死地に陥れて後生く
さて、狐太郎の療養である。
当人が危惧していたように『悪魔が近くにいると怖いんです……』という意見は、大公自身も含めて全員の意思だった。
これは予想された通りのことであるし、そもそも『悪魔がいる? ひゃっほー、騙して俺の下僕にしよう!』と前向きに考える奴が出るよりはマシだった。
とはいえ彼を城に入れなければ、それこそ悪魔と火竜と鵺と大鬼と雪女がセットで敵に回った可能性もあったので、仕方ないことと言えるだろう。
なので狐太郎が転院先を求める前段階から、既に転院先はいくつもピックアップされていた。
彼が希望先を決めるや否や、大急ぎで転院となったのだが、それはもう夜逃げに近い状態だったと明記しておく。
かくて狐太郎たちはカセイから少し離れたところにある、湖のほとりに建てられた貴族の別荘に引っ越しをしたのだった。
その湖は穏やかな森に囲まれており、ぶっちゃけ見た目だけならシュバルツバルトにクソそっくりなのだが、幸いモンスターは生息していない。しいて言えば、今回大量に悪魔やモンスターがやってきたので、それが初と言っていいだろう。
「はあ……」
現在狐太郎は、この世界に来て初めての休日を全身全霊で楽しんでいた。
具体的にいうと、湖に手漕ぎボートを浮かべて、その上で本を読んでいた。
「最高だな」
僕が考えた休日の過ごし方(金持ち編)を実践している狐太郎は、四体に対して気を使うことがなくゴロゴロしていた。
彼は理解したのだ、やっぱり一人の時間も必要だと。四体が嫌いというわけではないが、ずっと一緒だとかなり気を使うのだ。
やっぱり一人の時間は大切である。
すげー気を抜いて、湖面のわずかな揺れに身をゆだねながら、うとうとしたかったのだ。
ある意味元の世界でも味わえたことを、この世界でも味わっているのだ。
「いや、最高じゃなくてもいいや。どうでもいいや……こうしてよ」
もしかしたら、警鐘が鳴るかもしれない、なんてことを気にしなくていい。
もしかしたら、お城の人が文句を言ってくるかもしれない、なんてことも気にしなくていい。
実際にやる気はないが、大声で歌ってもいいし、森の中で駆けてもいいし、変な踊りをしてもいいのだ。
いや、良くはないが、とりあえず身内しかいない状況は、本当にありがたかった。
狐太郎は割と体面を気にする。過剰に格好をつけて人気者になる気はないが、最低限相手に嫌われないようにしている。
それは割と一般的なことなのだが、何分今の狐太郎にとってはそれが生命線だった。つまり嫌われないように、極度に神経質になっているのだ。
なので誰にも気を使わなくていい時間というのは、それこそ心の薬であった。
(まあボート遊びするって言ったら、『溺れて死にませんか?!』って本気で心配されたけども)
どうやらこの世界の住人は、環境適応能力も並外れているらしい。
彼らの基準で言うと、狐太郎がダークマターの影響を受けたのは、信じられない程過敏な反応に思えたようである。
だからこそ、本職の医者でも呼吸困難だった理由がわからなかったのだ。
まあそれは、元の世界の住人である蝶花やササゲたちでも同じだったので、この世界の人々だけを悪く言えるものではない。
とにかく、狐太郎がどの程度まで大丈夫なのか、この世界の住人にはよくわからないのだ。
場合によっては『湖面に顔を付けたら死ぬ』と思われても、さほどおかしくない。
あるいは『泳げない』とか『水に触れたらショック死する』とか、そんな心配だってされている。
あながちありえないとも言い切れないが、流石にそこまで貧弱でもない。一応冒険服は着ているので、暑さ寒さには普通よりも強いのだ。
(このまま今日はだらだらするか……今日はパンだから、サカモは休みだし……飽きたら呼ぶのもいいかもな)
本当に、久しぶりの『安全』である。
