案ずるよりも産むがやすし
モンスターパラダイスの主人公は、設定上20歳である。虎威狐太郎は、二十二歳である。そして彼は、今のところ一切鏡を見ていない。
つまり彼は、自分が『主人公と同じ服を着ているだけ』なのか、『体ごと主人公になっている』のかさえわかっていなかった。
そして、どっちでも大差なかった。
(子供に戻った気分だ……)
よく、魔法などで子供になってしまったキャラクターが、周囲の大人を見て『なんてデカいんだ、巨人か』と思うシーンがある。
今まさに、彼はその心境だった。自分自身の身長はさほど変わらないのに、周囲の人々がやたらとデカい。
革や金属の鎧を着こんでいるうえに、そもそも体が見上げるほど大きい。顔が怖い上に武器も持っているので、威圧感を含めれば十分巨人である。
「これだけ強い人間に囲まれるとは……流石異世界ね。私たちの世界では考えられないわ」
感心したようなことを言っているクツロなのだが、彼女はその場の全員を見下ろしている。
ただでさえデカい男たちに囲まれているのに、一番大きい女性が一番傍にいる。頼もしいとか以前に、圧迫感がある。
これから危険な森に向かうところなのだが、それ以前に呼吸困難になりそうな気配さえ漂っていた。
(虎の群れに、イエネコ一匹過ぎる……)
いわゆる、モンスターを仲間にして戦うゲームでは、主人公が二種類存在する。
主人公になにがしかのパラメーターが存在し、何かしらの能力や役割があるパターン。
もう一つは、本当に何の能力値もない、設定上だけ存在しているパターンである。
モンスターパラダイスの主人公は、言うまでもなく後者のパターンだった。
なんのとりえもない二十二歳の成人男性が、特別な能力を持たない二十歳の男性に変身。
正直、変身の意義がわからない。
(しかし……見事に全員男だな。当たり前っちゃあ当たり前だが、女子が一人もいない)
自分が非力であることを把握している狐太郎は、気を紛らわせようと周囲に弱そうな人がいないのか探す。
そうしていると、比較的背が低い、説明をしていた美男子に目が行った。
(ん? 隣に誰かいるのか?)
大きい男たちが防具を着て歩いているので、中々よく見えない。
しかしその合間から、一際小さい影をみつけることができていた。
「もしかして、俺のことを止めたいんですか」
幼い声が聞こえた。
もちろん幼児などではないが、それでも少年と言っていいような声だった。
「答えてくださいよ」
「……今は職務中だ、その枠を超えるつもりはない」
「それって、勝手じゃないですか?」
「……」
「何か言ってくださいよ」
どうやら、別の意味で修羅場のようなことになっているらしい。
(これから危険地帯に向かうのに、また別の意味で危ないことになるのかよ……)
余裕があるにもほどがあった。
いや、空気を読めていないのかもしれない。
「……君のことは聞いている。とても才能があり、努力を惜しむことなく、実力も実績もある、期待の若手だと」
「そうですか」
「君はたしかDランクになっているはずだ。なぜわざわざ、こんな危険なことをこなす」
「Dランクでは、護送任務も請け負えないじゃないですか。退屈で無意味な、街の衛兵ぐらいしかできない」
「従事している人や、以前に務めていた人を侮辱している。そういういい方は敵を作るぞ」
「言い方を替えます……ハンターとしてのランクを上げるためには、くだらない『貢献度』を稼がなければなりません。Dランクでも魔物の討伐はできますが、それだけでは貢献度を得られない。おかしいとは思いませんか、戦闘能力の評価にそんなものが必要だなんて」
二人の話声が、段々大きくなってきた。
少年側が興奮しており、それに応じて青年も声が大きくなっている。
「ですが、ここにくれば一気にBランク。実力が備わっているのなら、これが一番簡単でしょう」
「君にその実力はない。そう判断されたからこそ、今の君はDランクなのではないかね」
「ハンターの養成校を出ても、最初に与えられるランクの最高位がDというだけでしょう! 俺の実力はそんなものじゃありません!」
「そうかもしれない。もしかしたら、遠からずAランクに達するだけの素質があるのかもしれない」
「だったら、なんで止めるんですか!」
「急ぐ必要がないからだ。君なら五年もすれば、間違いなくBランクに達する。その五年、耐え忍ぶべきではないかね」
いよいよ砦の出口、大きな門の前に来ていた。
先ほど狐太郎たちが通ってきた門とは違い、森に向かっている門である。
森側というだけに、その堅牢さは見るからに明らかだ。
道側の門は両開きの扉だったが、森側は上下に動くタイプである。
太く頑丈な丸太を何本も縄で固定して、大きな一枚の『扉』にしている。それを縄などで上下させることによって、開閉をする形式だった。
開けるのが難しい一方で、閉じるのは簡単であり、壊すこともこじ開けることも難しい。
そんな、ここから先が地獄であることを示す門だった。
「俺は、自分を信じています。自分の実力が及ばなかったとしても、悔いはありません」
「そうか……私は止めたかったのだが」
(俺のことも止めて欲しい)
ゆっくりと持ち上げられていく門を恨めしく見上げながら、狐太郎は嘆息した。
※
シュバルツバルトなる森の中には、獣道らしい踏み固められた道があった。
おそらく討伐隊の面々が、よく通る道なのだろう。
暗く重苦しい雰囲気の森に入ると、周囲にいる強面の戦士たちが突然小さくなったような気さえした。
先ほどまでは一応文明のある街にいたのだが、今は完全にアウェー、非文明地帯である。
広大な森のすべてが敵と言ってよく、少々大きいだけの人間が数十人いるだけの現状、心強いとは言えなかった。
もちろん狐太郎の周囲には四体の屈強なモンスターがいるのだが、それでも暗い森という環境では不安になってしまう。
(っていうか、なんで俺ここにいるんだろう)
二重三重の意味で、自分がここにいる意味が分からなくなっている狐太郎。
(よく考えたら、俺は街に残っていてもよかったんじゃないか? なんでわざわざ森に入ってるんだ? 何にもできないのに、いる意味はなんだよ)
そんな心中がオーラにでもなっていたのか、先ほどのDランク少年(仮称)が狐太郎に気付いていた。
「俺のことを止めますけど、彼のことは良いんですか?」
「彼?」
「あそこのひょろいボンボンです」
(ああ、俺だな)
当人が場違いだと思っているのだから、周囲からすれば更に奇異だろう。
狐太郎は、ひょろいボンボンと言われても全く傷つかなかった。
