第90話 世界の片隅に灯る命
同日。コフ内で戦闘が続くその頃――
サスティナブル帝国・オレンジ=ストラトス伯爵領。
好景気に沸く領内とは裏腹に、農民夫婦の家には重い空気が満ちていた。
痩せ細り、目の落ちくぼんだ息子ヨサクを、親はただ見つめることしかできない。
「どうしたらいい? このままじゃヨサクが……」
「どうって言われても、どうにもならねぇよ」
結婚して十年。
長男は七歳のとき腹を壊して死んだ。
そして二人目の息子も、同じ年で同じ症状だ。
「バァバ…… なんとかならないのか?」
父親は無理を承知で聞いている。長男が死んだときの顔が、そっくり重なるからだ。
「子どもは、ちょっとお腹を壊しても」
ヨサクを取り上げてくれたバァバも様子を見に来てくれたが暗い顔で首を振った。
「そんな……」
母親は涙すら出ない。
バァバは医者ではない。だが、この村で一番の年寄りだ。子どものことは何かと相談に乗ってくれる。
「お腹を壊しちまうと、子どもってのは…… 本当に怖いんだよ」
バァバの言葉は、母親に「諦めなさい」と言っているかのごとくだ。
体力が無い分、ちょっとしたことでも子どもは死ぬ。それが事実。
せめて、下痢が停まれば何とかなる。しかし、お貴族様のかかる医者ならわからないが、世の中にそんな便利な薬なぞ聞いたことが無い。
「薬は…… 何とか薬は手に入らないの?」
「高くてな」
生気を失った母親の言葉に「ない」と答えられない父親である。
母親は無理を承知で父親を揺するが、力なく「教えてもらった煎じ薬は飲ませた」と返すのがやっとだった。
バァバが教えてくれた、昔から伝わる苦い草だ。
教えたバァバ自身の暗い顔が、全てだった。それが「気休め」程度でしかないことを一番よく知っていたのだ。
「かぁちゃん……」
「なんだい? 大丈夫だよ、母ちゃんはここにいるからね」
唇は乾ききっている。聞こえないほどの微かな声さえ震えて母を呼ぶ。
子どもの手を慈しむように包む母親だ。こんなことしかしてやれない。
しかし、カサカサになった手のひらの温もりが、少しずつ遠ざかっていくようだった。
子どもの腹下しに効く薬などない。それが常識だ。悲痛な思いをしながらも父親の頭は、どこか冷静だ。
『このままだと、二、三日という感じか』
長男はそうだった。恐らく母親もそれを知っているはずだが。あの辛い経験が、さらに絶望を深めているのだから。
その時だった。
「オジサン!」
戸を開けて飛び込んできたのは、実験農場の子ども・メイだった。
「薬、あるよ!」
母親は、力なく答えた。
「メイちゃん…… いったい何を?」
ヨサクの親友のような子どもだ。
この子と仲良しになって実験農場にしょっちゅう遊びに行くヨサクは、大人達にも可愛がられているらしい。
メイは、ちょっと怒った顔で言った。
「ヨサク、ちっとも遊びに来なくなったから」
立ち上がる元気もなかったヨサクだ。遊びに来ないことが不思議で様子を見に来たのだろう。
「でもね、お薬だなんて」
子どもの言葉だ。まともに受け止めてはダメと思いつつも、夫婦は「信じたい」という気持ちが芽生えるのは仕方のないこと。
しかし、夫婦はさらに驚愕した。
「ごめん。ここに腹を壊した子どもがいると聞いた」
入って来たのは若い騎士である。カーマイン家の騎士が実験農場に派遣されていることは、よく知られている。
「こ、これは、騎士様」
素早く立ち上がろうとした夫婦とバァバに「そのまま」と手で制すと、騎士は素早く粗末なベッドの横に行った。
「あぁ、この子か。うん。これはヒドいな。それでも、メイ、よく教えてくれたな」
どうやら騎士様はメイに教えられて来てくれたらしい。
『こんな子どもの言うことを騎士様が信じるだなんて』
