魂の叫び
将棋やチェスで、一番分かりやすいルールがある。
王を取られたら負け、というシンプルなルールだ。
他にどれだけコマが残っていたとしても、一切関係なく勝ち負けが決定する。
もちろん、実際の戦場ではそうもいかない。
仮に王が、大将が討たれたとしても、下の者が代わりを務めるからだ。
では王を討つ、捕らえる意味がないのかと言えば、そうでもない。
相手から、大いに譲歩を引き出すことができる。
決定的で絶対的な勝利を得られないまでも、敗北を決定的な引き分けに持ち込むこともできる。
つまり……西重にもう一つの勝ち筋が生まれる。
「他の将兵から賛同は得られたかね」
「皆疑ってはいましたが……とりあえずのところは受けてもらえました」
第一将軍ジョー・ホース男爵。
事実上の司令官である彼は、大王ジューガーと話をしていた。
つまりは、戦術、陣形の決定である。
ワープなどという便利なものがない以上、一端布陣すればそれで御終いだろう。
変更の利かない戦術。それはとても、恐ろしい。
「……大王として、一つ要望がある」
大王から、第一将軍への要望。
それは事実上、命令に近い。
とはいえもしも命令を下すのならば、それは将軍が無粋者ということになる。
少々面倒な話だが、言われなくても、命じられなくても、大王の気持ちを汲むのが当然という話だ。
「なんでしょうか」
「征夷大将軍の陣に、ダッキとキンカクたちを置く」
「……承知しました」
想定していたことであるが、やはり狂気の戦術であった。
無防備ではないとしても、限りなく孤軍である。
そこに敵の最も欲する宝を置く、というのは狂気の沙汰であろう。
だが、餌が必要なのだ。餌が。
勝利に飢えた獣を相手にするには、餌が必要だった。
「……陛下、よろしいのですか」
「無論だ。何であれば……そうだな、後で自刃しよう。息子に切らせてもいい、どうせ対立していたのだしな」
「そう捨て鉢になられては……」
現在ジューガーが大王として存在していられるのは、膨大な武力を率いているからだけではない。
先代大王の弟であり、同時に先代大王唯一の遺児を次期後継者にしているからだ。
だがダッキを戦場の、最も危険なところに送り込めば。
それの前提が一つ消える。
普通に考えれば、誰だってこう思う。
先代の遺児に政権を渡すのが惜しくなった、姪ではなく息子や娘に国を譲りたくなった。
そう推測するだろう。
「ダッキ様のご希望ですか」
「いや……私の希望でもある。それに、キンカクたちも死に場所を求めていた」
一番危険な場所に、自分の姪を置く。
それが狂気だとは分かっているが、しかしジューガーは少しだけ、それを誇らしく思っていた。
「……かなうなら、私も一緒に」
「陛下!」
「分かっている……私は大王だからな」
東南北、三つの前線を支える大将軍たちから、大王あての手紙が届いている。
それは西の大将軍の『不始末』を詫びるものであり、救援に馳せ参じることができない自らを呪うものであった。
軍部全体の不始末を、軍の要人として謝っていた。
この国の要人になったばかりの狐太郎が、亜人や他の者へ謝ったように。
組織の人間として、組織の不始末を謝ったのだ。
それは、大王であるジューガーも同じだ。いや、それ以上だろう。
国家の長として、国家全体の不始末へ、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
いっそ一人の兵士として、何の武勲も上げることなく散って、国家の礎になれればよかったのに。
そういうわけにはいかない。今この国で、ジューガー以外に国家を動かせる者はいない。
彼が死んで他の者がやるとなれば、絶対にもめる。内戦になる。
だからこそ、西重はウンリュウを動かしてまで、ジューガーを殺そうとしたのだ。
「……だが、これだけは言っておく」
「はい」
「世間の評価が、そのまま私だ。それが真実だ」
今回の作戦を、世間がどう評価するのか、それを既に彼は承知している。
どれだけ醜聞に満ちていたとしても、それは想定の範囲内だ。
「私は……ろくでなしだ」
狐太郎やダッキにもしものことが起きた場合、どれだけ彼が責められるだろうか。
分かっている、分かっているのに止めない。ならば、世間から何を言われても、反論する権利さえない。
