猫に木天蓼
かくて、秋が深まり収穫も終わったころ、カセイに屈強な男たちが集まっていた。
クツロの身長は3メートル半ほどであり、筋骨隆々である。
その彼女に匹敵する体格の持ち主たちが何十人と集まるなど、この世界でもそうそうないことだ。
少なくとも集められた当人たちをして、自分が世界で一番大きいとさえ思っていたのに、こんなにいたのかと驚いていた。
やはり、ほとんどが亜人である。
人間でこれだけの体格があれば、無法者でない限り相応の地位についており、今回の道楽に付き合うような立場になっていないのだ。
だがその、わずかな例外もまた、亜人に見劣りしない戦闘能力を持っていることは確実である。
少なくとも、他の亜人たちから舐められるような面構えはしていなかった。
「さて、よく来てくれた。よくぞこれだけ集まってくれた」
彼ら全員が集まれば、とても立派な体格をしているジューガーをして、子供のように見えてしまう。
しかしそれこそクツロの望んだことである。この光景を見ただけで、大公は成功を確信していた。
「私は大公ジューガー。まあこの街を治めている者だと思ってくれればいい」
彼は主催者として迎えてはいたが、もともと非公式であるため、砕けた態度をとっていた。
なにせただの暇つぶしである。変に格式張るほうがむしろ不味い。
「君たちが来てくれたことは嬉しいが、私なんぞの礼など嬉しくもないだろう。隣の部屋に肉と酒とプロの女性を待たせてある。もう行ってくれて構わんぞ、喧嘩だけはしないようにな」
カセイには多くの夜の店がある。
しかもアッカやガイセイのおかげもあって大変に羽振りが良く、そのため質も高い。
もちろん料理の類も、この世界の基準ではとても良質なものがそろっている。
狐太郎が好意で準備した金が大量にあったので、大公はそれを使って大量に準備していたのだった。
「おいおいまじかよ! 道理でいい匂いがすると思ったぜ!」
「なんだよなんだよ! 面倒なこととか一切抜きかよ、やったぜ!」
「まて、俺が先だ!」
流石大公、話が分かる。
殺伐としていた亜人たちも、大喜びでそちらに向かった。
亜人の基準において、人間の女性は微妙な線なのだが、それでもちやほやされて悪い気はしないのである。
何より、肉と酒を期待していた彼らにとって、話がさっさと終わったことはとてもありがたかった。
「さて……よくぞ、あれだけ集めてくれたな。まさか声をかけた者たちが、全員こうして連れてきてくれるとは思っていなかったぞ」
残ったのは、選手を連れてきた者たちと、少ない人間の選手たちだった。
大喜びでどんちゃん騒ぎをしている亜人たちに、ほぼ全員が呆れていた。
「……まあそんな顔をするな。所詮私は人間で、彼らは人間ではない。彼らに私をありがたがれという方がどうかしている。今回の件では、彼らに気持ちよく戦って欲しいのだ。であれば報酬はマメに渡したほうがいい」
砕けた様子の大公は、残った面々へ親し気に話しかけている。
身分の差が大きい彼らに対してのそれは、つまりこの場が無礼講であることを示していた。
「そりゃあ彼らを正式に部下として召し抱えるのなら話は違うが、何度も言うようにただの祭りなのだよ。祭りで肉と酒が出るのは当たり前だろう」
相手が喜ぶことは何か、真剣に考えれば相手を知るところから話は始まる。
面倒なことが嫌いで肉と酒と女が好きなら、変に気取らずそうすればいいだけだった。
「とはいっても、そう受け取れないのも人間だ。別の場所に静かに酒を飲めるところを用意してある。そちらで話し合うとしよう」
椅子はないが、テーブルの上に小さな酒器の並ぶ、品の有る立食パーティー会場。
簡素な肴しか食べ物はないのでそれを残念に思う者もいたが、大公の前で無様を晒すのも怖かった。
大公が言う通り、ある程度でも品があるほうが、逆に気が楽なのだろう。
「同じように招待しておきながら、こうして分ける。ふふふ……お世辞にも公平ではないが、彼らに余計なリスクを負わせないためにも、これがベストだろう」
