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Evergreen  作者: 奈良 早香子
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第一部 第五章 逃亡(後編)

【逃げて!早く逃げて!!】

 突然ユナの頭に木々たちの大きな声が飛び込んできた。

 それはユナが今まで聞いた木々たちの声の中で一番大きな声であったので、ユナは思わずビクッと体を震わせた。

[どうしたの?突然逃げて、だなんて。何か起こるの?]

 朝食の後、ユナとルシアは別れてそれぞれ部屋の掃除をしていた。

 ユナが声を出して木々たちと話しても、隣の部屋にいるルシアに声は聞こえないが、それでもユナは警戒して心の中で木々たちに話しかけた。

 ユナは使っていたほうきを持ったまま窓に近づき、木々たちの声がよりよく聞こえるよう窓を広く開けた。

【ルシアがアクトだって、ケルス王に知られてしまった。城の兵隊がルシアを捕まえにこっちに向かってる。数も多いよ。】

「え!!」

 ユナはその言葉を口に出してしまった。

 ユナは興奮すると木々たちとの会話が口から出てしまう癖がある。ルシアを見つけたときもそうだった。

 しかし、次の瞬間にはもう言葉が口からこぼれることはなかった。

[まさか……ラムルが?]

【そう、言ってしまったみたいだ。兵隊がそのことを話してたから。】

 ラムルが召還状によって王宮に呼ばれた理由が、ユナは今になってやっとわかった。

 不用意にアクトのことを何度も口にしてしまったため、何かをケルスに気付かれてしまったのだ。それを確かめるため、ラムルは王宮に呼ばれた。

 忠誠心の強いラムルがケルスに詰問されて黙っていられないことくらい、ユナには理解できる。ラムルとユナは祖父と孫のような関係を築いていたが、ラムルはあくまでケルスの部下だ。王命に逆らえるはずがない。

 今更ながら、ユナは自分の不用意さに腹が立った。ラクスにプロポーズされ、王宮で最初にケルスに会ったときほど警戒心が働かなくなっていたことも、思い当たる。

【兵隊はもうディバの森に入ってる。ここに来るまでそんなに時間はかからないよ。だから、早く!!】

[わかったわ。すぐに準備して逃げる。]

 ユナは逸る気持ちをどうにか抑え、隣の部屋で掃除を続けるルシアにその事実を伝えるために走った。

 ディバの森の木々は、ディバの森の中のことしかわからない。

 ディバの森はそれ自体が大きな結界となっていて、木々たちが一丸となって都会からの汚染を防ごうとしている。

 それによってディバの森の中は多くの自然が残っているのだが、ディバの森の木々は外の世界を知ることが出来なくなった。また、同時に外の世界の木々たちもディバの森の中の様子を知ることが出来なくなった。

 ユナの力に関してもそれは同じで、ディバの森の中では外の世界の木々たちと話すことはできないし、その逆も成り立つ。

 本来は世界中でリンクしているはずの木々たちがその全ての様子を知り得ないのには、そういう理由がある。

 もし全世界の様子をディバの森の木々が知っていたら、もっと早く兵隊の動きをユナに知らせてくるはずである。

「ルシア!」

「どうしたの、ユナ?そんなに急いで。さっきも大きな声を出していたし、何かあったの?」

 ルシアはいたって平静だった。それは至極当然のことなのだが、ユナにとってそれは酷くもどかしいものに感じられた。

「私の言うことをよく聞いてほしいの。今、ここから、逃げるの。出来るだけ遠くに。」

「……どうして?」

 ゆっくりと刻むように話すユナを見て、ルシアはユナの態度が普通ではないと感じ、掃除の手を止めて問い返した。

「理由は……言えないの。でも、このままここにいたら、ルシアが死んでしまうかもしれないの。殺されてしまうかもしれないの。だから、私と一緒に逃げてほしいの。」

 もしここでユナが、

『ルシアがアクトだということがケルスに知られてしまったから、兵隊たちがルシアを捕まえにここに向かっている。』

 と言ってしまえば、ルシアがショックで逃げられる状態ではなくなってしまう可能性がある。ユナはそう考え、理由そのものを伏せた。

 しかし、ユナの言葉はそれだけでルシアを説得できるものではなかった。案の定、ルシアも不思議そうな顔をしている。

「わたしが……殺されるかもしれない?どうして?わたしが何者なのかもう本当はわかっているの?」

「ごめんなさい。言えないの。でも、お願い!私はルシアを失いたくない。せっかくできた友達を……親友を失いたくないの。今こうしているだけでも、ルシアを殺そうとしている人たちがこっちに近付いてきているわ。だから、今すぐ私と一緒に逃げて!」

