僧推月下門
さて、当然だが狐太郎は救国の英雄である。
大王自ら縋って『君がいないと、この国が滅びるんだ』と叫ぶほどである。
たとえ本人が『滅びちまえ、そんな国』と言っていたとしても、救国の英雄である。
まさに誰がなんと言おうと、本人が否定しようと、救国の英雄であろう。
もちろん慕われるばかりではないが、『彼の護衛は強い』というのは知られている。
つまりとても単純に、Aランクハンターとして頼りたくなる場面があるということだった。
「……見たこともないモンスターが、この近辺に現れているらしい。捕食しているモンスターのランクからして、Bランク上位もあり得るそうだ」
広大な領地を治めるスイコー伯爵は、己の臣下たちを執務室に集めて、そんなことを言った。
伯爵だけが知っているということはなく、誰もが知っているので、やはり顔は曇っている。
間違いなくBランクであり、低くとも中位、場合によっては上位もあり得る。
それは今回の戦争で疲弊した央土にとって、この伯爵にとって、とても困難な相手と言えるだろう。
もちろん上位が相手でも、いきなり領地が壊滅ということはない。
だがそれはそれとして、甚大な被害が出ることは確実だろう。
まさに弱り目に祟り目である。
兵士として動員されたハンターたちが傷ついていることも含めて、苦しい戦いは免れない。
上位ではなく中位でも、何事もなく終わることは期待できないだろう。
戦争をするとはこういうこと、普段は問題にならないことが、大いに問題になってしまうのである。
「本来なら私に仕えているBランクハンターに願うところだが、彼らは先日の戦争で大いに傷を負い引退してしまった。彼らに無理強いをすることはできないだろう」
わかり切っていることだけに、誰もが顔色を悪くしている。
しかし一つだけ、伯爵だけが知っていることがある。
「……実はひとつだけ、この状況を確実に解決できる手段がある」
伯爵にとって、これを口にすること自体が、既にリスクを負うことだった。
なにせこれは秘められたこと、気付いても気付かないふりをしなければならないこと。
やんごとなきお方のお忍びとは、そういうものなのである。
「救国の英雄、四冠の狐太郎様が、近くでご旅行あそばされておられる」
この国のハンターで二つ名がつくのは、Aランクだけである。
圧巻のアッカ、大志のナタ、震君のジロー、西原のガイセイ、抹消のホワイト。
そんな彼らなら、Bランク如き一蹴できるだろう。だからこそ逆にお願いしにくいが、それでもここまで困っていればお願いするはずだ。
だがしかし、この『逆にお願いしにくい』がより極端なのが、四冠の狐太郎である。
旅行しているのが彼でなかったら、この部屋の空気はもっと軽いはずだった。
「……皆にあえて聞く。ただでさえひっ迫している財政をさらに追い込みかねないが、大きな被害を覚悟して自力で解決するか……あるいは、史上最強の悪魔使いでもある上に、実質的にこの国の最高権力者でもあるお方のご旅行を妨げるか……どうするべきだと思う?」
みんな、汗まみれになって困っていた。
部屋の中の全員の心は一つ、決断したくない、というものであった。
なにせ狐太郎はとんでもなく偉いのである。
たとえ公爵であっても、彼へうかつな口を利くことはできない。
ましてや伯爵家が、『勝てなくはないけど被害が出る』という程度の相手を倒してもらうために、お忍びで旅行しているお方へお願いしていいものなのか。
家が潰されるとまではいかずとも、それなりに注意がきかねないところである。
それも、大王から直々に。
そしてそういうことを抜きにしても、狐太郎の護衛には大悪魔二体をはじめとする悪魔の群れがいる。
そんなのに近づいて、お願いをしなければならないのだ。もうどう考えても嫌であろう。
だが皆が『自力で何とかしましょう』とは言わない程度には、この状況がひっ迫していることも事実なのである。
「一応Cランクハンターに確認したが、未知のモンスターを相手にすると、普段よりも被害が出やすいらしい。当然だがな……」
ハッキリ言って、頼りたい。
だが場合によっては、手を貸してもらえない上で罰を受けるかもしれない。
はたしてどちらが正しいのか、彼らにはわからない。
