第二部 第二章 面会
第二章 面会
ケルスとの話が終わったユナは、部屋に帰るとラクスに抱きついてしばらくの間泣き続けた。
2年前のようにケルスを通してルシアを助けることは、ユナにはもうできそうになかった。客観的に見れば、ケルスの方が正しいことは言うまでもない。
それに、警備の厳しい王宮の地下牢からルシアを逃がすことなど、どうやったら成功するだろうか?
たとえ成功したとしても、既に国民のほぼ全員に顔が知られてしまったルシアを隠しきれるはずもない。ルシアは人間でも珍しい翠の髪と瞳を持っているのだから、目立つことこの上ない。再び捕まらない保証などどこにもないのである。
さらに、ルシアが逃亡したとわかれば、まずディバの森が荒されることは目に見えている。唯一自然が自然のまま残るディバの森が荒されることは、ユナには到底耐えられることではない。
また、現段階ではルシアを助けることを選んでいるユナではあるが、木々たちを見捨てたわけではない。ルシアを助けることだけを選んでしまえば、木々たちがいなくなってしまう。そんなことになってしまったら、きっと後悔すると、ユナ自身そう思える。
あらゆる面から考えて、奇跡でも起こらない限りルシアを助けられる可能性はなきに等しくなっていた。
そんなユナをラクスは黙って受け止めた。
2年前にやはりルシアが逮捕されて以来の、ユナが取り乱す姿をラクスは見た。
この2年間、会う機会がそれほど多くなかった分、ユナとルシアの絆はより強いものになったとラクスは感じていた。
ルシアはディバの森でユナ以外の人間とはほとんど会うことなく生活をしていたし、ユナはルシアと会うことを何よりの楽しみにしていたからである。ずっと一緒にいるよりも、多少なりとも離れていれば粗も見えにくい。ユナとルシアに限ってそんなことはないだろうが、そう思うことでラクスは自分自身を納得させていた。
それに、ユナは明らかにラクスといるときよりルシアといるときの方が楽しそうだった。ディバの森から帰ってきてルシアのことを話すユナは、どんな話をするときよりも綺麗な笑顔を作る。ラクスはその瞬間が一番好きであり、嫌いでもあった。
また、それと同時に、もし自分が今死んでしまったら、ユナは同じように泣いてくれるだろうか、ともラクスは考えていた。
「理由は全て父から聞きました。……力が足りないというのは、辛いものですね。」
ラクスはユナを抱きしめたまま、ユナの耳元で言葉を紡いだ。
ゆっくりと髪を撫でて落ち着かせようとはしているが、ユナはまだ体を震わせて泣いている。
「この国の王族として、僕にもユナにも権力があります。国民たちよりも、議会の議員たちよりも強い力が。しかし、それは最高権力ではなく、あくまで多少なりとも国を動かす力を持っているということに過ぎません。いつか僕は最高権力を手にできます。でも、今ではありません。それがたまらなく辛く感じられます。今の僕とユナの権力では、ルシアを助けることが出来ません。」
そのまましばらく時が流れ、ユナの震えと涙が止まったとき、ユナはやっと言葉を口にすることが出来るようになった。それでも、言葉が口からこぼれるときに震えは残ってしまう。
「私は6年前に全ての権力を放棄したことを後悔していませんでした。でも、今だけはその権力を取らなかったことを後悔しています。その権力を手に入れていれば、ルシアと出会うこともなかったでしょうし、私はルシアを助けるためだけにいつかは国を滅ぼすことになるのに……」
ユナはルシアと木々たちという2つの親友のうち1つが必ず失われてしまう状況の中にいた。どちらを選ぶこともユナにはできない。しかし、どちらも助ける方法を考えつくわけでもなかった。その方法があるかどうかもわからないのだから。
「僕たちに最高権力がなかったのは、むしろ良かったのかもしれません。もしその権力を手にしていたら、間違いなくルシアを助け、後の世界を滅ぼしてしまうでしょう。僕たちの生きていない未来に、自然がなくなることになるでしょうね。」
