人は諦めず
勝利歴の後期は、人類にとって苛烈すぎる時代だった。
人類は人類同士の戦いに熱をあげ、余りにも多くの命が失われ続けた。
その中で生まれた宇宙開発は、平和から遠かった。
表層に……本来ならば、それこそ深層に、秘密基地に隠すべきキメラ技があったように。
時の大国は、ただの軍事施設としてだけ、月面基地を求めたのだ。
それが実利だとか、宇宙を血で染める行為だとは、後世なら誰でも言えるだろう。
しかしそれでも膨大な予算が注ぎ込まれたことは事実であり、それによって月面基地ができたことも事実なのだ。
上層部の人間がどんな実利を期待していたのか、或いは内部で国際法に違反する兵器を研究していた者たちがどんな心境だったのかはわからない。
だが月面基地の建設に関わった人々は、誰もが誇りを持っていた。
浪漫だけで月に行くことなどできない。ただの事実として、そんなことは不可能だ。
浪漫という情熱によって、膨大な試行錯誤に人生を費やし、後世の誰かへ託す。
それを託され続けてきた人々が、己の代で達成した。ついに人類は、母星の先に踏み出したのだ。
これを偉業と言わずなんというのだろうか。
彼らは決して良好ではない環境の中、命を落としながらも働き続けた。
月面基地の、凍結が決まるまでは。
誰もが強硬に反対した。そんなことはできない、許されないと泣き叫んだ。
だが、月面基地は、まだ都市に程遠く。母星の決定に抗うには、余りにも小さすぎた。
しかし、仕方がないことでもあった。誰もが諦めざるを得なかった。
戦争が終結した当時の人類は、生き残ることに必死だったのだから。
「せ、戦争が続く時代で、私たちは必死で勉強してきた……平和利用の為だと歯を食いしばって、心を痛める研究も見て見ぬふりを……。戦争が終われば、きっと平和な時代が来る、報われると……」
だが、恨みがないわけがない。
その時代に居合わせてしまった者たちは、当事者たちは、呪い続けた。
「戦争が終わると……基地の凍結が決まった……つまり、私たちがあれだけ憎んでいた戦争こそが……宇宙開発の動力源だったのか! 私たちこそが、戦争を利用していたのか?!」
墓までもっていってしまった、その後も残り続けてしまった。
「違う、そうではない! 実利を求める、人こそが愚かなのだ! 戦争のための宇宙開発ではない! 人類のための宇宙開発だ!」
悲しいことに、その後の人類は平和だった。
とてもとても悲しいことに、平和になっても、安定しても、宇宙開発は再開しなかった。
やろうと思えばできるのに、誰も宇宙を目指さなかった。
時折月面を管理者が巡回する程度で、或いは観光客が見学に来る程度で。
月面基地は、遺跡として扱われてしまった。
悲しいことに、悲しすぎることに。
平和で幸福な時代は、宇宙開発を望まなかった。
単純な理屈である。
都市が傾くほどの予算を割いて、様々なサービスが滞ってまで、税金を投じてまで、宇宙を切り開きたいとは思っていなかったのだ。
宇宙に行きたい、開拓したい。
人生を捧げてまでそう思う者は、余りにも少なすぎたのだ。
「なのに……なぜだ!」
結局。
クラウドファンディングであれ、公的事業であれ、他人のカネであることに変わりはない。
他人のカネで夢をかなえようと思うことが、まず脆いことだったのだろう。
他人のカネを、自分の思うがままにしたいと思うことが、どうしても儚いことなのだろう。
「なぜ人類は、宇宙を見ない!」
必要だと信じていたからこそ、多額の資金が投じられていた。
それでもなお、宇宙開発には人もカネも足りなかった。
それが宇宙開発。
途方もなく終わりもない、人類に残された最後のフロンティアは、結局開拓しなくてもいい場所だった。
仮に宇宙へのロマンを感じる者がいても、月面基地へ来て観光をすれば満たされる程度でしかなく……。