「ああ、魔物使いの彼か」
「魔物使い? そんなたいそうなものじゃないでしょう」
(その通りです)
「見てくださいよ、あの恰好を。どう見ても戦うための装備じゃない」
「それはそうだが、魔物使いなら不思議ではないだろう?」
「俺の知っている魔物使いは、普通の戦士と変わらない強さを持っていましたよ」
年若い少年だが、彼はきっと大真面目に修行して強さを得たのだろう。
だからこそ、努力をしていないであろう誰かが、自分と同じ場所にいることが許せないに違いない。
「大方どこかの豪商か貴族の子供で、親にねだって見た目のいい魔物を買ってもらったんじゃないですか? 少なくとも、自分で捕らえたようには見えません」
(だいたいその通りです)
「自分の魔物を戦わせてみたくて、武勇伝欲しさに来た程度ですよ」
(それは違います、もっとひどいです)
「そして、見るからに後悔している。帰るに帰れなくなっているだけじゃないですか」
(大正解)
負い目があるというか、既に負けている気分になっているので、何も言い返せない狐太郎。
本人に直接言っているわけではないが、少年はどんどん大きな声で続けていく。
「帰らせたほうがいい、死にますよ」
(全くだ)
自他ともに自殺と認めざるを得ない状況である。
主観的にも客観的にも、数値的にも実績的にも、何一つとして自殺以外の結果が望めない状況である。
もういっそ恥を忍んで帰った方が、よほど賢いのではないだろうか。
確かにここで帰ったらさぞ恰好が悪いだろうが、命には代えられまい。
「ちょっと、そこの君! さっきから聞こえるような声で失礼だよ!」
しかし、アカネが怒り出していた。
(……そりゃ怒るよな)
狐太郎は怒る気がなかったが、それを聞かされていた四体が怒るのも当然だった。
当然すぎて、狐太郎は止める気が起きない。正直に言えば、自分のために怒ってくれていることが嬉しかったのかもしれない。
「俺は本当のことを言っただけだ!」
「本当のことなら何を言ってもいいと思ってるの! だったら私が怒ってるのも本当のことだから、ガンガン怒るよ!」
上半身はともかく、下半身は大きいので、少年を見下ろせるアカネ。
異形の彼女に対して、少年は見上げつつも引き下がらない。
「確かにご主人様は何にもできないけど、私たちのご主人様なんだから、一緒にいるのは当たり前じゃん! ご主人様はね、一人安全な場所でこもるほど、臆病者じゃないんだから! 弱くても私たちと一緒にいる、勇気があるんだよ!」
「ふん、それは勇気とは言わない。根拠のない、実力のない行動をするのは……」
少年はアカネから視線を切って、狐太郎を見た。
「ただの馬鹿だ」
「酷い!」
(はい、ただのバカです)
アカネの言葉は嬉しいが、正直に言って重い。
狐太郎は少年の言葉に従って、とっとと帰るのが本当に正しい。
「そこまでにしてほしい」
二人の口論が本格的になりそうなところで、先導している男は二人を遠ざけた。
「君の主への暴言を諫めなかったことは、私の責任だ。どうか許してほしい」
「貴方が私に謝っても意味がないよ! その子がご主人様に謝ってくれないと駄目だって!」
「気持ちはわかる、だがここは危険地帯だ。そして今は試験中、君たちだけの都合で動くわけにはいかない」
いうだけ言った少年は、とてもではないが謝ろうという雰囲気ではない。あくまでも自分が正しいと信じて疑っておらず、上から目線を崩していなかった。
この場でもめても、謝罪を引き出すことはできないだろう。
「どうかこの場は納めてほしい」
「……わかりました~~」
不満そうに下がるアカネ。
そんな彼女を、他の三体は明るく迎えていた。
「褒めちゃいけないけれど、よく言ったわアカネ」
「恥知らずなお前にも、こういう役割があるのだな」
「一発ぐらいひっぱたいてやればよかったのに~~」
しかし馬鹿にされた狐太郎本人は、ひたすら嘆くばかりであった。
「ご主人様、もしかして怒ってます? 私のせいで、恥ずかしかったですか?」
「あ、いや、怒ってはいないよ」
既にゲームでエンディングを迎えている彼女たちは、主人公である狐太郎への信頼が厚かった。
つまり狐太郎だけを置いて、この森に四体だけ送り込むというのは最初から無理だったのである。
(なんて嬉しくない信頼なんだ……完全に的外れだ)
うんざりするような状況、ずれ切った信頼関係に、狐太郎は嘆息してしまう。
「ふん……自分の飼い犬に庇ってもらうとは、情けない男だ。家柄や財産なんかここでは役に立たないのに、それしか取り柄がないみたいだな」
「ここがどこだかわかっていないのは君もだろう。そろそろ黙りなさい」
先導役が、いよいよ感情のない声を出した。
これ以上喧嘩を売るのなら、不適格扱いにする権利もあるのだろう。
少年は、流石に黙っていた。
「きゃんきゃんうるさいガキどもだ」
「はっ、お遊戯は終わったのか? 呆れた茶番だったな」
「どっちも帰った方がいいだろ。はっきり言って、邪魔だな」
「まあいいじゃねえか、もうすぐ人生が終わっちまうかもしれないんだしよ」
周囲の呆れた声をきいて、少年は敵意を向ける。
しかし流石に、全員へ何かを言うことはなかった。
一方で狐太郎は、先ほどまで紛れていた感情が吹き上がるのを感じていた。
嫌悪だとか困惑だと拒否だとかではない、恐怖だった。
場違いな茶番で紛れていた感情が、一気に吹き荒れたのである。
(こ、こええええ!)
ここはシュバルツバルト、異世界の危険地帯。
仮に野犬の群れ程度だったとしても、狐太郎を食い殺すには十分すぎる。
まして、恐竜やらよりもはるかに強大であろう、この森の魔物たち。
お化け屋敷やジェットコースターのような、安全の保障された絶叫施設とはわけが違う。
本物のスリルどころか、生死のリスクがここにあった。
「さて、言い忘れていた。いや、言うまでもないことだった。だが念を押しておこう」
先導役が立ち止まった。
それに合わせて、彼に続いていた男たちも、狐太郎も四体のモンスターも足を止める。
「私は君たちを助けない。何があっても、私は自分の身しか守らない。自分の身は、自分で守り給え」
狐太郎の恐怖が合図になったかのように、異臭が漂い始めた。
はっきり言えば、獣臭い、血なまぐさい、腐っている、不衛生。
とにかく嫌悪感の沸き上がる臭いなのだが、それは発生源の危険性を本能に告げているようだった。
うっぎゃおおおおおお!
現れたそれは、サルに似ていた。
類人猿と呼んでも差し支えない姿をしているその魔物は、特に顔が特徴的だった。
(ひ、ひぃいい!)