「そうかも……しれませんね……」
ユナは言いながらラクスをそっと押しのけた。自分から抱きついておいて身勝手なような気はしたが、ラクスに抱きしめられているのが嫌だったわけではなく、ラクスと向き合って話がしたかったための行動だった。
しかし、ラクスはユナが考えていることとは別の解釈をしていた。ユナはまだ自分を受け入れてはくれないのだと……
「僕があの手紙を見つけてさえいなければよかったのです。いえ、それを父に渡しさえしなければ。」
「ラクスのせいではありません。」
ユナは涙の跡を手でぬぐいながら言い、それが終わると紅い瞳でラクスを見上げながら言葉を続ける。
「ラクスでなかったら、あの手紙は私が見つけていました。それに、私が見つけたとしても、ラクスと同じことをしていたと思います。全ては、人間がアクトを創ってしまったときに始まっていたのです。それが表面に出てきたのが、現在であるだけです。でも、アクトが全滅させられる運命にあったとは思いたくありません。」
「僕もそう思います。あの日の小鳥のように、弔ってあげることしかできない存在には……させたくありません。」
6年前の話が出たことで、ラクスはユナが王宮を出るとラクスに告げた日の朝のことを思い出し口にしてみたが、ユナはそれが何のことなのかいまひとつわからないといったような表情になった。
そうか、ユナは覚えていないのか、とラクスは少し寂しげな表情になって続ける。
「6年前にユナが早朝の王宮の中庭で小鳥を埋葬していたときの話ですよ。誰も見向きもしない小鳥の死体を埋葬してせめて墓を、と。そのときにユナは王宮を出ると僕に最初に伝えてくれました。」
言われてユナは思い出した。
ラクスに小鳥の墓を作っているのを見られる3ヶ月前、同じようにユナは小鳥の墓を作ったことがあった。自分の部屋の窓にぶつかったのではなく、偶然中庭の片隅で死んでいる小鳥を見つけた。小動物の死体を見ることすら初めてで、どうしようかと誰かに相談しようとしたが、誰も話しかけられる雰囲気ではなかった。
父の死で王宮内はここまで変わってしまったのかと今更ながらに実感し、もう1度同じようなことが起こったなら王宮を出ようと密かに決意していた。
そして、何かを暗示するかのように、3ヶ月後自分の部屋の窓に小鳥がぶつかって死んだ。
ついにその時が来たのかという思いが強く残っていたので、ユナはその日にラクスと会っていたということを忘れていた。
「あんな些細なことを覚えていてくれたのですか?」
ユナにとっては大きな決断をした日の出来事だったが、ラクスにとっては取るに足らない出来事だとばかりユナは考えていた。
「僕にとっても大きな出来事でしたよ。ユナから王宮を出るという決意を聞いて、すごく離れ難いと思いました。それまでは、ユナは妹のようで、いずれ信頼できる誰かに降嫁するだろうと思っていましたし、僕も父が選んだ誰かと結婚するのだろう、と。でもあのとき、僕はユナと結婚したいと思いました。今言うことではないかもしれませんが、ユナを愛していると自覚したのはあのときからです。」
ユナはラクスの言葉に胸の高鳴りを感じた。
6年前の朝にユナはラクスと会ったことは思い出せたが、自分がラクスに対して何と言ったのかはよく覚えていない。おそらく、王宮を出る決意を固めるために誰かに決意を聞いてほしかっただけで、それ以上でも以下でもなかった。それをラクスはずっと覚えてくれていた。その事実がユナの心を大きく揺さぶった。
それに、ラクスもまた最初は自分のことを妹としか見ていなかったというのを知って、もしそれが今も続いていたなら、と考えると、虚無感のようなものが襲ってくるのがわかった。
[もしかしたら私は……]
ユナは自分の顔が紅潮するのを、鏡を見なくともはっきりと感じた。ただ、今まで泣きはらして頬はある程度赤みを帯びていたので、更なる頬の紅潮にラクスは気付いてはいたが、気には止めなかった。
