表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Evergreen  作者: 奈良 早香子
1/18

第一部 第一章 記憶喪失の少女

ホームページを開設していた当時に掲載していたオリジナル小説を加筆修正したものです。

 プロローグ


 ある場所に一つの星と大地が存在した。

 それはその星で存在する、唯一人が生活できる大地だった。

 大地の90%が海水に覆われるその星では、星でたった一つの大陸の領土を奪い合うことに、かつて人々は執着した。

 大陸は小国に分裂し戦争も絶えなかったが、あるとき絶大なる指導者・アルキスが現れ、アルキスの指揮する国により、大陸は統一された。

 アルキスは大陸統一と共に大陸全土を『アルキス王国』と改名し、自らが帝位についた。

 アルキスは憲法を制定し、以後この憲法によってアルキス王国は安定した勢力と国民からの支持を集めることになる。


 大陸が統一されてからは、今まで兵器の開発に向かっていた文明は一変し、人類の文明はよりよい生活を求める方へと、発達の一途をたどった。

 そして、王国暦1035年。

 人類はついに擬似生命体・アクトを完成させた。

 アクトは人工血液や皮膚もさることながら、限りなく人に近付けるため、人間と同じく食物を取れば排泄も可能で、傷の自己修復も可能となった。

 ただ、子供から大人までの成長を遂げることと、たとえ女性型のアクトであっても新たな生命を産み落とすことは、いくら技術が発達しても実現しなかった。

 けれども、今指摘した2点を除き、人間とほぼ変わりないまでにアクトは進化した。

 アクト食物をとることを可能としたが、活動エネルギーは体内の核で自動生成されるため、餓死・病死などのない半永久的な生命となったが、不老不死というわけではなく、人間と同様心臓部などを破壊されたりなどすれば死んでしまう。つまり、老衰で死ぬことが決してないというだけであった。また、核の寿命は技術の発達と共におおよそ150年ほどまで伸びた。

 アクトは自我を持ち、見かけは人間と区別がつかなかったため、人間たちと共に生活するのに苦労はなかった。

 やがてアクトは王国人口の約10%を占めるまでになった。


 しかし、王国暦1210年。

 国王サスカーは突如として『アクト排除法』を制定した。

 サスカーは王国全土のアクトを全て破壊すること、アクトの生産施設並びに研究所の閉鎖、破壊を命じた。

 議会は存在するものの、国王絶対のこの国で反発する者は殺される。そのため、国民たちは国王の決定した法律通りにアクトのほとんどを、法律制定後約3年で破壊した。

 中にはアクトに愛情を抱いていた者もおり、アクトを匿ったりもしたが、多額の賞金がかかったアクトを欲深い者たちが発見し、次々に破壊していった。

 そして、王国暦1230年。

 この世のどこにもアクトはいないと国民誰もが信じ始めた時間から、物語は始まる。



 第一章 記憶喪失の少女


「おじいさま、今日は薬草を採りにでかけてきます。」

「そうかい、気をつけて行くんだよ。」

「わかっています。毎日行っているのですよ。」

 深い深い森の中、森の中の家としては相応しくないような大きな家から、一人の少女が籠を片手に飛び出してきた。動きやすいピンクのワンピースを着て、軽い足取りで道なき道の中を進み、森の奥へと入っていく。

 腰まである長いストレートの金髪に青い瞳、白い肌。目鼻だちのはっきりした整った顔をしている。

 年齢は17歳。名前はユナ=アルキス。

 そう、彼女はアルキス王国々王・ケルス=アルキスの姪なのである。


 ユナが森の奥深くで生活しているのには、ちゃんとした理由がある。誰かに狙われているからであるとか、失脚させられたからではない、別の理由が。

 国王・ケルスには2歳年上の兄がいた。それがユナの父・ヴァリス=アルキスである。当然、現在はヴァリスが国を治めているはずだった。しかし、今から5年前、ヴァリスは王位についてわずか2年目で病に倒れ、亡くなってしまっていた。

 王位継承権はケルスとユナに同等の権利があり、一時は議会が王弟と王女の両派に別れ、王国分裂の危機さえあった。

 ケルスとユナは仲が悪かったわけではなく、むしろ良かったのだが、王位継承問題で当の二人よりも周囲が分裂を始めたので、結局はユナが身を引くことによってしか解決法を見出せなかったのである。