 ルシアはユナが嘘をついていないということを、その雰囲気で感じ取った。

 ユナがこれだけ必死に何かを話すことも、焦りを感じさせることも初めてである。ルシアがディルに襲われたときでさえ、ユナはもっと落ち着いていた。

 しかし、ルシアには自分の身に死が迫ってきているという現実感がまるでない。

「それなら、1つだけ教えて。わたしが危険だって、どうしてユナは知ることができるの?それくらい教えて。この場所の通信手段なんて手紙くらいなんでしょ?今のままじゃ、わたし何もわからないままだもの。自分のこともまるでわからないのに、これ以上わからないことを増やしたくない。それがわからなかったら、わたしは逃げることなんてできない。」

 ルシアにユナの力のことを言わない限り、ルシアはここを動いてはくれないだろうとユナは感じた。そんなルシアを説得するため、ユナは10年以上口をつぐんできたことを話す決心をした。

 ルシアがアクトであることを知らせるよりも、ルシアにショックが少ないことは確かである。

 ユナはルシアの両肩に手を置き、至近距離で見つめ合いながら口を開いた。

「驚くかもしれないけれど、私には、かつてこの世界で失われたはずの力があるの。精霊の媒介なしに木々と話す力。ディバの森の中のことなら、全て把握することができるの。全部、木々たちが教えてくれるから。その力で、少し前に木々たちが教えてくれたのよ、ルシアが危ないって。木々は私が悲しい思いをしないように、そうなりそうなことが起こったら事前に教えてくれるの。それにね、ルシアを森の中で見つけたときも、木々に誘導されたから見つけられたの。普段採っている薬草の場所、秘密の場所の湖も全部木々から教えられたものなの。……やっぱり、信じられないかしら?私のこと……」

 ユナの言葉は後半になるにつれ小さくなり、最終的にはルシアの肩から手を離し、ルシアの顔さえも見ることができなくなっていた。

「……驚いたけど……信じるわ、ユナのこと。」

 ルシアは確かに驚いていたが、ユナが拍子抜けするほどその態度はあっさりしていた。

「私のこと……信じてくれるの?」

 ユナは下に向けていた視線を再びルシアの顔に移した。隠しきれないほど、驚きが表情に現れている。

「当たり前じゃない。ユナとは友達だもの。それに、実はいつも不思議に思っていたの。森に生える植物の中で食用になったり薬草として利用できるものは限られているのに、ユナはそれが生えている場所をすごく的確に知っていたから。森で長く暮らしているからって、植物の判別は出来ても常に群生地を把握できてるものなのかなって。だから、尊敬し直したくらい。だって、すごいことだと思うもの。」

 ルシアはユナの力のことを素直に認めることができた。

 不思議なことに、ルシアは未知の力に関して何の疑問感も抱かなかった。もしユナが魔法を使うことが出来ると言ったとしても、それを疑うことはなかっただろう。

 けれど、それが何故なのか、今のルシアにはわからなかった。

 ただ一つ言えることは、ルシアには未知の力が自分の近くにずっとあったような、そんな感覚があった。

「ありがとう。そう言ってくれて、本当にうれしい。でも、このことは誰にも言わないで。あまり人に知られてはいけない力だと思うから。それに、私にある力を負の力だと捉える人も世界に少なくはないの。」

