こどもゴコロに
「久しぶり!」
「元気?」
「髪切った?かわいい!」
教室で交わされる、なんて事のない会話をぼうっと聞く。最近夜更かし気味だったので久しぶりの早起きで朝日が眩しい。
約一ヶ月半の夏休み。始まって数日はまるで一生続くような心持ちだったのに、終わって仕舞えばなんだか一瞬だ。
しかしその一瞬で、婚約が結ばれそうになったり保留になったりしているのだから、かなわない。さすが貴族と言うべきスピード感と強引さ。
いや、逆に適齢期前のデリケートな時期にしてはとんでもなく軽率な流れなのかもしれない。そこらへんは当主様の胸三寸なので私が断ずるところではないが。
そもそも婚姻を申し込まれたのも保留にされたのも私じゃないし。
「焼けすぎだろ……」
挨拶もなしに、掠れ声で一言。頬に触れるか触れないかのところを指の背が掠って、くすぐったい。
「……健康的な小麦肌って言って」
「日焼け止めをちゃんと塗れ。いつもあとで痛くなってるくせに」
「塗っても落ちちゃう」
「塗り直すものなの!」
力強く私に言い聞かせて、その反動のように彼は咳き込む。
「……声やばいね」
そろそろ触れないのは不自然だろう、水を向けると彼は少し照れ臭そうに、嬉しそうに言った。
「声変わり、みたいなんだ」
……咄嗟に私は「知ってる」なんて答えたくなって、もちろんそんなことは言わずに代わりに言葉を吐き出した。
「なまいき」
彼ーーアルは笑った。
彼と会うのは随分と久しぶりだけど、どこかその気持ちが薄いのは、あのお嬢様のせいだ。
いや、お嬢様、「アジメク様」はそう悪くはないか。彼女は単純に同年代の使用人を気に入って夏の間そばに置いているだけだ。
ついでに想い人に毎日のように手紙を送って、同じくらいの量の手紙に一喜一憂して私にその内容を話してくれている彼女も悪くない。彼女はただ単に恋をしているだけだ。
綺麗な綺麗な恋する乙女。汚いのは、彼女の言葉を聞くたびに捻れる私の心の方だ。
「宿題終わったか?」
彼は当然のように私の前の机の椅子を引いて座った。いや、実際に当然ではあるのだ。夏前まで彼が朝一番に声をかける相手は大体私だったし、私だって、彼の近くの椅子が空いていれば彼と話すためにその椅子に座った。
「うん、まあ……」
だからおかしいのも私の方。早くアルが座った椅子の持ち主が出席してこないかと思うのだけど、その持ち主であるアルレシャは遅刻大魔王なので早くきても授業開始のギリギリまで来ないだろう。
「ちゃんと早い時間に寝たか?休みの日夜更かしするのは良くないぞ」
「……うん、あんま?」
「休みの間はいろんなところに行ったのか?カペラたちとかと」
「うん、まあ」
「……なあ」
彼の手がふと持ち上がって、そのまま迷いのない手が眼前に近づく。
そのまま自然に、私の額に近づく。私はぼんやりとそれを見ていた。
パシッ。
軽い破裂音が聞こえたと思ったら、それは自分の手があるの手を振り払った音だった。振り払うどころか引っ叩いたに近い。
「…………」
「………………」
何がダメなのか、と言われれば過剰に反応しすぎた私が悪い。
何がおかしいのか、と言われればいつもの距離感のはずなのに、近づいてくる手を嫌だと思う私の心がおかしい。
「……なんか、お腹痛い、かも」
ボソボソと私が言った。アルはなんだかおかしい顔をして、曖昧に頷いた。私は保健室に行ってくると言ってアルに不自然にならないように背を向けた。
彼は、「一緒に行こうか」とは言わなかった。
言葉には不思議な力が灯るとは言うけれど、教室を出てしばらく歩いていると、本当にお腹が痛くなってきた。いや、気のせいかもしれないけど、言い訳にした保健室には本当に行ったほうがよさそうだ。
「アジメク」
その時後ろから私に呼びかけたのは、ギナンだった。その顔には心配そうな表情が浮かんでいて、自分が心配されるような顔をしていることに気づいた。
「ギ、ナン。私……」
「私、保健委員だから。一緒に行くよ」
「……強引だ…………」
私は思わず呟いた。彼女は聞こえないふりをした。
「ちょっと歩ける?」
彼女は聞いた。私は頷いた。その質問で半ば察したけど、彼女は少しどころじゃなく歩いて保健室とは全く呼べない部屋に招き入れた。
「ここ、私の部屋」
「……魔法学準備室って書いてあるんだけど」
しかも高等部。シリウス先生の職場で、しかし彼女は慣れた様子でゴールドの重そうな鍵でその扉を開けた。
そして彼女はすんなりとその扉を開けたのである。