 ユナは再び王国分裂の危機が起こらないよう、首都エレンから遠く離れたディバの森の中でわずか13歳にして隠居生活を送ることになった。

 ユナは一人で生活するつもりだったが、それを心配したケルスはユナの教育係であった年齢が50も違うラムル=カリを生活の友としてつけた。

 普通王族は15年間は王宮内で教育を受け、その後の5年間で学院と呼ばれる大学のような学校で一般の人々に混じって勉強をする。その王宮内での勉学の担当していたのがラムルだったのである。

 文明の届かない森の奥で、ユナは定期的にケルスから送られてくる食料、衣類の他の薬などは全て自給自足にしており、畑で農作業をしたり、薬草を摘むことがユナの日課だった。

 ユナは祖父であるサスカーとほぼ交流を持ったことがなかったので、ラムルのことを『おじいさま』と呼び、一人身のラムルもユナを孫と同じような気持ちで接していた。

 ラムルは白髪の老人で、年齢こそ67だったが、身の回りのことはたいていできた。ケルスはそのこともちゃんと考えてラムルをユナにつけていた。


【ユナ、今日もいい天気だね。】

「そうね。雨期が終わったばかりだもの。これからしばらくはいい天気の日が続くわ。みんな、うれしそうね。」

【だって、雲もなくてお日様の光をたくさん浴びることが出来るんだよ。】

「みんながうれしそうだと、私もうれしくて楽しくなるわ。」

【僕たちもユナが笑ってくれていると楽しくなるよ。】

「ありがとう。」

【ねえ、ユナ。ここはもう薬草が少なくなってきたから新しい場所に案内するよ。薬草を採り尽くすと、次の薬草たちが育たなくなるからね。】

「わかったわ。それじゃあ、案内をお願いね。」

 ユナが会話をしているのは人ではない。木々たちである。

 ユナは心の中で木々と話すことも出来るが、今はユナの他に誰も人がいないので言葉を口に出して会話をしている。

 かつては誰もが木々や植物たちと話すことができた。それは植物に精霊が宿り、人との会話を仲介していたからである。

 しかし、あるとき突然精霊たちはこの世界から消えた。おおよそ100年前のことである。何の前触れもなく、原因もわからないまま人は植物たちとの会話を断たれた。一説によれば、人がアクトという疑似生命体を創ったからではないかとも囁かれたが、確証は何もなかった。そのとき既に人とアクトが共存し始めてから100年程度が経過していたため、関係ないとする声が大半を占めた。

 それ以来、人類の機械文明は自然の声に耳を傾けることが出来なくなり、加速度的に更なる多くの自然を犠牲にして発達していっていた。

 ユナの力は、精霊の仲介を必要としないで木々と話す力である。しかし、極弱いもので、木々以外の植物と話すことも、木を操ることも出来ない。

 ユナにその力があることを知っている者は、もうこの世にはいない。知っていたのはユナの母・ナトだけである。

 ナトにはユナと同じ力があった。しかし、ユナが自分の力をナトに言ってしまうまで、ナトは力のことは口にしなかったし、力があることをユナが話しても、それを自分以外の誰にも言わないよう、硬く口止めした。

 その理由をナトが語ることはなかったが、ユナなりにその理由をつきとめていた。

 ナトには双子の姉がいた。ユナの実の伯母に当たる人物である。名をミトと言い、ミトにもまたユナと同様の力があったという。ナトが王宮に嫁ぐ3年前から行方不明で、現在もまだ行方不明のままだった。そのミトの失踪理由が力のせいであったと、ナトは思っていたらしかった。

 ナトはもともと首都・エレンから遠く離れた商業都市・カーナで行方不明になる前まではミトと一緒に、それ以降は一人で暮らしていた。それをたまたまカーナを訪れた当時の王太子・ヴァリスに見初められ、王宮へと入った。

 アルキス王国には貴族という特権階級は存在しなく、王族以外の国民は全て平等な権利を持つ。そのため、王太子と身よりのない貧しい娘との結婚もさして議会から反対されなかった。むしろ、国民からはまるで童話のようだともてはやされ、アクト排除法により低下した王族の人気回復にも一役かっていた。

 しかし、反対しなかった人物がいなかったわけではない。その反対した人物こそ、アクト排除法を制定したヴァリスとケルスの父・サスカーだった。

 すでに結婚していたケルスの妻・レスカもさして裕福な家庭の出身ではなかったが、サスカーは全くと言っていい程反対しなかった。それだけに、ヴァリスとナトの結婚にサスカーが反対したことは、ヴァリスもケルスも驚いた。

