諦めたはずの王太子が溺愛してくる件について
金色のフォークが、カップケーキのふわふわした部分をぷすりと突き刺した。見た目は完璧だったのよ。クリームの渦巻きも、上にちょこんと乗ったラズベリーも。でも口に運んでみると、甘さがどこかに置き去りにされていた。まるで今の私の人生みたい。
「妃殿下、お味はいかがですか?」
控えめに笑ったのは、台所付きの侍女、リーネだった。彼女の目は期待に満ちていて、私は思わず罪悪感にかられる。だけど、嘘も方便。私は王妃様。味覚の真実より、気配りと微笑みが優先される立場なのだ。
「美味しいわ。ラズベリーの酸味がアクセントになってる」
「本当ですか!よかったぁ……実は、砂糖の分量、少しだけ控えめにしたんです。最近妃殿下、お疲れ気味に見えましたから」
――見抜かれてる。
そんなつもりじゃなかったのに。私ってそんなに顔に出てるのかしら。だとしたら、宮廷中に広まるのも時間の問題ね。『王妃は不幸』なんてゴシップは、きっと貴族たちの大好物だもの。
私は微笑んで紅茶を一口含んだ。薔薇の香りがふわりと鼻をくすぐる。こんな優雅な午後でも、心は少しも休まらない。だって、夫である王太子殿下――エドワルド様との関係は、すっかり冷えきっているから。
結婚して五年。政略結婚。王族と公爵家の血を繋ぐための儀式。感情なんて、最初から用意されていなかった。だけど私は、ほんの少しだけ期待していたの。少しずつ、言葉を重ねて、笑顔を交わして、やがて愛に変わるのだと。きれいごとだったわね。
「妃殿下、お知らせがございます。明日のお茶会に、ハイゼ公爵令嬢がお越しになるそうです」
「……また?」
言葉にトゲが出てしまった。リーネがびくりと肩を揺らす。気づいて、私はすぐに笑顔で取り繕った。
「ごめんなさい。少し、驚いただけ」
ハイゼ公爵令嬢、クロエ。噂では、王太子殿下のご寵愛を一身に受けていると聞く。彼女が参加するお茶会は、いつも何かしらの"事件"が起きる。菓子が落ちる。ドレスにシミがつく。侍女が転ぶ。……そしてなぜか、私が責められる。
「承知いたしました。席次はいつも通りで?」
「ええ、一番上座に彼女を。彼女が不機嫌になると、後が面倒だもの」
私は誰よりも位が高いのに。名目上は王妃なのに。私は彼女の機嫌をうかがって生きている。こんな生活、もういい加減限界だと、心のどこかで何度も叫んでいた。
翌日、お茶会は完璧に整えられていた。テラスのカーテンは風に優しくなびき、白薔薇が咲き誇る庭園には、金糸の鳥籠のような陽差しが降り注いでいる。
「まぁ、妃殿下、今日のドレスは一段とお美しいですこと」
クロエはにっこりと微笑んで、私の前に腰を下ろした。その視線はあくまで丁寧で、まっすぐ。だけど、どこかに勝ち誇ったような色が潜んでいる。
「ありがとう、クロエ様。あなたのエメラルドの髪飾りもとてもお似合いですわ」
「うふふ、そうかしら?実はこれ、殿下が選んでくださったんですの。ねぇ、妃殿下」
言葉が喉の奥で止まった。どう返せばいいのか、わからなかった。
「そう……それは、素敵ですね」
それ以上は言えなかった。言えば、何かが壊れそうで。
お茶会は形式的に進んでいく。お菓子、紅茶、社交辞令。けれど私の心はぐるぐると、もう限界だと叫んでいた。
「失礼いたします」
突然、使用人が私の元にやってきて、そっと耳打ちした。
「殿下がお呼びです。今すぐ、執務室にて」
私はうなずき、クロエに「申し訳ありません」と告げて席を立った。
エドワルド様の執務室。そこはいつも静かで、書類の山とインクの香りに満ちている。扉を開けると、彼はいつものように難しげな顔で書面に目を通していた。
「お呼びでしょうか」
「……そこに座れ」
無表情のまま椅子を指さされ、私は従う。心の中には、怒りと不安と、ほんの少しの希望が混ざっていた。
「クロエのことだが」
「はい」
「最近、そなたに対して無礼が過ぎるようだ」
一瞬、息が止まりそうになった。彼が、私のことを……?
