喉を通らない
狐太郎が蝶花に惜しみなく現金を寄付したのは、大して面白い理由があるわけではない。
単にお金の使い道がなく、加えてカレーを食べてみたかったからだ。
加えて、蝶花が現実を見ていたからだろう。
もしも彼女がカレー屋を建ててそこで生計を立てるから貸してくれ、と言ったらもうちょっと悩んでいたはずである。
何が言いたいのかと言えば、カレーという料理を零から作るのは尋常ではなく難しいということだ。
というよりも、おそらくありとあらゆる料理の中でも、『なんとなく完成品を知っている』から逆算することが難しい料理であろう。
蝶花も狐太郎も、最初から知っていた。
どう考えてどう頑張っても、店で売るクオリティどころか、家で食べるクオリティにもならないのだと。
蝶花は返済の義務がある融資や投資ではなく、返済の必要がない寄付をお願いしたのだ。
そう、ある意味では……一灯隊のリゥイがイラついていたように、金持ちが趣味に無駄金を投じている、という認識であっているのだ。
最初っから上手くいくと誰も思っていないのに、大金が投じられてしまったのである。
「……」
そして、大金を受け取った自覚がある蝶花は、とても頑張った。
朝から晩までずっとカレーの試作を作り続け、さらに朝から晩までカレーの試作を食べ続け、朝から晩までカレーの臭いしかしない調理場に閉じこもって、朝から晩までカレーのことを考え続けたのである。
夢の中でもカレーを作り続けた彼女は、最終的に自分の心が病んでいることに気付き、ギブアップしたのだった。
物凄く憔悴した彼女は、やや赤いスープの入った鍋をもって、狐太郎の家を訪れていた。
それは明らかに大金を受け取ったことを後悔している顔であり、同時に様々な諦めがへばりついている顔だった。
「……ごめんなさい、これが私の限界だったわ。試作に試作を重ねて……ようやく出来上がったものがこれなんです。もしも改良しろと言われても、私は頑張れません……」
果たして誰が、彼女を咎められようか。
料理がちょっと好きというだけの女性が、朝から晩までカレーのルーを調合し続けるという苦行に挑戦すること。その辛さは、やつれた彼女を見れば明らかである。
(お金を渡さなかった方がいいかもしれない)
彼女が安請け合いしたこともそうだったが、狐太郎たちも安易にお金をどっさり渡したことを後悔していた。
任せたお金の額がとんでもなかったので、諦めるに諦められなかったのだろう。
彼女の苦悩を想うと、目の前のカレーが食えたものではなかったとしても、それはそれで仕方がないのだろう。
誰も咎める気にはならなかった。
「でも一応は……獅子子や麒麟も喜んでくれました。私にはこれがカレーなのかどうなのか、そもそもカレーとはなんなのかわかりませんが……料理にはなったと思います」
「……お疲れ様、よく頑張ったわね」
カレー鍋に憎しみさえ向けかけている彼女を、ササゲはねぎらった。
彼女はわかり切った不可能に挑戦し力尽きた、偉大なる先駆者である。
彼女が残した無数のレシピを参考にすれば、後世の人がもっとおいしいカレーを作れるようになるのだろう。
「そ、それじゃあ食べてみましょうか!」
クツロがカレー鍋を受け取って、皆に配り始める。
流石にお米はなかったので、麦飯であった。
麦飯のカレーを前に、一人と五人は一種の感動を得る。
(お金を払って労働をお願いするっていうのは、やっぱり大変なことなんだなあ……)
今までは使われる立場だったが、今回は使う立場だった。
しかもお仕事の代金ではなく、寄付金を渡しただけである。
にも関わらず、彼女の努力には身が震えた。やはり真摯な仕事は、心を打つのだ。
(しかしよくよく考えれば、俺が今まで食べてきたたくさんの料理も、元をただせばこれぐらいの努力が注がれていたんだよな……)
普段何気なく食べていた料理に対して、その料理を作ってくれた人に対して、感謝が欠けていたことを自覚する一同。
美味しい料理を食べて欲しい、そのために試行錯誤することは本当に大変なのだ。
「あの……」
とてもやさしかった蝶花は、疲れ果てた目で空虚な促しをしてくる。
おそらく、さっさと食べて欲しいのだろう。最悪罵倒されてもいいから、この苦行に区切りを付けたいようだ。
「あ、はい……」
慌てて食べる狐太郎。
それに続いて、四体も口に運ぶ。
さて、お味のほどは。
元より文句が言えるわけもないが、実際食べてみないと何もわからない。
できれば美味しくあって欲しい。そう願いながら、咀嚼して味わう。
「……んん」
久しぶりに食べた香辛料、スパイスによるパンチの利いた味。
それだけでも脳が揺さぶられるが、久しぶりの辛味に舌が驚いている。
そのうえで、いろいろと考えてしまう。
米ではなく麦だとか、そういう問題ではなく……。
自分が食べているものは、カレーなのかと考えてしまう。
蝶花がなんの達成感もなく疲れ切っているところを見るに、その理由もわかった。
つまりカレーだと言い切れる料理に仕上がらなかったところで、彼女は力尽きたのだと。
「……」
最大の救いとして、不味くはない。
ちゃんと食べられる味で、普段の食事にも苦労していた狐太郎にとってはそれだけでもありがたかった。
辛いと言えば辛いが、そこまで極端に辛くはない。刺激も感じるが、適度の範囲だ。
しかしはっきりと言えることがある。昔食べたカレーとは、結構ちがうということだ。
「あの……美味しいですよ、ええ、本当に」
