君子は器ならず
現在央土の西方軍は、ある程度仕事が落ち着いていた。
まとまった残党を排除し終え、さらに搾取されていた民の解放も終わっていた。
もちろんそれでも治安維持やモンスター退治などで忙しい日々を送っているのだが、一応の安定期に達したのである。
その彼らの元に届いたのは、はっきり言って迷惑な報せだった。
元征夷大将軍である狐太郎が、アッカの妻たちを護送してくるというのである。
アッカの妻たちがここへ来ることは、彼らにとってさほどの意味がない。
愛する夫の元へ来たいという気持ちもわかるし、何ならこのまま西方に定住しても不自然なことではない。
問題なのは、狐太郎である。
大部分が元王都奪還軍で構成されている西方軍は、はっきり言って狐太郎を嫌っている。
そのうえで一応は敬意を表した迎えをしなければならないため、ものすごくあわただしくなってしまうのだ。
これで好意的になれ、という方が無理であろう。
とはいえ、アッカも彼の配下の将軍たちも、これを拒むことはなかった。
そもそも強硬に反対できるほどの大義もなく、上から下まで大騒ぎしながら、なんとか迎える準備をしたのである。
さて、到着の当日である。
遠方から膨大な悪魔の群れが近づいてきており、狐太郎の到着を予感させるものだった。
兵士たちからすれば見慣れたものであり、特に思うところはない。
というよりも、彼らの長であるアッカがいるので、最悪のことが起きても問題ないと思っているのだろう。
狐太郎は征夷大将軍を引退したが、それは役目を終えてのこと。
それゆえ名目上はアッカの上であり、彼は将校とともに彼を迎えようとしていた。
その状況で、若い将兵が素直な疑問を口にしたのである。
「……狐太郎閣下の偉大さは疑うわけではありませんが」
彼の疑問は、周囲の将校や三人の将軍、アッカの耳に届いていた。
「なぜ閣下には、あれだけの偉業が叶ったのでしょうか」
不敬ともとれる発言ではあるが、それは曲解であろう。
前置きでしっかりと『偉大さは疑わない』と言っているし、そもそも悪魔の群れが見えているので、これで大したことねえなとは誰も思わない。
それに、彼の疑問はもっともだった。
元討伐隊の面々はともかく、王都奪還軍から彼の配下になった者たちにすれば当然の疑問である。
「狐太郎閣下はご自身の力こそありませんが、強大な配下を従えておいでです。それもモンスターだけではなく、英雄さえも率いておられた。なぜ……それができたのでしょうか」
三人の将軍、およびリゥイの補佐であるグァンとヂャンには答えにくいことだった。
ちゃんと理由はあるのだが、それを自分たちの口からは言いにくいのだ。
適当にごまかすことはできる。何なら『私語は慎め!』と怒鳴りつけることだってできる。
だが当然の疑問過ぎたので、黙らせることは忍びなかったのだ。
なのでどう説明したものかと考えていると、あろうことか一番付き合いの短い男が返答した。
「なんだ、お前も征夷大将軍になりたいのか? 俺たち四方の将軍を顎で使える立場になりたいのか?」
圧巻のアッカが、意地悪く笑いながら話始めた。
「い、いえ、そのようなことは……」
「わかるわかる……あんなに虚弱な亜人の兄ちゃんへ、俺たち英雄が跪いているんだもんなあ。自分もその立場に収まりたいよなあ」
「わ、私には荷が勝ちすぎます!」
「ごもっとも」
わざとらしくおどけるアッカだが、彼にはちゃんと回答があった。
「ま、そりゃあ気になるわな。あんな兄ちゃんが国背負ってたんだもんなあ」
「アッカ閣下は、その理由をご存じで」
