参謀様の奇策(前編)
アンカーは任せて、と言った。彼の人格をほとほと知っているスピカとしては「任せられるか!」と怒鳴って返したいところだったけど、しかしあの悪魔と契約したのはルクバーくんで、残念ながらあの子羊は何も知らない顔で(実際何も知らないのだろうけど)頷いたのである。
哀れ。後で話を聞いたバーナードも私と同じ顔をした。
さて。賢明なる読者の皆さんは疑問に思っているだろう。今回捧げられた羊は、羊と言っても所詮は例え話。ウシ科ヤギ亜科鯨偶蹄目の四足歩行の生物ではなく、まごうことなく人間のことである。しかも私の知り合い、料理の師匠さま。
ならば、私が一言「騙されてるよ、あんまり信じすぎないほうがいいよ」とそう一言忠告をすればいい話である。親愛なるルクバーくんを思うのなら、彼が酷い目に遭わないように尽力するべきである。多分、それこそルクバーくんが逆の立場なら私を心配して教えてくれるだろう。
しかし、私はそれをしなかった。なぜか。
それはただ単にアンカーの策略によってそう悪い結果にはならないであろうという信用もあるが、しかしそれ以外にも理由がある。
それはただ、「そっちの方が面白そう」と言う思いから。こう言うところがクロダンに染まっているとも言える。
しかし、正直アンカーの奇策とそれによるドタバタ劇はとても愉快である。
そう、そんなふうに思っていた。だから止めなかったし、アンカーの指示通りに動いていた。
それがあんなことになるなんて。私にあれだけお兄ちゃん面するルクバーくんが、恥も外聞もなく泣いてしまうなんて。そんなことつゆほども思っていなかったのである。
ーーーーー
「まずアジメク。君は何もしないこと」
「え?」
早朝。作戦会議の場での初っ端戦力外通知。しかしアンカーは自分の発言を撤回する気はないようだ。ちょ、ちょっと待ってよ。
「それで次にバーナードは……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。私にできることないの?」
面白がってはいるが、普通に自分の兄貴分の恋を応援したい気持ちがある。戸惑いながら口を挟むと、アンカーは渋い顔をしてこちらに舌打ちした。
「チッ」
「え、ちょっ」
「アジメクはマジで何もしないで。これフリとかじゃないから」
「いや、そんなこと言われても。私も何か力になりたい!」
アンカーの奇策の邪魔になるようなことは私自身望まないが、この気持ちは本物である。アンカーの目を真っ直ぐ見つめそう言うが、返ってきたのは二つ目の舌打ちだった。
「…………うるさいよチート野郎。あんたがいるとゲームバランスが崩れるんだよ」
「チ、チート?」
そんな言葉自分からかなり離れた言葉な気がするけど。彼は私が日々ジタバタしているのを見ていないのだろうか。私にとって優れているのはせいぜいガクルックスの家柄で、それすら借り物である。
「……いや、何もやるなと言われてやらないわけがないか。どうせあれだよね、体が勝手に動いちゃうんだよね。これだから主人公属性は」
「え?え?」
主人公というのともかなり距離のある人間だと思っているけど。彼の珍しく頓珍漢な物言いに戸惑いを隠せずにいると、アンカーはもう一度ダメ押しのように舌打ちをした。そして私のことを行儀悪く指差してこう言ったのだ。
「いいよ、分かった。どうせこう言っても言うことなんて聞かないんでしょ。わかった好きに動いていい、こっちで調整するからさ。ただ一つだけ約束して。俺のこと信用して、一つだけお願い聞いてよ」
「あ、はい」
そして居住まいを正した私にもう一度舌打ちしてから、彼は言った。
