第16話 野営陣地の大混乱
グルリと取り囲んだ宿営地。
司令官の「全軍を効率的に守る」との意図で、全軍が集中して守りを固める体制である。
その一角が国軍歩兵達とは仕切りを付けて、騎士団と馬たちに与えられていた。騎士団としては、これが大いなる不満だ。
それは歩兵と分けられたから、ではない。
これだけの数の馬を一箇所に集めておくなんて危険すぎるのだ。絶対にやってはならない初歩的なタブーに等しい。
もちろん、各部隊とも意見具申を繰り返した。だが司令部は「夜襲によって個別撃破される可能性がある」と言い張り、頑として認めなかった。
いくら「使えない男」ではあっても、騎士団のベテランであるコスがいれば、あるいは違っていたのかもしれない。司令官の「王都で風呂に入ってこい、ニオイが落ちるまで戻ってくるな!」の特別命令である。
騎士団の意見を代弁すべき「副司令」不在は、こんなところで大きかったのだった。
個別撃破こそされないが、全体の喧噪に巻き込まれたという見方もできる一夜が明けようとしていた。
ヒンヤリとした夜明け直前の空気の中で、馬たちの不機嫌そうないななきが、あっちでも、こっちでもひっきりなしだ。神経質な苛立ちを見せるように地面を頻りにひっかく動きも目立つ。
もしも慣れぬ人が近寄れば、噛みつくなり蹴飛ばすなりするほどに馬たちは荒れている。
一晩中、断続的な敵襲があったせいだった。騎士達も愛馬をなだめるのに一苦労。
「ほらほら、機嫌を直せよ。な、相棒」
まだ真っ暗な中、かがり火の明かりで、いつも以上に丁寧にブラッシングしながら愛馬に話しかけている姿があっちにもこっちにも見える。
一睡もできなかった騎士達ではあるが、自分のことよりも愛馬を気遣うのが当たり前のこと。明らかに不調を訴え、不満げな様子の愛馬に騎士達は心を痛めている。
馬が悪いわけではない。
本来はデリケートな草食動物なのだ。その馬の神経を逆撫でするかのように、聞き慣れない大きな破裂音が何度も足下で炸裂し、聞いたことも無い笛の音が上空から襲ってくる。
眠るどころか、落ち着く暇もなかっただろう。
おまけに、足りない水と足りない飼料だ。これで不機嫌の塊にならないはずがない。
そして、軍馬は多少というか、とにかく気の荒い子の方が良いとされている。言い方を変えれば、ヤンチャで「人間なんて知らないよ」とばかりに暴れる馬こそが軍馬にふさわしい。
そんな暴れ馬と、じっくりと時間をかけて信頼関係を結び、主従関係を作り上げてきたのが騎士達なのだ。
夜明けを待ちながら、ご機嫌斜めの愛馬たちと朝一番のコミュニケーションを取るという困難なミッションが、あちらでもこちらでも展開されている。
愛馬のことで精一杯だったと言えば言い訳にしかならないが、見張りが薄くなっていた。
もちろん、野営陣地の警備は歩兵の仕事ではあるが、普通であれば騎士団自身も警戒を怠るわけが無い。
しかし、ケガをした仲間や馬、そして不機嫌な愛馬達のご機嫌取りが優先される上に、自分自身も睡眠不足だ。
しつこい敵の攻撃も収まった、夜明け直前のホッとした時間。
その心理的な間隙を縫って「それ」が仕掛けられたのだ。
騎馬隊の出入り口は南北2箇所に設けられている。気付いたのは巡回の歩兵だった。
「ん? 何だこりゃ?」
箱のようなものが、いくつも積み重ねられていた。それぞれが両手で持てるほどの大きさ。
「ん? 食糧かなんかを入れ忘れた?」
さっと見回すと10箱以上もある。
「いや、これは、警戒すべきだな。とりあえず手で触れるな」
ベテランの男は、直接触れることを忌避した。一般的に言えば、それが正解だろう。
無言のまま、手槍でひと突きした。
あっさりと槍は飲み込まれた。
思った以上に柔らかい。そして、重い。
「あ、なんか水が出てきたみたいですよ?」
「こぼれてきたな…… なんだ、こ、この臭いは!」
臭気と言うよりも、刺激を与えてくる何かだ。
次の瞬間、昨晩、さんざん苦しめられてきた、あの黒い矢が箱に次々と突き刺さった。
中身の「水」が飛び出す。
「敵!」
振り返ってはみても、襲いかかってくる姿は無い。