「ああ、大事なことだから他の奴らもよく聞いておけよ」
アッカと狐太郎は前任と後任の関係だが、任期はかぶっていない。
だが同じ将兵を率いた仲でもある。それゆえに、アッカは狐太郎への理解が深い。
「まず雑に言って……あの兄ちゃんが無難だったからだ」
雑極まる言葉だったが、討伐隊の面々は無言で頷いていた。
その一点において、討伐隊は共通の認識をしている。
「この無難ってのはな、変なことしないって意味だ。大事だろ、それ。特に独裁権を持っている、征夷大将軍閣下にはな」
「……おっしゃる通りです」
「例えば俺を、征夷大将軍にしたくないだろ?」
「おっしゃ……私には何も言えません」
「はははははは!」
圧巻のアッカは大笑いした、心臓に悪い笑いだった。
まさに、無難から遠い男である。
「俺やガイセイ、オーセンはそういうところがある。有能ではあるし仕事もきっちりこなすが……周りからすればムカつくし、何かしでかしそうな雰囲気がある。失敗するとか負けるとかじゃねえ、職権乱用しそうな雰囲気があるだろ? ま、俺の場合は雰囲気じゃないんだがな!」
まさに、雑に言って無難の対極であった。
自分で申告しているように、独裁権を与えたくない男である。
「他人に嫌われてもいいって思ってる奴はな、怖いんだよ。わかるだろう?」
「……」
「その点、あの兄ちゃんやジョーみたいな奴は、しでかさないという安心感がある。勝つとか成功するとかじゃなくて、馬鹿なことをしないという安心感がな」
これには、ジョー以外の全員がうなずいた。
これには、ジョーが困る。征夷大将軍をやらされていたかもしれないのだ、今からでも背筋が凍る。
「ま、王都奪還戦での作戦を知ってる奴は思うところもあるだろうが……あれも最善の策ではあった。チタセーの爺さんには読まれちまったがな」
(なんで読まれたんだろう……)
「俺は王都に居たんで、上空の風向きから察するところはあったが……アレは岡目八目って奴だしな」
(この人も読めてたのか……)
アッカの言葉を聞いて、討伐隊の面々は背筋が震えた。
やはり大将軍には、弱点などない。あれだけの奇策も、わずかな手掛かりから読まれてしまうのだ。
「もちろん討伐隊に長期間参加していたってのもある。だがそれを言うなら、討伐隊一番の古株で、ウンリュウを討ち取った、俺の弟子ガイセイでもいいはずだ。そうなってないってことは、そういうことだ」
疑問提起してきた若い将校の肩に、アッカは自分の大きな手を置いた。
「出世したいなら、周りから危険視されない男になれ。率先して損を請け負い、嫌でも我慢できる男になれ。大変だろうが、そういう奴じゃねえと周りは支持してくれねえぜ」
いいことを言っているが、アッカ大将軍自身は無難からほど遠い模様。
「……お、お前が言うなって顔だな」
「そ、そんなことは……」
「今言ったのは、征夷大将軍とか十二魔将主席様とか、そういうレベルのことだ。まあ普通は大将軍でも過分、将軍でも十分だもんなあ……なら損を請け負わなくてもいいかもなあ?」
「か、閣下、ご勘弁を」
「はははは! 私語はこれぐらいにしておくか! そろそろ四冠様のご到着だもんなあ!」
さすがは年の功、だろうか。
あるいはガイセイの師匠ということだろうか。
無難な着地点を用意して、そこで終わらせた。
(さすがはアッカ様……自分を卑下することで丸く収めるとは……)
(この方も大将軍を任せられるほどの人ということか……)
(こういうところをガイセイが真似したんだ、全く勘弁してほしい!)
