おひざ元
この世で最も価値があるもの、それは安全である。
安全な水、安全な食料、安全な住居、安全な地帯、安全な街、安全な空気。
枚挙にいとまはなく、同時に価値の保証でもある。
安全とは限らない水、安全とは限らない食料、安全とは限らない空気。
どれもが極端に価値が下がる。
そこで、このベネである。
東威の中央に存在しているが、時系列からすれば話はまるで異なる。
まずこのベネがあり、そこを中心に東威という国家が出来ていったのだ。
山に囲まれた盆地に存在し、周囲には大小さまざまな魔境がある。
しかしそれでも、このベネは全く安全であり続けた。
この地を治める者の神通力で守られているとも言われる、この世界でも数少ない完全なる安全地帯。
東威の中央にあるため、他の国が手に入れたがることは稀だった。だがその一方で、この地へ滞在した者たちは、誰もがこの国の建物の古さをみて、『ここは本当に人の世界なのか?』と驚いていた。
誰もが欲しがり、しかし誰も手に入れられなかった聖域。
それが東威の都、ベネ。
ここで危険であるものは、人間だけだろう。
誰もがそう思っていた、実際にはまったく違うのだが。
※
この地を治める女性、ヒミコ。
彼女を水路へ沈めた女性は、手に入れたものに酔いしれていた。
「ヒミコは顔を隠している、御簾の向こうにいる、護衛も侍従を付けず一人でいる……あははは! これで私が顔を隠せば、私がヒミコに成り代われる」
ヒミコの屋敷へ忍び込むことは、そこまで難しくなかった。
彼女の屋敷は大きな壁に囲まれており、いくつかの大きな一階建ての建物があり、それらが廊下でつながっている。
当然、ヒミコ専用の区画があり、そこへ入り込むまでが大変だった。
だがいったん入り込めば、もう問題なかった。
外の守りが固いほど、内側の守りは薄くなってしまう。
「まったく……ヒミコさまは質素な生活をしていたのね。てっきり金銀財宝、男や女がいっぱいかと思ったけど……まあいない方が好都合ね」
ヒミコに成り代われば、この絶対に安全な都の中でも、さらに安全な場所を得られる。
平和が過ぎて警備が緩くなっているのが問題だったが、たいしたことではないだろう。ヒミコの神秘性を維持するために、ヒミコ自身の守りが少し薄くなっているが、そんなものは一つ指示すれば簡単に解決できる。
自分の守りを厚くしろ、と言って不信感を抱くものなど一人もいまい。いたとしても何だというのか、『私がどうなってもいいと?』とでも言ってやればいいだけだ。
「ああ、これで英雄さえも私の思うまま……私はたった一歩で上り詰めた……この国の頂点に」
東威全体は確かに疲弊しているが、今回の戦争に参加しなかったベネの陣営は力を保っている。
よってこのベネを守る英雄も健在であり、当然発言権も大きい。事実上、この国の頂点と言っていいだろう。
「酒も、色も、財も……何もかも、私のもの……防人も豪族も衛士も、英雄さえも私に逆らえない。誰もが私に従うのよ!」
誰もいない、ヒミコの聖域。
そこで悦に浸る彼女は、楽しげに聖域を踏み荒らしていた。
その気になれば、『なんでも』用意させられるが、命令することさえ煩わしかった。
今ここにあるものを、今すぐ欲しい。
彼女は荒らしに荒らし、ようやく数個の酒だるを見つけた。
もちろん、最高級の酒だった。
奉納されるほどの銘酒であり、どれだけ大金を払っても買えるものではない。
製造される段階で既に『予約』が入っており、誰へ納めるのか決まっているのだ。
「さあて……これからいくらでも飲める、いくらでも味わえる……私にふさわしい一杯の味はいかがかしら」
樽の中の酒を、小さい盃に入れる。
浴びるように飲んでもいいぐらいなのだが、一滴さえもこぼすまいとしていた。
「ふふふ……この酒のすべてが私のもの、それはこの国が私のものになったということと同じ」
まさか毒が入っているのでは? などとは思わなかった。
この都の中でも一番安全な屋敷の、一番安全な区画の、一番の貴人の酒。
それを彼女は、極めておいしそうに飲み干した。
「ああ……これが頂点の味」
今まで味わったことのない味だった。
味というのは個人の好みなのだが、高貴な人間の好む味は、彼女にとって未体験だった。
これがおいしいのかどうかもわからない、だが味わったことのない酒こそ、彼女の求めたものだった。
安い酒しか飲んだことのない自分が、未知の体験をしている。
その欲求が満たされ、彼女は満足していた。
「あ……あ?」
ごぼ、と口の中から水があふれてきた。
「あ、え?!」
胃液があふれてきたとかではない、もっと膨大な水が口から吹き出し始めた。
それは必然的に、彼女の呼吸をふさいでいた。
「?!」
おかしなことだった。この国の頂点が飲むべき酒に、毒が入っていたとしか思えない。
自分と同じようなことを考えたものがいて、それに自分が引っかかってしまったのかとも思っていた。
(うそ……!)