「宇宙開発など必要ないというのか! 高度な循環型社会とやらは!」
それを、彼らは認められなかった。
宇宙開発に取りつかれた者たちが、月面基地に亡霊として取り憑く。
それが、今回の事件の真相である。
彼らは正に矛盾した存在である。
科学者や技術者の総体であるがゆえに、当時の最先端をすべて修めていた。
だが亡霊であるがゆえに、己の暴走を認識できない。合理に徹しきることができない。
何もかもが、矛盾だらけだ。
人間がいないのに基地内へ酸素をいきわたらせることも、地球の重力を維持することも。
何もかも、不必要。にもかかわらず、そんなことをしてしまうのは、結局彼らが怨念でしかない証拠であろう。
もっと言えば……隕石を撃墜するための砲台を起動したこと、ワープ装置を破壊したことはともかく、生き残っただけの兎太郎たちの命を狙うことは非合理の極みだった。
様々な意味で、放っておけばよかったのだ。放っておけば、こんなことにはならなかった。
意味の一つは、放っておけば秘密基地の存在に気付かれなかったこと。
亡霊やムーンモールが接触しなければ、今でも兎太郎たちはどうしていいものか迷っていたはずだ。
ではもう一つの意味は?
彼らの道が、既に阻まれていたということ。
わざわざ妨害する必要など、まったくなかったということだろう。
※
ムーンブルーとの激戦を征した一行は、ついに敵の中枢、その手前まで来ていた。
ここに来るまで、多くの戦いがあった。危険な兵器を使って、わけのわからない敵を倒してきた。
そして最後に立ちはだかったものは……。
壁だった。
いっそ、馬鹿々々しいほどに、ありえない程単純に、道がふさがっていた。
通路の先にあったのは、壁だった。シャッターではない、壁だった。
「……クソ!」
そこへたどり着いた兎太郎は、怒りと失意を込めて、その壁に近寄り、強くたたいた。
彼はその壁から感じる奇妙な圧力を、憎まずにいられなかった。
「……あ、あの? どうしました、ご主人様?」
兎太郎は、何も言わなかった。
ああしようとかこうしようとか、もう駄目だ、とさえ言わなかった。
それに対して、ムイメは困惑する。
黙られると、本当に辛い。いっそ取り乱してくれた方が、冷静さを保てるであろうに。
彼が黙って壁に当たっていると、手詰まりになったと勘違いしてしまいそうになる。
「ご主人様どうしたんですか?! 何か探しましょうよ、どこかにスイッチがあるかもしれないじゃないですか!」
ムイメの言葉だけが、広い通路で響いた。
キクフもハチクもイツケも、黙っていて動けない。
「なんで、誰も何も言ってくれないんですか!」
呆れるほど単純な、ダンジョンへ入ったものへの妨害。
壁を作って、一番肝心な部屋へ入れないようにする。
ただそれだけで、途方に暮れるしかなくなる。
「ムイメ……それは多分、アンチムーブバリアだよ……」
キクフの指摘通りだった。
都市にも存在する、長く使われているバリアの一つ。
動くものを拒む、全周防御のバリアである。
バリアに守られたものを攻略する時、一番簡単なのはバリアを打ち破るのではなく、バリアに守られていない箇所を攻めることであろう。
特に考えるのは、坑道を掘ること。地面に穴を穿ち、トンネルをつくって、足元から抜ける。
とはいえ、バリアを張る側も、それを警戒せざるを得ない。
どうにかして、死角のないバリアを構築しようとしていた。
しかし、地下にまでバリアを張る、と言うのはとても難しい。
仮に地下にまでバリアを張った場合、それこそバリアそのもので地盤が崩壊する。
攻撃的なバリア、触れた物を破壊するバリアがあった場合、地面という支えを失ってしまう上に、常に地面を攻撃し続けるという無駄が生じてしまうのだ。