「わかった。誰にも言わないって約束する。」

 ユナはルシアの真剣な表情を見て、さらに念を押すことはしなかった。ルシアならば、誰にも言わないと確信出来る。

「私と一緒に、逃げてくれる?」

 再度言ったユナの質問にルシアは無言でうなずき、言葉を続ける。

「それで、どこに逃げるの?」

「とりあえず森を抜けて首都のエレンからなるべく遠くに逃げようと思う。このディバの森のことなら隅から隅までわかっているから、セレスの街へ抜ける獣道を使うわ。今日はここまでで精一杯だと思うから、後のことは今日逃げ切ってから考える。」

「わかった。じゃあ、今すぐに出た方がいいよね?」

「ううん。ちょっと待ってて。それほど多くはないのだけれど、宝石とお金を持っていくわ。それと、食べ物を少し。」

「うん。それじゃあ、私は食べ物を用意しておく。ユナはお金の方をお願い。」

「ありがとう。用意が出来たら、玄関で落ち合いましょう。」

 2人はそれぞれの役割を決め、部屋を後にした。

 ユナはほとんど使うことのない高級アクセサリーの類をたくさん持っている。

 王宮を出るときに持ってきたものと、ケルスから誕生日などに贈られたものなどがあり、中には一般庶民では手に入らないような高価なものもある。しかし、それにどのくらいの価値があるのか、どれが高価でどれがそうでもないものなのか、ユナはよくわかっていない。

 ユナは街に買い物に出たことがほとんどないので、金銭感覚がないに等しい。それでも、逃げるためにお金が必要なことくらいわかっている。

 現金に関しては、ディバの森にいる限り必要になることはほぼないが、何かのための緊急用として金庫に保管してあった。

 ユナはある程度まとめてしまっておいた宝石と、家の中にあるだけの現金を集めてバッグに詰め込んだ。

 そうして玄関でルシアと落ち合って共に家を出るときには、既に時間は正午を過ぎていた。



 静まりかえった家の中に、勢いよくドアの開く音が鳴り響いた。

 その音の余韻がまだ家の中に残っているうちに、兵士たちは玄関を入ってすぐの玄関ホールに向けて銃を構えた。しかし、銃を向けるべき相手はそこにいなかった。

「捜せ!」

 総勢15名ばかりの兵士たちの中で、その隊長を務めるアディックが声をかけると、アディックの近くに3人を残して他の兵士たちはそれぞれ家の中に散っていった。

 アディックはこの隊の隊長ばかりではなく、アクト排除のために編成されたアクト排除兵を統括する兵士長も務めている。

 兵士長の役割は主にアクトが確かに破壊されたかを確認することと、処刑記録の管理をすることである。しかし、15年前からはほとんどアクトが発見されなくなっているので、それからの仕事は兵士たちを引き連れてのアクト逮捕がほとんどになっている。

 3年前にアクトを逮捕したのも、アディックであった。

 アクト排除兵は警察の特別部署として位置し、アディックを筆頭に100人程度で編成されているが、協力を要請すればいくらでも他の部署から人員を確保出来る力を持っている。

 そこの兵士長を務めて13年になるアディックは、今年で45歳になる。

 アディックはラムル以上に国家に対する忠誠心の厚い男で、国王の決めたことはどんなことであろうとも従う。アディックがわずか32歳でアクト排除兵の兵士長に抜擢されたのも、アディックの性格が大きく影響していた。

「家の中には誰もおりません。しかし、部屋などの様子からユナ王女とアクトがここを離れてまだ間もないと思われます。」

 アディックが声をかけてからそれほど長い時間が開くことなく、家の中に散っていた兵士たちはアディックのもとへ帰って来た。3人で暮らすには広い家でも、11人で隅々まで捜すのにそれほど時間はかからない。

 兵士たちは、それぞれ調べてきた場所についてアディックに報告する。

「2階の部屋の中に、掃除を途中でやめて外に出た形跡がありました。また、キッチンに急いで何かを作った跡も残っています。」

「そうか……我々の動きに勘付いて逃げた可能性もあるな。もっとも、ラムル老の話によれば、今の時間帯はユナ王女とアクトは必ずしも家にいるものではない、とのことだ。外を捜すぞ。3人はここに残り、ユナ王女とアクトが我々と入れ違いになって帰って来たときのために、待機していろ。」