「彼の人の好さに付け込んで、いよいよ全部押し付けてしまった。国家の為、国家の為、国家の為……」
彼は、疲れていた。
「他人の為だ、馬鹿々々しい」
彼の、人としての理性だった。
義務感という狂気に呑まれていない、まともな部分だった。
「……彼は逃げるべきだった。竜王アカネに乗って、さっさと逃げ出せばよかった。笑われてもよかった、それがまともというものだ」
一人目の英雄、狐太郎。
麒麟は彼を、そう呼んでいた。
「なぜ我らの愚かしさを、彼に押し付ける。なぜ彼が、そんなものを背負って戦わなければならない。決まっている……私が押し付けたからだ」
「陛下」
「そして、実際なんとかした。ああ彼は英雄だ、素晴らしい……この時点で、もう十分すぎるほど彼はよくやってくれた」
勝負になる状態にまで、戦況を持ち込んだ。
相手が一国の総力であるにも関わらず、対等に戦える状態まで持ち込んだ。
これから先、誰がどんな武勲を上げて、どんな結果になったとしても。
狐太郎が、この戦場を作ったことに変わりはない。
「……ジョー君」
「はい」
「君は、君自身のことを、ホース家のことをどう思っている?」
踏み込んだ質問だった。
このことを聞く時点で、彼がどれだけ弱っているのか、分かってしまう程だった。
「正直に申し上げますが……よくわかっていないのです」
ジョーは、今までため込んでいたものを吐き出していた。
毒が詰まっているのか、腐った肉が詰まっていたのか、それは自分でもわからなかった。
だが彼の中にたまっていたのは、真水だった。真水が彼を圧迫していた。
「兄に何かが起きた、それは確実です。しかし真実が明らかになっていないので、どう思っていいのかもわからないのです」
呪いやうっぷんが詰まっていたわけではない、ただ困惑しているだけだ。
だがその困惑を表に出すことさえ、彼は罪深く思っていた。
実際、南万との国交を悪化させた家の者が、『真相がわからないので困惑している』では許されない。
ただ謝ることでしか、対応できない。
「そして、実際そうなのでしょう?」
「ああ、その通りだ。ゴー・ホースに何が起きたのか……誰も把握していない。少なくとも央土の誰もが、な」
南万の姫、ホウシュン。
戦争の中で捕虜になった彼女は、一時央土が預かっていた。
もちろん殺すとかそんな話ではなく、時が来れば引き渡す予定だった。
だが結果的にいなくなった、ゴー・ホースと共に消えたのだ。
その経緯が、よくわかっていない。
「南万から、迎えの船が来た。それがまずおかしかった……おかしかったが、ありえない程でもなかった」
南万と央土は、地続きである。
だが央土にも海岸があるのだから、完全に四方が陸地に囲まれているわけではない。
つまり東威と南万の間に海があり、その海路を使って南万の姫を南万の奥へと護送する、というルートもありえなくはなかった。
当然だが、海路とは危ないものだ。
だが陸路より早いことも事実であろう。
特に南万の首都へ向かうのであれば、其方の方が早い。
不自然だが、ありえないとも言えなかった。
「正式な書簡を持ってきていたので、その通りにした。護衛としてゴーを付けたが、それも要望にあった通り」
「ええ、南万の使者も困惑していたそうですね」
「そうだ……その船が出た後、また別の使者がやってきたのだからな」
いっそ、南万からの書簡が偽物ならよかった。
だが本物だった、正式な書簡だった。
それでもホウシュンが帰ってくればよかったのだが、ゴーと共に消えてしまった。
そしてそのあと、事態がややこしくなってしまったのだ。
「行方不明になった後で、ホウシュンがゴーを慕っていたと分かってしまった。ゴー自身もホウシュンを憎からず思っていたと判明した。書簡では『央土の軍人を護衛につけてほしい』とあっただけなのに、ホウシュンはゴーを指名し、ゴーもそれを受け入れたからな」
「ですが、結果は結果……兄は護衛していた姫を、南万へ送り届けることができなかった。その結果国交が悪化したということで、家は取り潰しに……」
結果は、結果だった。
よくわかっていないが、とにかく護送に失敗したのだ。
それが結果なのだから、ホース家は潰されてしまった。
そして、南万もその結果を知って怒ったのだ。
「私は……どう思っていいのかわからないのです。もしもモンスターに襲われたのであれば、それは兄の無力が原因でしょう。軍人として任務に就いたのですから、失敗を咎められるのは仕方ありません」