恐怖のあまり、声も出せなくなる狐太郎。
彼は見てしまったのだ、その類人猿の顔を。
単一の毛でおおわれている肉体に対して、顔だけが極彩色だった。
色とりどりの毛によって、ただでさえ大きい目が、鼻が、口が、牙が、より大きく見えるようだった。
「マンイートヒヒ。好んで人間を食らう、Bランクの極めて危険なモンスターだ」
先導役は一切動じずに、淡々と説明をしている。
「さあ、倒してくれ」
(む、無理だろ……これ、こんなの、銃があったって無理だ!)
マントヒヒによく似ているそのモンスターは、『モンスターパラダイス』のモンスターとは違い過ぎた。
まさに、世界が違う、世界観が違う。それは人間と仲良くなれる要素など見当たらない、凶悪にして暴虐なる害獣だった。
うっうっうぎゃああああ!
この世の物とは思えない奇声を発して威嚇するマンイートヒヒ。
その個体は大柄な男たちに囲まれている狐太郎でも見つけられるほどに大きく、森の図太い木を片手で掴んでぶら下がっていた。
おうっおうっおうっ!
そこから先は、まさに猿のような動きだった。
森の木々を足場にして、巨体とは思えない身軽さで一行の頭上を飛び跳ねている。
その獣を見上げている屈強な戦士たちは、互いに武器がぶつからないように散開して、迎え撃とうとしていた。
「え? あ、う……!」
結果的に、狐太郎の周辺から人が引いていた。
一気に人口密度が薄まり、心細さが加速する。
「ご主人様、私たちから離れないでください! アレは明らかに、人畜に危害を加える、野生の獣です! ご主人様では、ひとたまりもありません!」
わかり切ったことを言うのは、緊張した面持ちのクツロだった。
口に出したのは彼女だけだが、他の三体も狐太郎を守るために身構えている。
周辺から男たちがいなくなった分、空いた隙間を埋めるように、彼女たちは狐太郎と密着していた。
(頼もしいけど、やっぱり逃げる気はないんだな……!)
もはや赤ん坊扱いだが、全面的に正しかった。
今にも襲い掛かってきそうなヒヒは、少なくとも狐太郎よりは圧倒的に強い。
これが人肉を好んで喰らうのだとすれば、確かに駆除をしなければならないだろう。
うう、うぎゃうううあああ!
そして、ついにそのヒヒは落下した。
木々から飛び移っていた猛獣は、高速で少年へ襲い掛かる。
狐太郎を除けば一番小さく、男たちの中では外周におり、しかも孤立していた。
であれば、狙われるのは当然だろう。
「プッシュエフェクト」
とびかかってくる巨大な猿に対して、少年はおびえることなく剣を抜いていた。
肩から下げていたそれは、どう見ても人間が振り回せる大きさではない。
しかし少年はそれを軽々と片手で持ち上げ、振り回していた。
「スラッシュ・ハンマー!」
大剣を一閃。
吹き飛ばされたのは、マンイートヒヒだった。
両者の体重差を考えれば、少年の方が押しつぶされてしかるべきだった。
だがしかし、少年の剣は確かにヒヒを弾き飛ばし、森の巨大な木に衝突させていたのである。
(嘘だろ……まさか、魔法?)
この世界の人間が、狐太郎の世界の人間や、クツロたちの知る人間とも違うことは知っている。
だが知っていても、この状況には驚愕せざるを得なかった。
ううぉろろろ……
「流石はBランクのモンスター、この程度じゃあ倒れないか……」
胸には切創、背中を強く痛めたはずのマンイートヒヒ。
しかし痛そうにはしているものの、逃げ出そうとはせず、それどころか怒りに燃えているようだった。
「一応、会心の一振りだったんだけどね……」
だがしかし、少年もまるで怯えていない。
自分の初太刀に耐えたことを、むしろ喜んでいるようだった。
「嘘だろ、Bランクのモンスターをあんなガキが、吹っ飛ばしたのか?」
その光景を見て、他の男たちも驚いていた。
流石に狐太郎ほどではないが、それでも意外なことであったらしい。
「まだ駆け出しの、Dランクの小僧っこにできることじゃねえぞ」
「ここに来るだけのことはあるってことか……」
周囲からの驚嘆を受けて、少年は不敵に笑った。
「俺の名前は、ホワイト・リョウトウ! これから数多の伝説を作っていく、不世出の天才剣士だ!」
(凄い自信だ!)
根拠があるとしても、痛々しいほどの発言だった。
若さの溢れる言葉を聞いて、狐太郎は一瞬恐怖を忘れていた。
「……す、すごい、あの子本当に人間なのかな」
同じように、アカネも驚いている。
本当に、全く同じ反応をしていた。
起き上がったマンイートヒヒは、猛然とホワイトと名乗った少年に襲い掛かり、食い殺そうとしていた。
だがそのたびにホワイトが剣を振るい、吹き飛ばしていく。ホワイトはまぐれでもなんでもなく、完全にマンイートヒヒの動きを見切り、余裕をもって弾き返していた。
森の木々に激突するたびに、切り裂かれていく度に、マンイートヒヒはどんどん弱っていく。
凶暴な未知のモンスターを、少し大きいだけの子供が追い詰めている。
それも銃などではなく、剣と魔法らしきなにかによって。
その光景をみて、先ほどまで言い争いをしていたアカネは、ホワイトが本当に人間なのかを疑ってしまう。
「いいえ、間違いなく人間だわ。私たちの世界では既にいなくなっていた、勇者と呼ばれるだけの力を秘めた、強い人間ね」
やや複雑そうな顔をしつつ、ササゲがホワイトを純粋な人間だと言い切っていた。
その彼女自身も、知識として知っていただけの、太古の実力者が目の前にいることに驚きを隠せていない。
「この一頭だけではないぞ、また来たようだ」
警戒を怠っていないコゴエは、深い森の奥から接近してくる大量の気配に気付いた。
「既に我らは、囲まれているらしい」
ホワイトが一頭目を倒したところで、新手の集団が現れていた。
やはりマンイートヒヒであり、その数は十頭ほどである。
「ちぃ……流石はシュバルツバルト、一筋縄じゃ行かねえか!」
「あのガキだけにやらせるかよ!」
流石に、ホワイトだけが戦うということはなかった。
襲い掛かってくる巨大なヒヒを相手に、ホワイト以外の男たちも奮戦する。
一頭につき三人ほどで囲み、そのまま抑え込んでいく。
「ヒートエフェクト! レッドネットチェーン!」
大きな鎖で編まれた網が、一頭のヒヒの頭から被さる。
ヒヒの体を包むその鎖は、赤く高熱化してヒヒの体を焼き始めた。
ううおぎゃあああああ!
