放っておけないから来たのです
私、ペルラ・アマーブレの初恋は幕を閉じた。
初恋と言ってもたった数ヶ月間、一方的に見ていただけの恋だ。けれど十八年間生きてきて、誰かを好きになったのは初めてのことだった。
失恋したばかりの私は、今日も灰色の雲が広がる空を見つめている。
ここは王都の中心に位置するレフィナード城。
昼休憩中、ボーッと頬杖をついているのは、その片隅にある第二治癒室の窓辺だ。
王族や重役、騎士達を担当する第一治癒室とは違い、ここには庭師や門兵、掃除婦など、使用人達が雑多に出入りしている。つまり、ほぼ庶民のための治癒室と言ってもいい。城の裏手、人目に付きにくいのはそのためだ。私は、そんな第二治癒室に治癒師として勤務していた。
机の上には昼食用のパン。食べていたことも忘れ、私は外を眺め続けた。
視線の先にある裏庭では、まだ乾かない洗濯物がズラリとたなびく。
そしてそのむこうには、重厚な門構えの騎士団本部の姿が見えた。レンガ造りの堅牢な建物には、昼夜問わず大勢の騎士達が行き来する。
私は、治癒室の中からその光景を眺めるのが好きだった。
運が良ければ、遠く離れたこの場所からでもお目当ての騎士を見ることができたりもする。作業の合間に、席を立つ時に、患者さんを見送ったあとに――暇を見つけては騎士団本部を眺めることが、私の日課となっていた。
(あーあ……ルイス様……)
しかし、もうこんなことも終わりにしなければならない。失恋してもなお、未練がましく見つめているわけにはいかないのだから。
私が恋をしていた相手は、レフィナード王国騎士団・第三部隊長のルイス・クラベル様。
金髪に空色の瞳をした、若き騎士隊長だ。
彼は私より七歳歳上の二十五歳で、由緒正しきクラベル侯爵家の次男。高貴な身分にも関わらず、誰に対しても分け隔てのない明るい性格で、老若男女どんな人からも愛されている人だった。
しかし最近、そんなルイス様に恋人ができた。
ルイス様の恋人となったのは、マルグリット・フェメニー様。第一治癒室に配属され、華々しく活躍する美しき治癒師である。
名門フェメニー伯爵家のご令嬢であり、身分的にもルイス様と釣り合いが取れており――加えて、艶やかな赤髪が目を引く絶世の美女。
マルグリット様は、太陽のようなルイス様に選ばれるべくして選ばれた、薔薇のような女性だった。
レフィナード城の太陽と薔薇が結ばれた。
ビッグカップルの誕生だ。
城内はたちまちルイス様とマルグリット様の噂で持ち切りになり、裏口でひっそりと働く私の元にまで噂は届いた。
聞きたくもないのに、噂はお二人の馴れ初めまで事細かに教えてくれる。その馴れ初めとは、つい先日に遡るのだった。
そう、つい先日――
遠征から城へと戻ったルイス様は突然、馬上から崩れ落ちるように意識を失った。
嵐の中で無理をしたお身体は限界を迎えていたようで、騎士団本部まであと少しという距離のところで力尽きてしまったのだ。
そんな彼の元へ、治癒師がひとり駆けつけた。
治癒師は雨に打たれ、泥まみれになることも厭わず、衰弱したルイス様に治癒魔法を施した。
しかしルイス様の身体が持ち直すと、名乗ることもなくその場を去ってしまったのである。
意識の戻ったルイス様は人づてにそのことを知り、深く胸を打たれたらしい。やがて体調が回復すると、彼はさっそく恩人である治癒師を探し始めた。
名も残さず去っていった治癒師ではあったが、城に常駐する治癒師はそう多く無い。
ルイス様自ら、一人一人治癒師を当たっていったところ、観念したマルグリット様がおずおずと名乗り出たという。
『わたくしは一介の治癒師でございます。衰弱しているかたに治癒を施すのは当然のこと……名乗るほどのことではないと思いましたので』
そう告げたマルグリット様は奥ゆかしく、それでいて凛として美しかったと、ルイス様は後に語る。
彼は探し求めていた恩人・マルグリット様を前にして、たちまち心を奪われてしまったのだった。
(恩人である治癒師が見つかったと思ったら、あんなに綺麗な方だったんですものね。ルイス様が惹かれるのも当然よね……はあ……)
このところ、ルイス様が幸せそうに顔を綻ばせながら歩く姿をよく見かける。
もともと明るい方ではあったけれど、最近はさらに笑顔が増えた気がする。きっとマルグリット様と上手くいっているおかげだ。
でも、幸せを隠しきれないようなルイス様の笑顔を見るたび、私の気持ちはどんよりと沈んだ。
そもそも田舎者の男爵令嬢である私がレフィナード城の治癒師として働いていること自体、まぐれのようなものであって……さらにルイス様のような雲の上の人に懸想するだなんて、おこがましいにもほどがあったのだ。
ベージュの髪を編み込んだ地味な姿、治癒能力だけが取り柄の平凡な人間。貧しいアマーブレ男爵家の長女として、ひっそりと生きてきた――それが私。
だから別にルイス様の恋人になりたかったとか、ルイス様の恋人となったマルグリット様が憎らしいとか、そのような欲深い気持ちは持ち合わせていない。
けれど、密かに憧れ、姿を見るだけで幸せになっていたこの想いはもう許されないのだと思うと、自覚するたびに虚しいような苦しいような感情に襲われた。
(だめだわ、早く振っきらないと……もう休憩も終わっちゃう!!)