実験農場の子どもたちを、どれだけ大人が大事にしているのかと、チラッと思う父親だ。
ヨサクを一目見た騎士はカバンから何やら取り出した。見たこともない透明な入れ物に入った「水」だった。
続けて出したものは、猛烈な臭気のする黒い粒。
「鼻くそ?」
夫婦は、場違いな連想をした。
「これは、恩賜の薬です。腹下しに効き目がある。飲ませても?」
一瞬、夫婦はためらった。何しろ強烈なニオイだ。
今まで嗅いだこともない、刺激臭。
「焦げた木? いや、薬草にしてはニオイがすごすぎる」
父親も母親も、そんな感想を抱いたが言葉に出す無礼などしない。
「これはな、木を蒸した時に取れる成分を固めた薬だそうだ」
「え、木を蒸したときに?」
「木くれおそーと、というらしいが、まあ、そんな名など覚えなくていい。大事なのは……」
驚く夫婦は、唖然としたまま穏やかに告げる騎士の顔を見つめている。
「恐れ多くも、皇后様のご命令で造られ、皇帝陛下が領民のために下賜されたものだ。腹を下した子どもに飲ませろと。確かに強烈なニオイだが…… 効くぞ」
そんなものを飲んで良いのか、ためらうほど強烈なニオイ。
「信じてみぬか?」
穏やかな表情の騎士は、尋ねてはいるが、有無を言わせぬ態度でもある。
そしてもう一つ。
これが「皇帝陛下から賜った」という言葉。
『確かに、ショウ様は、この地の領主様のご子息だ。でも、いくらなんでも、こんなオレたちのことまで考えてくださるのか?』
葛藤が無かったわけでは無い。しかし、皇帝陛下のお名前を出した以上、騎士は、本気で勧めていることは信じられる。
数々の奇跡を演じてきた皇帝陛下のご下賜品であれば、あるいは、という希望を持ってしまった。
いや、葛藤よりも「奇跡」にいち早くすがったのは母親であった。
「お願いします! むすこを! 息子を助けてやってください!」
チラッと父親に目をやる騎士。
もはや腹を決めるしかない。
慌てて父親も平伏した。
満足げに肯いた騎士は、ヨサクを優しく抱き起こして言った。
「さあ、辛いだろうが、これを飲むと良い。ケイコーホスイエキというそうだ。そうだ、飲むんだ。良いぞ。さ、喉を湿したら、こっちの薬だ。ちょっと辛いが一度に飲め」
恐らく抵抗する力もなかったのだろう。口に放り込まれた黒い粒をケイコーホスイエキと共に飲み込んだのだ。
「よし、これでいい。後は、ひたすら、これを飲ませよ。腹を下している子どもの大半は身体の水を喪って…… だが、これは身体に吸収しやすい水だそうだ」
騎士は死ぬという言葉を飲み込んで「この水は甘いんだよな?」とニコリ。
ヨサクは、微かに肯いた気がした。
「甘い水ですか?」
父親の言葉に返事をせず「これもだ」と、カバンから何本も透明な入れ物を出してきた。
「これを開ける時は、ここを持ってヒネる。ちょっと力が必要だが、慣れれば簡単だ」
不思議な入れ物だ。
だが、そんなことよりも、夫婦は希望の光が灯りかけている。
「明日も見に来るが、どんどん飲ませろ。この水は、欲しがるだけ飲ませて良い。薬はあと2つぶ、今晩。明日の朝もだ。恐らく、それで、だいぶ止まるであろう」
その時は、父親は腹の中で「あんな鼻くそを飲んだだけで助かるわけがないだろ!」という気持ちがなかったわけではない。
しかし、翌朝、ヨサクの目に光が戻っているのを発見するのである。
「ヨサクぅ…… ヨサクぅう!」
二人は息子を抱きしめ、声を上げて泣いた。
やがてこの薬は、誰ともなく「皇帝の鼻くそ」と呼ばれ、帝国中で語り継がれる伝説となったのだった。
以前、出てきた「木クレオソート」が少しずつ庶民に行き渡ります。非文明圏の子どもの直接的な死因の8割は下痢だそうです。
殺伐とした殺し合いの同時刻に、命が助かるシーンもあったことも書きたかったんです。