 サスカーの表立ったヴァリスとナトとの結婚反対理由は、身寄りのない貧しい娘との結婚だから、というものだった。けれど、その理由は付け焼刃的で他に理由があるのではないか、とヴァリスは詰め寄ったがサスカーは何も語らなかったという。

 最終的にはヴァリスが押しきる形で、ナトとの結婚を決めてしまっていた。

 ユナが自ら王宮を出る決心をしたのは、父よりも祝福された結婚をしたケルスに王位を譲りたかった、という気持ちも作用していた。


「ここね。」

 木々たちに案内されたその場所は、森の中で少し開けた場所になっていた。日当たりの良いちょっとした草原になっている。木漏れ日ではなく、草原にめいいっぱい太陽の光が降り注いでいた。

 まだ人が足を踏み入れた様子はなく、草の背丈は今まで薬草を摘んでいた場所よりもやや高めだった。

【しばらくここで薬草を摘めばいいと思うよ。ユナの家からの距離はそんなにあるわけじゃないし。前のところよりは少し遠いけど。】

「そうね。でも、ここはすごくいい場所だと思うわ。それに、少し遠い方がみんなと話しができる時間が長くなるから、今まで以上に楽しくなると思うわよ。」

 そうして再び薬草を摘むために座ろうとしたユナの視界の端に、不意に草原には相応しくない物体が映った。

 ユナは座ることをやめ、その気になる物体が何であるかを確かめるため、それにゆっくりと近付いていった。

 そこにあった物体は、人間だった。うつぶせに倒れ、顔だけは横を向いている。見た目からは女性のようだと、ユナには感じられた。肩までの深い翠色の髪にスカートをはいているのだから、まず間違いないだろう。ユナと同い年くらいだろうか、まだ若い。

 服も髪も翠色なので、草原を見渡したときには草の色に溶け込んで瞬間的には気がつかなかったのだ。

 服はどこにでもあるようなワンピース、靴も珍しいものではない。おそらく、どこかの街の少女がディバの森に深く入り込みすぎて迷ったのだろう、とユナは考えた。

 それにしても、翠色の髪とは珍しい。おおよそ5000万人の人が暮らすアルキス王国全域でも100人いるかどうかわからないくらいである。眉毛もまつげも翠色なのだから、染めたわけでもなさそうだった。

 ユナが恐る恐る倒れている少女の首筋に触れると、暖かな人肌の熱を感じた。どうやら死体ではなさそうである。

【ねぇ、この人はいつからここに倒れているの?】

 ユナは少女を助け起こす前に木々たちに質問を向けた。もしかしたら倒れている少女に聞かれてしまうかもしれない、ということを考慮して言葉は心の中だけで紡がれる。

【昨日の夜からいるよ。】

【そう……もしかしたら、みんなはこの人を私に見つけて欲しかったの?】

【……うん。】

 木々たちが自ら望みを口にすることは少ない。以前にも今と同じようにディバの森に迷い込んだ人を木々たちが見つけ、ユナが助けたことが何度かある。

 ディバの森は広く複雑なので、年に数人の迷い人が出る。

【今年に入って二人目ね。どちらの方から来たのかわかるかしら?】

【上からだよ。】

【……落ちてきた、ということかしら?】

 ユナは不思議がりながらも言葉を続けた。

 木々たちが嘘をつかないことをユナは知っている。木々たちが話す言葉は、ユナにとって唯一そのまま信じられる言葉なのである。

【ううん。空中に突然現れたんだ。】

「えっ!?」

 ユナは驚き、その言葉は口からこぼれた。木々たちと話しながら驚いたり興奮したりすると言葉が口から出てしまうのが、ユナの癖である。

 現在の文明の力では物質の転送は不可能である。しかし、かつてそれを可能にしていた技術があったことを、ユナは知っている。

【まさか……魔法?】

 やや驚きの収まったユナは、再び心の中で言葉を続けた。

 かつて精霊たちの恩恵によって人間も使うことができた魔法。

 魔法の力があれば物質の転送だけでなく、燃料なしで機械を動かしたり、傷を回復させたりなどの様々なことが出来ていたという。

 それが、約100年前、精霊たちが世界からいなったことで失われた。

【僕、見たことがある。転送の魔法だよ。】

 魔法技術が失われて約100年。木々の樹齢は300年を越えるものもいる。当然、魔法を見たことのある木もいる。

【でも、魔法はずっと昔に失われたはずよね。】

【うん。でも、ユナは僕たちと話せるよね。今はもう僕たちと話せるのはユナだけになっちゃったけど、少し昔には他にもいたんだ。それと同じように、精霊の力を借りないで、今でも魔法を使える人がどこかにいるのかもしれない。この人がどこから送られてきたのかは、わからないけど。】