ジョーもハンターとして長く戦っていた。
だからこそ、負けました死にました、では許されないことがあると知っている。
「南万のよからぬごたごたに巻き込まれたのであれば、むしろ怒るべきです。少なくとも、兄に非はない。ですが……正直に申し上げて、兄とホウシュン様が駆け落ちした、という可能性を否定しきれず……」
そう、よくわからない。
南万の使者が書簡を持ってきた件も、ホウシュン本人が偽造に協力すれば不可能ではないのだ。
実際、南万もそのあたりが不可触な面で、誰が偽造したのか触れきれなかった。
なにせ、王族が関わっていること、それは確実なのだから。
いなくなったホウシュンがやらかした、と考えれば、既にいる誰かが悪者になることは避けられる。
そしてそれをゴーがそそのかしたとすれば……南万の権力者にとっては、都合のいい筋書きだ。
ありえないとは言い切れないのだから。
「真相は、もはや海の底です。私は……誰を呪っていいのか、憎んでいいのか、怒っていいのかもわからないまま、今日まで過ごしてきたのです」
彼の体の中に、真水がたまっている。
それは膨大に過ぎ、毒や腐敗よりも心を『圧迫』していた。
「……いっそ、誰かが悪いと決めつけて、憎めばいいのではないかね」
「そうしようとも思いましたが……やはり、分からないままでは、どうしていいのかさえ……」
なんだかよくわからないままに、家が潰された。
そのことで彼の母は怒っているが、ある意味正常だろう。
だがそれはそれとして、ジョーはその正常さを持っていなかった。
真実がはっきりしない状況では、誰かが悪いと決めつけられなかった。
「なにより……肝心の兄が本当に駆け落ちし、ホウシュン様と楽しく過ごしている、という可能性がないわけでもなく……その場合、誰かを憎むことが悪い気もして……」
「そうだな……」
もちろん、ジョーの兄であるゴー・ホースは真面目な軍人だった。
ガイセイやアッカと違って、やらかす人間だとは思われていない。
だが、恋は人間を変える。その前例は多い、多すぎるほど多い。
「……」
「……」
二人とも、しばらく黙った。
私情を優先して国家を脅かすことは、みっともないことだと思いなおしていた。
この流れで『狐太郎君も私情を優先して逃げていいのになあ』とは言えない。
「しかし、こうなるとだ。たとえ駆け落ちであったとしても、名乗り出て欲しい。ゴーがそそのかし、ホウシュン殿下が自国を欺いた結果だとしてもだ」
「おっしゃるとおりです」
ゴーがそそのかした、というのであれば、もちろん央土の責任である。
その場合ジョーやその親族が、さらに重い罰を受ける可能性もある。
だがそれでも、とにかく当人たちに出てきてほしかった。
「おそらく、それを最も望んでいるのは……ナタだろうな」
※
斉天十二魔将元四席、Aランクハンター、大志のナタ。
公爵家に生まれ、王族の流れをくむ彼は、傑出した才能を持って生まれた。
既に十二魔将首席だったギュウマの下で、幼かった頃から指導を受けていた。
もうこの時に、ギュウマの息子であるコウガイと共に、切磋琢磨をしていたという。
妻であり元十二魔将であったラセツニとも仲が良く、もう一人の息子のように愛されていた。
数年後、下町で暴れていたゴクウをギュウマが捕らえてからは、三人での切磋琢磨が続いた。
しばらくは荒れていたゴクウもギュウマには心を開き、父のように慕っていたという。
もちろんナタやコウガイとも兄弟同然の仲になったが、だからこそ対抗心があったのかもしれない。
ゴクウとコウガイは、共に十二魔将首席、ギュウマの後継者を目指して争っていた。
そんな二人と訓練をする際に、ナタはいつも負けていた。
だからこそ、二人がかわるがわるに二席と三席を預かる中で、四席という地位にあった。
それは二人よりもナタが劣っているわけではなく、むしろナタが二人へ譲った結果だった。
それを二人は歯がゆく思っており、ギュウマもまた快く思っていなかった。
『あの二人ほど苛烈に争えとは言わん。だがナタよ、お前はもう少し二人と向き合うべきだ』
『ギュウマ様……私にそんな気骨はないのです。どうかお許しください、私は二人が競い合うところを見ているだけでいいのです』
ナタは知っていたのかもしれない。