それこそ空中要塞でもなければ、全周防御は不可能。しかし空中要塞と言うのは、多くの制約を受けるものである。
そうして生み出されたのが、アンチムーブバリアであった。
文字通り、動くものを拒絶するバリアである。
このバリアが張り巡らされた時、既にそこにあったもの、つまり土などの動かないものには反応しない。
しかし一旦バリアが張られた後で、バリアへ触れるもの、動く者には斥力が生じる。
触れた物に対して攻撃性を発揮するわけではないが、押せば押すほど押し返すようになっている。
もちろん、限界はある。
だが今この場にある面々が、発揮できる限界を大きく超え過ぎている。
やる前からわかるのだ、どうあがいても不可能だと。
ここで待っていれば、そのうちバリアが解除されるかもしれない。
しかしそうなったときには、すでに爆発の直前であろう。
「……くそ!」
強く、兎太郎はバリアを叩いた。
いっそ滑稽なほどに、何の意味もない戦いだったのだ。
ありとあらゆる意味で、この壁がある限り、亡霊の計画を阻むことはできない。
「じゃあ、私たちは……死ぬってことですか……あんなに頑張ったのに、何もできないまま死んじゃうんですか!」
命をかけた、尊厳を差し出した、それでもたどり着くことができない。
余りにも子供じみた、通れない壁というもののせいで。
入り口と終着地が、最初からつながっていないというズルによって。
「ムイメ……」
ハチクは、彼女に抱き着いた。
それが世の無常を受け入れた、諦念からくる優しさだと、ムイメは悟ってしまった。
彼女もまた黙り、その翼でハチクに抱き着いていた。
「ご主人様……貴方は悪くないわ。こうなったのは、全部亡霊、怨念のせいよ……」
挫折に苦しむ主へ、イツケは声をかけた。
彼は間違っていなかった、少なくとも悪ではなかった。
だがこうなった。それは、ただ、この地の亡霊が費やした時間が膨大だったということだ。
「……やるだけやったじゃない、仕方ないわ」
兎太郎は、壁に拳をあてて、動かない。
イツケからの言葉も、決して応じようとしない。
「……ご主人様」
キクフが後ろから抱き着いた。
せめて気休めになってくれと、跳ね回ることさえやめた主に寄り添っていた。
「……不思議だね、あんなに怖かったのに。もう怖くない気がする。多分、一瞬で死ぬってわかっちゃったからかな?」
この月を吹き飛ばすほどの爆発だ。きっと、苦痛を感じる暇もない。
それは、他の死に方からすれば、マシな死なのだろう。
「……母星が粉々になるわけじゃないんだし、きっと凄い技術でどうにかしてくれるよ。私たちみたいに巻き込まれた人じゃない、凄い人たちが……世界を救ってくれるはず」
胸には、悔しさがある。
安寧に浸っていた日々を、否定した亡霊への怒りがある。
だが、どうにもならないのだ。
「それが宇宙開発につながって、あの亡霊の思うがままになるのが、癪だけどね」
どうにもならないのなら、まだ諦めがつく。
やるだけやって、徒労が体を襲う。
だがそれでも、まあ仕方がないのだ。
みんな一緒だ、痛くないし怖くない。
この月で起きたことを誰も知らなくても、この場の面々は知っている。
それでいいじゃないか、映画になどならなくても。
きっと、価値のあることだ。
「……そうだな、癪だ」
だが兎太郎は、諦めていなかった。
「梅」
「はい」
「菊」
「うん」
「竹」
「ええ」
「蘭」
「なに?」
静かに、彼は四体を見た。
その顔には、彼をして勝手に決められぬ、一つの事項を秘めた目があった。
顔だけで諦めていないと、わからせるものがあった。
「助かる方法が、まだ一つだけある」
しかしそれは、希望ではない。地球へ帰るチケットではない。
死地への、片道切符だった。
「だが俺は……癪だ」
怒りがあった、闘志があった。