いつの間に私物化したのか。と言うかいつの間に私物を持ち込んだのか。その部屋は確かに、大人っぽい女の子が好きそうな内装。つまり、生活環境を整えるのに全く興味のなさそうなシリウス先生の部屋とは到底思えなかった。いや、逆に言うと、自分の部屋のはずのところを他人に占拠され乗っ取られるようなところは彼らしいといえば彼らしい。
本当にギナンはシリウス先生とはどこで接点があったのだろうか。ギナンは魔法学をとっていないし、シリウス先生は魔法学の授業ぐらいでしか初等部の棟には来ない。彼女に疑問をぶつけると、彼女はまるで用意していたように「私特別魔法持ってるの。それに関して質問しに行ったらね、色々と」とその省略された色々が聞きたいのにみたいな返答をされた。そして多分だけど、その言葉自体どこか嘘っぽかったので、詳しく聞くのはやめた。
というか、(多分)彼女のベッドに私が寝かされたから、聞くタイミングを逃したというのもある。
ココアとホットミルク、どっちがいいかと聞かれた。
何か温かいものを飲むか、たとえばそう聞かれていたら私は首を横に振っていたと思う。しかしどちらかを選ぶように聞かれたから、私の選択肢は二つだけになった。飲むか、飲まないかじゃなくてココアかホットミルクか、に。
ミルク、と答えると彼女は奥のキッチンに消えていった。彼女がもつ片手鍋とか、当たり前のようにある大きな冷蔵庫だとか、慣れたように調理器具を扱う姿だとか、色々と突っ込みたいところはあったけど、ベッドに横になると本格的に痛みがその存在を主張してきた。
ぎゅっとされているような、内側から絞られているような、嫌な痛み。目を閉じて体を丸めても、それはどこにも行ってくれなかった。
そうしているうちにふわっと暖かい香りが広がった。そのまま髪をすかれる感覚。目を開けるとギナンが近くにいる。
彼女は私の額の汗を柔らかなタオルでそっとさらって、少し冷たい手で腰をさすった。私は何か言いたくて、でも何も言えなかった。何か喋ったら、ポロポロとこぼれていってしまいそうだったから。
「飲める?」
彼女が聞いた。私は頷いて、体を起こして座った。
手の中に収まるマグカップは、人肌から少し温かい程度で、その分冷めるのも早そうだけど、少しも痛みを感じることなく胃まで響いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
飲み終わると、彼女はあっという間に私の手からコップをさらった。
温かさが染みたのか、次第に瞼が重くなる。導かれるようにベッドに肩を押されて、横になる。実は昨日、なんとなく眠れなかったのだ。
「お母さんみたい」
口からうっかりこぼれ出て、ギナンの気まずそうな表情に「ああ、しまった」と思った。あの天才筆頭魔法師である当主様が、娘が生まれた年に妻にこっぴどくフラレて逃げられたのはあまりにも有名な話だった。
私の言う母親とは前の生の母親のことだったから、うっかりとしてしまっていた。
「あ、ごめん、今のは、別に、母親恋しいとかじゃなくて、確かに母親はいないけど、全く会ったこともない人に特別なんかは思えないって言うかあっちもなんとも思ってないだろうな、みたいな……」
慌てて余計なことばかり言う私に、ギナンは首を振った。
「アジメクのお母さんはちゃんとアジメクのこと見てるよ。少し、遠くからかもしれないけど」
「…………空の上から?」
「え?」
彼女は別に他の一般家庭と比べて、親が離婚し別に暮らしていることを示していたのだろう。ただし私が思い浮かべていたのは前世の、死んだ母親だったから。彼女を先ほど以上に戸惑わせてしまった。
「なんてね」とジョークにもごまかしにもならない、なんなら不謹慎な一言を足したが、そう効果はないだろう。
「大人っぽいねって、言いたかったの!」
結局私は誤魔化しついでに、こうごちゃごちゃ話が絡まった原因である「お母さんみたい」という発言の意図に触れた。ギナンは結局それに、意地悪そうな笑みを浮かべてこう言った。
「アジメクは子供のままでいたい?」
次の日の朝、真っ白に整えたシーツが血で汚れていることに気づいた。シーツだけではなくズボンも、下着も。
慌てて寮の中の医務室に駆け込むと、静かに言われたのは「おめでとう」との言葉。
初めての生理だった。
すみません本当は生理描写注意喚起したほうがいいんですかね……ネタバレになるのでここで言います。苦手だったらすみません。
少し修正しました。内容は変わりありません。(2024/11/25)




