世界との違い
あれから1ヶ月経った。
誰かと話すことを諦めた。
誰にも声をかけられず、独りぼっちだった。
体育館裏の、小さなベンチで、母の手作り弁当を外で食べる毎日。
学校をしばらく休もうか迷った。
でも、そしたら母に理由を話さないといけない。
学校で無視されたこと、嫌そうな目で見られたこと。
全てを。
それは……無理だ。
大丈夫と言ってしまったから。
ただの強がりだ。
母の心配している目を見ると胸が締め付けられる。
父の怒りを買いたくなかった。
だからだ。
外で歩いている生徒を見る。
購買の近道があるから、ここら辺はよく人が通る。
そこで、私は見てしまった。
人の流れのなかで唯一無二の存在感。
髪を染めていて、でも不思議と馴染んでいた。
堂々と、自分を隠さずに歩いているトランスジェンダーの人を。
息を飲んだ。
驚きだけじゃない。
どうしようもなく身体が震えた。
自分らしく生きるその姿が、私の心の奥を揺さぶってくるのが分かる。
世界との違いを自分らしさに変えている。
私が出来なかったことをしている。
その全てが雨のように私の身体に降り注ぐ。
身体がこの雨を求めていた。
そう直感した。
これは……奇跡なのかもしれない。
そんな予感が小さく胸を照らした。
そんな風に思えたのは生まれてはじめてだった。
いつの間にか諦めたはずの会話を試みていた。
身体が、脳が、心が、気づいた時にはもう惹かれていた。
声を出す直前、一瞬だけ躊躇した。
でも、止められなかった。
止める気もなかった。
「……あの。」
「ちょっとだけ、時間もらえますか?」
その人は、怪訝な顔をした。
少しの沈黙が広がる。
駄目だな。
せっかくの奇跡が台無しだ。
そう思った。
「……なんか用?」
まだ、チャンスはある。
ここでちゃんと理由を説明できれば。
深呼吸をしてから私は答えた。
話しても大丈夫か?
信じきれない。
でも、話すしかない。
そう思った。
「……はじめまして、真弓です。」
「私も、トランスジェンダーなんです。」
「どうして、堂々と歩けるんですか?」
「私なんて……。」
言葉が詰まった。
目頭が熱くなってくる。
その時、その人は話を遮った。
そして、ジェスチャーしながら言った。
「奢ってくれたら良いよ。」
私はめちゃくちゃ頷いた。
奮発しても良いと思った。
友達が出来た時のために、こっそり貯めていたお金がある。
初めて高校生っぽいことが出来そう。
そう思って嬉しかった。
どれだけ優しい人なのだろうか。
この人のことを知りたい。
そう強く感じた。
購買で焼きそばパンを買った後、二人で外のベンチに座った。
お弁当を置きっぱなしにしていたからだ。
「……さて、なにが知りたいの?」
一心不乱にパンを食べ終わったその人は不思議そうに言った。
その食べる姿は何日も食べていない子犬のようだった。
私は、お弁当に視線を落としたあと、顔を上げて言った。
名前を聞いてしまったらもう戻れない。
でも、それでも、聞かずにはいられなかった。
「……まず、名前は……。」
その人の眉毛が上がった。
目が見開かれた。
駄目か?
すぐに否定の言葉が頭に流れる。
私の悪い癖だ。
一瞬の沈黙のあとその人は吹き出した。
これは本心だ。
そう感じられるほど、しっかりと。
その人は少しの息を整えたあと、にやけながら言った。
「……名前も知らずに話しかけてきたの?」
「私、この学校では有名だと思ってたんだけどな。」
その人は少し下を向いたが、すぐにこちらを見て言った。
私はその瞬間、唾を飲む。
少しだけ苦い。
それが意味するのが緊張なのか、焦りなのか分からない。
でも、確かにそんな気がした。
「名前だったね。」
「私の名前は、蓮だよ。」
やっぱり、男の名前だ。
見た目は化粧が濃くて一見分からない、
でも、私には分かる。
この人は心は女だ。
表面から奥まで全て。
蓮は秘訣を教えてくれた。
ゆっくりと、でもしっかりと。
「私も昔、真弓ちゃんと同じで、歩くことも躊躇ってたな。」
「堂々と歩くコツは二つあってね。」
「周りと比べないこと。……比べると苦しいから。」
「それと、自分を認めること。……自分を愛せるのは自分だけだから。」
蓮はニパッと笑って続けた。
「簡単でしょ?」
私は混乱していた。
あの時の母もこういう気持ちだったのかも知れない。
それは違うか。
状況が違うもんな。
そして思う。
そんなの簡単じゃない。
どうやって、それをすれば……?
それを考えている間に、いつの間にか声が出てしまっていた。
混乱して、問い返すように出た声だった。
「え?」
「どこが?」
蓮は首をかしげた。
まるで犬みたいにつぶらな瞳だった。
憎めないけど、どこか理解できない。
その奥に影が滲んでいたように見えた。
私も首をかしげた。
蓮の分からない気持ちが分からなかったから。