ユナはそれを隠すために言葉を探し出し、それをラクスに受け渡す。
「そのこと……もっと早く知りたかったです。」
ユナが急に照れたような仕草をするので、ラクスは思わずユナを抱きしめそうになったが、先程ユナから押しのけられたばかりだったので、寸前で止めた。
ユナ自身も逸れてしまった話題を元に戻そうと、一呼吸置いてから言葉を続ける。
「客観的に見れば、私たちは間違っているのですよね。人ではない、しかも世界のために死ななければならないアクトを私たちは生かそうとしているのですから。お義父さまの方が正しい選択をしていると、誰もが思います。」
「客観的に見れば、そうですね。父はとても王らしい王ですから。少ない犠牲で多くの人を守り、その罪を全て背負って生きていけるだけの強さを持っています。たとえ死ぬのがアクトではなく人間でも、父は同じことをするでしょう。人に恨まれても、それに耐える覚悟をして処刑を敢行します。その部分は、祖父とよく似ているかもしれません。」
ラクスもユナに合わせて話題を戻した。今はルシアを助ける方法を考えるのが最優先だということはわかっている。
「ええ、私もそう思います。ただ、本当にルシアを救う方法はないのでしょうか?」
「それは僕も考えました。しかし、こう言っては語弊があるかもしれませんが、自然を回復させ、なおかつルシアを助けられるなどという都合のいい方法があるかどうか……精霊をこの世界に解き放つことが唯一の自然を回復させる方法である限り、無理ではないかと……」
ラクスは語尾を強くして言葉を断定するように言いたかったが、ユナがいる手前、そうすることは控えた。ラクスも何も考えなかったわけではないのだが、ルシアを助けられる方法はその答えのかけらすら見出せていなかった。言葉を断定したかったのは、そのせいもある。
「それでも私、考えてみます。ルシアと自然を助けられる方法を。本当に、都合のいいことですけれど。」
ユナは最後に少し笑って見せた。無理に作った笑顔ではあったが、不自然ではなかった。
「これからルシアに会いに行ってきます。」
その言葉をユナは明るく言った。これ以上、ラクスに辛い表情を見せたくなかった。そのために、ユナはあえてラクスから離れようとそう行動することにした。
ユナはそれがまだルシアとの最後の別れの会話になるかもしれないとは、思っていなかった。
古いけれど強固な壁、冷たい床と隅の方にたたんで置いてある毛布。
全てが2年前と変わらない地下牢の雰囲気を、ルシアは感じていた。2度と来ることがないと思っていただけに、奇妙な感覚で地下牢をとらえることができる。死に向かっているのに、地下牢がどこか懐かしい。
しかし、2年前と明らかに違うことは、明日には殺されてしまうという確実な未来がルシアには待ち構えているということであった。
2年前ここに入れられた時は、ルシアが目を覚ましても見張りの兵士たちはこれから処刑が行われるような話はしていたが、その日時をはっきりと口にすることはなかった。それよりも、アクトであるルシアに見下した質問を浴びせてくるだけだった。それが嫌で、ルシアは牢の隅に移動して、ラクスが現れるまで何を言われても口を開こうとしなかったのを覚えている。
だが、今回は明日の正午に処刑が行われると、見張りの兵士は開口一番に言った。ルシアは奇妙な懐かしさと一緒に、目前に迫る死の恐怖も同時に体感していた。
ルシアを逮捕するためにやって来たのは、2年前と同じアディックだった。
アディックは淡々と、アクト排除法に基いてルシアを逮捕すると告げた。なぜ再び逮捕されなければならないのかルシアにはわからなかったが、抵抗らしき抵抗は何もしなかった。目の前に現れた兵士の数からして逃げられないことは明白だったから。
「2年前も今も、こちらの事情で君を振り回してばかりだな。」