絶叫するヒヒは、自らを燃やす鎖をつかみ、引きちぎらんと暴れていく。
肉や体毛の焦げる嫌な臭いを放ちながら、のたうち回りつつ拘束から逃れようとしていた。
「ちいい! すげえ力だ!」
「絶対放すんじゃねえぞ! ショックエフェクト! スパークアンカー!」
フックのついた、図太い鎖を投げるまた別の男。
高熱化した網の上から更に巻き付けると、放電音とともに電流を迸らせる。
あぎゅああああああ!
両腕を抑えられ、放電によって体の自由を失っているマンイートヒヒ。
しかしそれでも、絶叫だけは収まらなかった。
「流石はBランク! なんて頑丈な! まだ死なねえのかよ!」
「だがこうしちまえば、なんてこたあねえ! とっとととどめを刺せ!」
「おうよ、ヘビーエフェクト、ビッグプレス!」
二人がかりで抑えこまれているマンイートヒヒに、巨大な鉄槌が振り下ろされる。
屈強な男たちの中でも、一際大柄な男が掲げる、一際大きな鉄槌。
狐太郎の知る人間ならが、重機を用いなければ持ち上げられないであろう重量の武器。
それがまさに重機の如き轟音とともに、ヒヒの頭部に直撃する。
おぎゅあああああ!
断末魔の悲鳴が、絶叫がとどろく。
しかし何たる生命力か、いまだに息絶える様子を見せない。
「おらあ! こらあ! どりゃあ!」
何度も何度も、不死身にさえ思えるヒヒの頭部に鉄槌が振り下ろされる。
断末魔が絶えても、なおも手足はじたばたともがいていた。
その体が完全に停止するまで、徹底して鉄槌が撃ち込まれていく。
その動作に、一切の恐怖やためらいはなかった。それこそ、何度もこうした魔物と戦っている、それを生業としているが故の熟練が感じられた。
「この世界の人間は、強い……! 私たちの世界では、魔王を倒したのは、魔王と戦うのは、私たちのようなモンスターだったわ。でもこの世界では、人間は自らの手で営みを守っているのね」
クツロが感心したように、感動したようにつぶやく。
野生の獰猛さに負けぬように、人間たちは原始的ですらある武器で果敢に立ち向かっている。
そのうえで、確かに対処していた。それが彼女にとっては、とても感動的なことだったのだ。
「……ところで」
虎と獅子の食い合いを前に、目を閉じることさえできなかった狐太郎。
人間が野生の魔物と戦うことに感心しているクツロ達に囲まれているため、少しばかり危機感やら臨場感が薄れてきて、逆に現状を把握していた。
「なんで俺たちは襲われていないんだ?」
「私たち、人間じゃありませんから、後回しにされているのでは?」
「……そりゃそうだな、ササゲ」
マンイートヒヒも野生の獣である、この襲撃も立派な狩猟に他ならない。
狐太郎を含めた前線基地の一行を群れだと認識しているのなら、狙うのは常に優先順位の高い相手であろう。
孤立しているもの、小柄で弱そうなもの、怪我をしているもの、背中を向けているもの、他のヒヒが狙っていないもの。
それらの理屈で言えば、人間ではない四体に囲まれている狐太郎を、積極的に狙う理由がなかった。
(しかしこれだと、俺達だけ不合格かな? 合格したいわけじゃないんだけども)
まさに出る幕がなかった。
彼らが情けない醜態をさらけ出すことはなく、さりとて狐太郎一行が無残な最期を遂げることもなかった。
ごくごく普通にこの街の討伐隊になろうとしている面々が、そのまま勝って終わりそうである。
少々手傷を負っている男もいないではないが、人間側が圧倒的に有利だった。
「プッシュエフェクト! インパクトドライバー!」
ホワイトの放つ、大剣による刺突。
それは弱っていたマンイートヒヒの胴体を大きくへこませ、その内臓や骨格、筋肉を粉砕しきっていた。
「大穴を開けるつもりだったが、まあこれでも十分だな」
ホワイトなる少年は本当に強かった。
他の面々は数人がかりで対応しているのに、彼だけは一人で倒している。
クツロよりも更に大きい怪物でさえ、彼に指一本触れることができていない。
まさに圧倒的な実力と言わざるを得なかった。
「少々物足りないが、これで終わりかな?」
既に、戦場は決していた。
マンイートヒヒなる怪物は、屈強な男たちの手で駆除されていた。
(すげえ……)
クツロ達に守られているだけで何もしていない狐太郎は、恐怖を忘れて感動し、羞恥さえしていた。
目の前の勇敢な、勇猛な、強大な戦士たちに憧れさえしていた。
「どうですか?」
自慢げに、誇らしげに。
できるだけ事も無げに、自分の評価を先導役に問うホワイト。
モンスターを相手にした一戦によって、もはやこの場には彼を畏敬しない目はない。
彼は正に、伝説を打ち立てる剣士としての萌芽を見せていた。
「どう、とは?」
ただし、先導役だけは違っていた。
何も驚くことなく、淡々と問い返していた。
「合否についてですよ、これなら文句はないはずです」
「それは少し性急だろう」
「何を……。まさかとは思いますが、今のはCランクだったとでも?」
「いいや、君たちが倒したマンイートヒヒは、確かにBランクだとも。こと戦闘能力に関して言えば、この場の全員がBランクを名乗れるだけの実力者だと保証するとも」
先導役の言葉に抑揚はなく、冷淡ですらあった。
「だが、前線基地で討伐隊に参加できるかと言えば、その限りではないな」
「どういう意味ですか?」
「直ぐにわかる」
森が、ざわめきを増した。
突如として、四方八方から、先ほどと同じ咆哮が響いてきた。
それを聞いて、先ほどまでヒヒを倒していた男たちは、驚愕しつつ周囲を警戒しなおす。
「今のマンイートヒヒは、群れの先遣隊。これから来るのが、本隊だ」
警戒していた上で、絶句した。
「そ、そんな……!」
誰よりも強かったはずのホワイトが、手に持っていた剣を取り落としそうになっていた。
他の誰よりも驚愕し、現実を受け入れることができずにいた。
「さあ、実力を見せてくれ」
木々の枝にぶら下がる、巨大なヒヒたち。
そのモンスターたちは、先ほど倒したヒヒと大差がなかった。
しかし、明らかに違うことがある。
狐太郎一行と先導役を除けば、この森に入った男たちは二十人ほど。
それに対して、巨大なヒヒの群れは五十頭を優に超えていた。
相手の数が自分たちの倍。それだけというには、いかんともしがたい戦力の逆転だった。
「ち、畜生! どういうことだよ! なんでBランクのモンスターが、こんだけ群れてるんだよ!」
「こんなん無理だ! 逃げるしかねえ!」
「いいや、数を減らすんだ! 全滅させることができなくても、数を減らせれば……!」
ホワイト以外の男たちは、明らかに自分たちより数が多いマンイートヒヒたちに怯え切っていた。
そしてその怯えを感じ取ったのか、マンイートヒヒたちは先ほどまでの同種と同じようにとびかかっていく。
「クソ! 来たぞ! 逃げられねえ!」
「む、迎え撃つしか……!」
「ぎゃあああ!」
状況は、完全に逆転していた。
先ほどまではヒヒを一方的に倒していた戦士たちが、逆に一方的に攻め立てられている。
流石になされるがままに食われることこそないものの、ろくに抵抗できずなぶられていた。
「プッシュエフェクト! スラッシュハンマー!」
なんとか奮起したホワイトは、目の前の一頭を吹き飛ばす。
それ自体は先ほどと同様に成功するが、その攻撃をしている間に後方から襲われた。
「しまった……あぐああ!」
一頭を吹き飛ばしても、別の一頭が襲い掛かってくる。
あまりにも当たり前すぎる、そして絶体絶命と呼ぶに余りある窮地だった。
「ぐ……あ!」
そしてホワイトは痛みの中で気付いた。
今自分が吹き飛ばしたばかりのヒヒが、怒りに燃えつつ反撃してきたのだ。
先ほどは、返り討ちにできていた。
だが攻撃を受けたばかりの彼は、とてもではないが剣を振れる体勢ではなかった。
うぅおおきゃあああ!