仮に大公が亜人たちの酒宴に参加して、喧嘩などに巻き込まれれば、大公本人も含めて責任問題になるだろう。
友好を深めるために招いたわけでもなく、ただ相手を迎えたいだけなのだから、これでよいと大公は思っていた。
実際、選手を連れてきた者たちも安心している。
(……見ようによっては、向こうの方が豪勢だからな。仮にこちらに来ても、羨ましいとは思わないだろう)
貴族の一人が、テーブルの上の料理を見てそう評した。
酒は量が少なく、度も低めで、彼らの好むところではあるまい。
誰かがこちらを探りに来ても、がっかりして帰るだけだろう。
「ここまでの道中、君たちも大変だっただろうが、彼らも気を使っていたはずだ。祭りの前なのだから羽目を外してほしかったのだよ」
狐太郎がそうであるように、大公もまた教養のある男である。
自分と価値観が違う世界の住人に理解があり、一緒にいることの難しさを理解している。
亜人たちにしてみれば、このカセイは小人ばかりの街だ。
しかもたくさんの物があり、壊せばどうなるのかわからない。
彼らをこの街に連れてきた貴族や商人に従って、黙って歩幅を合わせる。
それも、何も壊さないように、はぐれないように。
それはそれで、彼らにしてみれば神経を削ることだったはずだ。
「私も最近、亜人とうまく付き合おうとしているが……これが難しい」
「閣下が、亜人を引き入れようと?」
「うむ。戦力的には申し分ないのだがね……まあそう簡単に行くと思う方がどうかしている、気長にやるさ」
違う文化圏の相手を従えるというのは、容易ではない。
なにせ自分たちが差し出すものに、なんの幻想も抱かない。
それは、今この状況が示すとおりだ。
例えばどこかの宗教都市が「この大司教様がお前に洗礼をしてくださるのだ、感謝して働け」と言って、他の文化圏の人間が喜ぶだろうか。
あるいは遊牧民族が「この家畜をお前にやるから、喜んで働け」と言って、家畜を飼ったことのない者が喜んで働くだろうか。
もしくは芸術家が「この絵を描いてやるから、喜んで働け」と言って、その芸術家を知らない者が喜んで働くだろうか。
あるいは日本人が「この札束をやるから、喜んで働け」と言って、紙幣を知らない者が喜んで働くだろうか。
これで「誰もが喜んで働く」と思い込むものは、狭い世界観で生き過ぎている。
場合によっては、「自由」や「生存」さえ、相手への侮辱になることがある。
なぜお前などに自由や生存を保証してもらわなければならないのだ、と。
とにかく相手が話をしやすい状態を作るところから始めるしかない。
今回クツロが進言してくれたことも、彼女がいい意味でこちらに気を使わなくなった結果だ。
「……それは、難しいですよ」
亜人と直接取引をしている商人は、深刻そうにそう言った。
「強い亜人というのは、それだけで自尊心が強いのです。失礼ですが、その亜人よりも強くなければ、従うことなど……」
ピンインがキョウショウ族から姐と呼ばれて慕われているのは、突き詰めれば彼らが落ちこぼれだからである。
普通の人間よりは強いと思っているのだが、それでも故郷に帰ればもっと強い者がいると知っている。だからこそ、自分よりも弱いピンインに従っているのだ。
だが各部族の精鋭は、自分が周囲よりも強いと思っているからこそ、容易には従わないのである。
「わかっている。それは散々思い知っている。だがな……別に失敗してもいいとは思っているし、成功すれば労力に見合うとも思っている。もともと教育とはそういうものだからな」
現状、『彼女たち』はコントロール下に置かれている。
全面的に服従しているわけではないが、一応言うことを聞いてやろうという状態にはなっている。
少なくとも、大慌てで殺さなければならないという、段階にはなっていない。
「それも私の戯れだと思って、期待せずに待ってくれたまえ」
「はあぁ……」