王宮に向かう移送車の中で、ルシアは左隣に座るアディックにそう話しかけられた。逮捕された者と会話をするなどあり得ないと思っていたルシアは、思わずアディックの横顔に視線を移動させた。右隣にいる兵士にとっても意外だったのか、ルシアと同時にアディックを見たのがルシアにもわかった。
「今回は人の話をちゃんと聞いているんだな。2年前は何を話しかけても無反応だった。」
アディックは前を向いたまま言葉を続けた。アディックの表情に変化はなく、ルシアはアディックの心情を読み取ることができなかった。
また、言われてルシアは2年前に移送車の中で何か話しかけられていたことを思い出した。内容は全く覚えていなかったが。
「あのときは……ユナがいなくなって、何も考えられなくなっていたので……今は、もしかしたらまた逮捕されることがあるんじゃないかって心のどこかで思っていたので、ついにその時が来たのか、と。」
言い終わってルシアはユナの名前に敬称をつけ忘れた、と思い当たったが、そのことを責める者はいなかった。アクト排除兵の中でもアディック直属部隊の兵士たちは全ての事情を知っている。たとえこれから処刑されるのだとしても、ユナとルシアが友人関係である事実に変わりはないから、呼び方くらいは黙認してくれるのかもしれない、とルシアは考えた。
「記憶回路はしっかりしているようだな。2年以上前のことは思い出せないのか?」
この人はアクトとしての自分に興味があるのか、とルシアは感じ取った。ユナがそう感じさせることはなかったから、ルシアは自分をアクトとして接してくる人と久しぶりに会った気がした。
「それについては、何も……ぼんやり昔の夢を見たような感覚があることはありますが、内容については思い出せなくて。」
「アクトも夢を見るとはな。そういう記録は見たことがない。君はいろいろと特別だったようだ。今も普通に人と話しているとしか思えない。他のアクト相手ではこうはいかなかった。」
ルシアは他のアクトのことを知らない。他のアクトはどのようなものだったのか、聞いてみたい気持ちもあったが、今更知ってどうなるとも思えて、ルシアはそのことを言葉にできなかった。
「君についてはわからないことばかりだった。何を目的に創られたのかくらいはわかりたかったが。」
それは独り言のようで、やはりルシアは何も言葉にできない。
「この2年でアクト排除兵の部隊もだいぶ縮小された。君を処刑すればその役割を終える。処刑の担当は私だ。王宮に到着次第、処刑日時を伝える。恨むなら、私を恨め。」
その言葉を最後に、アディックは口を閉ざした。
2年前よりもずっとアディックはルシアに対して好意的だったが、キッチリとした線引きはされていた。今更ルシアを殺せないという選択肢は、アディックの中にはなかった。
ルシアの中には、ついにこのときが来てしまったのかという思いと、もしかしたらまたユナが助けてくれるかもしれないという期待が混在していた。しかし、地下牢に入れられ処刑日時が伝えられたことで、ルシアはもうその期待を持つことはやめた。一度決められた処刑の日程を変えることなど、ありはしないのだから。ディバの森の中で人知れず殺されなかっただけ、まだましだったのかもしれない。
それに、ルシアは地下牢に入れられる前に、ケルスから直接自分が処刑される理由を聞かされた。人払いをして、ケルスとルシアだけになって教えられた。それだけに機密性の高いことだとわかったし、ある意味ケルスがルシアを信頼している証拠だとも思えた。
そこで話を聞いて、ルシア自身で自分が処刑されることに強く正当性を感じた。けれど、頭で正当性を理解できても、心の奥では死を恐れている自分がいた。
もうユナに会えなくなる、もうユナと話せなくなる。
それがたまらなく怖かった。
ルシアは牢の隅で2年前と同じように小さくうずくまり、ただ時が過ぎて行くのを待った。
最後に一度でいいからユナに会いたい、という希望は捨てずに。
ユナは生まれて初めて王宮の公務宮殿内にある地下牢を訪れた。
