天網恢恢疎にして漏らさず
その光景は、ハンターたちを茫然とさせるには十分すぎた。
自分たちが必死になって倒した、敗北さえ予感させた強大な虎。
その親玉が、百足の化け物に食い破られていく。
その百足の、長いこと、多いこと、速いこと。
膨大な足を使って、虎の体をはい回る。ただそれだけでもおぞましいが、見る間見る間にその量を増していく。
山のように巨大なはずの虎は、いつのまにか膨大な量の百足に包まれて見えなくなってしまった。
ショウエンは悟った。
如何に人間が、愚かな生き物であるのかを。
先日の竜たちは、この森に近づこうともしなかった。
最初こそ、情けないと思った。神聖にして強大なるAランクの竜が、姿も見ていない大百足如きに怯えているのだから。
彼らは、正しく、賢かった。
こんな化物の住処の近くに町なんぞを作り、さらに被害を抑えるために基地まで建てたのだから。
なぜ、近づかないということができなかったのか。なぜ、存在を知った時点で逃げないのか。近寄らない、逃げる、遠ざかる。その程度でこの化物の脅威がなくなるのなら、とっととそうするべきだったのに。
改めて、この地に正規軍がいない理由を悟る。
この森の主ともいえる大百足には、何も通じない。
力が通じないだけなら、まだいい。だがしかし、この化物には命乞いさえ意味を持たない。
言葉が通じるとか、通じないとかではない。仮に大百足が人語を解したとしても、絶対に何も受け入れてくれない。
強大を極める野生の下等生物は、ただ貪っている。
あまりにも純粋な捕食者は、もはやそれ以外の一切を感じられない。
この化物が、交尾や産卵、睡眠をすることさえ想像できない。
この世のすべてを砂漠に変えて、食べるものがなくなるまで食らい続けるところしか想像できない。
自分たちは、食われて死ぬ。
自分達よりもさらに強大なビッグファーザーでさえ、抵抗できずに食い荒らされている。
であればどうして、自分たちが生き残れるのだろうか。
自分たちの積み重ねた、多くの日々。
確かにあったはずの個性、矜持、特有のなにか。
それらが一切意味を持たずに、ただ小さい肉として食われる。
そこには、恐怖さえない。
絶望だけが、そこにあった。
「ショウエン、よく頑張った」
我を取り戻すきっかけになる声が、傍らから聞こえた。
「君たちの試験は合格だ、もう下がるといい」
「……ジョー隊長」
この基地で長く戦ってきた男、白眉隊のジョー。
地面にひれ伏していたワイバーンにまたがっている自分を、優しく励ましてくれていた。
「私は……」
ようやく、彼の偉大さに気付く。いいや、全員の偉大さに気付く。
この基地でハンターとしての任務をこなすことが、どれだけの地獄かようやく思い知った。
「さあ、下がるんだ」
改めて、周囲を見る。
各隊の古株は、試験を終えた新人たちを抱えて下がっていた。
幸いエイトロールは、巨大な虎をむさぼり続けている。まだいくばくかは、安全な瞬間が存在していた。
「……はい」
命令に従う。
それは決して、ただうっとうしいだけではない。
何をしていいのかわからないときには、もはや救いの言葉にさえなりえる。
「ありがとうございます」
「礼を言われることはない、さあ下がろう」
下がる。
それで救われる。
まるで新兵のように茫然としているショウエンは、己の配下や竜と共に下がっていく。
そして、彼は必然的に見た。
自分たちが目をそらしている側、見たくもないもの、知りたくもなかった怪物。
それに向かって、迎撃の体勢を取っている者たちを。
「またコレね……嫌になるわ」
大鬼、クツロ。
「相手は野生動物だ、愚痴ったところでどうなるものではない」
雪女、コゴエ。
「愚痴ぐらいはいいじゃない。こんなのとまた戦うんだもの」
悪魔、ササゲ。
「……ようし、頑張るぞ!」
そして、火竜、アカネ。
知識として知っている。
他でもない彼女たちは、自分の妹の前でこの化物を葬ったのだと。
一国を平らげても飢え続けるであろう化物でさえ、彼女たちにとっては既に倒した相手だ。
その姿の、なんと頼もしいことか。
「グァン、ヂャン! 公女様を後方へ下がらせろ! 治療をお願いしたい、という名目で下がらせるんだ! いいな、公女様を不要な危険に晒させるなよ!」
「ははは! リゥイ! 建前を建前だって言ってどうするんだよ、バカじゃねえの?」
「もう、喧嘩しないの。で、どうするの? あなたがやるの、ガイセイ」
ジョー以外の三人もまた、その迎撃戦線に加わっていた。
怯えることもひるむこともなく、泰然として戦況を見ている。