「そう……でも、この人は助けるべきよね。家まで運べるかしら。」

 ユナはその言葉を意識して口から放った。

 ユナはとりあえず倒れている少女の頬をはたいて、気絶状態からの立ち直りを期待した。

 何度か軽くはたくと、少女は少し顔を歪めたが、結局目を覚ますことはなかった。

「ここからだと家まで危険な道もないし、背負えば大丈夫そうね。」

 ユナは仕方なく、時間はかかるが倒れている少女を背負って家まで運ぶことにした。

 少女の脇に手を差し入れ、一番近い木の近くに移動させ、木の幹を利用してユナは少女を背負った。

 実際に背負ってみると想像以上に少女は軽く、元々農作業などで王女らしからぬ体力のあるユナであれば家まで運べそうだった。



「おじいさま、彼女の様子はどうですか?」

 長い時間をかけて倒れていた少女を家まで連れてきたユナは、自分のベッドの上に少女を寝かせ、医者の心得のあるラムルに少女を診察してもらっていた。ラムルは王宮にいた頃、ユナの教育係でもあったが、専属の医者でもあったのである。

 ラムルは若い頃から勉強家で、たくさんの知識を有している。それはユナにとって、とても頼もしいことだった。

「よく眠っている。心配は要らないよ。」

 ラムルはそう言うとベッドの近くに引き寄せていた椅子から立ちあがり、ユナのいる方へと体ごと振り向いた。心配そうなユナの表情を読み取ったラムルは、ユナを安心させるために少し微笑んでから、ユナと向かい合った椅子に座った。

「おそらく軽い脳震盪を起こしているのだろう。疲労も少しあるようだね。そのせいでユナが起こしても起きなかったのだろう。まあ、外傷も特にないようだから、しばらくすれば目を覚ますだろう。」

「そうですか。安心しました。」

 ユナはホッとため息をついて、表情を柔和にした。

 ユナは助けた少女が転送の魔法で森の中に現れたのだと、ラムルに言わなかった。そのことをラムルに言うことは、必然的にユナの力のことも話さなければならなくなる。ユナはラムルにさえ力のことを話していないのだから、そうすることは出来なかった。

「きっと道に迷ったのだろう。この辺りは、土地を知らない者は大抵迷う。」

「そうですね……」

 少女は転送の魔法で現れたのだから、道に迷ったわけではない。しかし、ユナはあえて反論しないまま言葉を流した。

 それに、ユナがほんの少しの嘘をついても、ユナは森に迷い込んだ人を何度か助けたことがあるのだから、ラムルが何かを疑うことはない。

「……ん……」

「起きたのかしら?」

 ベッドの上の少女がほんの少し発した声を、ユナは聞き逃さなかった。

 ユナは席を立ち、ベッドに近付いて少女の顔をのぞき込んだ。

 ユナがしばらく少女の顔を見つめていると、少女はゆっくりと目を開いた。

「大丈夫?」

 少女は目覚めたとたん、目の前にユナの顔があったことに驚いていた。しかし、その驚きが静まると初めて口から言葉らしい言葉が零れ落ちる。

「ここは……」

「ディバの森の中よ。あなたは森の中で倒れていたの。」

「ディバ……」

「そう、ディバ。首都のエレンからはとても離れているけれど、森を抜ければ大きな街もあるわ。セレスの街よ。あなたはその辺りから来たの?」

 ユナは少女が言葉をしっかり聞き取れるようにゆっくりと言った。

 ユナはまず最初に少女がどこからきたのかを聞いてみた。それが、ユナが最初に知りたかったことである。

「わたしは……わたしは……」

 少女は話しにくいというよりも、単語がのどまで出ているのに言えないようだとユナは感じた。そこでユナは質問を変えてみることにした。

「あなた、名前は?」

「わたしの名前は……ルシア……」

「ルシア?いい名前ね。私はユナよ。向こうの椅子に座っているのがラムル。ここで二人で暮らしているの。」

「ユナさんと……ラムルさんですか。」

「私のことは呼び捨てでいいわ。それより、他に思い出せることはあるかしら?」

 ルシアは瞳を閉じて少し考えたが、結局何も思い出せなかったように首を横に振った。

「ルシアはきっと記憶が混乱しているのよ。脳震盪を起こしていたらしいから。もう少し休んだら、いろいろ思い出せるわ。」

「そう……ですよね。」

 ルシアは少しだけ笑顔を見せると、そのまま再び眠りについてしまった。

 ユナはルシアを刺激しないよう、ゆっくりとルシアの側から離れ、もといた椅子に座った。

「どうだい、その娘は。」

 ラムルは年のせいで少し耳が遠くなっている。よって、今のユナとルシアの会話を聞き取れてはいなかった。ユナもそれは承知しているので、会話の内容をラムルに報告することを怠らない。