「俺は……死んでも、奴を止めたい!」
諦めを捨て、希望を捨て、正真正銘の死地へと従者たちを誘おうとする。
「それを、誰にも譲れない! ここまで戦ってきたんだ、最後まで俺達がやり切りたい!」
バカだった。
だがそのバカに、まだ命運が託されている。
「俺と一緒に、最後まで戦ってくれ!」
この星を救える場所にいるのは、彼らだけだった。
「ここまでやってきたことを、捨てることなんてできない! 無駄にしたくないんだ! 無駄に来ただけだとしても!」
そして、彼女たちの答えは。
「……死んじゃってくださいよ」
「まったく、バカ過ぎるわ」
「こんな人の仲間になんか、なるんじゃなかった」
「ええ……最低よ、ご主人様」
付き合わされる方は、たまったものではなかった。
※
母星にて。
人類の大部分が暮らす『都市』は、当然ながら時代の最先端技術によって、完全なる防御システムが存在していた。
これは人造種とも呼ばれるロボットやオートマトンたちの自治区も同様であり、ある意味では最初から避難が完了していたともいえる。
しかし他の種族はそうでもない。
月の爆破がどの程度の規模で行われるかは、まだはっきりとは分からない。しかし月の破片、隕石の落下は想定される。
都市や人造種の自治区へ避難するために、多くのモンスターたちがワープ装置や各種移動手段をフル回転させていた。
なんの罪もないモンスターたち、この時代の安寧を受け入れていたモンスターたちにとって、今回のことはそれこそ災害であった。
宇宙を目指さぬことが、死に値するほどの罪。その言葉が、心底から理解できなかった。
怨霊、悪しき神、理不尽なる厄災。
神話に語られるような、ありえざるクライシスであった。
かろうじて、脱出するための『箱舟』はあった。
自分や家族は助かる。しかし、財産や故郷はその限りではない。
彼らは救いを求めて、人類の都市に逃げ込み、寄り添いながらも震えていた。
もちろん、多くの人間たちも同じようなものだ。
各々が家に戻り、家族と共に続報を待つしかなかった。
そして、都市の指導者や宇宙局のスタッフは、何もできることがない、ということを確認し続けていた。
「月面を観測している、人工衛星からの情報です。現在月面基地の地下に、膨大なエネルギーが蓄積されている模様……それを何かの形で放出した場合、月が破壊される可能性も大いにあります」
ただの大法螺ではなかった。
人工衛星からの観測情報は、状況の悪さを伝えてくるばかりだった。
会議室の中では、避難の指示を終えた者たちが、苦悶の顔を浮かべるばかりである。
「……砲台の攻撃に耐える宇宙船の建造は、一月かかると言っていたな。月の爆破まで、どれぐらいだ」
「分かりません。ですが……遅くとも、明日には。早ければ、次の瞬間にも」
都合よく、カウントダウンなど告げられていない。
いつ爆発してもおかしくない月は、やはり空に浮かんでいた。
「……なんとか、なんとかできないのか! 月だぞ?! 火星じゃない! 人類にとって、ただの観光名所だ! 私だって、子供の時に行ったことがある! その程度の場所だ! なぜどうにもできない!」
都市の指導者の一人が、ついに叫んでしまった。
相手が宇宙人ならわかる、先進的な技術を持っているのならわかる。
だが相手はローテクで、いる場所も人類の遺跡である。
なぜ旧時代の怨霊に、人類が、世界のすべてが追いつめられているのか。
これではまるで……。
「我らが、退化しているとでもいうのか……」
怨霊の語るように、先人の遺産に胡坐をかいていただけなのか。
進歩を忘れ、惰眠をむさぼった、どうしようもない子供なのか。
「……改めて、報告いたします。砲台の攻撃に耐える月への移動手段、想定されるアンチムーブバリアの突破、そして……怨霊の本体を叩くこと」
