吐いた唾は呑めぬ
空を見上げれば、美しい竜が見える。
カセイで暮らす人々、あるいはカセイへ訪れた商人たち、そして観光客にとって幸運の証のようなものだった。
もうすでに観光整備が整っていることもあって、誰もが慌てずに、しかし首が痛くなるほど上を見ている。
娯楽に乏しいこの世界において、竜の姿をカセイで見るというのは、一種のステイタスになっていた。
さて、当のクラウドライン、ドラゴンズランドの長老である。
彼は申し訳なさそうに、竜王アカネへ現状を説明していた。
『我等の治める土地ではありませぬが、ここでも多くの人間が我らを見て喜んでおりますな。ですがそれには理由があるのです』
「……綺麗で格好いいとかじゃなくて?」
『まあ、それもありますが……端的に言えば、『遠い』からなのです』
長く生きているがゆえに、人間の生態にも詳しくなっている長老。
彼の認識は人間である狐太郎にとってさえ、訂正の必要性がないことだった。
「……空高くを飛んでいるから、良く見えないとか?」
『それもありましょう。この老いぼれに近くよれば、あるいは幻滅してしまうやも……』
王と話しているというよりは、まるで子供と話しているようだった。
申し訳なさそうではありながらも、長老は彼女の返答に微笑みを隠せていない。
『しかし、それも違うのです。遠いというのは、関係のこと。突き詰めれば、無関係だからこそ。仮に我らが人間の国を襲えば、そのまま我らは不吉の象徴となりましょう』
美しい鳥でも、農作物や魚の養殖場を荒らせば、それだけで害鳥である。
どれだけ美しくとも損にしかならないのだから、眺めて楽しいわけもない。
無関係だからこそ、強くとも大きくとも、眺めて楽しむことができる。
利害関係が存在しないからこそ、能天気に見ていることができるのだ。
『この国の人間が我らをありがたがり、しかし手を出さぬのは、我らからも手を出さぬからこそ。倒そうと思えば倒せるはずでも、倒す必要がないので見逃されている次第です』
長生きができるということは、謙虚だということだろう。
長老は卑屈なほどに、自分達が人間の下であると述べていた。
『ですが……もしも我が孫が過度に人間へ関わり、害をなすようならば……それは我等全体の危機なのです。本来であれば一族総出で探し回るところですが、そんなことをすればむしろ恐れられましょう。そうでなくとも、ここへ来て竜王様や竜王様の主様へご無礼を働けば……殺すしかありますまい』
冷徹に、冷厳に、彼はそう言い切っていた。
『この地の長とも、お付き合いが深いと聞いております。若き竜が阿呆なことをしでかしたのなら討って構わぬ、何であれば我らが殺しに行くと、お伝え願います』
自らを乙種と語る長老は、つまり『甲種』ではないと認識している。
エイトロールは言うに及ばず、それさえ倒す人間の英雄には下手に出ていた。
そもそも、自分たちの里の禁さえ破ったのだから、殺されても文句が言えないと思っているのかもしれないが。
「……あのさあ、お爺ちゃん」
『何でございましょうか』
「私はその子にまだ会っていないけど、いくら何でも言い方がひどすぎない?」
その一方で、アカネは怒っていた。
自分の孫に対して、冷徹というか冷淡が過ぎると思っていたのだ。
「バカなことをするとか、増長しているとか、そんなことを言ってるけど、そうならないかもしれないじゃん」
『……』
「そりゃあ勝手に飛び出したのは悪いと思うけどさ、もっと信じてあげなよ」
心配はわかる。
なにせ人間の英雄が乗り込んでくれば、それだけでドラゴンズランドも壊滅しかねないのだから。
ドラゴンズランドが悪の巣窟だと判断されれば、報復として実際に壊滅しかねない。