「……殿下は、気づいておられたのですか?」
「当然だ。私は王太子だ。王妃が誰よりも誇り高く、尊ばれるべき存在だとわかっている」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。ずっと、無関心だと思っていたのに。
「なのに、なぜ今まで黙っていたのです?」
「……そなたが、私を必要としていないと思っていた」
「そんなこと、一度も言っていません」
「ならば今ここで言え。私は王妃を守るべき夫だと、そう言ってほしい」
「……言いません」
驚いたように彼が私を見る。私は、にっこりと微笑んだ。
「もう、守られるだけの人生には飽きましたから。これからは、私自身が私を守ります」
沈黙が流れた。けれどそれは重苦しいものではなく、どこか清々しい空気を伴っていた。
「……変わったな、クラリス」
「そうかもしれません」
「だが、それでも私は……そなたを見直した。ようやく、心から尊敬できる王妃になったと思える」
その言葉に、私は少しだけ笑ってしまった。
「最初から、私は王妃でしたよ」
執務室の窓から差し込む光が、いつもより柔らかく見えた。
翌朝、私はわざと一番乗りで朝食の席に着いた。いつもならエドワルド様が先に座っていて、私はそれに従う形で席に着いていた。けれど今日は違う。私はもう「座らされる」王妃ではない。自分の意志で、自分の場所を選ぶのだ。
「妃殿下、今朝はお早いですね」
侍女の声に、私は紅茶を口に含んでから微笑んで答える。
「ええ。日の光を浴びながらの朝食は、身体に良いのですって」
確か医学書にそんな記述があったような、なかったような……まあいいわ。大事なのは、そう言い切ること。根拠はあとでついてくる。
やがて、足音が近づいてきた。長いブーツの音。少し乱れた足取り。エドワルド様が眠そうな目をこすりながら現れた。……なんてレアな姿なのかしら。無表情の仮面の裏に、こんな"人間味"があったなんて。
「……おはよう」
「おはようございます、殿下。今朝は早いのですね?」
「いや、そなたが早いのだろう」
返しが淡々としていて、なんだか拍子抜けしてしまった。もっとこう、「どうしたのだ突然」とか「そなたに何かあったのか」とか、そういう心配の色が見えたらいいのに。まったく、この男は──。
それでも席に着いた彼が、私の用意したトーストに手を伸ばすのを見て、ちょっとだけ胸がくすぐったくなる。メイドに任せず、自分で取るなんて、珍しい。
「……この蜂蜜、変えたのか?」
「ええ。田舎の養蜂場から取り寄せてみたの。最近は、食の見直しをしているのよ」
「そうか」
短い返事。でも、いつもよりほんの少し柔らかい声音だった。……気のせいかしら。
朝食の後、私はすぐに侍女を集めた。庭園で行われる次回のお茶会、そして王妃主催の晩餐会の準備のためだ。そう、これまで「黙って微笑むだけ」の王妃だったけれど、もう違う。私は王妃であり、この宮廷の顔なのだから。
「座席の配置を変えます。ハイゼ公爵令嬢は中央列、左から三番目に」
「妃殿下、それは少々……」
「問題ありますか?」
にっこりと笑って問い返すと、侍女たちは顔を見合わせて小さく首を横に振った。いいの、最初は戸惑っても。そのうち誰もが、私の判断が一番正しいと知るようになる。
「お菓子も、もう少し個性のあるものを選びたいわ。季節の果物を使ったパイや、地方の伝統菓子も取り入れて」
「それでは厨房に伝えます」
「お願い」
手際よく指示を飛ばしながら、私は久しぶりに、自分の中に芯が通るような感覚を覚えていた。王妃としての誇りを、ようやく本当の意味で持てた気がする。
ところが、その午後。事は穏やかに進むはずがなかった。
「妃殿下、クロエ様がお見えです」
「……事前の連絡は?」
「ありません」
ふぅ、と小さく息を吐いて立ち上がる。来ると思っていた。黙って席順を変えられて、黙っていられるタイプではないもの。むしろ、あの程度の配置変更で訪ねてきただけ、まだ礼儀はある方よね。
居間に入ると、クロエはすでに上座に座っていた。そういうところよ、あなたの嫌われる理由は。
「まあ妃殿下、わざわざお呼び立てしてしまいまして」
「いえ、こちらこそ。急なご訪問、歓迎いたしますわ」
笑顔と笑顔のぶつかり合い。これぞ貴族社会の応酬芸。けれど、私ももはや"戦場に引きずられるだけの人形"じゃない。
「ところで、来るべきお茶会の件ですが」
「ああ、その話ですね」