その場所すら正確に知らなかったユナを入り口まで案内してくれたのは、他ならぬラクスだった。ラクスが見張りの兵士の排除など、全てを取しきってくれたのがユナにはうれしかった。
アディックにも久しぶりに会った。
2年前にルシアが釈放された後、ユナはアディックの方からは会いに来にくいだろうと思い、ユナの方からアディックの執務室に会いに行った。そのときは結果的にルシアが助かっていたということもあり、お互い謝罪合戦になり、そこで一旦2人の間のわだかまりは消えた。
それ以降は王宮で稀にすれ違う程度の付き合いだった。
けれど、ルシアの処刑を執行するのは兵士長であるアディックに他ならない。その場にはラクスもいたが、ユナとアディックの間には、2年前にディバの森で出会ったときのような緊張感が流れたような気がした。
地下牢は想像以上に暗く、通路と鉄格子の近くしか光が届いていないほどだった。図書室の中にある特別室よりもさらに暗く、牢の隅の様子などほとんど見える状態ではなかった。
「ルシア。」
ユナが声をかけると、牢の隅の方で何かが動いた様子がユナから見て取れた。そうするとまもなく、光の届く範囲にルシアが現れた。
「ユナ、来てくれたんだ。よかった……もう、会えないかと思ってた。」
ルシアはユナの前で少しだけ安心したように笑顔を見せた。しかし、表情そのものは明るくない。恐怖心が先に立っているのがユナでもわかる。
ルシアは鉄格子の隙間から手を伸ばし、ユナの頬に触れた。
「顔色があまりよくないみたい。無理しているんじゃないの?」
「大丈夫。少し体調が悪いだけだから。雨期が始まってしまったのが原因だと思うの。木々たちは雨期があまり好きではないから、それに感化されることがよくあるのよ。」
「そう。でも、無理はしないでね。わたしと違ってユナはこれからずっと生きていかなくちゃいけないから。」
ルシアはそう言うと、ユナの頬から手を離した。その手の温もりは、ユナの頬にしばらくの間残った。
母体を通して生まれなかったこと、新たな生命を誕生させることができないということ以外で、アクトはほとんどと言っていいほど人と違った部分を持たない。確かに、生命をつなぐことはできないし、容姿が変わることもない。けれど、これほど暖かい温もりを持っているのに、人にも精霊にも迫害されなければならないとは……
ユナはその理不尽さを呪いたい気持ちでいた。
「ルシア、そんなことは言わないで。まだ何か方法が」
「わたしの処刑は、もう変えられないことだってわかる。ここに入れられる前に、ケルス王からわたしが処刑されなければならない理由も聞いたの。わたしが死ねば、この世界は救われるんでしょう?」
ルシアの言葉を聞いて、ユナは一瞬息を飲んだ。
ルシアはもう知っていた。なぜ自分が死ななければならないかを。ユナはそのことを考えていなかった。だからこそ、希望を捨てないようにルシアに言うつもりでここまで来た。
しかし、よく考えればそれは当然のことなのかもしれなかった。
2年前にルシアを殺さないと約束してくれたケルスが突然その約束を放棄した理由を、ルシアに説明しないわけがない。その理由に正当性があればなおさらである。
ルシアの死は、取り方によっては『名誉の死』とされる死である。死ぬことに名誉があるなどと、ユナには思えないのだが。ただ、ユナ自身がルシアの立場にいたとしたら、ルシアと同じことを言うだろうとは思える。
「2年前、ユナはわたしを助けてくれた。同じように、今度はわたしがユナを助けるの。わたしが犠牲になることだけですめば、それだけでいいならわたしは死を選ぶ。」
ルシアはその言葉を強く言った。
ユナといると、死にたくないという願望が強くなってしまう。ルシアはそれを抑えたかった。
「自分を犠牲にすることが私と同じだって、どうしてそう思うの?」