「了解!」

 寸分の狂いもなく兵士たちから発せられた言葉にアディックは一つうなずき、そのまま外に向かって走り出した。

 アディックは兵士たちに再び家の中を詳しく捜すようには、命令しなかった。


 アディックがユナのことを”ユナ王女”と呼ぶのはアルキス王国の中では極一般的なことである。ユナのことを”ユナ王女”と呼ばないのは、ケルス、ラクス、ラムル、かつてケルス推進派だった議会の議員とルシアだけである。

 ユナは隠居したといっても、いつでも王女の身分に戻れ、国の行事にも参加しているので、国民はユナが隠居しているという意識をあまり持っていない。

 よってユナを”ユナ王女”と呼ぶ通例がそのまま残っている。


 アディックはケルスを経由して、ラムルからアクトであるルシアについてある程度の知識を譲り受けている。

 ユナとルシアの間に友情が芽生えていること。

 ルシアにはラニア研究所の刻印が印されているが、アクトであるという自覚がないこと。

 正午過ぎから夕方にかけて2人は薬草を摘みに出かけていることが多いこと。

 他にも必要と思われる知識をいくつか頭の中に入れている。

 アディックはユナの家に3人の兵士を残したものの、兵士たちにもそれとなく言ったように、かなりの高確率でユナとルシアはどこかへ逃げたと考えていた。

 ケルスもラムルを召還状によって呼び寄せたことから、ユナがその召還理由に勘付いている可能性があることを匂わせていた。

 アディックを先頭にして兵士たちは家を飛び出し、夕暮れの終わりかかった森の中へと再び入っていった。



「暗くなってきたわね……早くセレスの街に出ないと森の中で野宿になりそうだわ。」

「そんな感じだね……セレスの街まで後どれくらいかかりそう?」

「日付が変わる前までにはどうにかなると思うわ。そうね……少し、休みましょうか。あまり疲れていると、余計に時間がかかってしまうから。」

「うん。」

 ユナとルシアはもうかなりの時間、森の中を歩き続けていた。

 ユナが選ぶ道は道なき道に近いので、普通の道を歩くのよりも余計に体力を消耗する。しかし、その道を通ることで普通の道を歩くときのほぼ半分の時間でセレスの街へ出られる計算になる。

 その道はユナが予め知っている道ではなく、ユナが知る限りの森の道と木々たちから随時知らされる兵隊の動きとを合わせて導き出されている。

 ユナとルシアは家を飛び出してから初めてその歩みを止め、近くにある木の根元の一つにそれぞれ腰を下ろした。

 ユナはバッグの中から水筒を取りだし、その中に入っているお茶を付属のコップに注いでルシアに渡した。

「またディルは出て来たりしないよね?」

 ルシアはユナからコップを受け取りながら不安そうに尋ねた。

 そのルシアに対し、ユナは心の中で木々たちにディルの様子を尋ね、聞こえてきた答えを口にする。

「大丈夫。木々たちがこの辺りにディルはいないって。」

「そう、よかった。」

 ルシアはホッと息をつき、お茶のなくなったコップをユナに返した。

 今度はユナがそれにお茶を注ぎ、それに少し口をつける。

「ユナは木々と話せるって言う力のこと、誰かに言ったことはなかったの?」

 ルシアはユナがお茶を飲み干すのを見届けてから言った。もしお茶を飲んでいる途中でルシアが言葉を発したら、ユナは間違いなくむせ返ってしまうと思ったから。

「どうして……そう思うの?」

 ユナはわざと聞き返した。

 自分があまり言いたくないことに対して問い返すのもまた、ユナの癖である。

 ユナは母親との会話の中でもほとんど話題に上ることのなかった力のことを訊かれるのに慣れていない。ルシアの言葉を聞いた瞬間、自ら力のことをルシアに告白しているとわかっているのに、一瞬ドキリとした。

 ユナがルシアに問い返したのは、癖だけではなくそれをごまかすためでもあった。

「あのとき、ユナがすごく辛そうに見えたから。ユナが体全部の勇気を振り絞っているみたいだったから、ユナは力のことを話すのは初めてなんじゃないかって、そう思ったの。」