アッカ直属たる三人の将軍は、それぞれに反応を示す。
ここで意見が一致しない辺り、アッカの人柄や将軍たちの人柄が出ていると言えるだろう。
だが反発するほどでもなかった。
場が収まったこと、この場の将校たちの疑問が解けたこと、教訓を与えられたことは事実だ。
有能である、と自称するだけのことはある。
「……んん?」
そう、彼は有能だった。
多くの将兵たちが歓迎の為に並んでいる状況で、彼が真っ先に『それ』へ気付いた。
「お前ら!」
彼の叫びが、気の抜けていた将兵たちの耳に響く。
「全員、出るぞ!」
突然の号令である。どこへ、なぜ、いま突撃するのか。
何事かと混乱する将兵たちだが、遠く見える悪魔の群れに異変を見た。
膨大な悪魔の編隊が、一瞬停止し、一点へ集合したのである。
その直後、英雄にも劣らぬ膨大な悪魔のオーラが吹き上がった。
王都奪還軍がよく知る、ブゥ・ルゥが英雄二人と戦ったときの状況である。
悪魔のオーラは恐ろしいが、味方であると知っている。
問題なのは、なぜブゥが全力で戦う体勢になったのか、だ。
「閣下、ご家族がおられるのです。先行なさって……」
「バカ野郎が!」
ジョーの気遣いを、アッカは黙らせた。
「俺に気を使うなら、とっとと軍を動かせ! いつまで俺を、ハンター扱いしやがる!」
「……お許しください!」
大将軍に弱点はない、少なくともそう思わせなければならない。危うく思われても、本当に危うくてはいけない。
重責を背負う男は、損を飲み込み、大将軍としてふるまっていた。
もちろんそれは、狐太郎という護衛を信じてのことではあったのだが。
※
老後がどうとか寿命がどうとか、そんなことは些細であろう。
この世界ではそんなことを考える余裕などなく、意味もない。
たまたま偶然モンスターに襲われて喰われることもあろうし、戦争に巻き込まれて死ぬこともある。
ただ生きて死ぬことの、なんと難しいことか。
どれだけ強大なモンスターを従えて、どれだけ強固な守りを作っても。
英雄一人に食い破られる、それがこの世界の摂理である。
「定住民族はよく、我ら北笛の民を『荒野をうろうろしていて、よく会えるな、話ができるな』などというが、会うべきものは会えるのだ。うろついているわけでもないし、ただしがみついているわけでもないのだからな」
あと少しでアッカの待つ地に着くという段で、一行は英雄に遭遇していた。
Bランク上位の猛獣二体を従えている、北笛の大王テッキ・ジーンである。
「巡り合う者は、巡り合うべくして地を走るのだ。そうは思わないか、四冠よ」
「……北笛のお方ですか」
「いかにも。北笛の大王、テッキ・ジーンという」
アカネ、コゴエ、クツロは既に魔王となって警戒態勢となっている。
ササゲも勢力を率いてブゥの中に入り、英雄さえ圧倒する怪物へと転じていた。
少々時間を稼げば、圧巻のアッカが軍を率いて現れるだろう。それを想えば、絶体絶命なのはテッキ・ジーンの方であろう。
だが、テッキ・ジーンの振る舞いは堂々たるものだった。
大将軍に弱点がないのならば、北笛の大王にも弱点はないのだろう。
いや、足手まといがいないのだから、ウンリュウやチタセーの時よりも厄介かもしれない。
サカモに乗っているアッカの家族をかばう形で布陣している魔王たち、その隙間に立つ狐太郎は彼と対峙する形で、声を張り上げながら話をしていた。
「先日は……メズヴが世話になった」
「そのことについては、もうすでにエツェル様から言われておりますが」
「ああ、知っている。とはいえ……やはり貴殿に会ったからには、それを言っておきたくてなあ」
狐太郎は緊張を禁じえなかった。
この男なら、自分を殺しアッカの親族を浚い、そのまま北笛へ逃げ帰りかねない。
それが叶いそうな雰囲気が、圧倒的な全能感をまとっている男だった。
「この度は、どのようなご用件で」
「用件? ははは、ずいぶんと急ぐものだな。俺が急ぐならまだしも、そちらが慌てるとは」
狐太郎としては、今まさに寿命のろうそくが燃えていく感覚を味わっていた。
激しい風にさらされて、身を削りつつも火を消すまいと踏ん張っている感覚だ。
「まあ……そちらを困らせることは、本意ではない」
それを、テッキは感じ取っていた。
そしてその燃焼を、彼は決して嘲らない。
少なくともスカハやイーフェのような、無様ではないからだ。
悪い恐れ知らずとは鈍感のことであり、よい恐れ知らずはやせ我慢である。
今彼は、己に恥じぬ行いをしている。それを笑うことを、彼は良しとしない。
「用件を手早く済まさせてもらおう」
何を誇りに生きているか、は重要ではない。
その誇りの為にどれだけ真剣になれるか、それこそが重要なのだ。
「さあ……」
北笛の大王は、その大きな手で一人の背中を押した。
とても優しく、野花を愛でるかのように。
「は、はい……」
促されて歩いてきたのは、小さな少女だった。
その姿を見て、狐太郎も四体の魔王も驚く。
どう見ても、楽園の住人と同じ人種だった。
そう見えるというだけでも、自分たちの同類であることは明らかである。
「あ、あの~~……」
その彼女は、とんでもなく困っていた。
ちょっと案内をしてもらうだけだったのに、ものすごい緊張状態に至っている。
(こんな大ごとになるなら、一人で来ればよかった……!)