「あああ!」
先ほどまで倒せていたモンスターに、今度は手も足も出なかった。
より強い個体が出てきたわけではなく、ただ数が増えたというだけで。
「あ、あわわわ……!」
その光景を見て、狐太郎は驚愕と恐怖を隠せなかった。
自分という存在の卑小さを全身で表し、隠したいという見栄を思いつくこともなかった。
まるで子供のように、自分のモンスターにすがるばかりだった。
「あ、あの! い、いいんですか?!」
そして、もう一人のすがる相手を思い出す。
この場に全員をいざなった、先導役その人だった。
「私に何をしろと」
まだ襲われていない彼は、剣を抜くこともなく泰然としていた。
「先ほども言った通り、彼らを助けることはない」
「で、でも、こんなに多いと、誰もどうにもできませんよ!」
「そんなことはない」
未だに死人はいないが、それもほんのわずかな猶予に過ぎなかった。
この凶暴極まる巨大なヒヒに、全員が食われるのも時間の問題だった。
それを証明するように、先導役へ五体のヒヒが襲い掛かる。
他のヒヒに獲物を譲ったのか奪われたのか、誰にも狙われていない先導役へ、我先にととびかかったのだ。
「スラッシュクリエイト」
悠然と、焦ることなく、事務作業のように。
それこそ、店で財布を出すような自然さで、先導役は剣を抜いていた。
「クレッセントムーン」
ぶんと、剣を振るう。
片手で持つには少々大きいが、それでも他の男たちよりは少々小ぶりな剣。
それから放たれたのは、三日月型の白い光だった。
一瞬で五体のヒヒを切り裂いて、白い光は消えた。
「な……」
「え……」
狐太郎とホワイト、あるいはその光景を見ることができた男たち全員が、全く同じ反応をしてしまう。
ホワイトでさえ何度も攻撃してようやく一体倒せたのだが、先導役はたった一撃で五体をまとめて殺していた。
「この森で討伐隊に参加したければ、この程度の群れを相手に手こずることはできない。その理由は、各々が体験しているとおりだ」
先導役には自負がみなぎっていた。
この場のヒヒがすべて自分に襲い掛かってきたとしても、まとめて蹴散らすだけの実力があるのだと。
「私はあくまでも試験を行うもの、自衛以上に戦うことは許されていない。どうせなら、君が助けたほうがいいのでは?」
「え……あぁ」
そして、そんな先導役から言われて思い出した。
狐太郎を囲っているのは、他でもない彼自身の『仲間』なのだと。
「クツロ……アカネ……コゴエ……ササゲ」
狐太郎は選択を迷った。
これは携帯ゲームの新作ではなく、彼女たちもまたゲームのキャラクターではない。
そしてなによりも、相手より彼女たちが強いという保証もない。
仮に強かったとしても、怪我をしないとは言い切れない。また、自分が怪我をしないとも、死なないとも限らない。
この質が悪い冗談のような、流されるだけだった状況に、その場の勢いのまま突っ込んでいいのだろうか。
「ご主人様、お気持ちはお察しします」
クツロが、はやる気持ちを抑えつつ、しかし静かに語り掛けてきた。
狐太郎の心中を完全に察しているわけではないが、それでも怖がっていることだけはきちんと伝わっている。
「未知の敵に対して、私たちがどこまでやれるのか……さぞ不安でしょう。お気遣い、お心遣いもありがたく思っています」
温度差こそあるが、方向性は間違っていない。
「ですがご主人様、貴方はお優しい方です。今助けられるかもしれない彼らを見捨てれば、きっと心に傷を負ってしまうでしょう」
狐太郎を囲んでいる四人は、闘志を確かに燃やしていた。
逃げようなどとは、毛ほども思っていない。
「どうか、ご命令を。私たちは決して期待を裏切りません」
別に、無力な民が襲われているわけではない。
別に、恩義がある相手でもない。
ただのむさくるしい、討伐隊志望の、狐太郎をバカにしていた男たちである。
助ける義理は、どこにもない。助けたいとは思っていない。
だがそれでも、彼女たちは助けるべきだと思っていた。
この異世界でも、できる範囲で人を助けるべきだと思っていた。
「彼らを助けましょう……!」
(俺の守りを薄くしてまで助けたいわけじゃないんだけど、そんなことを言える空気じゃない……)
狐太郎は、一旦深く考えようとした。
しかしその考えようとした耳に、悲鳴が響き渡ってくる。
「ぎゃあああ! ち、ちくしょう、一頭ずつならなんてことねえのに!」
「こ、このままじゃあ全員死んじまう! 誰か何とかしろ!」
「く、食われた、生きたまま食われた! こいつら、俺達を、このまま食い殺す気だ!」
クツロの言うことは、大体合っていた。
このまま見殺しにできるほど、狐太郎は無神経ではない。
「皆、彼らを助けてくれ」
ここが遠い異世界なれど、無力な民ではないとしても、不条理な暴力にさらされているわけですらなく、ただ生存競争のただなかにいるだけだとしても。
彼女たちは、人を守るために生きてきた。それが彼女たちの、『楽園』でのありかたである。
「お任せください」
「委細承知」
「よぅし、頑張ります!」
迷いなく、恐怖なく、クツロ、コゴエ、アカネは前に出た。
「では私がご主人様をお守りしますね」
「え?」
「いえいえ、ご主人様おひとりでここに残るおつもりですか? まさか、其方の殿方が守ってくださるとでも?」
残ったササゲが、幼児を抱きしめるように狐太郎の背後から手を回していた。
狐太郎になんの力もないことを考えれば、幼児扱いでも仕方がないと思われる。