いろいろ置いておいて、死なずに済むのだからこんなありがたいことはない。
(ん? この音は……蝶花さんか)
容体の急変に備えて、蝶花もまたこの屋敷で寝泊まりをしている。
というか彼女も人力生命維持を行っていたので、神経が参っていたらしい。
たまには何の効果もない、適当に好きな曲を弾きたいということで、この森で静かに過ごしていた。
彼女にも獅子子や麒麟という同胞がいるのだが、やはり時には一人が恋しくなるらしい。
(贅沢だよな~~……耳を済ませたら音楽まで聞こえてくるとか)
何気に狐太郎も、長々同じ曲を聞き続けていたので、それなりにストレスがたまっていた。
しかもその曲が途切れると体がだるくなるので、逆に聞かないと死ぬという緊張感もあった。
それがなくなった今は、リラックスして耳を傾けることもできるのである。
(ん……この音は、ブゥ君とコゴエか)
また別の、金属がぶつかり合うような、甲高い音が聞こえてきた。
蝶花の曲とは違いやや耳障りで、しかし規則正しいリズムのようなものがあった。
狐太郎が休暇を取っている間も、ブウは鍛錬にいそしんでいた。
シュバルツバルトのモンスターと戦うことこそなくなったものの、腕を鈍らせると姉に殺されるため、コゴエと一緒に鍛錬をしているのだ。
武器を打ち付け合って、体術の技量を高めているのである。
「……ちょっと心苦しいが、じゃあ俺が何をするのかって話だしなあ……」
もちろん、ブゥにとっても今回のことは休暇である。
練習そのものは苦しいのだが、少なくとも死ぬことはない。
ちゃんと終わりの時間もあるので、楽と言えば楽だった。普段よりは、相対的に。
それでもキツイ鍛錬でなければ、身にならないので、全面的な休みでもない。
(いやまあ、そもそも俺自身がまだ療養中、半病人なんだし、休むのが仕事なんだけども)
こういう時に『俺だけお休み! ヤッホー! 俺のために働け!』と思うような輩なら、そもそもここまで慕われていないわけで。
彼はいい人なので、少しばかり心を痛めていた。
(療養したままの流れで隠居していいって言われてるけど、やっぱり心苦しいな……。まあ復帰しても俺が戦うわけじゃないんだが……)
何か趣味があるわけでもないのに、数日暇になってもやることがない。
ましてや狐太郎の場合、資産もあるのでほぼ完全に隠居である。それはもう暇になるだろう。
これからずっと働かなくてもいい日々が続くわけだが、そうなると逆に働く意欲がわいてくるのが不思議だった。
(そもそも、まったく働かなくてもいい日々を求めていたわけじゃねえしなあ……)
世の中のスローライフを謳った物語の登場人物が大抵スローじゃない日々を送っているのは、突き詰めると読者がそれを求めているのと同時に、登場人物の視点でも刺激が欲しいからではないか。
狐太郎はブラック企業の類で酷使されていたわけではないので、働くことに拒否的ではない。
むしろ特別な理由がないのであれば、積極的に働くべきだという価値観を持っていた。もちろん命の危険がない方向で。
(……やっぱり死にたいわけじゃあねえんだよなあ)
死にたくない、というのは正常だと感じている。
呼吸困難で死にかけたときは、ああ死ぬんだと諦めていた。
だが平常時であれば、死んでもいいと思えるわけではない。
(……仮にこの後討伐隊へ戻ったとして、それでもあと数年の任期だ。流石にそれを延長する気はない。けども、その後に何をすればいい?)
社畜、とは違うだろう。
狐太郎は労働意欲を満たすために、労働の場を求めていた。
(命がけじゃなくて、貧弱な俺でも務まって、世の為人のために役立つ仕事か……)
正式な雇用ではなく、アルバイトやパートタイムでもよかった。
しかし考えれば考えるほど、うまくまとまらなかった。
(元Aランクハンターで勤続五年、身分は公爵で、結婚相手が王女とか、履歴書に書いて大丈夫なのか?)