「無茶を言うなよ、シャイン。いくら何でも、アレは無理だ」
この基地でも最強を誇るガイセイ。
その彼をして、戦う気も起きない怪物。それがエイトロールだった。
「俺がアレを倒せるようになるんなら、とっくにAランクを名乗ってるさ」
「ま、そうよね」
文字通り骨の髄まで食い荒らしているエイトロールは、もはやわずかとなったビックファーザーの残骸から離れつつあった。
そして既に倒されている二体のインペリアルタイガーや、十体以上いるタイラントタイガー。千にも及ぶであろうデスジャッカルの死骸に食いついていく。
しかし、それはほんの一瞬で無くなってしまうだろう。
「わかりきったことをぐちゃぐちゃ聞いてるんじゃねえよ、シャイン。俺に恰好が悪いことを言わせたいのか?」
「ま、少しはね。貴方普段から大きな顔をしているんだし、たまには謙虚なことを言わせたいじゃない」
誰もが、余裕を持っていた。
当然である。この基地の全戦力が、この場に集まっている。
エイトロールが強大を極める、この森最強のモンスターだったとしても。
この森のハンターが全員そろっている基地に攻め込むなど、自殺でしかない。
「結果的に、ではあるが……君がいるときでよかったよ。シャイン」
「ええジョー様、任せてちょうだい。私も新人たちの前で、派手なところを見せたいしね」
後方へ下げられていく新人たちは、しかし壁の中には入らなかった。
全員が城壁のすぐそばで待たされ、戦いを見学するように言われている。
もちろん、城壁よりも強大な化物を相手に、逃げ込むことの無意味さは知っている。
だがしかし、それでもこの化物を視界に収めたくなかった。
そして、新人たちは改めて知る。
この基地にいる、ガイセイに勝るとも劣らぬ怪物の存在を。
「フィフススロット!」
当代きってのスロット使い、蛍雪隊隊長シャイン。
その拘束能力は、Aランクの上位に位置するベヒモスさえ抑え込む。
「バインド! スロー! スティッキー! ショック! ドレイン!」
それは決して、ベヒモスが彼女にとって与しやすいわけではない。むしろ逆で、彼女はベヒモスをこそ苦手としていた。
あまりにも大きく、あまりにも重く、あまりにも力がある。それを縛り付けることの難しさは、彼女ほどの実力者でなければ理解できないだろう。
相性が悪い上で、彼女はベヒモスを相手に足止めができるのだ。
であれば、相性のいいエイトロールならばどうということはない。
「ヘルプリズン!」
残っていた肉片を食い荒らし、いよいよ人間たちに食らいつこうとしていた、大百足の群れ。
その百足たちは、食事に夢中で気付いていなかった。周囲にいた、人間たちが逃げていることを。
魔女であるシャインの、スロット技に隙間はない。一切遠慮なく、十重二十重の包囲網を形成する。
拘束属性、減速属性、粘着属性、衝撃属性、吸収属性。
それら五つの属性を複合させたエナジーの網が、大百足の塊に絡みついていく。
「まあ私は殺すことなんてできないから、抑えるのがやっとだけど……逃がさないわ、一頭もね」
シャインは、全力で相手を押さえつけていた。
逆に言えば、彼女一人が全力を出すだけで、すべての大百足は抑えられていた。
大百足は、必死になって大量の足を動かす。
しかし、全く意味がない。すべての足が粘着性の網にからめとられているので、どれだけ動かしても剥がれることはない。
顎をがちがちとかみ合わせても、複雑に組み合わさっているエナジーの網には何の意味もない。
Aランクモンスターの体さえ噛みちぎる咬筋力も、やわらかくねばつく網には無力だった。
もちろん、大百足には最後の手段がある。
胴体すべての関節を外し、そのぶんだけ分裂するという大技だ。
追い詰められたことを理解した大百足は、反射的にそれを行う。
だが、それも意味がなかった。
分裂したことによって、一体一体が軽くなる。それは事態を悪化させるばかりで、さらにがんじがらめになっていく。
「凄い……」
蛍雪隊の新入り、コチョウは見入っていた。
もともとシャインは優れた力を持つ才媛だと知られていた、魔女学園を卒業した有望株だと聞いていた。
軍などから勧誘を受けていたが、すべて蹴ってこの前線基地に来たと本人にも確認している。
だがまさか、ここまで凄いとは思っていなかった。
「さ、て、と。はっきり言うけど……この拘束、そう長くはもたないわ。この技が切れたら、それはもう悲惨なことになるでしょうねえ」
大百足は常に物を食べ続けなければ餓死してしまうという。
