第33話 ルビコン討伐戦 中
古来、自然の地形をそのまま「境界線」とすることは極めて自然だった。
特に川と山は、その最たるものであろう。
ルビコン伯爵家においても、南の境界はウルゴン川である。
普通なら、討伐軍をここで待ち構えるところである。事実、ロースター鎮正将軍は一戦を覚悟して来た。ところが、偵察部隊が眺めても橋のたもとの詰め所にゴロツキがたむろしていただけ。
最初は罠かと思っての陣構えをするところから入ったのだが、まさかの「それだけ」だったのだ。
事実、歩兵達が渡る前からゴロツキ達は領の奥へと逃げていった。
「一体これはどういうことでしょうか?」
さすがのミュートも首を捻る。
「おそらく、人手不足と正常性バイアスというやつでしょうね」
ついつい、黙っているはずのショウが言葉を出してしまった。
「「へ?」」
ロースターとミュートは同時にヘンな声を出してしまった。
「なんですか、そのセイジョーせい、とかいうのって」
付き合いの長い分だけ、ミュートの方が率直に聞けた。
「正常性バイアスっていうのはね、自分に起きている、または、起きそうな悪い出来事を無視したり、小さく考えようとして自分のストレスを減らそうとする心の動きさ」
「え? 要するに、自分には悪いことが起きないって思うわけですか?」
「その通り。ほら、建物にいて煙が見えたとして、いきなり火事だって思うよりも、あれ? なんかヘンだぞ、から考えようとする人って多いだろ?」
「あぁ、それ、わかります。我々が作戦を考えるときに、敢えて最悪の事態から考えないといけないってやつの逆ですよね」
「その通り。軍事は『悪いことが起きて当然』から入るけど、日常生活に浸っている人ほど、いきなり悪いことが起きたとは考えたくないってことだ」
そこでロースターが初めて言葉を挟んできた。
「しかし、今回は討伐軍が来るのは当然だと思わないんでしょうか?」
「それはね、ルビコン領がガバイヤ王国でも王都以上だと言えるほどに栄華を誇っていたのと関係があるんだ」
「と言いますと?」
「今の生活に満足している。日常生活が上手く行っている。そういう人ほど、今の生活にしがみつきたいって気持ちが無意識に大きくなるんだ。特に経済的な繁栄って持続性で、拡大することが多いからね」
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ショウは説明しながら、ふと前世のことを思いだしていた。
バブル景気という時代があったらしい。
その時代は日本の経済史の中でも異常な心理状態が起きていた。だって、普通のサラリーマンが頭金5百万円を用意したら、5千万円を銀行から借りてマンションを買う。それだけなら不思議はない。けれども、そこに住むんじゃなくて、資産として賃貸に出すんだ。そして、家賃収入で利息を払う。その契約が終わった頃には、既に買ったマンションは不動産価値が上がっているから、値上がりした分を担保にして、また5千万円を借りて次のマンションを買う。その時には前の購入分と今買った分の不動産が値上がりしているから、さらに金を借りてマンションを買える。
それを繰り返すと、あっと言う間に資産が数億円の「普通のサラリーマン」が誕生するという仕組みだ。
これをマジで信じて実行した人がゴロゴロいる時代なんだよ。
どう考えても、バカしかやらない投資方法だ。しかも、そのバカを超一流大学出のそれなりの企業に勤めている人間が、マジでやった。
買ったマンションが「値下がりしたら」と誰も考えなかったらしい。普通なら「これ以上、不動産価格が上がらなくなったらどうしよう」と誰もが考えるはず。
しかし、その時点で誰も、それを考えなったし、金を貸す方の銀行も疑わなかった。
正確に言えば、途中で銀行は気付いていたらしい。しかし「不動産の値段が上がらなくなると、ウチはヤバい」と思った瞬間から、それを考えなくなったらしい。
もちろん「バブル崩壊」と言う言葉が現代史の教科書に載っているのは、当たり前なのである。
結果的に、いくつもの銀行が潰れるほどのダメージを受けた。不動産投資に絡んで、なぜか日本の四大証券の一つも潰れた。
つまり、順調にいっている人に限って、リスクが巨大であればあるほど「考えたくない」という気持ちになるらしい。
おそらく、経済は一流でも、軍事面を極めて疎かにしていたルビコン伯爵家が「最悪のパターン」に備えたがるかどうか、といえば、ハッキリしている。