宇宙局の職員は、改めて無理難題を並べる。
「これを解決する手段は、この世に一つしかありません」
ほんのわずかな猶予があれば、一月ほどの時間があれば、そんなものは簡単に作れる。
だがしかし、その時間がない。だからこそ、今できることは一つしかない。
「世界に唯一残った最後のカセイ兵器、未完成の宇宙戦艦、久遠の到達者です」
四人目の英雄が破壊した、純血の守護者。
五人目の英雄とともに消えた、最後の勝利者。
それと共に数えられた、正真正銘最後のカセイ兵器。
宇宙へ旅立つために建造されていた、未完成の宇宙戦艦、久遠の到達者。
未完成のままで尚、砲台からの攻撃に耐えることができ、当然月にも行ける唯一の手段であった。
「それでも、問題があります。未完成ゆえに外部武装がなく、アンチムーブバリアを突破するにはこの船を直接突撃させるしかありません。しかしそれにはどこに爆破の中核があるのか、そこまでの構造がどうなっているのか、ある程度でも把握する必要があります」
地中深くで力を溜めている、中核。
そこがどこにあるのか、人工衛星からの望遠カメラでは把握できない。
「つまり、怨霊の巣食う月面基地に侵入し、その地下にあるであろう核の場所を調べなければならないということか」
「それだけではありません。武装がないということは、アンチムーブバリアの内部へ侵入しても破壊する手段がないということ。誰かを乗せて……破壊してもらうしかありません」
爆破とは、本来繊細なものである。
精密に爆破しなければ、本来のエネルギーを発揮することはできない。
だからこそ危険な爆弾でも、破壊するのは手だ。
だがそれは、破壊を行う者が帰れないことを意味している。
「久遠の到達者を動かすには、まず外部から基地へ働きかけを行わなければなりません。そうでなければ、近づくだけでセキュリティによって攻撃されます。とはいえ、それはここにいる面々でこなせることなのですが……」
警報付きの実験室に置いてあった、倫理に反するというだけのキメラ技とは危険度が違う。
近づくだけで、死んでも文句が言えない。だからこそ、政治的な許可がなければ防犯装置は解除されない。
「カセイ兵器の起動には、現場で直接……人間が操作しなければなりません。他のどんなモンスターでもない、ホムンクルスでもない、純粋な人間でなければ動かせないのです」
これも、この場の面々にとって、不可能なことではない。
何であれば、自分たちが乗ってもいいぐらいだ。
志願を募れば、全員が手勢と共に乗り込み、月へ突っ込むだろう。
だがそれは、絶対に不可能だ。
「……そして、最大の問題があります。久遠の到達者のある場所、封印されている場所、建造ドックは……」
宇宙戦艦の建造、それをわざわざ母星で行う必要があるだろうか。
それは、否であろう。
「月面基地の真横、別棟にあるのです……」
月へ直接向かえる唯一の手段、それが月にある。
ある意味当たり前で、ある意味ではどうしようもないことだ。
子供でも知っている、歴史の常識である。
「……打つ手はないな」
今から宇宙船を作って月面へ行き、内部の構造を調べ、さらに久遠の到達者を起動させて、月の地下へ突入する。
そんなこと、どう頑張っても間に合うわけがない。
わかり切っていたがゆえに、誰もが黙っていた。
その時である、月から儚い信号が届いたのは。
「月面を観測していた人工衛星に、感あり! 久遠の到達者がある別棟へ向かって、月面車が走行しています!」
まさか、怨霊が車を走らせるわけがない。だとすれば、生きている誰かが運転しているはずだ。
そして今月面に生者がいるとすれば、それはそもそもの発端である、撃墜された宇宙船の生き残りに他ならない。
「月面車の上で、高輝度のライトが点滅……これは……これは……」