「少し記憶が混乱しているみたいです。でも、苦しそうでもなかったので、すぐに良くなると思います。」

「そうか。それはよかった。」

「ルシアという名前らしいのですけど、それ以外のことはまだ思い出せないようです。」

「なるほど。少し頭を強く打っていたのかもしれないな。まあ、心配するような要素はなかったから、すぐに回復するだろう。」

「ええ。それはそうと、私は予備のシーツと毛布を出してきます。今夜はルシアにベッドを貸さなければなりませんから。」

 ユナはたった今座ったばかりだったが、またすぐに席を立って部屋のドアノブに手をかけた。

「ユナは今夜、客間のソファーベッドで寝るつもりかい?」

「はい。せっかく眠っているのに、ルシアを今から動かすのはかわいそうですから。」

「そうか、風邪をひかないようにするのだよ。」

「はい。わかりました。」

 ユナはラムルに笑顔で応えてから、部屋を後にした。


 次の日、目を覚ましたルシアに記憶は戻っていなかった。

「外傷はないようだけど、予想以上に頭に強いショックを受けたのかしら?」

 朝食の席で、ユナはルシアに尋ねた。

 朝食はもちろん、食事の全てはユナが作っている。

 ユナがディバの森の中で生活を始めたばかりの頃、身の回りのこと全般をユナは何も出来ず、ラムルに迷惑ばかりかけていた。けれど、森での生活も四年経過すると、ユナはほとんど何でも出来るようになっていた。

「わからないです……ユナに会う前のことが全く思い出せなくて……名前以外は、何も……」

「何かをしようとしていた、何か大事なことを思い出せない、という気持ちはするかい?」

「いえ……何か心に穴が開いたような感じはするのですが、急いでいたような感じはありません。」

 ラムルの問にも、ルシアは首を横に振るばかりだった。

「年齢はだいたい私と同じくらいよね。服はどこにでもあるようなものだから、特別な場所に住んでいたわけでもなさそうね。」

「ええ……」

 ユナとルシアが並んでみるとおおよそ同じくらいの背の高さだったが、一般的に見ても細身なユナよりルシアは更に線が細いことがわかった。背の高さを考慮しなければファッションモデル並かもしれない。ただ、だからこそユナが背負えるくらいの体重だったのだと考えられた。

 幸い、とりあえずと貸したユナの服をルシアも着ることができた。

「珍しい髪色だから、そこから何かわかるかもしれないけれど……すぐには無理ね。名前も名字がわかれば調べようもあるのだけれど。」

「…ごめんなさい、本当に何も覚えていなくて……」

「なに、謝ることも心配することはない。名前を思い出しているのだから、時間がたてば他のことも自然に思い出すものだよ。」

「そうですか……でも、これからどうすればいいか……どこに行くべきか、わからなくて。」

「それなら、しばらくここで私たちと一緒に暮らせないかしら?」

「え!?」

 ユナの突然の提案に、ルシアは驚いて声をあげた。

 それと対照的に、ラムルは平常心を保っている。昨夜ユナから、

『もしルシアの記憶が戻っていなかったら、しばらく一緒に暮らしたい。』

 と言われていたためである。

 ラムルはその提案を快く引き受けていた。

 もしユナを暗殺でもしようとするなら、こんな若い華奢な少女が来るはずもないし、そもそも記憶喪失と偽ってユナに森の中で発見されるなどという手段を取るはずがない。

 2人が暮らす家は、場所を知っていてもきちんとした道順を知らなければまず辿り着ける場所ではない。偶然迷い込んだ人を助けたときも、近くのセレスの街に駐在している王国軍に連絡して自宅まで送り届けてもらっているが、同じ人が2度迷い込んだことはなかった。

 たとえ素性がわからなくとも、少女1人同居人を増やすくらいなら問題ない、とラムルは考えていた。

「私とラムルの二人だけの暮らしだから、今までは少し淋しかったの。だから、ルシアがいれば楽しくなると思うのよ。幸い部屋も空いているし、ルシアは私と体格が似ているから、服にも不自由しないわ。」