ユナに言われて、ルシアはたった今とんでもないことを口にしてしまったことに気付いた。ユナがルシアを助けるためにラクスのプロポーズを受けたことは、表面上ユナとケルスしか知らないことになっている。
ルシアは慌ててユナから目をそらしたものの、瞬間的にいい言い訳が思いつくはずもない。
「それは……」
「言って。怒ったりしないから。ルシアを嫌いになったりしないから。」
言い澱むルシアにユナは最初強く、次にやや柔らかく言葉を紡いだ。
それを聞いて、ルシアは全てを話す決心をした。これがきっと話す機会なのだと、ルシアは判断した。この機会を逃したら、もうユナにあのことを告げることは出来なくなる。
「……実は、2年前……」
ルシアはやや躊躇いながらも、2年前にラクスと話したことを正直にユナに告げた。ケルスとユナだけが知っていると思われていた盟約のことも、ラクスがユナは自分を愛していないと思っていることも。
また、ルシアはそれとは別にユナにどうしても告げたいことがあった。
「ユナはラクス王子のことを自分で愛していないって、まだそう思ってるでしょう?」
一通り話し終えた後、ルシアはそうユナに言った。
言われてユナは、その瞬間に心臓が一つ大きく鼓動したのを感じた。日頃思い続けてきたこと、しかし、ずっと隠し通してきたことを、ルシアは知っていた。
「その様子だと、やっぱり図星だったみたいね。ユナがわたしに会いに来たとき、ラクス王子の話を自分から一度もしたことがなかったから、そうじゃないかって思ってた。2年前、ユナがわたしにラクス王子にプロポーズをされたことを相談してくれたことがあったよね?その後、すぐわたしの事件があったから……そのときのまま、ユナの気持ちは止まってしまったんだと思う。」
ユナはいろいろなことをルシアに言い当てられていた。
ルシアと会っていたとき、ラクスの話をしようとしなかったことは、半ば故意にやっていたことだった。ラクスを愛していないとルシアに気取られないようにしていたことが、かえって不自然だったのかもしれない。
「ユナは自分がラクス王子を愛せないと思ったわけじゃなくて、ディバの森を離れるのがすごく嫌だったんじゃないかって思えた。それから、わたしと一緒に暮らせなることも。その気持ちが、ユナを小さな世界に閉じ込めちゃったのね。
ディバの森を離れたくないことが、ラクス王子を愛していないからだって、ユナはそう錯覚してただけだよ。錯覚じゃなかったら、ユナはわたしの前でも本当の笑顔を見せたりしなくなっていたと思う。わたしはずっとユナがラクス王子を愛しているって、ユナがラクス王子のプロポーズの話をしてくれたときから思ってた。それをユナが自分で気付くまで、わたしは待ってた。このことを言うつもりもなかった。でも、このままわたしが死んだらユナはずっと自分の気持ちに気付かなくなるって、思えたから今言うの。
わたし、この2年間、すごく楽しかった。あったかどうかもわからない昔よりも、きっとずっと楽しかった。それは、2年前にユナがわたしを助けてくれたから。ディバの森を離れる決心をしてくれたから。だから、今度はわたしがユナを助けるの。」
ルシアは出来る限りの笑顔で言った。しかし、瞳は潤んでいつ涙が流れ出してもおかしくなかった。
「2年前とは全然違うわ。」
ユナは首を大きく横に振って言った。様々なことをルシアに言い当てられたユナだったが、それだけは否定したかった。
「私は犠牲になったつもりなんて、全然なかったのよ。ラクスとの結婚だって、あのときルシアに言った通りのことを思っていたわ。今でも覚えてる。私、こう言ったはずよ。
『ラクスをこれから愛せるかどうかはまだわからないけど、ルシアが言っていたように一緒にいると安心感が持てるから、ラクスと結婚してみる。』
って。それが偶然、お義父さまの出された条件と重なっただけだった。ディバの森の木々たちとも完全な別れになったわけではなかった。私にとって、私自身を犠牲だと呼べるほど不利なことなんてなかった。それに」