「配置表を見て、少し驚きましたの。私が中央列の左三番目……何か、問題でも?」
「ええ、あなたに問題があるわけではありません。ただ、あまり目立つ配置が続くと、他のご令嬢方に不公平感を与えてしまいますから。宮廷とは、公平を装うのが大事ですのよ」
一瞬、クロエの眉がピクリと動いた。
勝った。
ああ、なんて気持ちがいいのかしら。口に出すどころか、表情すら崩さずに、これだけの皮肉を通せるようになったなんて。五年。五年もかけて、ようやく私はこの世界のルールを掴んだ。
「なるほど……さすが妃殿下。公平さへのご配慮、見習わせていただきますわ」
「うれしいです。私も、あなたに学ぶところが多いですから」
嘘だけど。
クロエはそのまま引き下がっていった。次の一手を練っているのは間違いない。けれど、私はもう逃げる気はない。正面から受けて立つ。だって私は王妃――エドワルド・セリオン王太子殿下の、正式な配偶者なのだから。
その夜、執務室に顔を出すと、エドワルド様が目を上げて私を見た。
「何か用か?」
「いえ。ただ、少しだけ……殿下と話がしたくなったのです」
「そうか」
驚いたことに、彼は席を立ってソファに座り直した。お茶も呼ばずに、ただ私の隣に腰を下ろす。
「クラリス」
「はい?」
「……変わったな」
「殿下も、少しずつ変わってきましたよ」
「そうか?」
「ええ。昔の殿下は、私の目を見て話してくださらなかった」
「……気づいていたのか」
「当然です。見てもらいたくて、あの手この手を試しましたもの」
「……すまない」
ふいに、彼の顔が曇った。その横顔を、私はじっと見つめた。
「でも、今からでも遅くありませんわ」
「え?」
「やり直しましょう。私たちの関係を」
沈黙。
けれど、空気はやわらかかった。
「その……何から始めれば良い?」
「名前で呼んでくださるところから、ですかしら」
「……クラリス」
たどたどしくも、確かな声音だった。私は微笑みながら頷いた。
「ありがとう、エドワルド様」
日差しの強い午後だった。アーチを彩るバラが風に揺れて、甘やかな香りを振りまいている。だが、私の心は少しも優雅ではなかった。
「妃殿下、少し、お耳に入れておくべき噂がございます」
紅茶を淹れながら、侍女のリーネが声を潜めた。こういう時の彼女の口調は、たいてい厄介事の前兆だ。
「どうぞ、手短にお願い」
「……宮廷内で、クロエ様が“王妃の地位は仮のもの”だと話しておられるとか」
「“仮のもの”?」
「ええ、近いうちに正妃が入れ替わる可能性がある、と……」
ああもう、またそれ。私は思わずため息をついた。クロエの発言は、時として扇風機に投げ入れられた羽のように、どこまでも拡散していく。そして宮廷はそういう類の"羽"を拾って騒ぎ立てるのが大好きな人々の巣窟だ。
「わかりました。対処しておきます」
「……お怒りにならないのですか?」
「怒るわけないでしょう?それをするのは私ではなく、状況という名の現実ですもの」
リーネは目を丸くしていたけれど、私はいたって本気だった。言葉には言葉で返すべき時もあるけれど、"結果"ほど雄弁な反論はないのよ。
その日の夕刻、私は王城の図書室を訪れた。ここには、数百年にわたる王家の記録や、法制度に関する書籍が保管されている。そして、何より重要なもの――「王妃の権限と地位」に関する記録が。
重たい羊皮紙をめくりながら、私は一つひとつ確認していく。王妃の座は、ただの飾りではない。外交文書への署名、宮廷人事の承認、宗教儀式への出席資格……すべて明文化されていた。つまり、王太子の気まぐれや、外野の噂ごときでは動かせない確かな権限。それを、きちんと私は身につけている。
読み終えた私は書庫を出ようとし、ふと足を止めた。柱の陰に、誰かの気配がある。
「……妃殿下」
現れたのは、エドワルド様の側近・マティアスだった。寡黙で律儀な青年。彼が私に直接話しかけるのは珍しい。
「何かご用件かしら?」
「殿下からお伝えするよう命じられました。今夜、王子殿下との夕食を、妃殿下とご一緒に取りたいと」
「……まあ」
驚きを隠しきれなかった。五年間、ほぼ形式的にしか交わらなかった夕食が、まさか彼の発案で?
「わかりました。準備を整えて伺います」
「ありがとうございます。……それと、もう一つ」
「何かしら?」
「殿下は、妃殿下のご意見を宮廷改革の件で伺いたいと仰っていました」
完全に、想定外。
彼が、私の意見を?形だけの王妃に、政治の話を?
