ダモクレスの剣
さて、狐太郎が悪魔を率いて各地を巡ったことは、記憶に新しい。
しかしこの『記憶に新しい』というのは、最近起きたことという意味以上に『よく覚えている』とか『忘れたくても忘れられない』という意味もあるのではなかろうか。
少なくとも、狐太郎に復興作業をお願いしていた貴族の男は、夜寝るたびに悪夢にうなされていた。
彼だけではない、彼の一家も朝一緒に食事をするたびに『みんな悪夢を見たんだなあ』という具合でわかり合っていた。
そういう顔をして、食事をしている。はっきり言って、あんまり食欲がわかないほどだった。
妻も娘も、恨みがましい目で夫をにらんでいる。
しかしながら、夫の顔は開き直ってさえいた。
「私も辛いのだ、お前たちも我慢しなさい」
魔法の呪文であった。
実際同じ場所で同じものを見たのだから、彼にはこれを言う権利もあるだろう。
問題なのは、妻や娘からすればとばっちり、ということだ。
「そうは言いますけど……あんな思いをするぐらいなら、帰っていただいた方がよかったのではないですか」
「あれだけの軍勢を引き連れていらした方に、帰っていいですよ、はないだろう」
ごく常識的な発想だが、遠征には費用が発生する。
端的に言って、ただ呼んで、来てもらうだけでも大きな出費を負担してもらっているのだ。
そのうえで帰ってもらうというのは、相当にリスキーである。
というか、後日正式に費用を請求されかねない。
「まあそれにだ……悪夢を見るぐらいで済むのなら安いだろう」
そういって、彼は窓の外に手を向けた。
妻と娘はそちらを向くが、そこには何もない。
もちろん、窓の外の、その先にも何もない。
「覚えているか、四冠閣下がいらっしゃるまで……多くの陳情が来ていたことを」
当主は、その、何もないことを示したのだ。
「もしも狐太郎様がいらっしゃらなければ、今頃暴動に変わっていたぞ」
当主は表情からして真剣だった。
実際に見た記憶のフラッシュバックとはいえ、実際に殺されるわけではない。
暴動が起きれば、自分たちは殺されていただろう。
「結局のところ……あの方が何とかしてくれたから『ああ無視されているわけじゃないんだな』と納得しているのだ」
そういって、貴族の当主は朝食である、皿に盛られた麦がゆをスプーンですくう。
お世辞にも豪華ではない、おいしいわけでもない食事である。
だがそれは、飯が食えている、という証でもある。
今のご時世では、これも十分ではない、という家もあるのだ。
そんな彼らが、飯のありそうなところへ襲い掛かっても、そりゃそうだとしか思えない。
「我らには、斉天十二魔将も討伐隊もいない。せいぜいBランクハンター程度で、それも今は休んでいる。身の安全を第一に考えれば……気を病むぐらいは安いものだ」
間違っていない、と当主は窓の外を見る。
そこには誰もいないが、誰もいないということ自体が成果である。
自分が現実として、狙われていない。その事実が、悪夢から覚めたことを実感させてくれる。
仮に暴動が始まっていれば、夢の中で殺されて、目が覚めても安心できなかっただろう。
それに比べれば、悪夢単品など安いものだ。
(まあそれに……)
当主はちらりと、給仕たちの顔を見た。
彼ら彼女らは、領地から雇った人間であり、当然家族が近くで暮らしている。
その家族へ、彼らは何を語っているだろうか。
この弱り切っている、悪魔へ代償を支払い、その後遺症に苦しむ自分たちをどう語るか。
(不愉快だが……道化を演じる程度で命が助かるなら、安いものだな)
領主たちは、悪魔との取引で苦しんでいる。
毎日悪夢に侵され、朝目が覚めるたびに疲弊している。
それを民が聞けばどう思うか。
立派だと思うかもしれないし、それぐらい当然だと思うかもしれないし、ざまあみろと思っているかもしれない。
だが少なくとも、大多数の民は責める気を失うだろう。
それは道化の振る舞いだが、死ぬよりはマシである。
※
さて、その狐太郎である。
現在彼は、カンヨーで身辺整理を始めていた。
その一環として、ホーチョーと話をしている。
現在彼はメギュロの坊ちゃんを、教育しなおしているところだった。
「それで、どうですか? やはり重労働に耐えかねていますか?」
「いやいや、なかなかどうして踏ん張ってますよ。坊ちゃんっていうほど若くないですけども、後がないってわかってるんで、気合を入れてるんでしょうねえ」
パンが焼けなくてもパン屋のオーナーにはなれるが、それで間違った判断をするのならオーナー失格である。
少なくとも、専門家の意見を全部無視するのは論外であろう。
「ですがねえ……パンを作っている時も、僕の考えた格好のいい経営に神経を回してる感じですねえ」
「オーナーを目指しているのですから、そういうものでは」
「ですがねえ……マジで話にならねえ」
ホーチョーの顔は、極めて深刻そうだった。
「今すぐ高級パン屋を開いたって、客はこねえ。それならいっそ、別の看板で安いパンを売ろうって言いだしましてね」
「結構なことじゃあありませんか、私はいいと思いますよ」
「いえ、それがねえ……サカモの奴を、今後も無償で借りようって腹なんですわ」
「……」
思わず、狐太郎は苦笑いをした。