ほんのわずかな絶食にも耐えられず、自食や共食いをすることもあるらしい。
しかしそれほどの期間、抑え込むことはできないだろう。
「仮に半端な攻撃を仕掛ければ、私の拘束が緩むでしょうねえ……できれば一撃で吹き飛ばすのが望ましいけど……お願いできるかしら、アカネちゃん」
だが、抑えてしまえばあとはどうとでもなる。
そんなことは、古株の誰もが知っていることだ。
ここにはAランクの中でも上位の火力を持つ、四体の魔王がそろっているのだから。
「うん、任せて!」
三体は下がり、アカネが前に出る。
その背後には、今更ながら、怯えている狐太郎がいた。
「ねえ、ご主人様。これからタイカン技を、レックスプラズマを使うけどさ……見るの、初めてだよね?」
「ああ……初めてだ」
「死んじゃわないように、気を付けてね。私……ご主人様には死んで欲しくないから……それに、嫌な思いもしてほしくないし」
アカネの言葉を、狐太郎は真摯に聞いている。
はっきり言えば、さっさと殺してほしかった。タイカン技でもなんでも使って、目の前の化け物を一掃してほしかった。
だが、今彼女が話したがっているのなら、話に付き合うべきだ。狐太郎はそう思っていた。
「……なあ、アカネ。もしも俺がお前の尻尾を踏んづけたら、お前は怒るだろ?」
「うん」
「でもまあ、嫌いになったりはしないだろう。俺がちゃんと謝れば、わざとじゃないって思えば」
「うん」
「だからまあ、俺ももう怒ってないよ。それぐらいのことは許すさ、仲間なんだから」
「うん」
比較にならないほどの強者が、比較にならないほどの弱者から許される。
そのコミュニケーションを見て、各々に察するものがある。
「……やってくれ、アカネ。タイカン技、レックスプラズマを使うんだ」
「わかった! 行くよ! 下がってて!」
憂いを振り切って、アカネは拳をぶつけ合わせる。
「人授王権、魔王戴冠!」
人間らしい部分のあったアカネが、一瞬にして竜王へ姿を変える。
「タイカン技、竜王生誕!」
火竜王が、その本性を露わにした。
その後ろ姿を見た竜たちは、平伏するように頭を垂れた。
竜の天敵、それに挑む姿は余りにも勇壮である。
人に従う竜たちは、それへ敬意を示さずにはいられなかった。
「ご主人様、こちらへ……」
「アカネの本気、ヤバいわよ……近くにいるだけで焼け死ぬわ」
「アカネ、好きになさい! ご主人様は私たちに任せて!」
竜王の威容を、新人たちはほとんど知らない。
リァンとブゥは大百足と戦うことも含めて、一度は見たことがある。
だがしかし、彼女の全力を見たことはない。
竜王になったアカネの、すべてを出し切る全力の一撃を、まだ見たことがないのだ。
「……ねえ、麒麟。タイカン技は負荷が凄いと聞くわ、援護しましょうか?」
「ああ、そうしてくれ」
ショクギョウ技、侵略すること火の如しが奏でられる。
それは技のポイントを少しずつ回復させ、なおかつ攻撃に様々な補正を加えるもの。
威力を上げるだけではなく、膨大な負担を和らげるものだった。
「隊長、私も炎の精霊で援護します! 火竜のブレスなら、補助ができますので!」
「おねがいするわ、コチョウちゃん!」
「では!」
高熱を発し始めたアカネに向かって、炎の精霊が向かっていく。
アカネの周囲で踊り回り、その熱が無為に放射されないように調整していく。
アカネは自分の熱に耐えられるが、なんのダメージも負わないわけではない。だが炎の精霊が援護をすることによって、自分の熱による自傷は軽減されていた。
「みんな、ありがとう! これなら前よりも……いける!」
もはや炎の枠にさえ収まらぬプラズマが、彼女の体内に蓄積されていく。
竜王であるアカネの真骨頂、魔王の中でも最大最強の一撃が、発射体勢に入っていた。
そしてそれは、待ちに待った補助役を得たものである。
竜は鬼と違って、自己強化技を持たない。だからこそ他者からの強化がより意味を持つのだが、今日まで彼女はそれを得ることがなかった。
そしてそれを得た彼女の一撃は、Aランクのモンスターが山になっても消し飛ばせるものである。
「タイカン技! レックスプラズマぁあああああああああ!」
タイカン技、レックスプラズマ。
それは通常の命中率がゼロパーセントという、単独では当てることもできない必殺技である。
相手をなにがしかの状態異常にするか、あるいは拘束するか、ないしは攻撃が命中する補正を得るか。
そのいずれもアカネは使えないため、本当にロマン技とされる過剰な技である。
だが今は、山となった大百足が固定されている。