夜明け前の空気を焦がすような、刺激臭が湧き上がった。
次の瞬間、馬たちがドッと動いた。門から一刻も早く離れようと、奥へと逃げたのだ。
どうやら本能的な行動だったらしい、あっちこっちで、巻き込まれた「主」の悲鳴が上がる。
騎士団の野営地が大混乱に陥った。その悲鳴は反対側の門からも聞こえてきた。どうやら、向こうにも同じ仕掛けがあるらしい。
「と、とにかく、このままではどうにもならん。とりあえず、下がるんだ! 隊長に報告だ!」
もちろん、この世界の人間は誰一人として知らないが、闇の者達が密かに運び、門に並べたのは、40センチ四方の段ボール箱。中身はプールの消毒薬に使われる「次亜塩素酸ナトリウム」である。
つまりは、誰しもが経験したことのある、あの刺激的な「プールの臭い」の元となる液体である。その原液が大量に地面に水たまりを作り出すまでに漏れ出したのだ。
学校のプールには、毎年、夏に使い切れなかった「薬品」が大量に残っているもの。ショウは、それを知っていたのである。
そして、地雷の時とは違って、こっちのターゲットは明らかに馬である。動物は「地雷」の強烈な発酵臭はものともしないが、化学物質による刺激臭に対して人間以上に敏感だ。
この世界で馬が(もちろん人間も)嗅いだことも無い強烈な「刺激臭」を嗅げば、本能として逃げ惑うのは当然だった。
もちろん、これだけ濃厚な塩素のニオイを発生させれば、人間だって近づけない。
「とにかく、壊せ! こっち側の柵を壊して馬たちを出すんだ!」
誰かが怒鳴っているが、壊すための道具を取りに動くことすらできない。なんとかケガをした仲間を助け出し、馬たちを鎮めるために、騎士団全員がかかりっきりになるしか無かった。
明るくなってから数えると「愛馬たち」に踏みつぶされ、体当たりをされ、蹴り飛ばされた死者・重症者が300名以上にもなったという。
それもこれも「前戦地で馬の大群を一箇所に集める」という初歩的な禁忌を犯した報いであった。
そして、明るくなってから陣営地に大量にばらまかれた紙には、いつもの通りにメッセージが書かれていた。
王を守る者達へ
我々は、正義を守る者を殺したくない
今朝の混乱で火を掛けなかったのが証拠だ
望む!
王城の地下を確かめられたし。
諸君に命じる人間は、本当に正しいのか?
これを読んだベテラン騎士達は、ことごとく戦慄を禁じ得なかった。
実は、あの混乱の中で「次は火だ」と覚悟したのが実情だった。もしも、火矢が陣幕に突き刺されば、消し止めるどころか馬たちの混乱はさらにひどくなり、馬も人も、被害はこんな数では済まなかったはずだ。
火矢を射るくらい簡単なことなのに、やってこなかった。これだけの作戦能力のある敵が、こんなに簡単なことを気付かないわけがない。
明らかに「やらない」を選んでいた。
敵が自分たちを殺したくないと言っているのは本当なのだろう。
だとしたら、この紙に書いてあることは正しいのかもしれない。
それが、ハッキリとした言葉では無くても、目と目、空気と空気の中に混じった言葉であったのだろう。
「ふむ。これはオレの責務であるな」
脚の折れた愛馬に涙でお別れをした後、タエ・ラーレンは懐に収めた紙をもう一度確かめてから、古い小隊長仲間のところに「馬がやられた」と告げに行ったのだ。
・・・・・・・・・・・
国軍歩兵達の野営陣地である。
「明るくなったら、なんで、いきなりなんだよ!」
「夜中は、音入りだったのに!」
何も見えない夜は、笛みたいな強烈な音とともに襲ってきたのに、払暁となり、辺りがようやく見えるようになった途端、敵が、いきなり至近に現れたのだ。
馬のいななきも、地響きも無かった。
柵越しに、相手の顔が見えるほどの距離。
歩哨は何をやっていたんだ! と誰かが叫んだが、すぐ隣では100人単位の死者を出すような大混乱の陣地である。気を取られるのも当然だろう。本来、こういう時こそ最高指揮官が姿を見せて事態を収拾すべきだが、その動きは杳として知れなかった。
したがって大混乱となった陣地の中では、それぞれの小隊長レベルが必死になって指示を出すしかない。中隊長も駆けずり回った。