「わ、私は……ここ数日悩んでいた。どうするのが正解か、まるでわからない。だが私は……ただでさえ傷ついた領民を、可能な限り守る義務がある。ハンターや兵にリスクを負わせておいて、私がリスクを負わないのは不誠実だろう」
スイコー伯爵の決断に、思わず涙した。
たかが迷い込んできたBランクモンスター一体に、伯爵ともあろうものが進退をかける。
その台所事情を知るだけに、重臣たちは涙を禁じえなかった。
悪魔を走狗として意のままに操る、一国さえ滅ぼす怪物。
その元へ向かう彼を、誰が止められるだろうか。
「場合によっては君たちにも類が及ぶだろうが、それは覚悟してくれ……!」
「お待ちください、伯爵様!」
「そうです、ちょっとまってください! みんなで話し合いましょう!」
「そうですよ、知恵を出し合えばいい案が浮かぶかもしれないじゃないですか!」
誰もが止めようとしてきた。
誰だってリスクは負いたくない、それも特大のリスクならなおさらに。
「みんな……そう言ってくれると信じていたぞ……!」
もちろんスイコー伯爵も同じである。
ぶっちゃけ止めて欲しかったのだ。
主従は共感し、強固に結びついた。
今この執務室にいる者たちは、一つの塊になったのである。
「失礼いたします、伯爵様! モンスターが移動し、この付近の低ランクの魔境に座り込みました!」
慌てて入ってきた兵士からの報告を受けて、その塊は分解した。
「……お前が行け! 今すぐ行け!」
「嫌です! 他の方が行ってください!」
「ああああ! もう誰でもいいから四冠の狐太郎様を呼んできてくれ!」
「ふざけるな! そういうお前が行け!」
人の絆は、こんなにも脆い。
人任せにするだけなのに、人任せにするにも人任せであった。
「そ、それから! もう一つ報告が! モンスターについて、明らかになったことがあります!」
そんな混乱をよそに、兵士は大声で報告する。
彼にとっては、明らかに悪い情報であった。
「そのモンスターなのですが、北笛に生息するBランク中位モンスター、氷水牛であることが判明しました! その上で……北笛の貴人らしき服装の女が騎乗しているとのことです!」
先日まで戦争をしていた国の、その貴人。
狐太郎が近くにいることを知らない兵士にとっては、とてもまずい緊急事態であろう。
場合によっては、Aランクモンスターの出現よりも悪いかもしれない。
だがしかし、明らかな緊急事態を、喜ぶ者たちもいた。
「では私が行ってくる。いいな?」
「伯爵様、お気をつけて!」
ほんの数秒前まで押し付け合っていた者たちだが、『これは俺達の手に負えないな~~! 仕方ないな~~!』ということでスイコーが行かざるを得なくなった。
行かざるを得なくなったというか、報告の義務が生じ、怒られる理由がなくなったので、安心して赴けることになったということである。
※
さて、スイコー伯爵である。
彼は現在、供を引き連れて狐太郎が泊まっている屋敷に来ていた。
相手は何かと複雑なお人だが、いろんな意味で偉いお人である。国家の一大事になりかねないので、報告しても怒られることはないだろう、たぶん。
だが実際に彼がいる屋敷に近づくと、とんでもないプレッシャーが襲って来た。
「……間違いなく、いらっしゃるな」
「そのようですね……」
千を超える悪魔を従える彼だが、今引き連れているのはせいぜい数十体だという。
だがしかし、悪魔は全員Bランクである。それが数十体、屋敷の周りで警護をしているのだ。
何でもないはずの別邸が、魔の館と化している。
(……やっぱり他の誰かを来させるべきだった)
(ついてこなきゃよかった……)
意図して人間を襲う、恐るべきモンスター、悪魔。
一体でも恐ろしいのに、何十体といるのである。
これはもう、姿を見た時点で逃げたくなることだった。
だがしかし、そもそも国家の一大事なのである。
報告しても怒られないということではあるが、逆に言うと報告しないと怒られるということでもある。
つまりスイコー伯爵に、逃げ場は無い。前進あるのみであった。
「……行くぞ」
「はい……」
スイコー伯爵と数名の護衛は、覚悟を決めて屋敷へ接近する。
北笛からの侵入者も恐ろしいが、もっと恐ろしい相手に接触しなければならないという、この二律背反の状況。
だがしかし、それでも前に進むのは、貴族としての矜持だろうか。
それともただ単に、自棄になっただけだろうか。
