人魚純愛
遅刻しましたーーーーー!!!!!!ごめんなさい!
僕が彼女を見たのは僕が十七の時。しかしこの表現は完璧じゃない。正確には彼女が僕を見た時、もしくは彼女が僕を見つけた時。少なくとも彼女が主語だ。彼女はとてつもなく残酷で身勝手でわがままで、憎さ余って憎さ百倍のどうしようもないやつ。そしてこの世界の何よりも綺麗だった。
彼女は水の中に住んでいた。水、ただの水だ。あえて言うならば海水。
しかしその水は全く特別なんかではなく、自分みたいなただの人間にも手のひらで掬えるような、そこらの魚が自由に泳げるような、普通の海水が入り込むだけの入り江。
そこに彼女はいた。そして彼女は、死にかけていた。
「っは!」
スピカは、何かに押し出されるように強制的に目を覚ました。いや、正直寝ているどころか意識を失っていたのかすら曖昧だ。そんな不思議な心地で私は目を覚ましていた。
「アジメクちゃん……」
カペラちゃんの声が聞こえ、勢いよくそちらを向くと、彼女は瞳をうるうるとさせてすぐ近くに立っていた。ベガも不安げな顔をしてそばに。思わず駆け寄るが、幸いなことに二人とも怪我はないようだった。
「ここ、どこだろ……」
ベガが言った。いつもは気丈な彼女の、心細そうな声音は私たち二人のことも不安にさせた。
「何か魔法をかけられたのは間違いない。…………でも少なくとも、そう悪意のあるものじゃなかったと思う」
慎重に、私は言った。疑わしそうにこちらを見る二人に頷いて返す。拉致みたいなことをされているので信じられないかもしれないがこれは本当だ。悪意のある魔法というのは大なり小なり魔力が濁る。まあ、感覚的な話になるので説明が難しいのだが、少なくとの彼の魔法に、悪意はなかった。
「……そうなんだ」
「うん。悪意がないから害がないってわけでもないけど」
私は苦笑して返す。カペラちゃんは困ったように微笑んだ。
「入り江、みたいだね」
ベガが呟いた。
「入り江?なあに、それ?」
「こういう、陸地に海とかが抉るように入り込んでるところのこと」
「そっか、ベガちゃん物知りだ」
カペラちゃんが笑う。私は黙って辺りを見渡した。
周りを荒々しい岩壁で囲まれた海。大体教室二部屋分くらいだろうか、十分にその全貌が見渡せるくらいの大きさのそれ。きっと晴れていたら茶色い岩と青く輝く海のコントラストが見れたろうに、空を覆うは灰色の雲。絶景どころか薄気味の悪く演出されていた。
「あれ……?人がいる」
いつからいたのだろうか、少し先に男がいた。十代後半で、青年という言葉がきっと相応しい。
爽やかな短髪に健康的に焼けた肌。しかしどこか不安げに、自身のなさげに下げられた眉は男らしい漁師の多く住むこの町ではあまり見かけないものだった。
「声、かけてみよっか」
このままでは埒が開かないと思ったのだろう。ベガが一歩踏み出す。
「あのー!すみませーん!」
「…………」
「あれ?」
遠くからではあるが、大きな声でベガは声をかける。しかし男はぼうっと海を見つめるだけで反応する様子がない。
「聞こえなかったのかな?」
「かもしれない。ちょっと声かけてくるね」
「あ、ベガ、ちょっとまっ……」
無視されているだけかも、なんて考えはないようで、彼女は不用心に男に近づいていった。そしてすぐに彼の真正面までいくと、そのまま話しかける。
「すみません、私たち気づいたらここにいて。あの、ここがどこだか知りませんか?」
「…………」
「あの……?」
しかし男はまるで何も見えていないかのように黙ったままだ。存在ごとベガは無視されていて、カペラちゃんは少し怒ったように一歩踏み出した。しかし数秒後、それは間違いだったと知る。
「……きみ、」
男が口を開いた。そして言葉を発する。
そして、駆け出したのだ。真っ直ぐに、海に向かって。
ベガを避けようともせず、実際避ける必要などなく。
「キャッ!」
思わずといったふうにベガが悲鳴を上げた。それも仕方ない、まるで自分の体を通るように、まるで何もなかったかのように男が彼女とぶつかることなく駆け抜けていったのだから。
「…………な、何?どういうこと?」
「ベガちゃん、幽霊になっちゃったの⁈」
実際にすり抜けられたベガとそれを見ていたカペラちゃんはパニックになったように騒ぐ。私は二人に対して、努めて冷静に言った。
「大丈夫だよ、二人とも。私たちが今、どこにいるのかが分かった」
私はどこか血の気が引くような心地がしながら、二人のために笑みを浮かべた。
「記憶の中、だ。多分あの男の人の」
私は一つ、指を刺した。その先には男ともう一人、女性がいる。
その女性は私の見間違いでなければ、人魚の形をしていた。
ーーーーー
「きみ、きみはとても綺麗だ」
男は、まるで世界の秘密を囁くかのように言った。
「……シッテル」
対して女性の方はひどくつれない。冷たい声で跳ね除けた。
まるでよく分からないところに飛ばされたもしくは拐かされたのかと思ったが、真相は結構単純だった。
言って仕舞えばただの魔法。魔法で作られた世界にご招待されただけだった。
かなり特別な手順を踏まなきゃおこせない魔法だけど、私にもできる簡単な魔法だ。