「半分……当たっているわ。」

 ユナは少し悲しげな笑顔で答え、言葉を続ける。

「母様には、話したことはあるのよ、力のこと。でも、その母様に力のことを口止めされていたの。母様にも同じ力があったって教えてもらったわ。そのとき、私は母様にこう言われたわ。

『ユナには母様と同じような力があるのね。行方のわからない母様の姉様にも、母様と同じ力があったのよ。でも、母様の父様と母様に、その力はなかったわ。この世界には、きっと母様と母様の姉様とユナにだけ木々と話せるがあると思うの。木々たちも、そう言っているわ。でも、そのことを母様以外に言ってはだめよ。』

 ってね。何度も言われたから、覚えてしまったの。」

 ユナの話を聞いて、ルシアはユナの母・ナトが言っていた言葉の中に奇妙な違和感を覚えた。何か、言葉の使い方がおかしい、という雰囲気がある。しかし、それが何かはわからない。

 ルシアはその正体がわからないまま、別の質問を口にする。

「遺伝……だったのね。」

「そうだと思うわ。母様の両親にはその力はないって言われていたから、隔世遺伝か何かだったと思うの。一度力が表に出たら、それがそのまま遺伝する仕組みかもしれないけれど……よくわからないわ。他の人にはない力だから、その力のせいで何か辛い思いをしたことが母様にはあったと思うの。多分、行方のわからない母様の姉様……叔母様のことが関係していると思うけれど、母様がいない今では真実を知ることができないままよ。」

「そのユナの叔母様は、今も?」

「そう、見つかっていないわ。私は会ったことがないの。母様が結婚する3年くらい前から行方不明らしいから。母様とは双子だったって。それだけ、とても母様は叔母様を慕っていたみたい。木々たちの話だと今この力を持っているのは私だけだから、もう生きてはいないみたいだけれど。それでも、母様は叔母様をずっと捜していたのよ、王宮に嫁いでからも、ずっと。」

「ユナの力で捜すことはできないの?」

「それが出来ないのよ。都会の木々はディバの森の木々と違って、ほとんど話すことはないの。話しても、すごく短い言葉ばかりで。ディバの森の木々たちはみんなで協力して大きな結界を張って自然を守っていてね、森の外を知ることができないから、やっぱりダメなの。わかるのは、叔母様はディバの森の中で行方不明になったわけではない、ということくらいかしら。」

「そう……」

 ルシアは短い相槌を打つだけで、それに続く言葉を見つけられないまま時間だけが流れた。しかし、それほど長い時間を置くことなく、ユナはその沈黙の時間を止める言葉を発した。

「そろそろ行きましょう。あまり長居していると追いつかれてしまうから。」

「そうだね。」

 ユナが少し無理をして明るい口調で言っているのがルシアにはわかったので、ルシアもまた明るい口調で答えた。

「このまま行けば、もうすぐ森を抜けられると思うわ。」

 そうルシアに言ったユナだったが、不安がないわけではない。

 ディバの森の木々はディバの森の中のことしか知り得ていない。

 つまり、ディバの森から一歩でも外の世界のことは、自らが築き上げている結界のせいで全くわからないのである。ディバの森の外ならば、すぐ近くに人が立っていても、戦車が停車していても、わからない。

 ユナが知り得ている情報は、首都エレンの方角から兵士が入り込んでおり、その反対方向ががら空きだというものである。しかし、エレンと反対方向のディバの森の外に兵隊が集結しているとしたら、逃げられはしない。

 ユナとルシアはバッグから取り出した懐中電灯のわずかな明かりを頼りに、再び森の中を歩き始めた。



 ディバの森を挟んで王都エレンとは反対側にあるセレスの街の警察及び軍の本部に緊急通信が入った。

 緊急通信を告げる警報の後、本部に通達内容が大音量で流れる。

「王都エレンよりディバの森周辺の街へ緊急通達。ディバの森にアクトの潜伏情報あり。周辺地域へ脱出する可能性があるため、ディバの森へ通じる道全てを封鎖要請。また、各所で連携し包囲網を形成せよ。アクトはセレスの街へ向かっている可能性が高い。セレスの街は特に注意せよ。」