もしも三人が互角ならば、どうしてもナタが推されてしまうと。
ギュウマの息子であるコウガイはともかく、民の中でも下の者であったゴクウに目がなくなると。
あるいはそれを抜きにしても、対等な兄弟達と、本気で争えなかったのかもしれない。
彼は真面目ではあるが、ハングリー精神が欠けていた。
最高の才能を生まれ持ち、尊敬に値する師を持ち、幼いころから切磋琢磨できる友人が二人もいた。
彼自身の気質もあって、周囲からの信頼も厚かった。彼は何を求めることもなく、幸せな人生を送っていた。
その一方で、それが一般的ではないことを、ゴクウを通して知っていた。
下の者の苦労、悲しみを知り、それを守ることが大事だとも思っていた。
シカイ公爵がAランクハンターを求めたとき、挙手に応じたのもそのためであろう。
もちろんカセイの守りにもつきたかったが、先代大王の希望で国境沿いに配置されることになっていた。
もちろん、十二魔将首席を狙える彼が、周囲から止められなかったわけではない。
特に他でもないゴクウは、強く反発していた。
『お前は! 俺を哀れんでいるのか! バカにしやがって!』
出身からすれば、自分が行くべきだ。
周囲からそう思われている彼は、だからこそ憤慨していた。
ナタを友人だと、兄弟だと思っているからこそ、気を遣われたことが悔しかった。
『違うよ、ゴクウ。僕はただ、民の役に立ちたいんだ。大王様の守りは、君やコウガイがいれば大丈夫だからね』
『きれいごとを並べやがって……!』
そうやって怒ったのは、やはりコウガイも同じだった。
『ナタ……お前は結局、俺達と本音でぶつかってくれなかったな』
ハングリー精神を持つものは、それを持たない者を軽蔑する。
熱意のない、本気ではない者だと、軽蔑しているのだ。
『違うよ、コウガイ。僕は君やゴクウを信頼しているのさ』
『……本音には聞こえないぞ。少なくとも俺は、そう思ってる。お前の言葉は、いつだって頭の言葉だ。肚の底からの声じゃない』
結局、それが。
二人との、別れだった。
「おおおおおおおおあああああああああああああああ!」
均衡が保たれている南方前線で、ナタは大いに矛を振るっていた。
しかしそれでも、南万の敵は強く、彼をして押し切れなかった。
彼は昼に戦い、夜に荒れていた。
大志のナタは、腹の底から悲嘆していた。
気を遣う彼は、夜ごとに人気のない山奥へ向かい、その荒れた心を吐き出していた。
彼の中に入っていたものは、毒でも腐った肉でもない。
溶岩だった。
彼の中には、溶岩がたまり続けている。
『ナタ、すまない。俺の力不足で、大王様やギュウマ、ゴクウやコウガイを死なせた。辛うじて王宮の中に民を匿えたが、それが精いっぱいだ。許してくれ』
アッカからの、手紙。
短いそれを、彼は後で受け取った。
一時会っただけの、ギュウマが愚痴っていた男。
剛毅な彼が、謝っていた。それほどに、状況は悪い。
もう何があっても手遅れだ、ギュウマもコウガイもゴクウも死んでいる。
だが、ラセツニは生きている、コウガイの子供もまだ生きている。
もしも三人に報いることができるのなら、その二人を守ること、あるいはダッキやジューガーを守ることであろうに。
「あああああああああああ!」
それさえ、彼は許されなかった。
彼は、吠えた。
犬のように吠えた、猿のように吠えた、猫のように吠えた。
みっともなく、情けなく、吠えた。
彼は彼の人生で、初めて後悔していた。
王都を守るべきだった、南など放っておけばよかった。
自分が心から守りたかったものは、自分のすぐ傍に居たというのに。
「うううううう……」
斉天十二魔将元四席、Aランクハンター、大志のナタ。
戦況を覆す大戦力となる彼をして、この状況は動かせない。
無力であった。
※
渦中の二人、その胸にあるのは何か。
毒か、腐敗か、真水か、溶岩か。
燃える恋の炎か、或いは甘やかな酒か。
否、身を荒らす酸であった。
「お願いします! 私たちは、何としても南万へ向かわなければならないのです!」
「どうか、お力を、お貸しください!」
そして、力ある者たちが、それに遭遇していた。
「ナイル、大急ぎで直すぞ! 南万とやらに、超特急だ!」
「こいつは映画化決定だ!」
「……ええ、そうですね。確かに二人は、責任を取るべきだ」
央土の運命は、はるか南洋で変わろうとしていた。