私は小さく頷いて、答えた。
「伝えておいて。私はいつでも、王太子の助力になる覚悟はあると」
その夜。淡い灯火に照らされた食堂で、エドワルド様が静かにワインを傾けていた。私が現れると、いつもの無表情を崩さず席を指さす。
「クラリス、遅くなったな」
「着替えに手間取りましたの。今夜は特別な席かと思って」
「特別、か」
彼の視線が、私のドレスを捉えた。深い青。王族の象徴色。その視線がどこか誇らしげだったのは、気のせいではなかったと思う。
夕食が運ばれてきた。ジビエの香草焼きに、根菜のスープ。いつもより華やかだけれど、過剰ではない。まるで、二人の距離を象徴するかのような食卓だった。
「最近、そなたの評判が良い」
「……そうですか?」
「侍従長も、宰相も、そなたの社交の采配や、文書の処理能力を高く評価している。そなたは、間違いなく『実力ある王妃』だ」
言葉が胸にしみた。どれほどこの瞬間を待っていたか。自分の努力が、誰かに"評価"されることの幸福を、私は知ってしまった。
「嬉しいです、殿下。ですが、私はただ、私らしく振る舞っているだけです」
「それで良い。そなたがそなたらしくあることが、王妃としての最も美しい姿だ」
……こんな言葉を、かつての彼が口にすると誰が思っただろう。
私は笑って答えた。
「では、私らしく、明日も噂に耐えながら、優雅に振る舞いますわ」
「クロエのことか?」
「ええ。ご存知ですか、“王妃は仮のもの”という、あの噂を」
エドワルド様は黙ってワインを一口飲んだ。
「彼女には伝えてある。妃は私の正妻であり、地位も役割も誰にも譲らぬ、と」
「まあ……」
「そなたの名誉を、私自身が守る。それが夫としての務めだ」
不思議だった。心がとても、静かだった。怒りも、驚きもない。ただ一つ、確かに灯った炎がある。それは、長く凍っていた氷をゆっくりと溶かすような温かさ。
その夜、私は鏡の前でそっと自分の頬に触れた。ほんの少し、赤くなっていた。
「……困ったわね。こんな時に、ときめくなんて」
けれど、その顔は確かに、王妃のものだった。誰にも奪われない、私自身が選んだ私の姿。
朝から空気がぴりついていた。使用人たちの足音が妙に早くて、庭師の動きもどこかぎこちない。理由はわかっている。今日は、宮廷主催の祝賀舞踏会。王妃として、私はその「顔」として舞台に立たねばならない日だ。
祝賀の理由は王太子エドワルド様の外交成果。北方王国との長年の交易交渉が成功したという、国内でも久々の朗報だった。
「妃殿下、お召し物のご用意が整いました」
「ありがとう、リーネ」
鏡の前に立つ私の姿は、まるで別人のようだった。深紅のドレス。王家の紋章を刺繍であしらった正装。王妃だけに許される宝冠。化粧も髪も完璧。誰が見ても「王妃クラリス」と呼ばざるを得ない装い。
でも、今日はただの式典ではない。クロエも、当然姿を現す。おそらく、最後の賭けに出るはずだった。そんな予感が、どうしても拭えなかった。
舞踏会の会場は、金の装飾と水晶のシャンデリアに包まれていた。階段の上からエドワルド様と並んで入場する。拍手の嵐。まるで演劇の幕開けのようだった。
最初のダンスは王太子と王妃が踊る。形式的なものとはいえ、注目を浴びる場面。手を取り、軽やかにステップを刻む。
「緊張しているか?」
「ええ、少しだけ。でも……それ以上に嬉しいです」
音楽に合わせて、私たちはくるりと舞い、観衆の歓声がまたひとつ高くなった。
その時。
「殿下、どうか私にも一曲、踊るお時間をいただけませんか?」
高らかな声。クロエが現れた。真珠色のドレスに身を包み、長いブロンドの髪を巻き上げている。完璧な装い。だが、王家の色ではない。
会場がざわめいた。彼女の視線はエドワルド様ではなく、私に向いていた。挑むように、真っ直ぐに。
「舞踏会とは、社交の場ですもの。お立場に関係なく、交流を楽しむことも重要ではありませんか?」
場を支配しようとしていた。私を退け、王妃の座を不安定に見せようとする。だが。
「そうですね。ですが……その『お立場』というのは、とても重要なのです」
私は、にっこりと微笑んで言った。
「第一の踊りを共にした女性こそが、王太子の正式な伴侶。これは、百年以上前から続く慣習です。知らなかったかしら?」
クロエの笑顔が一瞬固まった。
「もちろん存じております。でも、それだけで王妃の資格が証明されるわけでは――」
「ええ。だからこそ、私は行動でも証明してまいりました」
私は一歩前に出る。会場が静まり返る。
「外交の文書を整え、王妃として諸侯の支持を取りまとめ、国庫の調整にまで目を配ってきました。それを、他に誰ができると?」
クロエは口を開きかけて、閉じた。
「それに、あなたが王妃になると噂されていること、もう誰も信じていません。なぜなら、王太子殿下が一度も否定しなかったから」
「……っ」
「それが、最も確かな"否定"だったのです」
その瞬間、エドワルド様が私の手を取った。高らかに宣言する。
「私はクラリスを正妃として迎えた日から、一度たりともその地位を揺るがそうとしたことはない。クロエ嬢、もうこれ以上、宮廷を混乱させることは控えよ」
場内が拍手に包まれた。形式ではない。人々が心から納得していた。
クロエはそのまま何も言えず、静かに踵を返した。
その背中に私は何も言わなかった。彼女の敗北は、すでに十分に大きな罰だ。