「何やってもいい、どんだけヒーローやってもいいからさ、一つだけ。君の二つ目の特別魔法は使わないでね。それは反則だ」
「……クちゃん、アジメクちゃん!」
「あ、はい!何?!」
「いや、ジャガイモはもう皮剥かなくていいって。次大根!」
「あ、うんありがとう、ラーン」
私は手渡された大根を言われるがままに受け取る。目の前にはいつの間にか綺麗に皮の剥けたジャガイモが水に浸かっていて、いつの間にこんなに剥いたのだろうと首を傾げる。
「……なんか、今日アジメクちゃん変だよ」
ラーンに訝しげに言われる。まさか相手に、実はあなたのせいでもあります、だなんて言えるわけがないので私は適当に「そうかな?」などと返す。ラーンは不審な顔を隠しもせずに一歩引いたが、去り際「なんかあったんなら相談には乗るからね?」と囁いた。
まあ、正確に言えばラーンとルクバーくんをくっつける大作戦に気を取られているのもあるけどそれ以上にグルグルと考えてしまうことがある。
それはまあ言わずもがな、先ほどのアンカーの言葉である。
彼は「二つ目の特別魔法」と言った。多分、いや確実に、時間を止める魔法のことを言ったのだろう。一つ目の羽が生える特別魔法とは違って、誰にも言ったことのなかった特別魔法のことを。
なんでバレた、と言うのは今更アンカー相手に今更だろう。特に根拠はないが、彼ならば仕方ないとも思う。変な信頼がある。それに加えて、アンカーは今後の作戦に必要ではないならこの魔法を積極的に使おうとはしないし、私が嫌がるなら他の人にバレないようにしてくれるだろう。
そう言う意味では、学内での味方ができたことを喜ぶべきだろう。しかも私の知る中ではそう言う意味で一番賢い味方だ。
しかし懸念点が一つだけある。いや、多分もっと賢い人、例えばアンカーとかが考えるならばもっとあるんだろうが、私が思いつくのは一つだけ。
それは、私が本物の「アジメク」様と入れ替わった時、アンカーはすぐに気がついてしまうと言うことだ。
現在私は二つの特別魔法を持っている。一つは羽の生えるもので、それを使って空を飛ぶことができる。これも確かに、「アジメク」様と入れ替わるのに合わせて障害になり得たが、正直これは言ってしまえば羽が出て空が飛べるだけである。翼は光魔法を応用した幻覚魔法で、空を飛ぶのは風魔法で実現可能である。
むしろ言ってしまえばその程度の特別魔法でもあるので、たとえ「アジメク」様がその魔法を習得できなくても、「自分の特別魔法に有用性を感じなかったから」と言って今後使わなくてもそう不自然ではない。
しかし、もう一つの魔法はどうだ。それこそ危機的状況に陥った時、私なら迷わず使う時に本物が使わなかったら。むしろ今後アンカーだけでなく他の人間にもこの魔法がバレた時、本物の「アジメク」様がこれまでの私と違うとバレるきっかけになり得る。
いやむしろ、二つ目の特別魔法を見破ったアンカーならば、入れ替わった途端にそれを看破する可能性すらある。だって、私はアンカーの前でその魔法をバレるような言動をとったことがない、むしろ彼の前で時間を止めたのは、その特別魔法を発現した、一年生の魔法学クラスに入る試験の時だけだ。
どうする、どうすればいい。当主様に報告して指示を仰ぐか?でも、これは確実に私のミスだ。それに当主様との雇用契約の要は私が高等部二年になったら確実に、秘密裏に入れ替わりをすることだ。
つまりはその時の入れ替わりが他人にバレるなんて大問題だ。むしろその入れ替わりをうまく行えないくらいなら、「アジメク」様と顔が似ているだけの私を雇用していた意味がなくなる。それならば傷の浅い今のうちに本物と入れ替えたほうがいい、そう考えるかもしれない。
(そうなったら、私は……?)