国境紛争が始まりそうな状況になるなんて、彼女は想像もしていなかった。
しかし一国の王が他国へ入るのだから、本来はこれぐらいが妥当なのだろう。
彼女もまた、楽園の住人。国境というものを、軽く考えすぎであった。
「わ、私は、ノゾミと言います……は、八人目の英雄の、仲間です!」
「!」
普段なら相当迷ってしまう言葉だが、今はあっさりと口から出ていた。
下手したら魔王と英雄の大バトルが始まってしまいそうなので、悩んでいる場合じゃないと判断したのだろう。
「あ、貴方は楽園の英雄ですか!」
「……ええ、まあ」
「私、この世界で行く当てがないんです! よろしければ、そちらに行かせてください!」
「……まあいいよ」
狐太郎も、これには混乱である。
話が早いのは結構だが、それが過ぎて困惑してしまった。
困惑と混乱が極まったからこその、即断即決だった。
(どうでもいい……)
(どうでもいい……)
一触即発の状況が過ぎて、ノゾミも狐太郎も余裕がなかった。
以前に千念装が見つかったとき『じゃあどうでもいいじゃん』という結論が出たように、楽園の世界の厄ネタもこの世界では些細なことだった。
「ははは、よかったなあノゾミ。それじゃあ……よっと」
テッキはノゾミの襟をつかんで、ぽいっと放り投げた。
「え……きゃあ!」
放物線を描いて、まるで小動物を投げるように放るテッキ。
今までの彼の振る舞いからすれば、少々浮いた行いである。
何事かと思ったその時、宙に浮かんでいるノゾミは、あるいは狐太郎たちは見た。
「サンダークリエイト、デウス!」
轟雷の槍が、放電を漏れ出させつつ、テッキの元へ衝突した。
北笛の大王テッキ・ジーンは、それを慌てることもなく片手で受け止める。
それこそただボールをキャッチしたかのような、涼しげな対応だった。
「お……おおぉ!?」
だがしかし、受け止められてなおその電撃の勢いは衰えない。
テッキ・ジーンの掌の中で暴れ続け、その体を焼き焦がそうとする。
「これは……アッカ様だ!」
悪魔の巣窟と化したブゥが、その闇で仲間を守りながらそう口にする。
それを聞いた、アッカの家族たちは……。
「え?」
最強だとは聞いていたが、実際に戦ったところを見たわけではない。
だからこそ、その攻撃には目を奪われていた。
「これが、アッカ様の……あの人の力?」
圧倒的強者、英雄の中の英雄、王の中の大王。
北笛のジーン、テッキ。
その彼をして、片手では手に余る雷撃。
それは狼の上に乗っていた彼を、遠くまで吹き飛ばした。
「おおおお!」
弾き飛ばされた先で、電撃がさく裂する。
膨大な電撃が大地を蒸発させ、さらに高熱で草木を焼いていた。
「まったく……ジロー様もガクヒも……仕事しろって話だよなあ……!」
対話をしていた相手を、横っ面から殴りつける。
卑劣ともいえる行いをした男は、妻や子供たちが見たこともない怒りの表情をしていた。
「北の王様、三人とも密入国してきてるじゃねえか、なあ!」
膨大な軍勢を率いている、西の大将軍。
彼の後ろには討伐隊に属していた精鋭も多く控えているのだが、そのすべてが背景に思えるほど、彼個人の持つ圧力が並外れていた。
「これで俺やオーセンへ真面目にしろって言ってるなら……もはや自虐入ってるよなあ!」
ここまで味方や一般人を震えさせてきた、狐太郎一行。
その面々が、思わず生唾を呑む程、この男が恐ろしかった。
「なあ、狐太郎閣下よう!」
「……俺!?」
いきなり話を振られた狐太郎は、思わずひるんだ。