もちろん魔境である以上崩壊しないが、それでも多大な犠牲が出るだろう。
だがそれでも、最初から最悪を想定し過ぎている。
彼女は少しばかり、老竜に憤っていた。
『ふぅむ……お優しいですなあ、竜王様』
「バカにしてるの?」
『いえいえ、そのようなことはありませぬ。しかし……我が孫が、竜王様の前でどのような無礼をしでかすのかと思うと、鱗がざわめいてしまうのですよ』
とはいえ、アカネも言っていたように、その孫に直接会っていないのだから弁護も弱い。
今この場にいる面々の中では、この長老こそが一番詳しいのだ。
『少なくとも、あの孫にここで戦うだけの度胸はありますまい』
「なんでそう言えるの?」
『……おそらくあの子は、ここに来るまでに勇気を勘違いしてしまう』
「勇気を、勘違い?」
『もちろん人間の考える勇気と、我等の考える勇気は違いましょう。そもそも、勇無き私めが竜王様へ勇気を語るなど笑止千万ですが……』
長老の巨大な眼が、狐太郎を注視した。
ほとんど眼球は動いていないのだが、それでも狐太郎には見られているという自覚があった。
『勇気とは、命を失う道と命を失わぬ道、その二股の道で問われるのです』
アカネは狐太郎を見た。
狐太郎は、自身を省みた。
少なからず、心当たりがあったのだ。
『我等竜は、人に比べて賢いのでしょう。いつも正しい選択を……己が死なず、群れが残る道を選べるのです。ですが……』
竜は、矮小な狐太郎を羨望していた。
この地で暮らす愚かな人間を、羨ましく想っていた。
『友が目の前で食われても、尻尾を巻いて逃げ出すことが賢いというのなら。その賢しさは、自慢には値しますまい』
彼は初めて現れた際に、己の友人が目の前で食われたとき、逃げ出したということを告白していた。
それは決して軽いものではなく、彼に恥を教えた重大なことだったのだ。
『腐っても我が孫、大抵の雑竜よりは強いのでしょう。ですが賢しさゆえに、命を失う道を選べぬのです』
改めて、彼はため息をついた。
『見聞を広めた気になっただけ、強くなった気になっただけ。ただ横柄になっただけの若造が、どれだけ醜態をさらすのかと思うと、本当に申し訳ないのです』
英雄を知らず、甲種を知らぬ。
自分が見たものが世界のすべてだと思う若者は、必然過ちを犯す。
『改めて申し上げます。見つけ次第殺して構いません』
※
長老が去ったあと、狐太郎はアカネと一緒に野原を歩いていた。
なかなか含蓄のある言葉であり、同時に人間への敬意が感じられる。
(改めてではあるが……あのお爺さんは立派だなあ……)
狐太郎は想像する。
見下ろした先にアリがいて、巣を守るために命を捨てて戦っていたとして。
そのアリへ『君は勇気があるね』と言えるだろうか。
アリの個体へ敬意をこめて挨拶し、己の賢しさを恥じることができるだろうか。
正直、できる気がしない。
(そういう点を含めても、立派なドラゴンだな)
最初にアカネへ挨拶しに来た若いドラゴンたちは、それはもうみっともなかった。
盛りのついた犬、としか言いようがない。
ただの野生動物でしかないことを全力で示して、ショウエンを物凄くがっかりさせていた。
そのあとであの長老が現れたのだが、その立派なふるまいを見てショウエンは感動しなおしていたのである。
やはり偉いお方というのは、奇をてらうことのないまともさが大事なのだろう。
「……なあアカネ。とりあえずいろいろ置いておいて、あのお爺さんは立派なドラゴンだと思うよ」
「そう思う?」
「ああ、本当にそう思う。そりゃあ確かに『家出した孫なんて死んでもいい』ってのはどうかと思うけども、もしも弱い者いじめをして偉ぶっていたら、ぶん殴りたくもなるだろう?」