夜も更けて、舞踏会のあと、エドワルド様と二人だけになった。
「……すまなかった」
「なぜ謝るのです?」
「もっと早く、そなたを守るべきだった。私が不甲斐なかったせいで、そなたが長く苦しまねばならなかった」
「今こうして手を握ってくださっているだけで、すべて報われた気がします」
「それでも、そなたの心が本当に癒えるには……もっと時間が必要か?」
「ええ。でも、今ならその時間さえ楽しみに思えます」
窓の外、星が瞬いていた。今夜の星は、どれも祝福してくれているように思えた。
「私は、これからも王妃でありたい。肩書きではなく、在り方として。殿下の隣にふさわしい人間でありたいのです」
彼はゆっくりと、けれど確かに頷いた。
「その願い、必ず共に叶えよう」
舞踏会の翌日、私は久々にゆっくりと寝坊した。リーネが「おはようございます」と声をかけたとき、私は珍しく毛布にくるまったまま返事をするという失態を犯した。だって昨日は、緊張とドレスと精神力のフルコンボだったのよ。さすがの王妃様も疲れるわ。
「今日は特にご予定もございませんし、どうかゆっくりなさってくださいませ」
そう言って微笑むリーネは、どこか晴れやかだった。昨夜の舞踏会、彼女も陰ながら見てくれていたのだろう。クラリス様の勝利だ、とでも言いたげな目だった。
勝利、か。そんな大それたものじゃない。ただ、自分の居場所を自分で守っただけ。なのに、こんなに心が軽いのはなぜだろう。
午後、私は久々に庭園を散歩した。春の陽気が心地よくて、噴水の音が眠気を誘う。小鳥のさえずりすら、今日は自分のために響いているように思えた。
「妃殿下」
と、珍しく私服姿のエドワルド様が現れた。濃い紺の上着に、シンプルな銀のブローチ。貴族ではあるけれど、王太子の威厳よりも、一人の男としての柔らかさをまとっていた。
「お休みの日に、どうされたのです?」
「そなたに会いに来た」
「……まあ、直球ですね」
「そなたと話すときは、飾らぬ言葉のほうが良かろう」
そう言って、彼は隣のベンチに腰を下ろした。何かを話そうとして、言葉を探しているようだった。
「クロエ嬢は、実家に戻るそうだ」
「……そうですか」
「彼女の父、ハイゼ公爵にはすでに事情を説明した。理解は得られたと思う」
「それなら安心です」
「クラリス」
「はい」
「これから、私たちは本当の意味で夫婦になる努力をしていかねばならない」
「本当の意味で、とは?」
「そなたはこの五年間、私の隣にいながら、いつもどこか遠かった。いや、私がそうさせてしまっていた」
「……私も、貴方に壁を作っていたのかもしれません」
「今さらになって思う。なぜもっと、早くそなたに歩み寄らなかったのかと」
彼の声は、本当に悔いているようだった。私は静かに息を吐く。
「エドワルド様。私、昔から夢があったのです」
「夢?」
「愛されること、じゃありません」
「ほう」
「愛すること。私は、愛するという行為を、自分から選びたいと思っていました」
彼の目がわずかに見開かれる。
「政略結婚だから、仕方がないと思っていた。でも、それでも……心までは形だけにしたくなかった。だから、貴方に愛を求めるより先に、自分の想いを見つけようとしていました」
「それは……見つかったか?」
「今、やっと見え始めた気がします。少しずつ、でも確かに」
風が吹いた。彼の髪が揺れる。その顔が、優しく綻んだ。
「……私も同じだ。やっと、そなたを愛する準備が整った気がする」
「準備、ですか?」
「昔の私は、愛というものを知らなかった。君を所有することしか考えていなかったのだと思う」
この人は、本当に変わった。昔はそんな話、一言もしてくれなかったのに。距離を取ることで優しさを示すのが男らしいと思っていたのかもしれない。
「今さらになって、私たちの結婚生活が始まるようですね」
「これからが、第一章だ」
「ええ、喜んでお付き合いします。……王太子殿下」
「クラリス、名前で呼べと言ったはずだ」
「はいはい、エドワルド様」
彼は、肩をすくめた後に苦笑した。まるで、ふつうの夫婦のようだった。
その夜。私は一人、日記を開いた。公爵令嬢の頃から使っている、革の表紙のそれ。最初のページに「愛することを恐れない」と書かれていた。
「ようやく、この言葉が少しだけわかった気がするわ」
筆を走らせる。
「今日、夫と初めて“他人”として話ができた。心の距離を知っているからこそ、近づくのが少し怖かった。でも、怖いと思うということは、きっと大切にしたい証なのよね。私たち、ようやく夫婦になれるのかもしれない」
そして最後に、こう付け加えた。
「次は、私から彼に、"恋"を教える番」
朝、目を覚ますと、いつもよりほんの少しだけ日差しが柔らかかった。寝台の隣で、猫のように丸まったリーネが小さく寝息を立てている――のは嘘で、そんなことは絶対に起こりませんけど、今日はそれくらい気持ちが穏やかだったという比喩表現よ。
「妃殿下、おはようございます。今日は少し変わったご依頼が届いております」
リーネが差し出したのは、銀の封蝋が押された手紙だった。差出人は教育局。封を切ると、中からは予想外の内容が飛び出してきた。
「王立学舎における『貴族の品位教育』講義の臨時講師として、妃殿下にご登壇をお願い申し上げます……?」
思わず二度読みした。王立学舎といえば、貴族の子女が通う最高学府。その中でも、品位教育の授業は象徴的な存在だ。そこに、私?