 同じ文言がもう一度繰り返される中、待機していた警察や軍の兵士たちは必要最小限の人員を残して全て一斉に動き始めた。

 緊急通達は年に数回あるかないか、最も緊急性の高い配備を要請するものなので、警察も軍も一瞬にして緊張感に包まれた。

 アクトは発見数が減るに連れて懸賞金の額が上がっており、もし現時点でアクトを発見できたなら1年は遊んで暮らせるだけの金が手に入る。それに、たとえアクトを自らの手で捕まえられなくとも、緊急通達に応じて出動すればそれだけで割のいい手当てがつくし、アクト関連ともなれば更にアクト排除法に規定された協力金が支給される。

 多くの者は浮足立つような心持ちで、急いで集合場所へ向かって行っていた。



「……もう……逃げられない。」

 突然歩みを止めたユナに、その後ろを歩いていたルシアは危うくぶつかりそうになった。

「どうしたの?」

 ルシアはたった今ユナが小さくつぶやいた声を聞き取ることが出来ていなかった。しかし、それでも急速に心の中に不安が広がっていくのがわかる。よくは見えないが、ユナの顔が蒼白になっているように感じる。

「木々たちが、もう逃げられないって……囲まれていて……」

 ルシアは一瞬言葉につまった。辺りに人の気配は感じられない。なのに、ユナはもう逃げられないと言う。

「どうして?人の気配なんてしないけど……」

「休んだ場所から少し進んだときからなのだけれど、木々たちが逃げようとしている方向から森の中に兵隊が入り込んできたって知らせてくれたの。それからはまだ兵隊のいない場所を教えてもらって、その方向に向かっていたのだけれど……もう、ディバの森全体が囲まれていて、あらゆる方向から兵隊が入り込んできているのよ。」

「引き返すことはできないの?」

「それも出来ないの。すぐそこまで、気配を消して近付いてきているから……」

 ユナの言葉が終わった直後、2人は背後から強烈なライトによって照らし出された。強い光を手で遮りながら振り返った2人の姿は、鏡に映したようにきれいな線対称の行動だった。

「捜しましたよ、ユナ王女。」

「その声は……アディックね。」

 ユナはまだ光に目が慣れていないため、声だけでどうにかユナに話しかけてきた人物の判断をした。その他、木々たちからの情報で後ろから追いかけてくる兵隊の中にアディックがいるとわかっていたのも、人物判定の手助けになっていた。

「お久しぶりです、ユナ王女。王宮での面識はほとんどありませんでしたが、覚えていただいているとは光栄です。しかし、まさかこのような再会になるとは思っていませんでした。」

 照らされたライトにやっと目が慣れたユナは、今度はちゃんと自分の目でアディック本人の姿を確認した。

 ユナはアディックのことを噂で知っている程度の知識しかないが、一度だけ直接話したことがある。それは4年前に王宮を後にした日のことで、ユナが落としたイヤリングをアディックが拾ったことがきっかけだった。

 ほんのわずかな言葉のやり取りではあったが、アディックが王に逆らう者には容赦しない非情な性格であるという噂が先入観としてユナの頭の中にあり、話しかけられたときは酷く恐かった、と感じた。

 それだけに、イヤリングを拾ってくれたアディックの優しさに触れたことが混ざり合って、そのときの出来事がユナの記憶に強く刻まれていた。

「ユナ王女はこのような場所にまで薬草を摘みに来られるのですか?足跡を頼りにここまで来るのには、かなり時間がかかりましたよ。」

 嫌味たっぷりのアディックの言葉に、ユナは何も言えなかった。

 ユナにとっては何かを言うよりも、何も気にすることなく足跡を残して来てしまったという失態の後悔で頭がいっぱいになり、言葉を口にする余裕がなくなっていた。

 そんなユナに対し、アディックは更に続ける。

「ユナ王女はディバの森の中のことをよく知っておられる。この道を使えば通常の半分の時間で森を抜けることが出来そうです。昨日のうちに出発しておられたら、森全体を囲む緊急配備の包囲網の効果もなかったでしょう。」