先日のベヒモスに比べれば、あまりにも脆い百足の塊。
あらゆるものを焼却、消滅させる高熱の奔流がアカネの口から放たれ、一瞬にしてすべてを貫通していく。その閃光は、周辺にある物体を一切合切蒸発させていった。
耐えることも防ぐことも、再生する余地も残さない滅亡の咆哮。
それはビッグファーザーを食らったことで肥大化した大百足を、影も残さずに消し飛ばす一撃だった。
※
「ふぅ……いい感じ! 他の人に助けてもらったから、前より全然楽だよ! これならもう一回は撃てそう!」
「そ、そう……よかったわね」
「炎の精霊ちゃんのおかげで、熱がご主人様まで行かなかったみたいだし! これなら今後もバンバン撃てるね!」
「う、撃たずに済めばそれが一番だけどね……」
嬉しそうなアカネが、シャインに話しかけていた。
タイカン技を撃った後とは思えない程楽しそうな彼女に対して、シャインは顔を引きつらせている。
一度は目にした最強の一撃だが、二度目だからと言っても慣れることはない。
アッカを知る彼女をして、このバカげた火力は表現する言葉が思いつかないほどだ。
「ご主人様~! 見てくれた? どう、凄いでしょ、私のレックスプラズマ!」
「まぶしくて全然見えなかったけど……跡がヤバいな……」
レックスプラズマの射線上には、煮えたぎる溶岩だけがあった。
もちろん地面奥深くのマントル層に達したわけではない、周辺の土が高熱で溶解しただけのことだ。
「えっへん! 後で褒めてね!」
「今も褒めるよ」
「じゃあ近づいていい?」
「駄目だ」
「ちぇ~~」
今アカネに踏まれたら、人間が虫を踏んだような状態になってしまうだろう。
それでなくても、今のアカネは発射直後のレールガンのようなものだ。超高熱を帯びており、彼女の足元は地面が煮えている。
今は炎の精霊によって熱の放射が抑えられているが、直接触れればその限りではないだろう。
「今のが、魔王の力……勇者が倒した、魔王の力か……そして、彼ら自身が倒した相手の力でもある」
「ええ……想像を絶するわね」
「こんな強い子と戦わなくてよかったわね~~……」
文字通り絶望感が吹き飛んだあとで、アカネたちのことを知る麒麟たちは理解していた。
なるほど、これはAランクである。今の一撃であれば、流石のガイセイも耐えられないだろう。
これぐらい強いモンスターが四体もいるのだ、ガイセイを押しのけても一切不思議ではない。
「今のが、アカネさんの本気……」
「う、うわあ……」
リァンもブゥも、言葉が出なかった。
先日見た氷山も大概だったが、これもまたぶっ壊れている。
シュバルツバルトを貫通する威力は、世界の終わりを予感させるものだった。
あらためてであるが、ランリを殺しておいてよかったと思う。
こんな化物を他の誰かに預けることになったら、熾烈な争奪戦に発展していただろう。
「……素晴らしい」
思わず兜を脱いで、ショウエンは敬意を示していた。
もちろんアカネは彼らのことを見ていないが、さながら王のパレードを見る臣民のように、そうせずにはいられなかったのだ。
普段は明るく人懐っこく、悪く言えば威厳のないアカネ。
だが少々の援護を受けただけで、このバカげた力を発揮することができた。
まさに竜王、竜を従え竜を導く、火の竜王だった。
「あの咆哮を見れば、竜たちが挨拶をしに来るのも当然か……」
その時である。
先ほどまでは明るかった空が、急速に暗くなり始めた。
『お見事でございます、竜王陛下。忌まわしき大百足を薙ぎ払う咆哮、まさに王の御業かと……』
天空から、黒い雲が下りてくる。
その雲を纏う者は、まぎれもなく竜だった。
『恐れながら、この老いぼれ。その姿を空より拝見させていただきました……人間の群れを率いての大百足退治、末代まで語り継ぎましょうぞ』
角は鹿、頭はラクダ、目は鬼、腹は蜃、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛。
首から腕の付け根、腕の付け根から腰、腰から尾までの長さが、それぞれ等しい。
まさに、三停九似の姿は、龍以外の何物でもない。
『先日、若い者が無礼をしたこと、お詫びに上がりました。上より失礼いたします、わたくしめは俗世にてドラゴンズランドと呼ばれる地の長老を務めますもの』
ビッグファーザーにも劣らぬ巨体を持った竜が、その顔を大地にゆっくりと下ろしていた。
『この地にては、雲を縫う糸と呼ばれております。どうぞ今後、ごひいきに』
ここではクラウドラインと呼ばれる、Aランクのドラゴンであった。