やや落ち込んでいたアカネへ、狐太郎は気を使っていた。
「正直にいうけど、あんな立派なドラゴンから『勇気がある立派な人ですね』と褒められたら、悪い気はしないさ」
「そう?」
「そうさ」
まだ会っていない孫のことはともかく、何度か会っているお爺さんのことは褒めやすかった。
「あのね、ご主人様。鵺のサカモは、森が怖いから入らないじゃん。Aランクなのに」
「そうだな」
「でもアパレやその部下の人は入るじゃん。Bランクなのに」
「そうだな」
「それで、アクセルドラゴン君達やワイバーン君も、弱いけど入るでしょう?」
「ああ、偉いよな」
「なのにさあ……あの立派なお爺ちゃんがさ、自分の孫に勇気がないって言ったじゃん」
見た目はまったくドラゴンらしくないアカネだが、この世界のドラゴンに対する同族意識は強い。
そのためあの長老に対しても、親戚の立派なお爺さんぐらいの認識でいたのだ。
そのお爺さんが、ドラゴン全体の株が下がるようなことを言ってしまった。
まあ気分はよくないだろう。あのお爺さんが立派であるほどに、言ってほしくないことだった。
「ちょっと、がっかり」
「ちょっとか?」
「すごくがっかり」
はあ、とため息をついた。
「もしもお孫さんが来てさ、本当に横柄なことを言って、森に入って逃げ出したらさ……ほら、サカモみたいに。そうなったら、ササゲに笑われそうでさあ……」
「悪魔は死ぬのが怖くないからな、比べるのもどうかと思うぞ」
「まあでもさあ、サカモはまだ、最初は獣型の亜人だと思ってたし、正体もキメラだったじゃん」
「そうだな、鬼でも竜でも雪女でも悪魔でもないな」
「でもお孫さんはドラゴンなわけじゃん」
二人とも、想像する。
目の前で物凄く偉そうなことを言う、家出してきたドラゴン君。
彼がサカモ同様に、自信満々に森へ入って、逃げ出す状況のことを。
見た目が格好良くて、その上実際に強いだけに、物凄いがっかり感であろう。
「私は信じたいなあ、ドラゴンの子のことを」
「まあ俺もそうだな。どうせなら成長しててほしい」
「だよねえ、成長していて欲しいよねえ!」
二人とも、話し合いながら願っていた。
どうか、本当に一皮むけて、ここまでたどり着いてほしいなあ、と。
※
※
※
さて、長老が訪れてから、数日後のことである。
長老に比べれば格段に小さいが、それでも巨大なクラウドラインの若者が、前線基地の前に顔を下ろしていた。
『たのもう! 我こそは俗世にて、ドラゴンズランドと呼ばれる地の、長老の孫である! 竜王陛下に、お目通り願いたく参上した!』
当然だが、既に狐太郎たちから話を聞いていたので、誰も驚いていない。
警備を担当している白眉隊だけではなく、抜山隊も野次馬のつもりで城壁の上に登っていた。
門を開けて出たのは、狐太郎と四体の魔王である。
期待と不安の入り混じった顔で、アカネは彼と挨拶をしようとした。
(だ、大丈夫だよね? ここまでは、一種の挨拶みたいなもんだし……平気だよね?)
(でも手土産持ってないじゃない、この時点で失礼だわ)
アカネは不安になりながらも、周囲へ同意を求める。
しかしクツロの言葉は、やや下品だが的を射ていた。
一応王に会うのだから、『孫の手形』でもいいからお土産を持ってくるべきであろう。
「ど、どうも初めまして、私が竜王のアカネだよ」
『おお、なんという麗しいお姿! 祖父より聞いておりましたが、その可憐なお姿には目を奪われます!』
上機嫌というか、テンションの高い若き竜。
それに対して、アカネはおっかなびっくりだった。
(ま、まだ大丈夫……!)
(まだ、って……貴女ももう信じてないじゃない)
(ササゲは黙ってて! まだ礼儀正しいもん!)