その名も「追憶の海」。誰かを自分の記憶の中の任意の場所に招く魔法だ。しかしその期限はそう長くない。招かれる側が出たいと望めば一時間も持たない。望んだって最長で半日。その間現実世界の体は消えてしまうが、魔法の効果が消えれば戻ってくるし、記憶の中で招かれた人間が傷つくことはない。それどころか物に触れられない。
古くは綿密な情報共有のために開発されたものだった。しかし魔法発動の手順が煩雑であることから廃れ、その後は使われることはなく、ただし数十年前、とある王子様を一時的に匿う手段として用いられたとして教科書に載っているだけだ。だからこそ普段生活する分には知らないし、私も魔法学の、その中でも魔法歴史学をスバル先生が教えてくれなければ全く知らなかった。
だから、脱出には全く問題がない。無事は約束されているようなものだ。しかしその一方、少なくとも一時間は現実世界に戻れないのだ。私たちについている護衛がどうなるのかとか、貴族令嬢三名が行方不明だなんて絶対大騒ぎになっているとか、つらつらと考えては頭を抱えるしかない。
しかしまあ、来てしまったのなら仕方がない。私は目の前のラブシーンを注視した。
「…………」
「きみの好きな食べ物は?好きな色は?」
「…………」
「すごく綺麗な瞳だ。髪もサラサラ」
「…………」
「俺の妹も最近色々美容に凝ってるみたいなんだ。女の子ってすごいよね」
「…………」
「あ、そういえばきみは兄弟とかいるのかな?」
「………………」
ラブシーン、というには、女性の態度が冷たすぎるけど。しかし男性の反応からしていつものことらしい。朗らかに笑っていた。
そしてそのまま少しの時間、男は彼女に話しかけ続けると、そのまま帰っていった。その間も女性は反応を示さず、ゆらゆらとその尻尾を揺らすだけだった。最後に男は言った。
「きみは綺麗だ。その髪の毛、鱗の一枚、爪の先、そして心配り一つに価値がある。どうか一生、大事にさせてほしい」
その瞳は火傷するような熱を持っていて、しかし女性は冷たい海にその身を浸していた。
「…………」
「……それじゃあ、また」
彼は言った。そして消えた。
「マタネ」
彼女も呟いた。
「ソレデ、ナンノヨウ、ミライカラノキャクジン」
「!!」
男がいなくなって数秒後、なんてことのないように声をかけられて跳ね上がるくらい驚く。思わず顔を見合わせ、「見えるの⁈」とカペラちゃんが叫んだ。
「ミエテ、ナイ。デモコエハキコエル。ワタシタチハ、ミミガイインダ」
「あ、そう、なんですね。すみません、勝手に覗いてしまって」
「…………イイ。ソノマホウヲ、アイツニオシエタノハ、ワタシダ」
「……」
その瞳はとても綺麗で、とても悲しそうだった。彼女は、私たちの反応から未来の男の様子を窺っているようだった。その瞳に促されるように、「価値のあるもの」を探して人魚伝説の噂をたどったことを話す。彼女はくだらなそうに笑った。
「アゲル」
彼女はそう言ってそこら辺に落ちていた円状のガラスのようなものをカペラちゃんに握らせた。それは古くなって剥がれ落ちた鱗だった。
「……もらえません」
そしてそれは、きっとあの男が大事にしている、彼女の体の一部分だった。しかし彼女はその細腕に想像できないほどの怪力でそれを握らせた。むしろ「持っていけ」とでもいうように私とベガにも一枚ずつ。それは水色の、海の水のような、涙の後のような鱗だった。
そうしているうちに地面がなんとなく揺れていく。もちろん地震ではない。多分時間切れだろう。すぐにここから出て、現実世界に帰ることになる。
「あの男性の、気持ちに答える気はないんですか?」
不躾だとは思いつつ、私は聞いた。彼女は笑った。
「アイツノココロハ、ワタシガタベタカラ」
空気が歪んで、暗転ーーー。
ーーーーー
目が覚めると、私たちを記憶の中に送った男はいなくなっていた。しかし私たちの手のひらの中には確かに鱗が一枚ずつ。そして数分後に護衛と合流した。
私たちは一時間にも満たない冒険について口をつぐんだ。なぜなら誰かに話すのは、あの二人に悪い気がしたからだ。適当に迷子になっていたと言い張った。まあ誰も納得はしなかったが。
そしてそのまま町を離れて、夏休みの終わりに、その土地で一人の男が亡くなったと知らされた。カペラちゃんがあの干物屋さんのおばさんと連絡先を交換していたからだ。彼女は私たちが男に会いに行ったことを知っていたし、何かあるのではと盛んに心配していたため連絡をくれた。
男はあの山の中の家で亡くなり、遺言に従って遺灰は海に流したと。
私たちは、あの男が、海からかなり遠い山の中で暮らしていた理由は知らないし、人魚の彼女が言っていた「心は私が食べた」という言葉の意味も知らない。あの恋の行方も知らない。
ただ、あの鱗は誰も植木にあげる気にはなれなくて、みんなでお揃いの巾着を買ってそれに入れた。捨てたくないし無くしたくないけど、目に触れるようなところに置いておきたくなかったからだ。
私は結局植木鉢に自分の全財産を捧げた。これはここ数年で溜まった当主からの仕送りだ。これで無事に仕送りがある来月末まで給食で出る昼飯以外、食事抜きになった。その覚悟が良かったからか、元々貧乏の生まれだからか、無事に受け入れてもらえたみたいで、順調に蔓が伸びている。これで安心だ。
そうして私たちの一夏の冒険は終わったのだった。
すみません訂正入れました