「はははは! まあ言いたいことはわかるが、あの二人のことをあまり悪く言わんでほしいな」
そして、味方を恐れさせる最強を前に、敵だけは慄いていなかった。
テッキ・ジーンとその仲間である二体は、臆することなくアッカと向き合っていた。
「あの二人を否定すれば、それを倒せなかった我らの立場がない」
「てめえの体裁なんぞ、知るかボケが!」
ここに来て、狐太郎は自分が周囲からどう思われていたのか納得した。
(よかった、後は全部アッカ様に任せよう……)
超恐ろしいが、その分頼もしい。
大将軍、英雄の存在意義、その利益を享受していた。
「猛々しいなあ、アッカ。アレックスから聞いた話とは少し違うが……」
蒸発した大地、その煙の中から、平然としたテッキが現れる。
電撃を受け止めた彼の掌はわずかに黒く染まっているが、本当にソレだけである。
せいぜい火傷程度の、塗り薬で治る程度の傷だった。
「ははあ、あの獣に乗っている女や子供かな?」
「そうだが、なんだ?」
「なるほど……お前たちは家族を置いて出ることが多いそうだな、そういうことか」
「そうだが、なんだ……って言ってるんだが?」
どの雄でも、どの男でも、自分の妻や娘が危ういのなら鬼気迫るだろう。
ましてや最強の男なら、その覇気は計り知れない。
「そそられる」
それを、笑う男がいる。
およそ万人が想像する、野卑で下品で傲慢な蛮族がいる。
そういう、英雄が、ここにいる。
「ブゥ君」
「……はい」
ヤバい奴だ、狐太郎がそう思ったのも無理はない。
エネルギーの総合値だけなら、アッカにも劣らぬ怪物ブゥ・ルゥ。彼へ静かに指示を出す。
邪悪な男らしさを持つ、男の中の男を、アッカと二人がかりで倒そうとしていた。
「ひぅ」
おもわず、アッカの妻たちが恐れおののいた。
王族に生まれ、およそ貞操の危機に陥ったこともない彼女たちは、狙われていることを具体的に理解していた。
もしもこの男の掌中に入れば、どうなるのかを本能的に理解した。
「が……くくく……今日のところは帰らせてもらおう」
「……なんだ、帰るのか。俺が怖いか、ブゥが怖いか?」
「それもあるが……俺はやると決めたら、全力だ。寄り道の感覚で女を奪うなど、趣味ではない」
もしもことに及ぶのならば、北笛の大王としての全力で臨む。
良くも悪くも男らしすぎる、遊牧民の王。
彼は悠々と撤退を決めた。
「今日はそのために来たわけでもない、獲物がいるとわかっただけで十分だ」
「……もう二度と」
争わずに帰ろうとする英雄を、留めようとする英雄。
「もう二度と、ここに来たくないって、思ってから帰れ」
「それはないな、我らはいつでも……行きたいところに、足跡を刻むのだ」
テッキ・ジーンの掌から、無色の光がほとばしる。
それは彼自身の穢れさえ吹き飛ばして、世界を白く染めていく。
「浄化属性具現技……!」
それは、毒を越えた殺傷の輝き。
英雄が放つ、滅菌の一の撃。
「ブリーチ!」
世界が白く染まる、という言葉が誇張ではなかった。
遊牧民族の王、浄化の技。
それが放たれた後には、白く消毒された、命の存在しない大地があるばかりだった。
「……ちぃ」
そう、二体の獣も、北笛の王も、そこには残っていなかったのだ。
それを見て、苛立たしそうにアッカは舌打ちをする。
去ってくれてよかったという安堵はない、殺しておけばよかったという悔いがあった。
とはいえ、英雄同士の衝突は、未然に防がれた。
英雄ならざる者たちは、それに安堵することしかできない。
「……こんな人だったんだ」
絶望のモンスターは、世界の広さに唖然とするのであった。