しかし流石に、気恥ずかしいものがあった。さっきまでの厳戒態勢も過保護すぎて、恥ずかしいと言えば恥ずかしいのだが、それとは別の過保護さがあった。
(しかし、実際どうなんだ? クツロ達なら勝てるのか? 負けたらシャレにならないぞ)
携帯ゲームの画面では、あるいは攻略本の情報では、彼女たちの強さは知っている。
だがしかし、この世界において彼女たちがどの程度の位置にいるのかなど、神ならぬ狐太郎にわかるわけもなかった。
「コゴエ、アカネ。行くわよ」
大鬼故に巨体を誇るクツロだが、それでもヒヒたちのほうが見上げるほどに大きい。
数による優勢を疑わないヒヒたちは、迷うことなく襲い掛かってくる。
「一撃で、逝きなさい……シュゾク技」
クツロは、大きく拳を振りかぶった。
そして、なんの小細工もなく、下から突き上げるように殴った。
「鬼拳一逝!」
屈強な男が巨大な鉄槌をもってして、何度も渾身の攻撃を繰り返して倒れた、頑健なるヒヒの頭部。
しかしクツロの一撃は、その頭部を一瞬で粉砕していた。
如何に人間を見下ろすほどの巨体、人間とは比較にならない筋肉を持っているとはいえ、それでも素手の一撃だった。
何の細工もなく、ただ身体能力と技だけで一撃必殺。
それを成した彼女は、心底から誇ることなく、次のヒヒを標的にしていた。
「た、助けてくれええ!」
武装している男を押し倒し組み伏せ、今にもその肉体に牙を突き立てようとしているヒヒ。
「わかったわ、動かないで頂戴」
そのがら空きになっている脇腹へ、大きく振りかぶった蹴りを打つ。
「キョウツウ技、サッカーシュート!」
人間のハラワタを食い尽くそうとしていたヒヒは、逆にハラワタをぶちまけながら転がっていく。
即死こそ免れているものの、地面を転がって木にぶつかっても、息も絶え絶えで動けずにいた。
大量の出血もあって、そのまますぐに死んでしまうだろう。
「大丈夫かしら?」
「あ、ああ……致命傷だけは、なんとか……」
寝転がっていることもあって、助けられた男が見上げるクツロの姿はどこまでも大きかった。
「それなら、しばらく逃げるか隠れるかしていなさい。でも遠くにはいかないほうがいいわ、かえって危ないから」
またも襲い掛かってきた一頭を、裏拳の一撃で仕留めつつ、クツロは他の二体を見ていた。
「あの子たちは、使う技が広範囲だもの」
クツロが見ているのは、大きく息を吸い込んでいるアカネだった。
火竜である彼女が肺の中に空気を取り込んでいるのだとしたら、その口から出るものが普通の吐息であるはずがなかった。
「すぅうううううう……んん!」
比較的人間に近い体型だった上半身が、風船のように膨らんでいる。
その膨らんだままに、アカネは息を止めて力を貯めていた。
全身の赤い鱗が、熱を帯びて赤く輝き始めている。
「シュゾク技!」
牙のある、竜の口が開かれた。
「ファイヤーブレス!」
強靭な下半身によって支えられているアカネは、もはや火炎放射機と化していた。
ただ「火」が噴き出しているというレベルではない。膨大な圧力を込めて放たれた『炎』は、凄まじい熱と速度をもって射線上のヒヒを焼いていく。
ふぎゃ……
一撃必殺どころではない。
彼女の息吹によって焼かれたヒヒは、一瞬で炭化し、断末魔の声を上げることもできずに地面に倒れて崩れていく。
そのアカネを倒すべく、樹上からヒヒがとびかかる。
彼女の危険性を理解したからか、今まで別の男を襲っていたヒヒまでも参加して、彼女に殺到してきたのだ。
「ううう……はああああ!」
それに対して、彼女はただ上を向いただけだった。
炎を放出しながら、敵の方向に顔を向ける。
加えて口の開き方を微妙に変えて、放射角度に変化を持たせる。
まるで、虫のようだった。
上方、広範囲を焼く彼女の息吹は、襲い掛かってきたすべてのヒヒを、落ちてくるまでの短い間に焼き尽くしていたのである。
アカネへ襲い掛かっていたすべてのヒヒは、炭化した死体となって地面に衝突し、崩れて地面に撒かれていた。
「この場の者は、危険を承知で来たはず」
凄まじい熱量が吹き荒れたあと、炎の息吹が収まったあと、森は静かになっていた。
「少々の寒さは、こらえろ」
圧倒的な火力が発揮されたにもかかわらず、周辺の温度は高くなることはなかった。
それどころか、急速に気温が低下していく。
「シュゾク技、大寒波」
雪女たるコゴエを周辺として、ありえないほどの冷気が森の中を満たしていく。
ヒヒだけでなく人間までも巻き込んで、その温度を奪っていく。
「ち、ちくしょう……な、なんてことしやがる……!」
全身が氷漬けになるということはなかったが、急速な体温低下に伴って体の動きが鈍くなり、それどころか意識までもうろうとしてくる。
ヒヒと取っ組み合いをしていた男たちは、体の不調を認識していた。
「だが、こいつらも……!」
しかし、それでも彼らは決して取り乱すことはなかった。
なぜなら、その行動が何を意味しているのか、既に察していたからである。
急激な温度の低下、体温の低下は、ヒヒたちにとって甚大な影響を与えていた。
もしも彼らが雪山で生息しているような生き物なら、この冷気にも耐えることができただろう。
逆に、高熱を発することができるのならば、この冷気も相殺できたかもしれない。
だがしかし、彼らは屈強であってもこの森の生き物である。
急激な気温の低下によって、彼らの動きも人間同様に鈍っていた。
うきゃあ!?
うきゃあ!!
ぎゃああ!!