「光栄ではございますが、これは少々……唐突ですね」
「最近の妃殿下のご活躍が、各所に伝わっているのでしょう」
「"活躍"というより"騒動処理"の印象が強い気もしますけど……」
でも、考えてみれば悪くない。王妃として社交だけでなく教育の場にも姿を見せることは、若い世代への示範にもなる。
「わかりました。お引き受けしましょう」
こうして、私は急遽、家庭教師――もとい講師として学舎に向かうことになった。
王立学舎の教室は、天井が高く、光の入り方が絶妙だった。そこに座るのは、未来の貴族社会を担う若き少年少女たち。正直、彼らの目つきは興味半分、観察半分。中にはあからさまに退屈そうな者もいた。
そんな中、私は微笑みながら壇上に立った。
「皆さん、こんにちは。今日から『貴族の品位』を担当します、王太子妃クラリス・セリオンです」
控えめに拍手が起こる。とりあえず敵意はない様子。
「さて、貴族の品位とは何でしょう?」
ざわざわとした空気の中、手を上げたのは眼鏡の少女だった。
「血筋と立ち居振る舞い、そして責任……でしょうか」
「正解に近いわね。でも、もっと大事なことがあるの」
私は教壇から降り、一番前の席に近づいた。
「それは、“他人の立場を理解しようとする姿勢”よ」
教室が静かになった。
「私もかつては、自分の誇りばかりを守ろうとしていた。でも、それだけでは誰とも心を通わせられなかったの。王妃になって、ようやく気づいたのよ。品位とは、傲慢さではなく、他者への敬意に裏打ちされていなければ、ただの飾りだって」
生徒たちの目が少しずつ変わっていく。真剣なまなざし。私は続けた。
「たとえば、あなたの隣にいる子が今日、朝食をとれずに教室に来たとしたら。あなたなら、どう接する?」
誰も答えられなかった。だから私は微笑んで言った。
「“気づく”こと。それが品位の始まりです」
授業のあと、一人の少年が近づいてきた。まだ声変わり途中といった背丈の少年。制服の袖をきゅっと握っている。
「妃殿下……あの、質問、いいですか?」
「どうぞ」
「その……王妃になるって、怖くなかったですか?」
思わず吹き出しそうになった。けれど彼の真剣な顔を見て、私は姿勢を正した。
「ええ、怖かったわ。とても。周りはみんな“理想の王妃像”を押しつけてきたもの。でも、私は私のやり方で王妃になったの。あなたも、将来“あるべき貴族”を演じるのではなく、あなたなりの誇りを持てる人になってね」
少年は、少し照れたようにうなずいた。
学舎から戻ると、エドワルド様が迎えてくれた。珍しく早めに仕事が終わったらしい。
「……授業はどうだった?」
「生徒に囲まれて質問攻めに遭いました。おかげで喉が痛いです」
「よく頑張った。君は、王妃でありながら教師にもなれるのか」
「器用貧乏って言うのよ、そういうのは」
エドワルド様が少し笑って、私の手を取る。
「私も、見習わねばならんな。貴族の品位、か。実は私も昔、講義で居眠りして叱られた」
「まあ、王太子様ともあろうお方が」
「当時の先生が、あまりにも退屈だったのだ」
「私は……退屈ではなかったかしら?」
「君の言葉は、心に届く。眠れる暇などなかった」
この男は、時々急にロマンチストになるのだから困る。けれど――少し、頬が熱くなるのを止められなかった。
「私、ちゃんと……“王妃らしく”なれているかしら」
「いや。君は、君らしくいてくれている。それが何より、嬉しい」
ああもう、ずるい。ずるいくらい、優しい言葉。
「じゃあ、明日は家庭教師のお給金として、マッサージでもしていただこうかしら」
「それは、王太子妃の命令か?」
「ええ。品位の一環として、“夫婦間の親密さ”を養う講義よ」
「従うしかなさそうだな」
私たちは笑った。陽が落ちる前のテラスで、温かい紅茶とほんの少しの愛情とともに。
夜半過ぎ、雨が降り出した。屋敷の瓦を打つ音が静かに、けれど確かに耳に届く。私は寝台の中で目を開けたまま、天蓋の影をぼんやりと見つめていた。
胸の奥がざわざわしていた。何が、とは言えない。けれど、何かが近づいている。そんな直感だった。
