水たまりのお母さん
雨の日になると思い出すことがある。
小学生のときの話だ。もうずいぶん前になる。
五年生の春。いつもと違う道を通って下校していた。
そこは住宅街の外れにある古い舗装路で、人通りも少なかった。
その道の途中に、小さな水たまりができていた。
晴れていたのに、水は濁っていなかった。むしろ妙に澄んでいて、鏡のようだった。
試しに覗いてみると、そこに女の人の顔が映っていた。
母だった。
正確に言えば、母に“似ていた”。
母は僕が三歳のときに亡くなっていて、記憶もろくにない。
写真で見ただけの顔のはずなのに、見た瞬間にそうだとわかった。
それから僕は、毎日その道に寄り道した。
誰にも言わなかった。
水たまりはほとんど形を変えず、いつも同じ場所にあった。
母はいつもそこに映っていた。何も言わずに笑っていた。
ある日、変化があった。
水たまりの中の母が、僕に向かって話しかけてきたのだ。
「こっちへ、おいで」
水面から白い手が伸びてきて、僕の腕を掴んだ。
細くて冷たい指だった。驚くほど力が強くて、逃げようとしても離れなかった。
「いっしょに、かえろう」
水の中の母は笑っていたが、僕の腕に母の爪がぎりぎりと食い込んでいた。
怖い、というよりは、無理だと思った。
腕を引かれて、地面に倒れ込んだとき、空からぽつりと雨が落ちてきた。
すぐに土砂降りになった。
雨水が水たまりを叩き、波紋が広がった。
そのうち水面が崩れて、母の顔も手も溶けるように消えた。
しばらくその場に座り込んでいた。
気づいたときには水たまりは流れていて、ただアスファルトが濡れているだけだった。
それ以来、その道にはいかなかった。
今でも、雨の日にはときどき思い出す。
車の窓、道端のくぼみ、学校の玄関のタイル。
そのたびに、何かが映っている気がする。
本当に見えたことはないけれど、気配だけは残っている。
だから今でも、雨が苦手だ。
理由を説明することはない。
たぶん、説明しても理解されない。
ただ、水たまりを覗き込むのは、なるべく避けている。