高度な天体望遠鏡だからこそ、月面の車両を捉えていた。そしてその車両の上での、ジョークグッズの輝きも捉えていた。
それは、余りにも原始的な通信手段だった。
おもわず、宇宙局のスタッフが涙した。
それが分かるからこそ、分かることが嬉しかった。
「これは、モールス信号です!」
短点と長点だけで構成された、極めてシンプルな送信。
車両の上で、誰かが光を発している。それを、人工衛星は捉えていた。
「ログを確認します!」
月に誰もいないからこそ、絶望に包まれていた。
だが月面に、誰かがいた。
誰なのかはわからないが、誰かがいるのだ。
「……カイジョ、モトム。ワレワレ、トツニュウス」
その誰かは、こちらへ要請していた。
この世界に残された最後の手段であるがゆえに、その誰かもこの場の面々と同じことを考えたのだ。
そして、自ら向かおうとしている。
「ナイブ、ハアク、キロク、アリ……」
短い文章だった。
だが議論をしていたからこそ、この場の誰もがそれの意味するところを知っていた。
「戦っていたのか、我等の知らないところで……月面で、要救助者たちが……」
茫然とする現実だった。
こちらは一切連絡できず、生存を絶望視していた。
にもかかわらず、生存者たちは戦っていた。
今も戦おうとしている、命を捨てて。
誰も助けてくれないのに、誰もを助けようとしている。
「カイジョ、モトム。ワレワレ、トツニュウス。ナイブ、ハアク、キロク、アリ」
繰り返される、モールス信号。
おそらく向こうは、こちらの送信を確認する術を持たない。
だがそれでも、伝わると信じて発信している。
高度な攻撃的セキュリティに守られた、カセイ兵器のドックへ向かって。
このまま進めば、死ぬと知って。たどり着いても、帰る道はないと知って。
「宇宙局として、カセイ兵器ドッグの、セキュリティの解除を要請します! そして、久遠の到達者の封印の解除も!」
宇宙局の職員たちに、生気が戻った。
使命感に燃える彼らは、目の前にいる指導者たちへ直接要求する。
それに対して、指導者たちは困惑した。
いいや、怒ってさえいた。
「……それ自体は、許可する。だが……だがまさか……彼らにやらせる気か?!」
世界の存亡がかかっている、人命どころではないのかもしれない。
だがそれでも、軽んじてはいけないことがある。
「彼らは要救助者だ! カセイ兵器が動かせるのなら、母星への避難に使うべきだ! 彼らを家に帰してやることが、君たちの仕事じゃないのか!」
小を捨てて大を取る、それが政治ではある。
だが助けられる一般市民を死なせに行くなど、指導者として許容できることではない。
「宇宙が好きなだけの観光客に、世界の命運を託すというのか!」
「彼らはもう! 観光客でも要救助者でもありません!」
宇宙局のスタッフたちは、涙を流しながら燃えていた。
その瞳に宿るものは、奇しくも兎太郎と同じものである。
「彼らは……人類の希望! 宇宙飛行士です!」
誰もいない世界へ、希望を乗せて立ち向かう。
最新にして最後の冒険者たち、広大すぎる宇宙に挑むもの。
「この後宇宙局が解体されても、私たちが死刑になっても構わない! 行かせてください! 行かせてあげてください!」
助けを求めても、誰も助けに行けない。
光をもってしても伝え合うことができない、誰よりも遠くを目指す者。
「宇宙飛行士を送り出す……それが……私たちの、宇宙局の使命なんです!」
宇宙局の職員は、天命を授かっていた。
「……死ぬのは、お前達ではない」
それは、指導者にも言えることだった。
「責任を負うのは我々だ! 全ての罪は私達が背負う! 私たちが死ぬ! 国際宇宙局のスタッフに命令する! ドックのセキュリティを解除し、カセイ兵器久遠の到達者を起動せよ!」
「了解!」




