マジ?めっちゃいい匂いだよ。ワックス?ならえるも使えるじゃん。品名教えて」
身を乗り出して匂いを嗅ごうとする彼女の額を、人差し指で押して止める。
──こらこら、乙女が人前でおじさんの匂いを嗅ぐものではありません。止めなければ、首筋にまで顔を寄せてきそうだった。
「これだよ。スマホ見て」
毎朝使っているヘアトニックの画像を見せる。
「何これ?髪の化粧水?……じゃあ、える使えないじゃん。残念」
しょんぼりする姿に、耳と尻尾を垂らした子犬が重なって見えた。
店員の威勢のいい声とともにラーメンが届く。
「ありがと、美味しそう!テンション上がってきた。おじ、早く食べよ!」
「そうだね。美味しいうちに」
彼女のテンションに引きずられ、二人で黙々と麺を啜る。
「ありがと〜ございましった!」
独特の挨拶を背に、二人で店を出る。
「ねぇ、おじ時間ある?える、アイス食べたくなっちゃった。コンビニ行こ?」
「ははっ。コンビニ前でアイス?素敵なお誘いだね、初体験だよ」
「マジ?おじの初体験をえるが奪っちゃった!?ちょー嬉しい!じゃあ、えるが奢る!」
堂々と財布ひとつ持って歩く背中を追いながら、思わず苦笑する。
「女の子に奢ってもらうなんて悪いよ。むしろこっちが出す」
「チッチッ。時代はジェンダーレス!男が奢るとか古いから。えるに奢られちゃいな?」
──これは、折れそうにないな。
「じゃあお言葉に甘えて。次は私が奢るよ」
「うん、それいい!またランチで会えたら奢ってね」
照りつける真夏の太陽の下、太陽より眩しい笑顔がそこにあった。
「溶ける!」と二人で騒ぎながらアイスを食べ、「次は氷たっぷりのアイスコーヒーかな」なんて言い合って別れる。
午後からの役員プレゼンに向けて喝を入れるつもりで外に出て正解だった。
彼女の高いテンションが伝染したようだ。なんでもできる気がする。
意気揚々とエレベーターに乗り込み、最上階の大会議室を目指した。
2話は今晩投稿予定