こんなはずではなかった。
誰もがありがたがるものを引きずり落とし、水路へ捨て、成り代わったはずだった。
にもかかわらず、同じことを考えている者に、事故のように殺される。
そんなこと、認められるわけがない。
「あ~あ~……ずいぶんとはしゃいだみたいじゃない」
水を吐きながら板間でもだえる女性、その水たまりの上に、別の女性が立っていた。
「私ね、けっこうきれい好きなのよ? なのにこれは……嫌になるわねえ。貴女が掃除してくれるわけじゃないでしょう?」
ごぼごぼと、自分の体積以上の水を吐き続ける彼女は、酸素の足りなくなりつつある目で、その女性を見上げた。
(そんな?!)
殺したはずの女、ヒミコだった。
一瞬悪夢かと思ったが、実際に彼女はそれを認識している。
「嫌ねえ……」
現れたヒミコと思しき女性は、おぼれている女性を中腰で観察していた。
「ま、いいわ。この屋敷にいる重臣たち……すごく優秀な人たちだから、育てるのも大変なのよ。その人たちにひどいことしなかったってことで、許してあげる」
ヒミコはにっこりと笑った。
そして彼女の衿をつかんで、ずるずると引きずっていく。
「何度も何度もおぼれさせるのは、まあもうぶっちゃけ面倒だから……このまま溺死させてあげる」
引きずられる女性は、なんとか抵抗しようとする。
だがしかし、鼻からも口からも水が出続けて、まったく息が出来ない。
もがくことしかできず、踏ん張るなど夢のまた夢だった。
「じゃあね」
ぶんと、ヒミコらしき女性は力任せに放り捨てた。
ただそれだけで、水を吐き続け、おぼれ続ける女性は宙に舞い上がった。
しばらく上昇したのち、落下。落ちた先は、くしくも水路であった。
(いや! 私は、この都を、ベネを手に入れるの!)
地上でおぼれていた彼女が、水中に入ればどうなるか。
やはりおぼれる。
不思議なことに水中では息ができる……ということもない。
むしろカッパでもいるのか、という具合に水中へ引きずり込まれていった。
(は?!)
そして、自分がヒミコを捨てた水路の水中で、彼女は信じがたいものを見た。
自分は確かに、ヒミコを殺した。そしてこの水路に捨てたはずだ。
ならばこの水路には、ヒミコの死体が沈んでいるはずだった。
(なんで……!)
そして実際に、水中に、ヒミコの死体が存在していた。
浮き上がることもなく、沈み切ることもなく、幽霊のような『立ち姿』で水中を漂っている。
(なにが、どうなって……)
生きているのか死んでいるのかの違いこそあれども、そこには自分を水路へ捨てたヒミコと同じ顔の女がいた。
(ヒミコは……二人いたというの?!)