「魔境の雑穀自体は、まあそんな珍しくはねえんです。貧者の蔵以外にも、探せばちらほら。実際低ランクのハンターは、それを生業にしていることも多いそうで。ですが逆に言って、もう他所の縄張りってわけで。例外は貧者の蔵ぐらいのもんです」
食える、というのは正義である。
雑穀というのはお世辞にもおいしくないが、食えるならそれだけで価値はある。
それこそ低ランクハンターにとっては、いいお小遣い稼ぎだ。
そうやって低ランクハンターが採取した雑穀を買い取って、そこでパン屋を開く……というのなら現実的だろう。
真面目に研究すれば、そこそこの味になるはずだ。
かなり安くてそこそこ美味いパン屋、というのはそれなりのニーズが期待できる。
だが坊ちゃんは、かなりずれていた。
「今後もサカモを無償で借りて、農民を安く雇って、定期的に採集させて、それでパンを作ろう。そうすれば人件費も抑えられる……って、俺頭いいだろう? って面でほざくんですわ」
「……もしも殴っていなかったのなら、殴っておいてください」
「安心して下せえ、全員で殴っておきました」
もしも坊ちゃん本人が強くて、彼が戦闘能力を無償で提供して、それで貧者の蔵から定期的に採集を行うのならいい。
だが他人の善意で商売をしようというのは、はなはだ不愉快と言わざるを得ない。
「てめえ、タダで仕入れたもんに値札つけて売るつもりかボケ! ってね」
「なんかもう、経営以前の問題ですね」
「突飛なことをして大逆転、っていうのをやりたいんでしょうがねえ……それがもうアホだ」
ホーチョーは改めて、狐太郎を見た。
「やっぱ狐さんの爪の垢を煎じてのませてやれば、ちょいとは頭が冷えるんですかねえ」
「冷えませんよ……きっと貴方たちから評価してほしくて、必死なんですよ」
「そういうところを、見習ってほしいんですがねえ……」
狐太郎が中間管理職として特別優秀か、と言えば誰もが否と応えるだろう。
基本受け身であるし、上や下から任されたタスクをこなすだけの男でもある。
間違っても、特別優秀ではない。
だがしてはいけないこと、に関しては理解している。
命じてはいけないこと、に関しては把握している。
「……狐さんがその気になれば、ドラゴンズランドの長老さんたちにも声をかけられたでしょう。そうしていれば、戦争自体を防げたかもしれないってのに」
「……そうですね。ですがそれは、できませんでした」
「いえ、いいんですよ。咎めちゃいません。人間様の事情に、ドラゴン様を巻き込んじゃあいけません」
例えばジューガーが狐太郎の立場にいれば、葛藤の末にドラゴンズランドへ戦力の派遣を要請していただろう。
もしもそれが実現していれば、昏はたちどころに壊滅し、そのままカンヨーにたどり着いて、アッカを解放し、そのまま戦争を終わらせていたはずだ。
もしくは、精強なドラゴン軍団を見て、昏が引いていた可能性もある。それならそのまま、チタセーも諦めていたはずだ。
だがこの仮定には、重大な欠陥がある。
そもそもそんな考えの者では、ドラゴンズランドと太い関係を維持できなかった、ということだ。
ある意味でドラゴンズランドは、祀や昏と立場が近い。
自身たちは圧倒的に強大でも、英雄一人で壊滅する戦力に過ぎないのだ。
もしもうかつに人間の戦争に全面協力すれば……現在の遠い関係を維持できなくなり、のちに人間の英雄が殺しに来る可能性もあった。
それを思えば、協力を取り付けようとすること自体が、彼らから嫌われる原因になっていただろう。
「結局ねえ……人を雇うってことがよくわかってないんですよ、あの人は。経営のプロが聞いてあきれるぜ」
(いやあ、そうとも言い切れない……)
人件費を極限までカットしようとか、人を無償でこき使って稼ごうとか。
そんな経営者があり得ないとは、狐太郎には言えなかった。
もちろん、そんな経営者の末路は知れたものでもあるのだが。
「そ、それで……いかがですか、カンヨーの復興具合は」
「厳しいですねえ……」
ホーチョーは、ゆるくねえ、とは言わなかった。
ゆるくねえ、どころではないのだろう。
「カンヨーだけがどうにかなったわけじゃねえ、たくさんの街が焼かれたんだ……復興もえいやとはいかねえさ」
それを聞く狐太郎の顔は、とても心苦しそうである。
狐太郎も本当は、自分の持てるすべてのコネを駆使して、この国を救いたいのだ。
だがそれをしないからこそのコネであるし、そもそも狐太郎自身は全く何も支払えない。
ボランティアというのなら、狐太郎に従う者のほとんどは無償の奉仕者なのだ。
(まあ……仕方ないよなあ……)
狐太郎は、そう言い聞かせる。
結局この国の問題であって、狐太郎の仲間にとっては他人事なのだから。
(現実は……甘くない)
ふと、狐太郎の脳裏にある光景が浮かんだ。
幼き日にプレイした、モンスターパラダイス7の第四ステージである。
(都市経営、農家経営シミュレーションゲームは……ある程度発展したらやることがなくなる。だがそれはゲームだからであって、実際にはそこからが本番だ。計画都市を完成させたところで、それは話を終わらせることにならない)
ただパンを作るだけ、ただ都市を復興するだけ。
ゲームなら楽しいこと、苦しくも危なくもないことが、現実ではただ辛い。
それを感じつつ、狐太郎は……。
(もういいや……)
さすがにもう、付き合いきれない。
身辺整理を終わらせようと、真剣に考え始めていた。
今回は短いです、どうかお許しください