おそらくこの世界でも、履歴書の類は必要だろう。
仮に『書』がなかったとしても、就職の際には職歴を聞かれるはずだ。
まさか就職先で嘘は言えまい。というか、職場で嘘をつくと長期的に考えて失敗が目に見える。
(信じてもらえるとは思えんし、仮に信じてもらえたとしたら逆に雇ってもらえない……)
狐太郎も、それなりに常識というものがある。
世間一般の雇用者というものは、労働者に個性など求めていない。
際立っておかしな経歴を持つ人材など、むしろ忌避するはずだ。
狐太郎自身が雇用者だった場合、そう考えるからだ。
もちろん職場によっては、そうした奇異な人間を求めるかもしれない。
しかしその就職先に勤めた場合、狐太郎の周囲には個性的な面々がぎっしりなわけで。
(もういっそ、自宅の家事をするか? そっちが無難な気がしてきた。それこそ専業主夫レベルで頑張ればあるいは……)
狐太郎は、雇われることを諦めた。
どう考えても、仕事先に負担である。
別に給料が必要なわけでもないのだし、家事に奔走する忙しい日々を送ろうではないか。
(駄目だ……絶対に豪邸に住むだろうし、お手伝いさんもいるだろうし、邪魔になるな)
もしもお手伝いさんに交じって『公爵様』が家事をしていたら、きっとお手伝いさんは心理的な負担が著しいだろう。
それを想うと、自分の都合を貫くことは難しかった。
(公爵っぽい仕事ならあるいは……なんだろう、公爵っぽい仕事って……領地経営? 嫌だ、絶対やりたくない)
働くとは、かくも難しいものである。
狐太郎は、今更のように新社会人か、その手前のような気分になっていた。
ある意味、懐かしい悩みである。
(っていうか、今更だけど誰も元の世界に帰ろうとか言わないよな。多分全面的に諦めているんだろうけども)
ふと、別の想像をする。
暇になったのなら、『彼女たちの世界』へ帰る方法を探るのはどうか。
普通なら見つかるとは考えにくいが、彼の視点でも2と3のラスボスがいるのだし、原理的に帰還不能だとは考えにくい。
当てがあるとは思えないが、探せば手掛かりはあるのかもしれない。
もちろん、その保証はどこにもない。しかし暇になったのなら、世界を見るついでに探してもいいのだろう。
とはいえ、特に帰る必要性もないのに、あるかどうかもわからない帰還手段など探さないだろう。
(まあ……これもアイツらと相談だな。あいつらにとっても、暇はしんどいだろうし)
正当な権利、必要な状況、限られた期間の休暇。
それは終わりがあるからこそ楽しめるのであり、永遠に続けば苦痛である。
あの四体も社交性があるので、むしろ働きたがるだろう。
その点も相談をしなければなるまい。
「……なんだ、この匂い」
ボートの上で寝転がっている狐太郎の鼻に、やたらと『臭い香り』が届いていた。
不愉快極まりないという程ではないが、どうにも我慢しづらい匂いだった。
少なくとも、このままくつろぐことはできない。
「一度やってみたかったのよね、熊の丸焼き!」
「いいの? 下ごしらえとか全然やってないけど」
「失敗したら失敗したで、別にいいじゃない。それはそれで思い出よ」
「現時点でかなり鼻が曲がりそうなんだけど……これ、本当にちゃんと食べるの?」
「私が食べるわ!」
湖のほとりで、原始人がやるような熊の丸焼きが行われていた。
クツロが自分と同じぐらい大きい熊を、あえて雑に調理していたのである。
おそらくアカネは、火種要員として招集されているようである。
(まあ確かにちょっとやってみたくはあるし、失敗しても全部食べるんだろうけども……)
火の通りとか臭みを考えれば、そうそうできない熊の丸焼き。
食べることを抜きにすればやってみたい気持ちもわかるが、実際に遠くで臭いを嗅いでいると正直不愉快だった。
(でもクツロが楽しそうだし……まあこれぐらいは我慢してやらないとかわいそうだしなあ)
見て見ぬふりをする程度なら、まあ気遣いの内に入るまい。
そう割り切って、狐太郎はボートの揺れに再び身をゆだねていた。
(……前線基地は、どうしているのかねえ)
とりとめのないことを考えていれば、この世界での日々を過ごした前線基地に帰結する。
果たして自分たちが抜けた後、あの基地はどうなっているのだろうか?
