注意一秒怪我一生
蝉が鳴くのは夏で、木が近くにあるところ。
しかしながら、「この付近」においてはその限りではない。
そこは魔境、オイルデザート。またの名をセミ砂漠という。
森に蝉がいてもセミ森とは言わないのだから、この世界においても蝉のいる砂漠は珍しいのだろう。
まさに、珍奇な光景というほかない。
「あのさあ、文句を言ってもいいかい、ホワイト。普通さあ、砂漠って暑くはあってもうるさくはないだろう」
「何を言ってるのか、全然聞こえないぞ」
「ああ、そうだろうとも。僕も自分の声が聞こえないからねえ!」
暑いというのは不快だが、うるさいというのも不快である。
もちろん二つが合わせれば、さらに不快なのだ。
打ち消しあって普通になることはなく、不快に不快が重なるだけだった。
ましてやそこに長く滞在すれば、途方もない不快さである。
「耳栓をつけているだろうに、軟弱なモンスターだ」
この砂漠に入る者は、当然のように耳栓が必要となる。
もしも防音装備もなく入れば、焼け付くような太陽よりも、まず音に負けてしまうだろう。
少なくとも、数日は耳鳴りが止まないはずだ。
とはいえ、どれだけ高性能な耳栓でも、完全に音を遮断できるわけではない。
ただでさえ暑くて、耳栓さえうっとうしいのに、これでは地獄であった。
「何を言ってるのかはわからないけど、僕をバカにしているのは伝わってくるぞ!」
現在、Dランクハンター、ホワイト・リョウトウはモンスターと共に、そのセミ砂漠を歩いていた。
もちろん、自分もモンスターも、暑さや音への対策は済ませている。
それでも不愉快なものは不愉快だった。彼にしても、自分の相棒に対して意地を張っているだけで、一人だったら文句を言い続けていただろう。
こと不愉快であるという一点において、この魔境は他の追従を許さない。
「何を言っているのかはわからないが、もう少し我慢しろ。そろそろ日没なんだからな」
とはいえ、それも日中のことである。
いかに砂漠の蝉といえども、蝉であることに変わりはない。
日が沈めば、さすがに黙ってくれるのだ。
「何を言っているのかわからないけど、我慢しろって言いたいんだろう、ふん!」
とにかく、我慢するしかない。
ここ数日間繰り返されてきたことだけに、お互い慣れきってしまっていた。
問答自体は、であるが。
※
このセミ砂漠も、夕方を過ぎれば静かなものである。
各所に点在するオアシスで、一息入れることができるのだ。
この魔境の砂は、全体的に蛍のように光る性質をもっている。
昼の厳しい日差しを吸い込んだ砂は、本を読むことに不自由しないほど明るく光っていた。
ましてやオアシスなら、一種のリゾートめいた雰囲気さえある。
小さな湖のきれいな水を飲み、昼の汗を流す。
それはこの砂漠に入った者の、ささやかな楽しみといえるだろう。
「はあ、死んでしまうかと思ったよ。こうやって水で頭を冷やすと、自分の頭がどれだけゆだっていたのかわかる」
服のほとんどを脱いで、彼女は水を浴びていた。
手にしている大きめの水筒を使って水を汲んで、頭や体にかけている。
もちろんそれだけでも気分はいいのだが、やはり目の前のプールに飛び込みたそうである。
「おい。何度も言うが、お前の出し汁を俺に飲ませる気じゃないだろうな」
「わかってるよ、マナーだもんね」
しかしホワイトの忠告には従っている。
確かに今自分が浴びて、これから飲む水が、どこかの誰かが飛び込んで垢を落とした後の残り湯だとは思いたくない。
「しかし……なんだってこんなところに、蝉がいるんだろうね」
「お前、そんなことも知らないで、ここまで来たのか」
彼女のやる気のなさに、ホワイトは慄いた。
「いや、素人はそんなもんか。素人がここまで来るなって話だが」
「君に意地悪されたくないな。早く教えてくれよ」
改めて、ホワイトは薄着の彼女を見る。
淡く光る砂に照らされる、彼女の肉体を見る。
彼は、いつか見た悪魔を思い出した。
ササゲと呼ばれていた、かなり上位の悪魔だ。
(気色悪いなあ)
普段は厚着で隠されている、彼女の肉体。
幼いようで、大人になりかけている。
無防備で、押せば倒せそうな心もとなさだ。
そのくせ体は、とても「健康的」ときている。
それを、気色悪いと思ってしまうのは、彼女が作られた存在だからだろう。
一体どこの誰が作ったのか知らないが、正直に言って気分が悪くなる。
「この魔境は、オイルデザートという。なんでも地中深くに黒い油が埋まっているらしい」