重い心に引きずられていたとしても、のんびりしている暇は無い。
ぼーっとしてしまったおかげで、昼食のパンも食べきることが出来なかった。私はパンをしまい込むと、騎士団本部からやっと目を逸らし、窓際の椅子から立ち上がった――
と同時に、第二治癒室の扉がノックされる。
まだ昼休憩終了を知らせる鐘は鳴っていない。が、来客が来てしまっては受け入れるしかない。
私はさっと身支度を整え、入り口である扉と向き合った。
「はい、入ってかまいませんよ。どうぞ」
「失礼します」
扉の向こうから返ってきたのは、男性の声だ。
ノックの主は室内へ声をかけると、おもむろに足を踏み入れた。
「怪我ですか、それとも体調不良ですか――っと、あなたは……」
困惑した。治癒室に現れた人物は、上下アイボリーの制服に、膝下まである濃茶のロングブーツを履いている。巻かれている腰布は深い青。これは訓練用の練習着だ。
服装から見るに、彼はどうやら騎士様のようだった。
年は十八歳の私とそれほど変わらないくらいだろうか。艶のある黒髪と意志の強そうな瞳からは、堅く凛々しい印象を受けた。歳の割に落ち着いて見える。
私は突然現れた騎士様に、思わず言葉を詰まらせた。
(騎士様だわ。どうしましょう……)
ここは第二治癒室。
主に下働きの者達を対象に治癒していて、騎士様は担当外だ。第一治癒室を差し置いて勝手に処置してしまったら、きっとお咎めがあるだろう。
ただでさえ第二治癒室の立場は低い。仲間達に迷惑をかけないよう、線引きはきちんとして、穏便に済まなさければならない。
こちらの騎士様も、治癒室まで来たということは身体のどこかに不調があるはずだけれど……あいにくここで治癒することは出来ない――
私は罪悪感を抱きつつ、目の前の騎士様に頭を下げた。
「ええと……申し訳ありません、こちらは第二治癒室となっておりまして、取り決めにより騎士様を診ることはできません。治癒をご希望でしたら、正面入口をまっすぐ進んだ所にございます第一治癒室に精鋭の治癒師がおりますので、そちらに――」
「ルイス隊長のことは治癒したのに?」
芯のある精悍な声に、心臓が止まるかと思った。
「……え?」
「ルイス隊長には、治癒魔法をかけて下さいましたよね」
こちらの動揺を知ってか知らずか、黒髪の騎士様は真っ直ぐに私を見据えている。
突然突きつけられた言葉に焦りを隠せなかった私は、ただ彼の視線を受け入れるだけで精一杯だった。
なぜ、ばれているの。
あの日は……たしかにローブを被って顔を隠していたはずだ。
分厚いフードを目深に被っていたし、非常事態のさなか、あえて治癒師の顔を覗き込むような騎士もいなかった。
大雨に遮られていたおかげもあって周りの景色だって曖昧で、声でバレては困るから口もきかないように気をつけたつもりだ。
そして治癒魔法を施したあとは、急いでその場を離れた。
なにより、第一治癒室のマルグリット様がなぜか『あの時の治癒師』として名乗りあげているのに。
(なに? この人……なんで)
胸騒ぎが止まらない。けれど、黙ったままなんて騎士様の言葉を肯定しているのと同じだった。
我に返った私はあわてて笑顔を作ると、取り繕うための言葉を探す。
「……何を仰いますか。私は第二治癒室の治癒師です。先程も申し上げたように、騎士であるルイス隊長を癒すことなどできません」
「なぜ嘘をつくのです。あの嵐の日、ルイス隊長を助けたのはあなたではありませんか」
「ルイス隊長を治癒したのは第一治癒室のマルグリット様です。自らもお認めになったのでしょう?」
あくまでもシラを切ることにした。
騎士様がなにを根拠に私を疑っているのか知らないが、もう『あの時の治癒師』は現れた。麗しの治癒師、マルグリット様だ。
マルグリット様が現れ、ルイス様は彼女に恋をした。そしてお二人は晴れて恋人になった。
めでたしめでたし――それでいいじゃないか。
私はもうそれで終わりにしたいのに、尚も騎士様は食い下がる。
「いや。あの女ではありませんね。人の良いルイス隊長は信じてしまったようだが、俺には分かります。分からないのはあなただ。撤回もせず、怒りもせず、ただ黙っているだけで」
「そんなこと――」
「好きだったのでしょう、ルイス隊長のことが。だからあのように必死になって助けた。そうなのでしょう?」
「え……」
(……なぜ、そんなことまで知っているの?)
私は、この片想いを他人に話したことは無い。
想う相手は花形騎士のルイス様、かたや自分は裏口に常駐するしがない治癒師。
身の丈に合わない恋だという自覚はあったからだ。
「好きなんかじゃありません」
「また、そんな嘘を……このままではあなたが報われないではありませんか」
これまで、誰にも知られぬよう、密やかに想いを募らせただけだ。なのになぜ、名前も知らないこの騎士様が私の気持ちを知っているというのだろう。
しかも、このままでは私が報われないと、そんなことまで言いながら。
「……やめてください」
「でも」
「私は、報われることなんて望んでいないのに!」
黒髪の騎士様は、あの時の治癒師が私であると信じて疑わない。こちらの嘘などまったく通じない彼を前にして、上辺で取り繕っていたものはぽろぽろと簡単に剥がれてしまう。
「なぜ放っておいて下さらないのですか……っ」
見ていただけの恋だった。失恋と呼べるかも怪しいくらいのささやかな恋だったのに、いつの間にか頬には大粒の涙が溢れ出る。
「……俺は、放っておけないから来たのです」
(そんなこと言われても……仕方がないじゃない)
止まる気配のない涙を、黒髪の騎士様が柔らかく拭う。
頬にその指先の温もりを感じて、私は失恋して以来初めて泣けたことに気がついた。