ありえなくはないことだった。
三つ子や四つ子はともかく、一卵性双生児程度ならありえることだ。
この世界の住人ゆえに、しばらくは保っていた意識。
それがどんどん薄れ、消えていく。
この都のすべてを手に入れたと思った女性は……同じようなことを考えた数多の先人と同じ末路に至っていた。
「はあ……これが大人になるってことかしらね。溺死をさせても面白くなくなってきたわ……いえ、昔はこう……仕事の溺死も楽しかったけど、最近はもうそうでもないっていうか……趣味で溺死させたいわね。仕事でやってるとつまらなくなるってやつかしら」
そして、自分を殺して水路へ捨てた下手人を、逆に溺死させて水路へ捨てたヒミコ。
裸だった彼女はしっかりとした足取りで自分の家の中を歩き、着替え始めた。
「もうこのさい、この屋敷の守りを厚くしようかしら……でも昔それやって、屋敷にいる大臣とか護衛とか全員殺されたことがあったのよねえ~~……」
その愚痴は、人を殺したことに何の感慨もなく、この都を奪い返したことへの感動もなかった。
それもそうだろう、そもそもが間違っている。
水の都ベネは、彼女の所有物ではない。
彼女自身こそが、水の都ベネなのだ。
否、もっと正確に言えば、ベネは彼女の一部でしかない。
「私は死なないけど……人は死んじゃうのよねえ……」
彼女の持つ、二重の特異体質。
その片方、治癒限界のない肉体。
彼女は魔力がある限り、他者からであれ自分自身であれ、再生に限界がない。
理屈上は、肉片からも再生できる、血の一滴からも復活できる。
だがそれは机上の空論だ。たかが血の一滴に、人体を回復させるほどのエネルギーが詰まっているわけがないし、自主的に回復させるなど不可能だ。
であれば不死を得るには、もう一つ特異体質が必要だった。
それこそが、ノベルと同系統の資質。
水の精霊との完全親和。
ノベルが様々な大地へ変身できるように、彼女は全身を水へ変えることが出来る。
攻撃を受けても、水になることで回避することが出来る。
だがそれでも、まだ足りない。
水路の中にヒミコがいて、ここに彼女がいる理由にならない。
なによりも、下手人が飲んだ酒の中にある『水』から復活した理由に説明がつかない。
「ま……万全の警備なんてないしね……仕方ない仕方ない。私に割くリソースは、出来るだけ別のことに使わないとね」
魔王軍四天王、準丙種モンスター、エンシェントウンディーネ『人殺雫』ローレライ。
プリンセスがサキュバスと融合したように、ムサシボウが死霊と融合したように、彼女は膨大な水の精霊と融合している。
これによって彼女の肉体は、本来の体積に収まらない。
限界こそあるが、支配下に置いている『水』のすべてが彼女の肉体であり、その水の一滴がある限り再生できる。
そして水は、水路や池、川や瓶の中にあるばかりではない。
酒の中にも、人間の中にも存在している。
ブウやプリンセスと違い強化上限があり、ノベルと違い蓄積限界もあるが、人に見える『姿』を殺しても、どこからでも、好きな時に復活できる。
今回は下手人が酒を飲んだタイミングで、胃の中の酒から復元したが、そもそも彼女の身体を構成する水分の中からも復活できる。
もちろんそれは、依り代になった人間自身の死を意味している。
「まったく、それもこれも新しい魔王どもがさっさと私のもとにはせ参じないからだってのに……マジで溺死させに行こうかしら……」
そしてこの都の水がすべて彼女だということは、虫が湧くことができないということ、モンスターの侵入を防げるということ。
水を完全に支配している以上、水路は肉にして神経。それは凶器となり、Bランク上位の力を都のどこでも使えるということ。
これが、英雄さえ不可能な『安全』を民へ提供できる力。
歴代の英雄たちが、この都を手に入れられなかった理由。
彼女を殺すにはまず、都市そのものを吹き飛ばさなければならない。
都市で暮らしている人々も、都市の水を使った酒も、何もかも消し飛ばすのだ。
それで何になるのか。
悠久の時を生きるヒミコの秘密を知っても、否、知ったからこそ手が出せない。
彼女を殺すのは、富を生む都を民ごと滅ぼすことを意味するのだから。
それに殺し損ねれば、何が起きるのか分かったものでもなかった。
もちろんヒミコも決して馬鹿ではない。
都の富を周囲へ分け与えることを惜しまないし、英雄たちには礼儀をもって接していた。
つまり……彼女はまじめに外交もしていた。
永遠の命をもつ彼女は、しかし危険視されないようにしながら、敵対しないように生きてきたのである。
「で……どうしようかしらねえ。祀と昏……義理はあるけども、ないっちゃないし……何よりも、プリンセスとアヴェンジャーの気配も感じちゃうし……ムサシボウも来そうな雰囲気だし」
そして広大な都を治める彼女は、当然自分に従う英雄も配下にいる。
東威のすべてを支配しているわけではないが、英雄の一人は好きに動かせるのだ。
「ま、挨拶してから考えましょ。タケル君と一緒に、久しぶりの遠出……楽しい再会になるわねえ」
超然と、退屈そうにしていた彼女は、人間らしく、下品な笑いをした。
「私のこと、死んでると思ってたプリンセス……再会したらどんな顔するかしらね。ブレンドミルクを用意して、服も昔のを用意して……抱きしめてあげないと」
下品ではあるが、それは感情が前に出ているから。
久方ぶりにうれしそうな彼女は、遠くない再会に胸を躍らせていた。
「どうせなら魔王になったパシリも連れて行きたかったけど……間に合わなかったからには仕方ないわね。あとで溺れさせるわ」