「へえ、油田ってわけだ」
「どう思ってもいいが、とにかくたくさん油がある。その油を、あの蝉たちは吸い上げているのさ」
通常の蝉は、木に止まって樹液を吸う。
しかしこの蝉は、大地の奥深くまで口吻を刺して、埋没している石油を飲んでいるのだという。
「だから砂漠にまんべんなくいるんじゃなくて、へこんでいる場所にたくさんいたんだ」
「へ~~だから僕たちが歩いていた、高いところには一匹もいなかったんだね」
セミ砂漠とは言うが、蝉が砂漠を覆いつくしているわけではない。
比較的地中深くに近い、特にへこんでいる部分に集まっているだけで、砂が盛り上がった高い場所を歩けば踏むこともない。
まあうるさいものはうるさいのだが。
「Fランクモンスター、スナアブラゼミ。燃料にも使われる、有益で無害なモンスターだ」
「燃料?」
「ああ、吸い上げた油を全部消化吸収しているわけでもないらしく、一定量ため込んでいる。もちろん普通のモンスターからすれば食べにくいんだが、人間にしてみれば都合のいい燃料だ」
「へ~~」
「需要は多いんだが、なにぶんたくさん取れすぎるんで、単価は安いんだけどな」
地面に油が埋まっていても、魔境ではそうそう掘り起こせない。
加えて地面に埋まっている油に、そのまま火をつけても都合よく燃えるわけではない。
灯油やガソリンのような極めて燃えやすい油は、石油を蒸留したことによる『上澄み』のようなものである。原油そのままでは、不純物が多すぎて燃料に適さないのだ。
このスナアブラゼミは体内で蒸留に近いことを行っており、結果として『燃料に適した油』へと加工している。
もちろん当人たちにしてみれば損な話だが、人間にはありがたかった。
「まあそれでも、Fランクのハンターには美味しい仕事だ。それで生計も立つらしい」
「ハンターもいろいろだねえ」
「あんな蝉を集めて売るのが、ハンターだとは思いたくないがな」
需要があるのだから、必要な仕事ではあるのだろう。
だが地面で油を吸っている蝉を、手で拾って籠に集めて売る仕事が、ハンターの仕事であっていいとは思えない。
「それに、お前がいた山もそうだったが、結局縄張り争いになっちまうからな」
「なんで? あの山と違って、危険なモンスターなんていないだろう」
ここまでの道中で、蝉の鳴き声が聞こえなかった場所がない。
それこそ取っても取りつくせない量の蝉が、ひしめき合って鳴いていた。
「それがそうでもない。いるんだよ、ここの蝉たちを食べる、恐ろしいモンスターがな」
蝉たちにしてみれば、ここは楽園だろう。自分たちの食料は湧くほどにあり、しかも他の種族と取り合うこともない。
体にため込んだ油は、重くて飛べなくなることと引き換えに、ほぼすべての捕食者を遠ざける。
だがしかし、彼らは知っている。別にこの世界が、楽園ではないということを。
食べにくい、不味い、毒がある。
その程度で、身を守り切れるわけではないと。
「へえ、それが君の標的ってわけかい」
「ああ、そうだ。ここにはいるのさ、大量にな……」
彼は敵を求めていた。
挫折に屈し続けることなく、多くの障害を乗り越えて、彼は才能に相応の実力を得た。
だがまだ足りない、もっと強い敵がいる。
彼は蝉を拾って小遣い稼ぎがしたいわけではない、ここに強敵を求めて現れたのだ。
「この砂漠には、おおよそ二種類しかモンスターがいない。最底辺であるFランクモンスター、スナアブラゼミと……それを捕食する、Aランクモンスターしかな」
「なんでそんなに極端なんだい」
「さあな。分からないが……とにかくそのAランクモンスターは、スナアブラゼミしか食べない。その代わり、縄張りに入った者には容赦がない」
誰だって、命は惜しい。
ましてや『絶対に勝てないという大義名分』があるのなら、意地を張る必要もない。
もしも粋がった若造が「びびってるんですか」とでも言ってくれば、こう言い返せる。
あそこで戦えるものは、英雄だけだ、と。
「もしかして、僕たちってピンチ?」
「そうだな。俺がここを選んだのは……」
今更だが、Aランクモンスターも水を飲む。
特に多くの油分を摂取するであろうそのモンスターも、多くの水を求めている。
人類の版図の基本が資源や農場であるのなら、そのモンスターの縄張りの基準はオアシスなのだ。
今二人は、Aランクモンスターの縄張りどころか、寝床でくつろいでいるに等しい。
「ここにAランクモンスターがたくさんいる……」
「ホワイト!」
