46 毒か、蜜か①
アリアーヌ襲来以降、オフェリアは驚くほど平和な日々を送っていた。
再びアリアーヌが侮辱しに来ることもなく、ロロット子爵家が抗議に来ることもなく、話題がユーグの耳にすら入った様子もなく。
あの性格からはにわかに信じられないが、アリアーヌはすっかり大人しくしているようだ。オフェリアが魔塔に頻繁に行く時期があったが、あれから一度も遭遇していない。
平和な日々は、襲撃の日から一年経った今日も続いている。
唯一問題があるとすれば、二十三歳になったユーグの方だ。
「オフェリアの手料理、やっぱり好きです」「帰ってきたらオフェリアがいるなんて、この家がもっと好きになってきました」「ご機嫌ですね。オフェリアの鼻歌、可愛くて好きですよ」と黄金色の目を細め、口元に綺麗な弧を描いて、わざとかと思うほど良質な低音の声で頻繁に告げてくるのだ。どんな些細なことも、ユーグは好きと言う。
以前から師匠愛が強いと思っていたが、師弟関係を解消して対等な関係になっても強めてくるなんて想定外だ。
オフェリアの心臓は勝手にキュッと締まり、鼓膜は甘く痺れてしまう。最近では「オフェリアが好き」といっているユーグが夢に出てきてしまうほど。
「好き好き言いすぎなのよ。慎みというのを覚えなさい!」
このままでは同居生活に支障が出そうな予感がしたオフェリアは、半ば八つ当たりのようにユーグに苦言を呈した。けれど彼は――
「これでも自重しているんですが……ごめんなさい。嫌でしたか?」
麗しい精悍な大人の顔立ちになった人物が、叱られた子どものように眉尻を下げ、瞳を揺らしして切なげな表情を浮かべたら、どう考えても勝ち目はない。
「嫌ではないんだけどね……大人なのだから、もう少し落ち着いた言動をした方が良いと思っただけなの」
「そういうことですか。こうして遠慮なく率直な意見を言ってくれるところ、やっぱり好きです。助言ありがとうございます。気を付けますね」
「~~~~っ!」
この瞬間から気を付けて! という文句は、あまりにも爽やかな笑みの前で出すことはできなかった。
(ユーグと百歳以上の年の差があるんだし、純粋で素直な子だから師匠愛が強いだけで、特別な意味はない……そう分かっているのに、どうして私の心臓は反応するのよ! 困ったわね)
ユーグは百以上も年下で、普通の人間だ。時間通りに肉体は変化していき、すでに見た目はオフェリアより落ち着いた風貌をしている。他の人と同じように、彼は先に進んでいた。
見た目年齢が逆転して生まれた差がどんどん開いていくのは、経験から知っている。
(頭を冷やさないと……!)
善は急げ。理性を取り戻すべくオフェリアは、「そのうち戻ってくるから、心配せず待っていて」という置き手紙だけを残して家を飛び出した。
***
「オフェリア、迎えに来ましたよ」
家出した翌日、隣町の大衆食堂で夕食を摂っていたオフェリアのもとにユーグがやってきた。行き場所は伝えていなかったし、この食堂もふらっと偶然入っただけ。
どうして居場所が分かったのか……驚きのあまりオフェリアは、カウンター席で肉たっぷりのバケットサンドに嚙みついたままユーグを見上げた。
「あぁ、どうやって見つけたのか? 今も持っていてくださっていて、嬉しいです」
ユーグの視線がオフェリアの腰のポーチに向けられ、羅針盤の存在を思い出す。聞いていたものの、実際に使用されるのは初めてで、羅針盤の完璧な性能に改めて驚いた。慌てて、パンをごくんと飲み込む。
「どれだけ正確なのよ。ビックリするわ」
「オフェリアに渡す物が中途半端なわけがないじゃないですか。でも良かった。一晩経って夕方になっても帰って来ないから、不測の事態に遭遇したのかと心配しました。ただ外食を堪能しているだけで、本当に良かった」
心からオフェリアを案じ、無事を安堵している顔だ。手紙に心配しないでと書いてあったでしょう、なんて小言は軽々しく言えそうもなかった。
ユーグの手を引き、隣の椅子に座らせる。
「心配かけたお詫びに奢るわ。一緒に食べてから帰りましょう?」
「はい。ご馳走になりますね」
口元が緩まないよう堪えながら姿勢を正し、メニュー表を両手に持って選び始めた。
オフェリアは、上機嫌でメニュー表を見るユーグの横顔に、出会って間もない頃の面影を見つける。
(ユーグがどんなに大きくなっても、大切な可愛い子には変わらないのに私ったら馬鹿ね。無駄に心配かけるなんて悪いことしちゃった。もう突然の家出は止めよう)
そう反省しながら夕食を食べて帰路についたのだが……。
一か月後、オフェリアはまた家を飛び出した。