「わたしが生きているとユナたちが死んじゃうのよ。」
ルシアは大きな声でユナの言葉を遮った。ルシアがそうやって言葉を遮ったのは、これが初めてのことだった。これ以上ユナに話をさせてしまったら、ルシア自身がユナに『助けて』と縋ってしまいそうだったから。
「自然が消えちゃうのよ。もしかしたら、ユナが生きている間は大丈夫かもしれない。でも、ユナの子供たちやこの世界の人たちが、近い未来にいなくなっちゃうのよ?ユナの好きなディバの森も、全部。
この世界はこのままだともうだめだって、思えるの。わたしはユナみたいに木々たちの声が直接聞こえたりはしないけど、ディバの森でほとんど1人でいたから森全体の雰囲気はわかるようになったつもり。何だか、すごく寂しさうだった。助けてって、言ってるみたいだった。」
続けて言ったルシアの言葉の内容と同じことを、ユナも感じていた。
確かに、都会と比べればディバの森の木々たちはよく話すし、楽しそうではある。しかし、漠然とした不安感をユナに感じさせることもよくあった。ユナがそのことを直接木々たちに尋ねたことはなかったが、常に感じていたことだった。
「正直に言って、死ぬことはすごく怖い。ユナが来るまで、ずっと震えが止まらなかった。本当は、死にたくない。でも、それ以上にユナには死んでほしくないの。それから、ラクス王子にも。わたしをアクトではなくて、人と同じように扱ってくれたのはユナとラクス王子だけだったから。
わたしはわたしが最後のアクトだって知ってる。わたしが死ねば、精霊たちがこの世界にやって来て自然を回復してくれる。自然が回復して、都会にも緑が溢れて、その中にユナがいるのをわたしは楽しみにしてるの。どこかでそれを見ていたいの。だから……泣かないで、ユナ。」
ユナは知らず知らずのうちに涙を流していた。それは頬を伝い、いくつかは床に零れ落ちて小さなしみを作っていた。
ユナはそのまま冷たい床に膝をつき、両手で口を抑えて震えながら涙をこらえた。ラクスの胸で十分泣いたはずなのに、涙は枯れることなく溢れてくる。
また、ルシアも同様に床に膝をついて涙を流した。そのとき、ルシアはふと2年前から今までで涙を流したのはこれが初めてだと気付いた。
「……力が足りないことって……何も力がないことと同じね。」
ユナはラクスが口にしたことと同じ言葉を口にした。瞳からはまだ涙があふれてくる。
「私はルシアを……たった1人のあなたすら助けることができない……どうして、ルシアかこの世界のどちらかを犠牲にしないといけないのかしらね。きっと、どこかにルシアも世界も救える方法があるはずなのに……」
ラクスの前では少し強気な部分を見せたユナだったが、ルシアの前ではやはり本音がこぼれた。ルシアと世界との両方を助けるという途方もない方法を見つけられるか、ユナには全くわからないのだが。
「それなら探してみよう、その方法。まだ少しだけど時間も残ってる。何もしないでいるよりは、その方がいいと思う。」
ルシアは穏やかに言った。その顔にはもう涙も、その跡すらも残っていなかった。ユナをここに留まらせないため、少しでも強いところを見せようとルシアは涙を拭い取っていた。
ルシアの言葉は死を目前にしている言葉だとユナには思えなかったが、無理をしているようには思えなくもなかった。
「ユナ、今日はもう帰った方がいいよ。わたしと一緒だといい考えも思いつかないと思うから。ほら、明日の午前中ならまた会えるよ。わたしも考えてみる、私と世界の両方が助かる方法。わたしだって死にたくない。わたしが死ぬのは、最終手段。だから、お互いに一人になって考えてみよう。」
「でも……」
食い下がるユナに、ルシアは瞳を閉じて首を横に大きく振って続ける。
「明日また会えるから、明日会おう。待ってるから。」
ユナはまだルシアと話がしたかったが、ルシアの強い言葉に自らが折れ、最後にこう言った。
「会いに来るわ、必ず。約束する。」
と。