「でも……迷惑になりませんか?私は服以外の持ち物もなくて……」

「大丈夫よ。2人を3人にするくらいの余裕はあるの。あてもなくどこかへ行くよりも、ここにいた方がきっとルシアのためにもなると思う。」

 ユナは自然とその言葉が口にできたことが、少し不思議だった。

 本来なら、いつもの迷い人と同じ対応として、セレスの街の王国軍もしくは警察に身柄を引き渡すべきだし、やろうと思えばそこで身元を調べることも出来る。珍しい翠色の髪と瞳なのだから、軍や警察の力があれば簡単に身元がわかるかもしれない。それに、記憶が失われているのだから、病院に行って検査をしてもらうべきなのかもしれない。

 しかし、ユナはこれからルシアと一緒に暮らしていきたい、という気持ちがあった。

「ここでしばらく静養するといい。こんな緑ばかりの場所だが、その方が心も休まる、記憶も戻りやすくなるというものだ。」

「そうですか……それなら……」

 ラムルの言葉にも後押しされて、ルシアはうれしそうに首を縦に振った。


 それから半月。

 二人だった生活が三人になっただけなのに、ユナにとっては毎日の生活が何倍も楽しいものになっていた。今までユナの話し相手は、そのほとんどが森の木々たちであったので、同世代で同性の話し相手ができたことがユナにはうれしかった。

 おそらく、ルシアと一緒に暮らしたいと思ったのは、同世代の話し相手が欲しいというユナの心の奥にあった願いだったのだろう。

 もちろん、ユナはルシアと一緒にいないときは木々たちといつものように十分話をしていた。

 ルシアは次第に、ユナにとって失いたくない存在になっていった。

 ユナにとってうれしいことが多くなったディバの森での生活だったが、唯一の気がかりは、ルシアが依然として名前以外の一切を思い出せないでいたことだった。


「ルシアのことなのだがな、ユナ。」

「何でしょうか?」

 ルシアが風呂に入ったのを見計らって、ラムルはユナに話しかけた。

 夕食も終わり、一日で一番のんびりとした時が流れる時間。ユナは夕食後に飲んでいた紅茶のカップを片付けているところだった。

「少し、おかしいとは思わないかい?」

「どういう意味ですか?」

 ユナは心で少し動揺したが、表情には出さないように問い返した。

「そんなにむきにならないでおくれ。ただ、儂の意見を少し聞いてくれないか、と言っているのだよ。」

「はい……」

 ユナが表に出さないようにしていた表情も、ラムルにはわかってしまったようだった。伊達に長くユナと一緒に暮らしているわけではない。

「記憶というものは、ショックを受けて失ってしまった場合、ショックを受けた瞬間から近い過去ほど思い出しにくいものだ。場合によっては、過去全てを失ってしまうこともある。」

「それが、ルシアのことではないのですか?」

「いや、それが少し違う。」

 ラムルはいつになく真剣になって言葉を続ける。

「過去全てを失ってしまった場合、自分に関係していることを一つでも思い出せれば、連鎖的に他のことも思い出せるのが普通だ。たとえ、かなり昔のことであっても。ルシアの場合、助けたときに名前は思い出せていたわけだから、10日もすれば大抵のことは思い出せると、儂は思っていた。だが、ルシアは名前以外何も思い出せていない。これは極めてまれな例だ。」

「そうなの……ですか?」

「ああ。名前は自分自身で一番多く使う固有名詞なのだから、一番最初に思い出すのは至極当然かもしれない。ただ、それだけしか思い出せないというのは、自然な記憶喪失ではない予感がするのだよ。」

「と言いますと、故意に記憶を消されたと?」

「そうかもしれんし、そうでないかもしれん。」

「そうでない場合は何なのですか?」

「そんなに儂を責めないでおくれ。まだ儂としても可能性を並べただけで、結論を導き出せてはいないのだから。」

「すみません……」

 ユナは自分の口調が段々強くなっていたことに気付き、そんな自分を反省した。

 と、ユナがそこまで言い終わったとき、丁度ルシアが風呂から上がってリビングに向かって歩く足音が二人の耳に入った。その音が脳に伝達されるのと同時に、今までの二人の話は自動的に打ち切りとなった。


 その話がきっかけとなったのか、次の日、ユナにとって平穏な毎日の繰り返しを破る事件が起きた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