巨大な影が、彼を襲った。
その一切手加減なく、一切の油断もない。
モンスターは自分の縄張りに現れたハンターへ、最高の奇襲を仕掛けていた。
「……なるほど、これがAランクモンスターか」
彼女は、その巨体を見上げた。
今までに見た、多くのBランク上位モンスターに比べれば、あまりにも小さい。
見上げるほどに大きいが、全貌が分からないほどの巨大さでもない。
だが、その強さが分かる。
ただ大きいだけではなく、それ以上の強さと速さ、そして硬さがある。
見ただけで、彼女にはわかった。
このモンスターは、自分よりも強い。
ずっとずっと、数値的に超え過ぎている。
自分では、到底勝てない。
「名前は、なんていうのかな、熊さん」
Aランクモンスター、タールベアー。
あるいは蝉熊とも呼ばれる、このセミ砂漠特有のモンスターである。
この、油と蝉と砂しかない騒音の地獄で、適合してしまった謎の熊である。
その咆哮はスナアブラゼミに負けぬ圧倒的な音量であり、その振動だけで周囲のあらゆるものを揺さぶり、粉砕する。
四足歩行と二足歩行を使い分けるこの怪物は、四足歩行の際には静穏性と機動力を実現し、二足歩行の際には圧倒的な格闘能力を発揮する。
そう、結局は数値の問題。
このモンスターよりも大型のBランク上位などいくらでもいるが、馬力と強度が段違いに数字が違う。
AランクモンスターのAランクモンスターたるゆえんは、奇怪な生態でも荘厳な姿でもない。
ただ単に、強いというだけである。
「ああ、でも……話は聞かないんだったね! コユウ技、ピンポイントドレイン」
防御能力が意味をなさない、一定値の体力を吸う技。
なるほど、無意味ではないだろう。ある程度は効果があるだろう。
しかし、一度や二度では意味がない。
それこそ数百発当てなければ、弱らせることもできない。
「そりゃあBランク上位にも効きが悪かったけども……全然効かないと流石にショックだなあ……」
無力さをかみしめる彼女は、笑うしかなかった。
その彼女へ、無慈悲な一撃が迫る。
自分の巣で武装を解除し、のんびりと休んでいた者へ制裁が下される。
数値こそすべて、それがこの世界の真理。
どれだけ精巧な技も、効率の追求も、戦術も、ただの暴力を前にしてしまえば意味などない。
「まあ、全然効かないんだけども」
だが、それはこの世界のルールである。
ルールを破壊するために生み出された、人類の叡智の結晶には、ただの加減乗除など意味がない。
巨大な質量を、圧倒的な速度でぶつける、運動エネルギーによる攻撃。
そんなものでは、宇宙が滅ぶまでの時間をかけても、まったく無意味なのだ。
「僕に物理攻撃は効かない。よって僕が君を殴り続ければ、どれだけ君に体力が有り余っていたとしても、いつかは倒せる。千日手こそ、僕の設計思想なんだろうねえ、たぶん」
困惑するタールベアーは、その爪で何度も攻撃を当てていた。
だが当てても全く手ごたえがない。当たっているのに、衝撃が吸収されている。
この未知の敵に対して、タールベアーは困惑していた。
端的に言えば、脅威ではない。
このまま攻撃をし続けても、逆に攻撃を受け続けても、まったく問題ではないからだ。
むしろ、この砂だらけの世界で、同族と縄張り争いをするリスクの方が恐ろしい。
その迷いが、甚大だった。
「ああ、いででで……情けない話だ……お前に話している間に、俺が気を抜いていた……」
「頭は冷えたかい? まったく、これじゃあ僕が君のだし汁を飲むことになるじゃないか」
「ああ、悪い。本当にまったくだ。今夜のうちに、別のオアシスを探すとしようか」
吹き飛ばされたホワイトは、水の中に落ちていた。
防具を外しているところに、意識外から攻撃を食らって、彼は大きく傷を負って出血をしていた。
その状況で、深い水の中に沈んだのである。
彼はその上で自力で陸に上がり、自分で応急処置をして、自分で水をぬぐっていた。
Aランクモンスターから、考え得る最悪の形での攻撃を受けたうえで、彼は戦闘を続行するつもりだったのである。
「時間を稼がせて悪かったな」
「あはは。それじゃあ僕のことを褒めてくれたまえ! 僕にこう、いろいろと愛情をこめてね!」
「ないものは籠められない」
「無から有を生み出そうよ! それが人間の力じゃないか」
「望んでないし」
「酷い!」
かたや、無敵のラスボス。
かたや、適正レベルに達した英雄の卵。
お互いの信頼が、この状況を笑いに変える。