「……眠れないのか?」
不意に、隣の気配が声を発した。エドワルド様。彼も眠っていなかった。
「少し、考え事を」
「何か、気になることでも?」
「ええ。明日、使節団が来るでしょう?南部公国から」
「よく覚えていたな」
「王妃ですもの」
南部公国との外交関係は、ここ数年で不穏な気配を帯びていた。交易の関税、宗教的な意見の違い、国境地帯での騎士団の動き――表面上は穏やかでも、その下には静かに火種が広がっていた。
そして、今回の使節団の団長は、あのユリウス・ディ・アマルガ公爵。エドワルド様の元学友にして、かつては“政略結婚の相手候補”とまで囁かれた人物だ。
「クラリス」
「はい」
「明日の晩餐は、君も同席してくれ」
「もちろん。そのつもりでした」
「だが……気をつけてくれ。ユリウスは口が巧い。しかも、そなたに個人的な関心を抱いていた」
「知っています」
彼の手が、私の手を探すようにして重なる。
「だが、私はもう、君を渡すつもりはない」
胸が、きゅうと締めつけられるような感覚に包まれた。言葉にすれば野暮なほどの、真っ直ぐな感情がそこにあった。
「じゃあ、私も殿下を誰にも取られないよう、しっかり手綱を握っていなきゃいけませんね」
「そうしてくれ」
ふっと、互いに微笑み合って、ようやく眠気が降りてきた。
翌日。曇天の空の下、南部公国の使節団が王都に到着した。黒い外套に身を包んだ騎士たちに先導されて現れたのは、まるで彫刻のような顔立ちをした一人の男だった。
「久しいな、エドワルド。そして……君が、王妃クラリスか」
初対面の挨拶にしては、あまりにも馴れ馴れしい。だが、私は礼儀正しく微笑んで答えた。
「ようこそおいでくださいました、アマルガ公爵。王太子妃クラリスでございます」
「名に恥じぬ、美しさと気品だ。やはり君が私の隣にいたら、今頃……」
「その“もしも”は、すでに歴史の中にございます」
ぴしゃりと遮った。ユリウスは面白がるように口角を上げる。
「手厳しいな。だが、その鋭さもまた魅力的だ」
……この男、わざとやっているわね。エドワルド様の目が冷ややかに細められるのがわかった。
晩餐会は格式通りに始まった。豪華な前菜、熟成されたワイン、互いに気を遣いながらの談笑。だが、その空気の下にある緊張感は、銀器の冷たさにも似ていた。
「ところで、王妃殿下は王政の在り方について、どのようにお考えかな?」
唐突にユリウスが問いかけてきた。周囲の視線が私に集まる。これは試されている。外交的駆け引きの第一手だ。
「王政とは、国民と共にあるべきものです。王族の役割は、民の願いを受け止め、形にすること。そして時には、自らが犠牲となる覚悟を持つことが求められます」
言い終えると、会場がしんと静まりかえった。私はあえてユリウスを見ず、ワインに目を落とす。
「……君は王妃というより、聖女のようだ」
ユリウスが笑いながら言った。私も微笑で返す。
「聖女にはなれませんわ。私は、夫一人を信じ抜く凡庸な女ですから」
エドワルド様が喉を鳴らした。笑いなのか、感嘆なのか、どちらにしても悪くはなかった。
晩餐会が終わった後、私は書斎で一息ついていた。緊張がほどけ、ようやく体に力が戻ってきた。
「クラリス」
扉を開けて、エドワルド様が入ってきた。彼は珍しく、椅子に腰を下ろすなり頭を抱えた。
「……君は、怖いほどに強くなったな」
「まあ。私、怖がられてしまったの?」
「いや、頼もしさだ。……心から、尊敬している」
私は笑った。
「私はただ、あなたの隣に立てる自分でいたかっただけ」
「もう立っている。誰よりも堂々と」
しばし、静かな時間が流れた。雨は止み、星が雲の隙間から顔を覗かせていた。
「明日も忙しくなりそうだ」
「ええ。でも、二人でいれば、きっと大丈夫」
私たちは肩を寄せ合い、闇の中に光を見つけていた。かつてはすれ違ってばかりだったけれど、今はこんなにも、互いの呼吸が近い。
もう怖くない。誰に試されても、惑わされても。
私は、王妃として。ひとりの人間として。隣に在るこの人とともに、生きていく。