そう思っていたところで、彼らの前に数人の斥候が現れた。
しゅばっと音もなく現れたのではない、驚かせないようにゆっくりと現れたのである。
なお、彼らの周囲には、多くの悪魔が控えているもよう。
「足をお止めください、よろしいですか?」
「あ、ああ! わかった!」
相手が亜人ということで、スイコー伯爵は慌てつつも返事をした。
もしも相手が悪魔だった場合、うかつに『足を止めろ』と言われて返事をすると、数日足を動かせなくなる場合もある。
ともあれ、スイコー一行は止まっていた。
「この付近をお治めになっておられる、スイコー伯爵とお見受けいたしました。ここにどなたがお泊りなのか、ご存じのはずですが」
「ああ、もちろん存じている。なので私自ら来たのだ」
「……火急の用件、ということでしょうか」
「そうなのだ。この屋敷でお休みになられているお方へ、御耳に入れなければならない」
もちろん斥候たちは、ネゴロ十勇士である。
彼らはしばらく悩んだ後、スイコー伯爵をその場に待たせたうえで、狐太郎たちへ報告に向かうことにした。
現在スイコー伯爵は数体の悪魔に包囲されているが、とりあえず口を閉ざして黙る。
悪魔とは話すな、それが鉄則であった。
しばらくの間緊張していると、狐太郎のところへ向かったネゴロ十勇士が戻ってきて……。
「スイコー伯爵様ですね? この度はご挨拶もせず、勝手な旅行をさせていただいて、申し訳ありません。こちらから伺うべきでしたが、どうかお許しください」
一緒に、護衛を引き連れた狐太郎たちが現れた。
屋敷に入るつもりだったスイコーたちは、思わず目を見開いていた。
まさかこの国でも最上位の権力者が、自分からくるとは思っていなかったのである。
(四体の魔王、悪魔の王ササゲと竜王アカネ、氷の精霊の王コゴエに亜人の王クツロ……)
(あ、あの二人が十二魔将三席と末席……共に二重の特異体質、悪魔使いブゥ・ルゥ伯爵と大地の精霊使いノベルか……)
(あの獣よりの亜人が、雷獣サカモ……曰く足代わりであり、飯炊き要員らしいが……あれもAランクなのか)
スイコー伯爵の供たちは、噂に聞く戦力に思わず息を呑む。
たかが伯爵家の護衛如きとは、明らかに異なる戦力たち。
個人としてはまったく無力な狐太郎が、この国の頂点に立つ理由そのもの。
じかに見れば、戦慄するのも当然と言えるだろう。
(視界に入っていない気がする……)
なお、ピンインとその仲間、および侯爵家の四人。
彼らは無視されていた。
「火急と伺いましたが、どのようなご用件でしょうか」
狐太郎はやはり柔らかい物腰で、スイコーへ尋ねていた。
それに対して、スイコーは思わず言いよどむ。
腰が低すぎて、逆に怖いのだ。もしもうかつな対応をすれば、何をされるのかわかったものではない。
言葉を慎重に選びながら、彼は報告を行う。
「実は……我が領内で、北笛の貴人らしき女性が、Bランクモンスターに騎乗しているところが発見されたのです」
「……北笛、ジローさんやガクヒさんが戦った相手ですね?」
「は、はい、おっしゃる通りです。ここは北方から遠いので、おそらく迷い込んだわけではなく……何か目的をもって侵入してきたようです」
それを聞いて、狐太郎とブゥは露骨に嫌そうな顔をした。
その顔だけ見れば、それこそスイコー達の会議の時と同じようなものである。
「どうしようか、ブゥ君……俺は今旅行中だし、そもそも北笛は管轄外なんだけど……」
「判断をするのは僕の管轄外なんですけど……」
「それはちょっと卑怯じゃないかい」
「言質を取られても困りますし……」
「ああうん……そうだね」
狐太郎は露骨にため息をついた。
「聞いちゃった以上仕方ない、ちょっと行ってこようか」
その時初めて、スイコーは狐太郎の偉大さに触れた。
嫌だし管轄外だし休暇中だけど、まあしょうがねえか、やるか。
そう振舞える男の、なんと頼もしいことか。
これが四冠の狐太郎、要職を押し付けられて、嫌々請け負って、悲鳴を上げながらやり切った男である。
「も、申し訳ありません……!」
スイコーと供たちは、思わず涙した。
自分たちは結局、自分で解決することを諦めて、面倒ごとを他人に押し付けてしまったのだ。
なんという、情けない男であろうか。これが貴族とは、笑わせる。
「よろしくお願いします!」
でもお願いした。