ここまでは大丈夫。
この話の流れだと、そろそろ怪しくなることは確実だった。
(まだ挨拶だもんな……そろそろ本題だもんな……)
アカネの不安を、狐太郎も感じていた。
というか、テンションの高さがヤバい。
(あの四人の学生に比べて……緊張感がない)
狐太郎は必然的に人間の面接を思い出していた。
今の彼に、自分を諫めるだけの冷静さはあるのか。
むしろ聞いているこっちが緊張する。
「そ、それで、今日はどうしたの? 挨拶しに来てくれたのかな?」
『いいえ、竜王様……どうか、聞いていただきたいのです』
巨大な口から、唾が飛び出した。
『私を、貴女の部下にしていただきたい!』
その唾をコゴエが空中で氷にするが、それでも氷となって地面に転がっている。
意図していないのだろうが、それでも心象は悪かった。
「ご主人様、ご無事ですか」
「うん……」
人間でもよくあることなだけに、狐太郎も微妙に怒れない。
思えば長老は、大分気を使って話をしていたようである。
「私の部下……」
『はい! 私はここへ来るまでの道中、多くの人に関わりました!』
目をキラキラさせている彼は、希望に満ち溢れた顔をしている。
『旅に出る前の私は、己のことしか考えていませんでした。ここへ向かっていたのも、ただ自分のためです』
立派なことを言っている。
前に長老から話を聞いていなければ、きっと感動できただろう。
『ですが! 旅が私を変えたのです! 己のため、己のことだけを考えることの、なんという卑小なことか! 自らのためには出せぬ勇気も、誰かのためになら出せるのです! そうと知った私は、既に人のために戦っておられる陛下の、その一の部下になるべく参上したのです!』
実に立派だった。
だがこの後どうなるのかを既に想定してしまっているだけに、素直に感動できなかった。
(これがリアルのネタバレか……)
(だ、大丈夫だよ、ご主人様! まだ、まだ大丈夫!)
ふと見上げれば、彼は優越感に浸っている。
既にアクセルドラゴンたちが彼女の部下になっているのに、あえて『一の部下』と言ったのだから、彼らのことを見下している様子だった。
少なくとも、そう見える態度もとっている。
だが、露骨ではない。
まだ侮辱を言葉にはしていない。
ちょっと失言しました程度である。
「そ、そっか~~。でもここのモンスターは、とっても強くて怖いからな~~」
『竜王様、どうかご安心下さい! 私も旅を経験して、とても強くなりました! 今ならば、何も恐れることはありません!』
おそらく、『雑竜』や『人間』たちを見て、こいつらに務まるんだから俺でも余裕だろう、とでも思っているのだろう。
少なくとも、実力であれば比べるまでもない。その認識は、概ね正しい。
「……そっか。じゃあテストをしよう。この森に入って、モンスターをたくさんやっつけて、証拠を持って帰ってきてね」
『承知! その基地に収まりきらぬほど、多くの獲物を持ち帰りましょう!』
意気揚々。竜は一旦上昇し、基地の上を通り過ぎてから森の上へ飛んでいった。
角度の関係もあって、直ぐに見えなくなってしまう。
「あのさ、ご主人様。まだ、まだ大丈夫だよね?」
「そうだな、ここで『助けて~~!』って言って逃げてこない限りはな」
それこそ、ネゴロ十勇士の様に。
ぼろぼろになってでも、任務を完了したことを誇らしげに報告してくるかもしれない。
それならば、大言を吐いても許されるだろう。
若いとは言えAランク中位ならば、それだけの実力はあるのだし。
「……ねえご主人様、私心配になってきた! 森に入っていい?!」
「俺も心配になってきた。おい、ササゲ。俺を掴んで……」
その時であった。
『ぎゃああああああああああああああ!』
一切の虚飾なく、一切の偽りもない。
心の底からの、真実の叫びが聞こえてきた。
「アカネ! 先に行け! ササゲ、ブゥ君呼んでいってこい! クツロは俺を抱えろ! コゴエはアカネに続け!」
狐太郎の命令を聞くまでもなく、アカネは慌てて走り出していた。
「今助けるからね~~! 待っててね~~!」