けれども国軍歩兵の練度は悪くない。というよりも、さすがにエルメス隷下の国軍兵士と言うべきであった。
最初の混乱こそあったが、直ちに「最適解」で動いたのである。すなわち「小隊長の元に最速で集合すること」だ。
それだけに、怒りの籠もった、あるいは愚痴のような声はあちこちで響いている。
「ヤツら、飯時になると来やがる!」
「ちょうど煮えたんだぞ!」
怒りのこもった怒声が止まらない。むしろ、燎原の火のごとく、陣地内のあちこちで上がっている。しかし文句は言いつつも、その手からフォークを投げ捨てて槍を取って立ち上がったのだ。
「こ、この鍋、絶対にひっくり返すなよ!」
「ここだ! 鍋! これ、絶対だぞ! 頼んだぞ? 最後の芋なんだからな!」
あっちこっちで似たような声が上がったが「最後の一口」などと意地汚い振る舞いをする者はいなかった。
怒濤のように襲ってくる騎馬隊。一斉に柵越しに槍を構える。
「こっちの騎馬隊は、いったい、何を」
「ありゃ無理だ。今日はオレ達だけだな」
深刻な柵の中とは対照的に、騎馬軍団の姿は、まるで祭にでも出かけるように明るい。
「ほぅ~」
「ほう、ほぅ、ほー」
怪しげな声を上げながら、ことさら笑顔を見せながら柵のそばまで来ると、これ見よがしにターンしていく「敵」の騎馬隊だ。
ただ見守るしか無い陣地の中。矢を射かけようにも準備が間に合わないのだ。
弦と弓自体の弾力を守るため、長時間の休憩では弦を外しておくのが常だからだ。この場合、最高司令官が「どこそこの部隊から即応の弓部隊をこれこれの数用意しておけ」と指示をしておくべきだった。
今の段階の「弓兵」は柵の外で歩哨を担当していた一握りしかいない。
だが、十人やそこらが矢を放ったところで、相手は騎馬である。瞬間的に距離を詰められて抹殺されるのがわかっている以上、そうそう、矢は放てないのである。
悠々と柵のすぐそばで、隊列は柵に沿って走り始めた。その、行きがけの駄賃とばかりに、朝日を反射する小さなモノを陣地に投げ込んでいく。
「ひゃほー」
「はう、はう、はう」
わけの分からぬ奇声を上げての馬鹿笑い。
投げ込まれたのは「地雷」であった。地面に落ちた衝撃で次々と破裂し、またしても阿鼻叫喚を作り上げていく。
そして「さらば」と叫んだと同時に、一斉に紙飛行機を陣内へと飛ばしていったのだ。
ゆうかんな へいし たちへ
おうさまをすくいなさい
あなたが たたかう いみは ない
おうとに もどって いいんだよ
ははも つまも こどもも まっている
騎馬隊は「逃げるなら王都に戻れ! 脱走にはならないぞ!」と口々に叫んでいた。
国軍歩兵達は、ここでもまた液体シュールストレミングを浴びた人間が100人以上も脱落したのであった。
……しかし、実は今までとは違う現象が起きていたことを一部のベテラン小隊長だけは気付いていた。
途轍もなくクサイ液体の入った入れ物を見つけると、こっそり上着に付けていた兵士が出現したのだった。
そんな兵士は小隊長に「王都へ帰陣を」と願い出てきた。
サスティナブル王国軍にとって、ゆゆしき現象ではある。しかし、ベテラン小隊長が、それを咎めた例は一つとしてなかったのである。
そして、敵の騎馬隊が去った後のこと。
強烈な異臭のする中で「どうか、鍋が無事であってくれ」と戻ってみても、祈りは空しかったのであった。
全ての鍋がひっくり返っていた。
しかし、もう食糧は無い。
兵士達は、トボトボと、拾い集めた芋から汚れを落として口に入れるしか無かったのだ。
2日目。
野営地をたたんで出発できたのは、既に日が高く昇った時間だった。
既に「戦い」ではなくなりつつありますが、本日も死者・重症者が300人となり騎士団だけで言えば、損耗率が1割を超えました。そして、補給が底をついた状態。
この状態でも大崩れしないのですから、実は練度も士気も凄く高い部隊なんですよね。実力を出せないように持って行くのがポイントです。まともに「殺し合い」をしちゃうと、後が大変ですので。
ちなみに、最初の混乱で無事だった鍋は、歩兵に混ざっている影のみなさんが、漏れなくひっくり返しています。地味だけど、仕事バッチリw