人間を食べようとしていた彼らは、少々迷いつつも逃走しようとする。
野生の獣だからこそ、食欲よりも生命への危機感が強かった。
しかしそれは、男たちに密着していた彼らが、人間から離れるということである。
「シュゾク技、大雪崩」
もはや遠慮することはなかった。
雪女である彼女の本気。圧倒的な質量をもった、膨大な雪による圧殺。
彼女が放出した大量の雪は、動きを鈍らせていたヒヒたちを捉え、埋もれさせ、そのまま窒息させていた。
そう都合よく、冷凍睡眠のようなことにはならないだろう。
「素晴らしいな……」
それを見て、先導役は素直に感嘆していた。
まさに望んでいた水準、この森で討伐隊に参加できるだけの力が示されたのである。
「すげえ……」
そして、一般人狐太郎。
彼は大きく口を開けて、驚愕しきっていた。
「ゲームだと、そんなに強い技じゃなかったのに……」
最後の技である大雪崩、それだけは全体攻撃の大技である。
だがそれ以外のほとんどの技は、通常攻撃と言っていい普通の技だった。
そして、その強くない通常攻撃が、どれだけ強大なのかを自分の目にすることになったのである。
ゲームの画面でキャラクターが少し動いていただけなのに、実際にはとんでもないことになっていたのだ。
「あらあら、そんなに驚くことじゃないと思いますわ」
ササゲは、驚いている狐太郎に違和感を覚えているようだった。
「もちろんこの世界に来たせいで、私たちの力が十分に発揮できないこともあるでしょうけど……いつも通りに戦えたのなら、驚くことではないでしょう?」
「そ、そうだな!」
とりあえず賛同しておくが、心中はまったくもって賛同できていない。
はっきり言って、自分を抱えているササゲに対しても、恐怖と警戒心を抱いてしまうほどだ。
そう、結局のところ、彼女たちもまたモンスターなのだ。
倒せない相手ではないが、思ったよりも多く出た。
本当にただそれだけのことで、この試験に臨んだ男たちは志半ばに散りかけていた。
討伐隊を希望したのだから、死ぬのも覚悟の上。
元より戦士として生きてきたのだから、危険な任務など日常茶飯事。
とは言ったところで、命は惜しい。
怪我を負えば気も弱り、弱音を吐かずとも表情は弱っていた。
彼らもわかっているのだ、このままだと自分が死ぬと。
「流石は歴戦の雄。取り乱さず、醜態を晒さぬ様は潔くさえある」
(半分以上、お前の大寒波による凍傷とかなんだが……)
その姿を見て、ヒヒごと冷やしたコゴエは感嘆している。
なお、彼女によって死にかけているものも多数である。
(コゴエが荒っぽい手を使っていなければ、そのまま食われていたんだろうし、責めるに責められないんだけども)
しかし仮にも、狐太郎は彼女たちの主である。
都合よく敵味方を識別する攻撃などない、そんなことはよく知っている。
むしろ、一人一人から安全に引きはがしていたほうが、結果的に被害が大きくなっていたことは確実である。
(そもそも、俺がもっと早く助けろと言っておけば……)
本当に、自分だけが場違いだった。
狐太郎は目の前で倒れている戦士たちに、どうしようもなく申し訳なくなる。
「ご主人様」
ちょんちょん、とササゲが狐太郎の頬をつつく。
「よろしければ、私が救命措置を施しますが?」
「そ、それは……できるのか? お前はそんなに、回復が得意じゃなかったような……」
「ええ、適性は低いので、そこまでの回数は無理です。なので重傷者ぐらいしか治せません、ですがやらないよりはよろしいかと」
「そうだな……頼む」
ササゲは悪魔であり、回復魔法に属する技は苦手としている。
しかしそれは、使えないというほどではなかった。
ササゲは倒れている男たちを見回して、一番怪我の程度が重い者に手をかざした。
「キョウツウ技、ジュウショウ治し」
いかにも邪悪という雰囲気の彼女に似つかわしくない、毒のない清らかで柔らかな輝き。
それは生きているのが不思議なほどの怪我だった男を包み込み、ゆっくりと治していく。
流石に着ていた防具などはそのままだったが、それでもヒヒにごっそりと食われていた部位は、完全に復元していた。
「あ、ああ……悪いな、死ぬところだった」
「あら、もう動けるの? 普通の人間なら、怪我が治っても数日は寝込むのに」
「鍛えてるからな。それよりもすげえ回復魔法だな……アンタ、ただのモンスターじゃねえな」
「これ自体は大したものじゃないわよ、私は専門家じゃないし」
感謝と敬意を向けてくる男に対して、ササゲは謙虚な姿勢を崩さない。
彼女は神妙な顔をしたまま、他のケガ人を見る。
「本当に、全員は無理かしら……。街まで持ちそうにない人だけ治す、ということにするしかないわ」
もしもこの場に『天使』がいたなら、一息で全員を癒してしまうだろう。
だが彼女は『悪魔』であり、回復や補助は苦手である。単体への回復がやっとであった。
(えぐいな……)
そんな彼女の方を見ることなく、狐太郎はヒヒの死体を見ていた。
クツロやアカネ、あるいは男たちが倒したヒヒだが、まじまじと見ればやはり恐ろしい。
(実物を見たことはないけど、ホッキョクグマよりもずっと大きい……と思う。こんなのが、この森にはたくさんいるのか)
動物の死体を見て、吐き気を催す。
それをこらえつつ、状況を把握する。
(とんでもない世界の、とんでもない地方に来てしまった……)
ここが魔王の望んでいた、狐太郎一行の迫害される世界、ではないことはわかった。
しかしそれでも、狐太郎にとっては、十分に過酷な世界である。
ササゲが回復魔法で男たちを治している間、狐太郎は呆然とすることしかできなかった。
「そろそろ構わないだろうか。流石にこれ以上ここにとどまっていると、他の魔物が襲い掛かってきてしまう」
「そうですねぇ。私ももう回復魔法は使えませんし、では帰りましょうか」
彼がそうしている間にも、状況は動いていく。
また大量のヒヒが現れれば、今度こそ死人が出てしまう。
先導役の指示に従って、誰もが来た道を戻ろうとしている。
「くっそ……俺のことも治してくれよ……」
「泣き言いってんじゃねえ、戻りゃあどうにでもなるだろうが」
「そんなこと言ったってよ……これじゃあ丸損だ。こんな森に来るんじゃなかったぜ」
「生きてるだけ儲けもんだろ」
比較的傷が浅い者は、痛みに苦しみつつもなんとか歩いていた。
ササゲによって治療を受けた者は、そんな彼らに肩を貸していた。
流石は歴戦の雄ばかりで、この状況でも最善の行動をしている。
「アナタ、歩けない?」
「あ、ああ……足をやられちまった」
「そうみたいね。それじゃあ力を抜きなさい、私が担ぐわ」
「悪いな、姉ちゃん」
「気にしないで、大したことじゃないわ。見ての通り、力はあるから」
「そうだな……」
歩けない者は、クツロとササゲ、アカネが抱えていくことにした。防具を脱がせる暇がないのでそのままなのだが、それでもまるで重そうではない。