なにしろ「南からの討伐軍」に備えてないという現実があるのだから。
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「まあ、とりあえず、ルビコンは簡単に渡れちゃったってワケだ。ここを渡れば人間世界の破滅が待ってるよーん。さ、敵の待っているところへ進もうか。賽は投げられたんだ」
このセリフは人生で言ってみたいセリフベスト5には入るよね、と一人良い気分のショウである。
「はい。おっしゃる通り、第一目標のウルゴン川は突破です。このまま、領館のあるルビへと直進します」
微妙に、伝わってない感を覚えつつも『ま、いっかー』で済ませているショウであった。
なにしろミュートも作戦進行中は、絶えず偵察部隊からの報告や、各部隊の細かい微調整を考えているため、余計なことまで考えさせるわけにもいかないのだ。
「それにしても、報告だと、予定よりもちょっと多いみたいだけど?」
領館の周りだけでも4千以上の軍勢らしき影。そして、今なお、領境の警備をしている連中もいるわけで、合わせれば倍の8千ほどいてもおかしくない。
「そのうち、正規の騎士団は5百ほどでしょう。それに元の兵士崩れが傭兵として入っているのは間違いないです。個々の力はけっして油断してはなりませんが、こちらはおかげさまで軍として行動できますので問題ありません」
ガバイヤ王国の兵は強い。粘り強いし、命令に従順に従う上に、とんでもない軍事行動でも耐えてみせる精神構造は驚異的だ。東部騎士団は2倍の兵力を投入して五分というのが常識で、サスティナブル王国が手を焼いてきたのは歴史的事実。
これは間違いない。
そして、相手は「元ガバイヤ兵」が大勢混ざっている。
このあたりが今回のポイントであった。
そして、ショウは傭兵崩れにゴロツキは、ヒドい目に遭わせて良いと思ってる。今までにないほどに、ヒドい目に遭ってもらおうと用意された新兵器は、大量の小型投石機と一緒に持ちこんでいるのである。
これは、数人で押して運べる大きさだが、ワイヤーロープを使用している分だけ投射能力が高い。十数キロ程度の重さであれば100メートル近くの射程がある。
これが40台ほどあった。
巨石を投げるタイプと比べればオモチャのようなサイズだが、持ち運びやすく数を用意するのも簡単なのが特徴である。
今回は、最悪、使い捨てにするつもりだった。とにかく、投げたら役目はオシマイだから、後は必死に逃げるだけ。そんな使い方をする予定だった。
凶悪な役目とは裏腹に、のどかに車輪の音をゴロゴロと立てるカタパルトを運びつつ、行軍はいたって順調。ゲリラ戦法を仕掛けてくるわけでもない。
「このペースで行けば、明日払暁に敵との会戦に持ち込めそうですね」
ロースターは予定通りです、と強調した。
「幸い、ここ数日は穏やかな天気だしね。明日も晴れそうだね」
「はい。土地の者によれば、明日も、今日と同じ程度かと。雲一つない晴れでしょう」
「うん。それは幸いだね。現地にビラビラは?」
「はい。昨日のウチに。しかし、あちらの兵の質が悪いらしく、巻き込まれることを恐れた民は、すでに大部分が自主的に逃げ出してしまっていました」
「よし、これで、巻き込まれる人はいないってことだよね」
逃げろ、とビラでも予告したのだ。これで逃げない人は、仕方ないとショウは思った。警告したのに従わない人まで救えないのだ。
「はっ。明日の戦場には、敵だけがいると思っていただいてもよろしいかと」
「じゃ、予定通り行きましょうか」
ロースターは「はい」と肯いてみせる。
一方で、本当は「ここにはいない」ことになっているショウは大きく伸びをした。
直接指揮を執るのは、最悪の場合だと決めているだけに、まるでピクニックに行くがごとき様子である。
しかし、心の中で『ふぅ~ 明日は虐殺日和ですねぇ~』と物騒なことを考えていたのは、誰も知らなかった。
※賽は投げられた:お馴染み、カエサルの名台詞。完全にパクリですが、問題は「賽(さい=サイコロ)」がこの世界では馴染みがないこと。したがって、ショウ君のセリフは「塞=関所」と考えられました。すなわち、川を渡ることで関所を突破してしまった、という感じでミュート達は受け止めました。
明日は、今までで最悪の戦法ですがロースターとミュートは納得しています。ムダな兵の損耗を押さえるためです。ただし風がないので「火計」は使えません。