 アディックの言葉を聞いて、ユナの頭にはさらなる後悔が浮かび上がっていた。

 もっと早くラムルの召還理由に気付いていれば、不用意にケルスにアクトのことを話さなければ、足跡に気を使っていれば、と。

「ユナ王女の隣にいるのがアクトですね。翠の髪とは珍しいが……なるほど、いい作品です。動きが滑らかで、人間と区別がつかない。」

「黙りなさい!!」

 とっさにユナはありったけの声で叫んだが、それだけではアディックの衝撃的な言葉をルシアに伝えさせないことはできなかった。

「……アクト……わたしが?」

 ルシアはアディックが何を言っているのか一瞬わからなかった。

 それよりもルシアは、ユナが見せた王女としての威厳が強く現れていた声に、まず驚いていた。

「刻印の確認をする。左肩にあるらしい。拘束しろ。」

 アディックの命令に4人の兵士が動いた。

 兵士たちはユナが制止の声をあげる前にユナからルシアを引き離し、二人の腕を背後で拘束した。兵士として訓練されている者の力は強く、ユナの力で抵抗しても猫が虎に抵抗する程度の力にしかなからなかった。

 ルシアは張り付けにされたかのように腕を二人の兵士によって両側に伸ばされ、別の兵士によって左袖を引き裂かれた。ルシアは抵抗する力が出る前に、頭の中が混乱していてされるがままになっていた。

「やめなさい!王女命令です!」

 ルシアの袖が引き裂かれた直後のユナの言葉は、その場にいた全ての兵士を震撼させるだけの力を持っていた。

 アディックでさえ、一瞬心臓が凍る思いがした。持って生まれたユナの王者としての風格は、忠誠心の強いアディックの心に強く影響を与える。

 しかし、アディックは次の瞬間には平静を取り戻していた。

「これは、国王陛下の命令です。」

 アディックのその言葉により、一瞬緩んだユナとルシアを拘束する力は再びきついものになった。

 兵士がユナに萎縮していないことを確かめたアディックは、ゆっくりとルシアに近付いて肩の刻印に光を当て、目を近づけた。

「ラムル老から聞いてはいましたが……ラニア研究所の刻印に間違いありませんね。数そのものが最初から少ないですからね、生きて動いているのを直接見るのは初めてです。最高技術を持っていたラニア研究所のアクトならば、ユナ王女が惑わされるのも無理はないでしょう。」

「私は惑わされてなどいません。ルシアは……たとえアクトであっても、私の親友であることに変わりはありません。」

「ユナ……」

 ルシアはユナの言葉がうれしかったが、現在起こっている事態があまりに信じられないことばかりで、口からこぼれた言葉は弱々しかった。

「できれば穏便にことを運びたかったのですが……ユナ王女、ご無礼をお許しください。」

 ユナがアディックの言葉を聞き終わるか終わらないかの瞬間、ユナは口元に湿った布を押し当てられ、次の瞬間にはもう意識を失っていた。ユナと話している間、アディックはユナの背後にいる兵士に指示を出してそうさせていた。

 そのまま地面に倒れ込みそうになったユナだったが、兵士によって腕を捕らえられていたので、それだけは防がれた。

「ユナ!」

 ルシアの叫び声にも、ユナは何の反応も示すことはなかった。ユナの体は前に傾き、長い金髪が地面につきそうになっているのがルシアから見えるだけである。

「さあ、アクトを王宮に連行しろ。」

「あの、この場で破壊しないのですか?」

「そうしてもよいのだが、国王陛下の命令で破壊せずに王宮へ連行しろ、とのことだ。おそらく、3年前と同じように見せしめとして処刑するつもりだろう。」

「はっ、失礼しました。」

 そこまでは兵士たちの会話を聞いていたルシアだったが、ユナが気絶したことでこの場での心の支えを失い、全ての抵抗を諦め、兵士の会話すら頭に入れられず、ただ茫然と拘束されるがままになってしまっていた。

 連行される直前、ルシアはアディックに何かを話しかけられたが、それを記憶に留めることはできなかった。

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