アカネとクツロは見るからに屈強なので軽々と抱えていても不思議ではないが、女性的に見えるササゲもまた片手で一人ずつ持っている。
手ぶらであるコゴエは、周囲に目を配りながら殿を務めていた。
「長居は無用です、撤収いたしましょう」
「……そうだな」
コゴエに応じて、狐太郎はその場を去ることにした。
そう言われるまで、本当に何もすることはできなかった。
(もしかして、今後もここに来ることになるのかなあ……)
もうこの場にいなくていい、ということに安堵するからこそ、前途が不安になる。
現在の不安がぬぐわれても、未来が明るくなったわけではなかった。
ある意味、先の見通しは立ってしまったのだが。
「……下ろせ、歩ける」
「無理だよ、折れてるって」
そんな彼の耳に、呆れるような会話が入ってきた。
アカネとホワイトが、言い争いをしていたのである。
というよりは、アカネに対してホワイトが文句をつけているだけなのだが。
「これぐらい、怪我の内にも入らない!」
「そんなことないよ、入院が必要なぐらいだって」
「俺は討伐隊だ、骨折なんてしょっちゅうだ!」
「意地はらなくてもいいじゃん。怪我をするのは格好悪いことじゃないよ」
行きの道中で、アカネはホワイトと言い争っていた。正直、面白く思っている相手ではない。
しかし相手はケガ人、こんな危険な森の中に放置するわけにはいかない。
彼を軽々と抱えているアカネは、嫌がるそぶりも見せていなかった。
「格好悪くない、だと?」
しかしだからこそ逆に、相手を怒らせてしまうことはある。
「下ろせ! 這ってでも、自分の力で帰ってやる!」
「ちょっと、暴れないでよ! 落ちる、落ちちゃうって!」
「落としていい! くそ、放せ!」
「ちょっと、太い骨が折れているのに、元気過ぎない?! 本当に人間なの?!」
普通の人間は、骨折を起こすと全身に不調が出る。
指の先端が折れた程度でも、嘔吐しかけ、全身がだるくなる。
ましてや太い骨が折れれば、まともに身動きもとれないはずだった。
仮に脳内麻薬が分泌されているとしても、限度がある筈である。
少なくとも、彼女の常識における人間とは、ホワイトはかけ離れ過ぎていた。
(本当に元気だな、マンガのキャラクターみたいだ……)
もちろん、狐太郎の知る人間とも違っていた。
野生の獣並みに、生命力が溢れている。
あるいは、フィクションの人間のように、なのかもしれない。
「っていうか、危ないって! 今無理したら、歩けなくなっちゃうかもしれないよ?! 折れた骨が、こう、血管とか、筋肉とかを、傷つけちゃうかもしれないし!」
「うるさい! 気遣いなんて無用だ!」
「もう……男の子だなあ。こういう時、無駄に怒るなんて、本当に駄目だよ」
とはいえ、既に示しているように、アカネはこの世界の戦士よりも更に屈強である。
両足に比べれば貧弱に見える両腕でも、ホワイトをしっかりと固定していた。
怪我をしているホワイトでは、どう暴れても逃れることはできない。関節技ではなく、ただ単に力によるものである。もちろん、姿勢が不安定で力が込めにくい、ということもあるのだが。
「……おい兄ちゃん、いい加減にしろや」
そして、運ばれているのは、ホワイトだけではなかった。
彼同様に、動けなくなっている男が、もう一人いたのである。
「今俺たちは、助けてもらってるところだろうが。何偉そうにしていやがる」
「俺は、助けてなんて頼んでない!」
「じゃあ後で死にやがれ。そんなに助けられたのが恥ずかしいなら、自分で死ね。青臭いこと言ってんじゃねえよ、ボケが」
せっかく運んでもらっているのに、隣でぎゃあぎゃあ騒がれているのである。彼にしてみれば、とんでもなく迷惑な話に他ならない。
「女に担がれるのが恥ずかしいか? そりゃあそうだ、俺だって恥ずかしい」
ホワイト同様に彼もまた、この森の洗礼を受け、己の無力さを痛感したのである。
当然ながら、上機嫌であるわけもない。だがしかし、助けてもらって、それで文句を言うほど彼は恥知らずではない。
「だけどな、女に担がれるのが嫌で死んだ、なんて伝説を作りたくねえだろうが」
「う……」
「ホワイト・リョウトウだったか? お前がここで死んだら、その名前と一緒に宣伝してやるよ」
「そ、それは……」
「嫌だったら黙ってろ、クソガキ」
確かに怪我をしたのは恥ずかしいことだ。
身の丈を超えた場所に来て、調子に乗ったあげく負傷したのだ。その時点で、経歴に傷がついている。
だがしかし、善意からくる助けを拒むなど、恥の上塗りに他ならない。
如何に若いとはいえ、ごまかせる過ちではない。なによりも、周囲が迷惑である。
「おじさん、ケガ人に酷いこと言ったらだめだよ」
「俺だって歩けねえんだよ、隣でぎゃあぎゃあ言われたら、それこそたまったもんじゃねえ」
「怪我をすると気が立つもんだよね」
「そういうこった、ああ痛ぇ」
「やっぱり、痛いのは痛いんだ……。だったらなおさら、静かにしてた方がいいよ」
「そうしとくぜ」
名前を名乗るということは、素晴らしい武勇伝だけが拡散するのではない。
むしろ、恥ずかしい失敗談のほうが、面白おかしく周囲に伝わる。
それに気づいたホワイトは、おとなしくしつつも顔を真っ赤にしていた。
(お気の毒に……)
そんなホワイトを狐太郎は憐れむ。
もちろん自業自得なのだが、夢いっぱいの若人がこんな目に合っているのはとても痛々しい。
天才であることを抜きにしても、とんでもなく努力をしていたのだろうと思うと、なおのことである。
(物凄く心苦しい……)
そんな彼を差し置いて、寝転がりながら適当にゲームをしていただけの自分が、何やら合格しそうな流れである。
正直適当な理由を付けて辞退したいところなのだが、今後のことを考えるとそうもいかなかった。
この世界に来てから何も食べていないことを、自分の腹の音で思い出したのである。
(この世界でも、腹は減るのか……)
お世辞にも高潔ではない狐太郎は、食っていくために罪悪感をかみ殺すことにしたのだった。
ぐぎゅるるる~~
結構な、大きい音がした。
空腹を訴える音なのだと、本能的にわかってしまう。
「お腹すいた~~」
人間を二人抱えている、アカネの腹の音だった。
「な、なあ、姉ちゃん。俺のことを、食ったりしねえよな?」
「食べないよ~~」
「本当に、本当だよな?」
アカネに抱えられている男は、物凄くうろたえて逐一確認する。
ちょっとお腹が空いたので、人間を食べたくなってしまった、では洒落にもならない。
「まったく、アカネったら品がないのだから」
それを見ているクツロは、困った顔をして呆れていた。
ぐぎゅるるるるおおお~~~~
その彼女の腹から、アカネよりも数段大きな音がする。
「……お腹がすいたわね、なんでもいいから食べたいわ」
彼女の周りから、人が引いていった。