「……ふぅ、ふざけはしたが、まったくもって脱帽だ。さっきの一撃を無防備にもらった時点で、普通に負けだ。アンタが人間だったら、俺が降参しているところだ」
だが、笑いはここまで。
手に剣を持った若き英雄は、自分を戒めながら前に進む。
「そこのズルに時間を稼がせて、その間に治療して……みっともないと笑っていい」
ホワイトの姿を見て、彼女は大きく飛び下がった。
「でも俺はハンターで、アンタはモンスターだ。悪いが、狩らせてもらう」
単純な数値。
タールベアーからすれば、はるかに小さい彼は、しかし数値的にはまったく見劣りしない。
防御力が高いからこそ不意打ちに耐えることができた彼は、タールベアーの防御力を十分に超える一撃を繰り出した。
「プッシュエフェクト、スラッシュハンマー!」
小さな剣だった。
それで斬られたところで、体毛一本切れないはずだった。
だが、それに付加された『押出属性』の威力たるや。
一瞬、タールベアーは意識を失っていた。
ほんの一瞬とはいえ、気絶していたのだ。
意識を取り戻したタールベアーは、風の音を聞いた。
夜中は静かな、この砂漠で、風が強く吹いていた。
彼は気づいた。
自分が高速で宙を移動していることに。
己よりははるかに巨大な鉄槌で殴打されたかのように、乱雑に吹き飛ばされていた。
空中でもがく。
この個体にとって、いいやタールベアーにとって、空中を泳ぐ経験などない。
だがそれでももがく。
そして実際、動くことにまったく支障はなかったのだ。
柔らかな砂の上に、その体がぶつかる。
バウンドしながらも体勢を立て直し、平然と頭を振るう。
人間で言えば、ちょっといいのをもらったという程度。
皮肉にも空中へ吹き飛ばされたことにより、彼はダメージを十分に回復させていたのだ。
彼は吠える。
蝉熊の名に恥じぬ、大音量で夜の砂漠を揺する。
それはただでさえ脆い砂の大地を、嵐のように変形させていく。
「流石はAランク、この程度なら怪我さえしないのか」
衝撃波の中心へ、自らを押し出して飛んできたホワイトは、平然と近づいていく。
もちろん耳栓ぐらいはしているが、その程度でしかない。
「押出属性は乱戦では強いが、こういう地形だと一対一ではやりにくいな」
ダメージの溜まり具合で言えば、むしろホワイトの方が不利だろう。
如何に応急処置をしたとは言え、その程度で不意打ちのダメージが完全に抜けきるわけもない。
だがそれでいい。むしろ順調な方が、ずっと恐ろしいのだ。彼は強敵相手の苦戦を求めて、ここに来たのである。
「まあどう恰好をつけても、さっき攻撃を食らった時点で恰好もつかないが……」
彼は剣を担ぎ、腰を下ろした。
「ぶっ殺す」
タールベアーに恐怖はない。
先ほどの困惑も、もう忘れている。
要は強敵が現れただけ、倒すだけだった。
タールベアーは四足歩行で駆けだし、その全身で体当たりを仕掛ける。
「プッシュエフェクト、スラッシュハンマー!」
それを、真っ向から受けて立つ。
互いにクリーンヒットではない、真っ向勝負。
それは互いの目に火花が散るような、力と力のぶつかり合いだった。
エレガントとは程遠いエレファントな衝突は、ホワイトに軍配が上がる。
「真っ向勝負で、押出属性が負けるか!」
もとより、最も得意としている技である。
絶対の自信と意地によって、彼は強敵を押し返した。
だが先ほどと違い、吹き飛ばすことはできず仰け反らせるところまで。
そして渾身の力を込めて押し出したことで、返って彼の体勢が崩れる。
そこへ、タールベアーの巨体が迫った。
それは余りにも雑だが、しかし回避不能な攻撃。
ひたすら単純な、のしかかり攻撃である。
強固な肉体と重量によるのしかかりは、砂地でしかないここでは埋もれるという結果にしかならない。
「うぐぅ!」
ホワイトは抵抗もできず、巨体と砂に押しつぶされてしまった。
「アースクリエイト、マウンテンアッパー!」
だが、それも一瞬である。
砂だらけの世界で生きてきたタールベアーは、初めてそれを見た。
土である。
湿気と硬さのあるそれが、彼を押し返していた。
「ふぅ……早々に、決めさせてもらうぞ!」
自分で出した地面を足場に、ホワイトは大技を仕掛ける。
「アース!」
それは、彼が目指したもの。
「プレス!」
それは師から示された道。
「プッシュ!」
偶然ではなく、彼の才能と努力の結果。
「トリプルスロット!」
人間の究極奥義である、最高の必殺技。
「ロールグレイブ!」
最上位高等技術、スロット技である。