いや、疑問に思うことすら必要ないだろう。だって、あの時当主様は私をガクルックスに売り出した夫婦に言っていたじゃないか「役目が終わったら処分する」と。
「アジメク・ガクルックス」は二人もいらないのだ。つまりはそう言うことだ。
(ならば私は、何をすればいい)
まずはアンカーに口止めを頼む。その一環で全ての事情を話さなければいけなくなるかもしれないけど、多分彼は変に隠したほうが嬉々として探ってくるに違いない。そして次に、なぜバレたのかを聞いて対策を取る。
そうだ、そうしよう。今後のことはそれから考えるべきだ。
こっちだって命がかかっているんだ。少しでも平和に生き残る道を探さなくては。
まさに、その時だった。そんな決意を固めた時だった。
「は……」
人は本当に驚いた時、そう器用に言葉なんて出てこない。
言葉じゃなくて、息が絞り出せただけでも上等だと思う。ちゃんと呼吸ができていることを褒めて欲しいくらいだ。
「いっ……」
いや、とかまって、とか言葉が浮かぶ。多分正解はここで声を上げて、他の人の注目を集めること。それは分かっているのに。
喉が張り付く。逃げなきゃ、自分の胴の下についている細長い二つの肉片が自分の足だなんて信じられない。
助けて?逃げて?今日の気候にしては嫌に寒い。
早く、早くしなきゃいけない。動かなきゃいけないのに。そうでなきゃ、それこそ当主様より先に殺されてしまう。
目の前の魔物に。
目の前には、成人男性よりも一回り大きいくらいの魔物がいた。しかしベースがイヌ科なのか鋭い牙が大きな口の中でぐるりと並んでいる。
その瞳は紛れもなく私のことを食糧として見ていて、その牙なら確かに私のことくらい人齧りで絶命してしまうだろう。私は恐怖から頭のシナプスが全部途絶えたような気すらしてきて、頭が真っ白になった。
だって、それは私のすぐそばにいた。生暖かい吐息が私の頬にかかるくらい。確かに私は隅っこで作業をしていたけど、ここは町のど真ん中だ。こんなところまで魔物が降りてくるなんて普通じゃない。こんなところで魔物に遭遇するなんて、思いも寄らなかった。
助けて、来ないで、やめて、逃げたい、怖い、怖い、怖い、怖い。
脳みそがどこか遠くに行ってしまったようになって、魔物の大きな口からゆっくりと涎が口元を辿って地面を黒い水玉を作るのを、どこかぼんやりと見ていた。
そのまま、相手は大きな口を開けて、その本能のままに牙が目前に迫ってきて……。
「アジメク!」
腕が千切れるような勢いで引っ張られて、そのまま背中が胸元にぶつかる。次いで目の前に広がる炎。
「……あ、あ」
私はバカみたいに同じ文字を繰り返して、私を引き寄せた相手は呆れたように笑った。
「アジメク、ほら。お前ならいくらでも対処できるでしょ」
「あんかー……」
「うん、アンカー君ですよ」
彼はおどけたように笑って、私はそれに安心してしまって、次いで彼の肩越しにあたりを見渡して言葉を失った。
そこは、地獄絵図。さっきアンカーが焼いた魔物は序の口。いや、本来イヌ科は群れで狩りをする動物だ。つまりはこんな彼らの居住地から遠いはずの狩場に、一匹だけでくるわけがなく。
軽く見積もって、十はいるだろう。そして逆にこの女性だらけのメンバーの中で、まともに魔物戦ったことのある人間は少ないはずだ。最悪私とアンカーだけという可能性もあり得る。
私はすぐに羽を出せるように上着を脱いだ。アンカーは準備運動をするように手首や足首を回した。
後ろではおばさんたちが青い顔で立っている。小さい子供は震えて泣きそうだ。私は確かに、この人たちを守らなければと気を引き締めた。
「アンカー」
私は隣に立つ彼に声をかけた。声が硬くなるのを抑えられない。どうにかみんなに安心させてあげたいのだけど、どうにも難しいみたいだ。
後ろでおばさんが私たちに叫ぶのが聞こえる。必死に逃げるように言っている。特に炎の魔法で一匹魔物を焼いたアンカーはともかく、「お嬢さん」である私がみんなを守ると言っても信じられないのは分かる。
だからこそ、私は笑顔で「大丈夫だよ」と言わなければいけないのに。そんな余裕のない自分が憎い。ここにいたのがスバル先生だったらよかったのに。
「俺が、右に行く。アジメクは左からよろしく。翼はまだ出さなくていい。それ体力使うんでしょ?」
しかしアンカーは、当たり前のように私を戦力として数えた。私は少し息を呑んで、そして頷いた。アンカーは私のグーで殴った。少し痛い。
「できる、できるよ」
「そうこなくっちゃ」
彼は笑った。私はその笑顔に、自然と笑った。そして、彼に一言、殴り返しながら言った。
「さっきは、助かった。ありがとう」
心からの言葉。もしかしたら彼にお礼を言えなくなるかもしれないので。正直さっきはマジで死ぬかと思った。そう思って彼に言うと、アンカーは朗らかに笑った。
そう、笑顔でこう言い放ちやがったのである。
「大丈夫!俺ここに魔物が来るの知ってたから対処できただけだし!」