朝露が銀の糸のように草を飾っていた。王城の中庭は静まり返り、まるで今日という一日が、特別な舞台の開幕を待っているかのようだった。
私は王妃として最後の準備を整えていた。最後といっても、もちろん「引退」するわけではない。今日、王太子エドワルド様が“王位継承者としての正式な戴冠式”を迎える。その隣に立つ私は、いよいよ「未来の王妃」ではなく「王妃そのもの」として、国の前に立つのだ。
鏡の前に立つと、リーネが微笑んだ。
「妃殿下……いえ、今日からは“陛下”でいらっしゃいますね」
「まだですわ。あくまで王太子妃。陛下になるのは、戴冠後ですもの」
「ですが、お姿はすでに、十分“女王”です」
「うまいことを言うようになったわね、あなたも」
笑い合いながら、私は姿見に映る自分をしっかりと見つめた。長い金糸のようなドレス。王族の証たる紅玉のティアラ。背筋を伸ばして、凛として立つ――五年前、嫁いできたばかりの私では、到底見られなかった姿だろう。
ふと、あの頃の自分を思い出す。不安で、誰にも頼れず、ただ空っぽな肩書きにしがみついていた少女。あの頃の私に、今の私を見せてあげたい。そう思った。
戴冠式は、王国最大の神殿で行われる。百人以上の参列者が静かに見守る中、エドワルド様は神官長の前に立っていた。その表情は端正で、どこか晴れやかだった。
「王太子エドワルド・セリオン・イシュファル。汝はこの国の導き手となる覚悟を持つか」
「持つ」
「王妃クラリス・セリオン。汝は、王の隣に立ち、民と王の懸け橋となるか」
「……はい。その責を、誇りとともに引き受けます」
誓いの言葉が神殿に響き渡る。私はしっかりと、エドワルド様の横顔を見つめていた。
神官長が王冠を掲げ、彼の頭上に慎重に降ろしていく。まるで時代が一つ、確かに動く瞬間だった。
そして、彼が私に手を差し出した。
「クラリス。共に、この国を歩んでくれるか」
「……ええ。いつまでも、共に」
私の答えに、拍手が湧き上がる。王と王妃の誕生。それはただの儀式ではない。私たち二人が、ようやく同じ歩幅で並び立つことを誓い合った証だった。
式が終わった後、私は一人で中庭に出た。誰もいない静寂の中、紅い薔薇がゆらゆらと風に揺れていた。
ここには、思い出がある。かつて孤独を噛みしめた日も、クロエの影に怯えた日も、この庭で一人、自分を励まし続けた。
「クラリス、こんなところにいたのか」
エドワルド様が静かに現れた。王冠を外し、少しだけ気の抜けた顔をしていた。
「気疲れなさいましたか?」
「まあな。……だが、そなたの姿を見て、少し元気が出た」
「それは光栄です、陛下」
「おい」
「……冗談ですわ。エドワルド」
彼は笑って、私の手を取った。
「今なら言える」
「何を?」
「私は、そなたを深く、愛している」
風が止まったように感じた。
「その愛は、王妃としての私に?」
「いいや。クラリスという、一人の女性に」
ああ、なんて不器用な人。こんなにも遠回りして、ようやくここまで辿り着いたのだ。
「私も、あなたを愛しているわ。エドワルド」
「やっと、同じ言葉を交わせたな」
「ずいぶん、時間がかかったわね」
「それだけ、真剣だったということだろう」
「ええ。これが恋なら、随分と不器用で、面倒で、でも……最高の恋ね」
彼は、そっと私の額に口づけた。
「この国に、君のような王妃がいてくれて幸せだ」
「……私は、あなたと一緒にいることで、自分の幸せを見つけたのよ」
遠く鐘が鳴る。祝福の音。それは、王と王妃の未来を告げる音だった。
もう何も怖くない。私たちは歩いていける。手を取り合って、王国を、そして互いの人生を。
これからの毎日は決して平穏ばかりではないだろう。外交、内政、貴族との駆け引き、民の暮らし――王妃の責務は重い。
でも、私は選んだのだ。この人の隣で生きることを。
王冠の重みよりも、彼の手の温もりを信じて。
これが、私の「愛の物語」の最終章。そして、二人の「人生の第一章」。
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