責任がなくなっている現状ではあるが、やはり気になってしまうのだった。
※
狐太郎が去った後の前線基地は、やはりというべきか、穏やかな緊張状態を保っていた。
流石のシュバルツバルトも、奥の奥まで行かない限りは、Aランクモンスターが大量に殺到してくることはない。
ましてや最強であるAランク上位モンスターなど、そうそう頻繁に現れるわけではない。多くても年に十回ぐらいである。
最悪のパターンであるAランクの団体が現れるのは、年に一回か二回だった。
なお普通の田舎都市では、数十年に一度Bランク上位モンスターが現れるかどうかである。
当然ながら、明日Aランク上位モンスターが現れても、そこまで不思議ではない。
例えそれが一体だったとしても、途方もない脅威であることは今更説明する意味がない。
「なあホワイト、ワクワクしてこないか? ええ?」
現在最強の男ガイセイは、前線基地の城壁の上で体を揺すりながら話していた。
その相手は、当然ながら彼に次ぐ実力者であるホワイトだった。
「今まではどれだけ困っても、狐太郎が何とかしてくれた。あの兄ちゃんは恰好がいいことに、自分の命よりも基地を大事にしてくれたからな。蛍雪隊のおっちゃんたちを使いにやれば、その戦力のほとんどを救援によこしてくれた」
「今は、それが望めないと?」
「おうよ!」
ばんばん、とガイセイは膝を叩いていた。
「ぞくぞくするだろう? 今カセイの命運は、俺達の背に乗ってるんだぜ? 感じねえか、Aランクハンターの責任って奴を!」
「……ああ」
嬉しそうに、ホワイトも笑っていた。
今この瞬間来たら、物凄く困る。
欲を言えば狐太郎が復帰してから、彼のモンスターやブゥが戦力に数えられる状況になってから、攻め込んできて欲しい。
だがそれは望めない、モンスターは待ってくれないのだ。
しかしそれは、この二人にとっては望むところだった。
自分たちが踏ん張らないと、カセイが壊滅する。
今まで狐太郎たちが、Aランクハンターが背負っていたものを、自分達二人が背負う。
Aランクハンターを目指す二人にとって、震えるほどの興奮だった。
「狐太郎さんの役に立つ……Aランクハンターになる……どっちも叶う、最高の機会だ。狐太郎さんが戻ってくるかはわからないが……戻ってくるまでに、Aランク上位を一人で葬れるぐらい強くなってみせる!」
「競争だな……どっちが壁を破るのか!」
結局のところ限界を超えるには、今まで倒せなかった相手と戦うしかない。
四体の魔王は戦法の幅でAランク上位モンスターを倒してきたが、ホワイトとガイセイはそんなことができない。
相手より強くなって、力づくで圧殺する。それしかできないのである。
それができてこそ、Aランクハンターを名乗れる、狐太郎に並べるのである。
どれだけ苦戦しようが、敗色濃厚だろうが、自分たちが勝つしかない。
その苦境、その極限状態が、壁を破るきっかけになる。
その壁を何度も超えてきた二人だからこそ、最後の壁を前に興奮を禁じえないのだ。
「どっちが先に破るのかはともかく……俺の方が強くなるさ」
「おうおう、言うじゃねえか! その意気だ! 格好がつかなくしてやるよ!」
この二人の前には、世界でも屈指の危険地帯がある。
何時最強のモンスターが現れても不思議ではない、この世界の地獄がある。
その地獄から、モンスターが飛び出してくるその瞬間を、二人は心待ちにしていた。
何時までもあの貧弱な男の後塵を拝するわけにはいかない。
自らの力に自信があるからこそ、二人は覇気をみなぎらせていた。
「流石は英雄候補、とても頼もしい限りだ」
「ええまったくね……こっちはそれどころじゃないのに」
「何を言うんだ、シャイン。君だってAランクに通用する力を持っているだろう? この基地で今非力なのは、やはり白眉隊さ」
窮地だからこそ、己の成長を期待して笑う。
それはまさに英雄の資質であるが、そうではない者たちにとっては窮地は緊張するばかりである。
己がこれ以上成長できないと知っているからこそ、他人の成長に期待せざるを得ず、歯噛みするばかりだった。
城壁の上に立つ両雄を、基地の中からシャインとジョーは見上げている。
逃げ出すような恐怖を抱いてはいないが、しかし笑い飛ばすほどの余裕は一切ない。
「一応言っておくけど、白眉隊の人が守ってくれないと、私は戦えないのよ? うちのおじいちゃんたちに、変なことはさせられないし」
「もちろん分かっている。己の非力を理由に投げだす者は、この基地にはいない。だが……やはり彼が倒れたのは必然だろう」
Aランクハンターの不在は、やはり不安だった。
逆に言えば、彼がいる限りは何とかなると、古参の二人も信じていたのだ。
それほどに、彼は『プロフェッショナル』のハンターだったのだ。
「しかしこうなると……やはり彼らの帰還が待ち遠しい。噂では、特に大きな動乱など起きていないらしいが……」
「一灯隊ね? きっと斉天十二魔将と交流して、隊員たちも成長しているはずよ。もちろんリゥイ君達もね」
東方戦線へ出向しているBランクハンター、一灯隊。
孤児院の出身者だけで構成されているにも関わらず、この地で討伐隊が務まるほどの傑物ぞろい。
平均年齢が一番若い彼らは、きっと多くを得て、成長して帰ってくるのだろう。
それを確信している二人は、だからこそ帰還を待ち望んでいた。