狐太郎は、とりあえず褒めた。
実際これが料理として出てくれば、お金を払っても損をした気分にはならないだろう。
待っていただけなのだが、待った甲斐やお金を出した甲斐はあったと思う。
「正直に、おねがいします……」
「そ、そうですね……なんというか、洋食としてのカレーではなく……本場っぽいというか……本場の近所の味というか……?」
「そうですね……私もそうだと思います。どうしてもあの味に近づかなくて……」
もちろん『本場のカレー』が不味いとバカにしているわけではない。
ただ味の系統として、日本人の好むカレーには少し遠いということだろう。
遠い、或いは違う。
とにかくこれは、目指していたカレーではなく、カレーに似ている料理だった。多分ニュアンスとしては、『カリー』に近いのだろう。
「よくここまで作れたわね……凄いわ」
クツロが本心から褒めた。
仮にカレーの完成度というものがあれば、50パーセントぐらいはできている。
カレー粉を作り始めた素人にしては、ありえないほどの完成度だった。
期待していた以上に、カレーだった。
「よかったです……」
力尽きている彼女は、カレーを食べている面々から顔をそむけた。
おそらく、カレーなんて一生見たくないという境地に達したのだろう。
彼女のカレーへの想いは、これで完全に断ち切られたのだ。燃え尽きたともいう。
(犠牲が大きい……)
まあ考えてみれば当たり前である。
よくある異世界もの、或いは他の創作物では『便利キャラ』がどんなことでも一晩で仕上げてくれる。
しかも『歯ごたえのない仕事だった』とか『もっといいものを作ろう』とか『改良型を考えてみた』とか、そういう具合に更なる創作意欲を燃やしてくれる。
しかしそんな便利な人員が、そうそういるわけもない。ちょっと好きだとか、料理が趣味だとか、その程度の素人が一人で頑張ればこうもなろう。
普通に物凄くうんざりして、手を出したことに後悔するのだ。
それでもここまでやり遂げたのだから、彼女はとてもまじめで真摯な人物なのだろう。
「貴女は……立派な人間よ。私が認めてあげるわ」
「ありがとうございます……」
ササゲは彼女をハグして慰めた。
十分すぎる予算が、彼女の心を痛めていたのだろう。
(こういう時、人を雇えないと大変だよな……まあこの世界でカレーを知っていて作れる人がいるのなら、この苦労自体大して意味がないんだけども)
違う世界で新しいことをするのは、本来これほど大変なのだ。
狐太郎は改めて、彼女の成果を味わう。
「蝶花、少し聞きたいのだが。今回のレシピは、我らがもらうということでいいのだろうか」
「ええ……前からその約束でしたし……それだけのお金はいただけましたから」
「では材料の方は? 全部使いきったのだろうか」
カレーを食べている雪女という、とてもシュールな光景。
その彼女からの質問には一種の笑いが生まれるが、材料がどうなったのか気になるところである。
「それが……嫌というほど余っているんです。夢に見るぐらい……買い過ぎました」
(病んでいる)
「ただ、抜山隊をはじめとする他の方々にも、ご迷惑をかけたので用意しないといけないんです。そうなるとたくさん必要なので、結局は残らないかもしれません。ちなみにその分は、獅子子が作ってくれることになってます」
ある日いきなり物凄く美味しそうな匂いが漂いだしたと思ったら、それが毎日続いたのだ。
周囲の人間からすればさぞ迷惑だろう。確かに何かの形で御礼、お詫びをしたほうが今後のためになりそうだった。
「ここに来たのは、その許可を取るためでもあるんです。狐太郎さんはここの責任者なので、お話を通しておこうかと……」
「つまり、カレーの炊き出しか……俺はいいと思うけども……」
彼女の功績は、このカレー皿に乗っている分ではない。
この世界で市販されている香辛料と、この世界にある調理器具で、カレーのような物を作れたのだ。
今後は彼女の力を借りずとも、何時でもこの味を楽しめることになる。
お金さえあれば。
なので狐太郎としては、今ある分を使い切っても文句はない。
むしろ今は彼女の疲れ切っている姿がカレーに写りこんでいそうで、正直食欲を失っていた。
「ご主人様、一応は公女様に聞いておくべきでは」
「……そうだな」
コゴエの進言に、やはり従う狐太郎。
確かにこの前線基地の主は狐太郎だが、最高責任者は大公なので、その娘に確認をしておいた方が波風が立たなそうである。
かくて、狐太郎たちは血と汗と涙と空虚の詰まったレシピを手に入れ、公女リァンの下へ向かうのだった。
※
一灯隊の隊舎で生活をしているリァンに、レシピを渡しつつ状況を説明する狐太郎。
その話を聞いて、レシピを吟味するリァンは、ごもっともすぎる発言をした。
「別に構いませんが……正直に申し上げて、少し不安ですね。なにせ未知の料理ですし、お作りになった蝶花さんも、本職の料理人というわけではありませんから……このままでは許可できません」
(そりゃそうだな)
血と汗と涙と空虚のつまったレシピに対して『素人の危ない料理』という判断をするリァンに、しかし誰も文句は言えなかった。
確かに素人の創作料理なのだから、健康上の被害が出ても不思議ではない。
もちろん彼女たちも味見はしたのだろうが、彼女たちはなんだかんだいって体が頑丈なので、そこまで当てにならない。
この基地で働く一般の職員や、その子供たちが耐えられる保証はないのだ。
(その理屈だと、俺が一番ヤバい!)
今更自分の置かれた状況のヤバさを思い出した狐太郎。
未知のスパイスを『カレー味』になるまで混ぜただけなのに、無警戒で食べてしまった。
よく考えたら、とんでもない話であった。
(死ぬの? 俺死んじゃうの?)
今から胃が痛くなってきた狐太郎だが、とにかくこのままではカレーを皆に食べてもらうことはできないだろう。
安全性が確認されていない以上、公女の意見はもっともである。
「それじゃあ、毒見役が必要ってことかしら?」
「そうなりますね」
ササゲの確認に、無慈悲な肯定をするリァン。
これを人体実験と取るか、臨床試験と取るか。
まあ本質は同じものである。とにかくひ弱な人間に食べてもらわないと、安全性は確認できない。
「ではちょっと待ってくださいね、毒見の準備をしますから」
「すみません、お忙しいところに……というか、その……あの?」
「なんでしょうか」
「毒見役って、そんな簡単に揃えられるもんなんですか?」
この場合の毒見役とは、意図して混ぜられている毒を見つける係ではない。
実際に料理を食べてみて、体調不良になるかどうかを確認するだけだ。
だがそれでも、そうそう人数を揃えることはできまい。誰だって、安全性が確認されてから料理を食べたいはずだ。
「大丈夫です。死んでもいい人なんて、いくらでもいますから」
(それは大丈夫じゃないな)
※
「あのね、クツロ。元の世界のお話だとね、異世界で料理を作って感動してもらうパターンがあるの」
「そうなの?」
「うん。大抵は『こんなおいしい料理、初めて食べました』だとか『こんな御馳走を食べさせてもらえるなんて……』とか言って、『生涯の忠誠を誓います』とかそんな流れになるんだよね」
「私が言うのもどうかと思うけど、そんな簡単に一生の忠誠を誓っちゃって大丈夫なのかしら」
「本当だよね、クツロが言うと説得力ないね」
「ケンカ売ってるの」
現在役場では、狐太郎やササゲ、コゴエ達が協力して作ったカレーが並んでいる。
なんだかんだ言って、レシピがあれば一応は作れたのだが、それをふるまう状況になると少しばかり問題があった。
「ケンカ売ってないって……それよりもさ、とにかく元の世界の料理を食べてもらうとして……こんな状況は見たことがないなあって……」
「そうでしょうね」
役場の職員たちが、一灯隊に監視されながらカレーを食べている。
それはもう必死で、味わう余裕もなく涙ながらに食べている。
悪を憎む正義の心を持った一灯隊の隊員たちは、むしろ職員が食べるのを嫌がるか、何かの間違いで苦しんで死ぬことを期待していた。
正義とは時に、醜い一面も持っているのである。
「カレーを味わう余裕はなさそうね……」
「別に味わってもらう必要はあるまい」
ササゲとクツロは、普通の辛さで普通の量のカレーを相手に悪戦苦闘している職員たちに、哀れみの表情を向けている。
カレーの安全を確認するために食べていることがかわいそうなのではない、誰も助けてくれない状態になった彼らのこれまでの人生を憐れんでいるのである。
日頃の行い、過去の罪とはここまで人生に影響を与えるのだ。
(別の意味で体調が悪くなりそうだな……)
なお、食後数日が経過しても、職員たちは体調を崩すことはなかった。
狐太郎もまた体調を崩すことはなく、蝶花の苦心したレシピの安全性は確認された。
それを一部の者は残念がっていたが、ともあれ一般の職員にもカレーが振舞われることになったのである。
一般の職員たちにはカレーは好評だったので、その点だけはよかったと思うしかない狐太郎たちであった。
しかし、これでめでたしめでたし、とは終わらない。
今回の騒動における被害は、カセイで起きていたのである。