大公の砕けた態度を見て、少なくない者が彼の器量を感じていた。
そこにいるだけで他者を魅了する、圧倒的なカリスマがあるわけではない。
しかし成果を焦らず、気長に構える度量があることは伝わっている。
成功を目指すが、成功だけを求めない姿勢は、正直に言って安心できるものだった。
「ところで大公閣下……」
「うむ?」
「その……恐縮なのですが、今回の規定は少し緩かったのでは?」
「……なぜそう思う? かなり厳しい条件だったと思うが」
クツロと組みあえるものなどそういない。
だからこそ顔の広い有力者たちをして、たった一人確保することに四苦八苦していたのである。
にもかかわらず、条件が緩いのではないかと言った者。
彼は、数少ない人間の選手を確保していたものだった。
「今回の戯れは、その……大公閣下お抱えのAランクハンターが、さらに従えている亜人の、その運動のためと聞きました」
「その通りだ」
「あくまでも試合、力比べであり、殺し合いではありません。ですが……血の気の多い亜人たちでは、Aランクハンターに従っている亜人を、怪我させてしまうのでは?」
その彼は、真剣に危惧していた。
事故が起きて亜人の選手たちが怪我をすることは、当然彼らを連れてきた者たちも想定している。
それは逆に言うと、主催者側の用意した亜人が怪我をする可能性もあるということだった。
「今回そろった亜人は、誰もが精強です。ですが人間と違い、政治が通じません。もしも大けがをさせてしまえば……Aランクハンターが怒るのでは」
それを聞いた大公は、驚いた顔で周囲を見た。
なるほど、他の面々も似たようなことを心配しているらしい。
「……ごふっ!」
思わず、むせた。
「閣下?!」
「い、いや、すまん……失礼した」
大公は笑っていた。
完全に見当違いなことを心配している彼らへ、非常に驚いていた。
「ああ、いや、うむ。まあ気持ちはわかるとも。確かにそんなことになれば、私に従っている狐太郎君も怒るかもしれない。ただ負けただけならまだしも、熱くなった末の大けがではね」
しかし、むべなるかな。
なまじ亜人を知り、その中でも抜きんでた者を知っていれば、狐太郎に従っているクツロがどの程度強いのか想像してしまうだろう。
狐太郎が竜王を従えているという噂を知っている者がいたとしても、それを真に受けるとは限らないし、もっと言えば竜王が強いからと言って亜人の王が同じぐらい強いとは思わないはずだ。
「それはない」
大公は知っている。
クツロがどれだけ強いのか、自分の目で確かめている。
「彼女は強い。もちろんあの場に集まった者が一丸になって襲い掛かってくれば、その限りではないだろうが……一人一人ではなあ」
今回の試合では、集まった選手全員とクツロが戦うことになっている。
しかしそれは、全員が一度に襲いかかるというものではない。
あくまでも一対一の試合を、何度も繰り返すというものだ。
「心配するべきは、楽しみにし過ぎている彼女が暴れて、皆に怪我をさせてしまうことだろう」
今回集まった亜人たちの中には、単独でBランク中位を打倒できる猛者もいる。
それは世界基準で見ても相当の強さだが、素のクツロにさえ及ばない。
大鬼クツロは、魔王にならずともBランク上位を単独で屠る怪物である。
※
シュバルツバルトには、マンイートヒヒのような猿型のモンスターも生息している。
その中には、比較的ニホンザルに近い姿のモンスターもいる。
当然ながら、その大きさはゴリラさえもはるかに超える、大型ではあるのだが。
Bランク上位モンスター、大箕猿。
同じランクのモンスターの中では比較的小さいが、それでも立ち上がった姿は4mをゆうに超える。
その上で、タイラントタイガーさえも圧倒する怪力をもち、なおかつ知性も高く俊敏という、Bランク上位に相応しい怪物であった。
ニホンザルに似た姿をしている一方で非常に毛深いその姿から、ミノを着ている猿、大箕猿と呼ばれている。
その大箕猿が、冬を前にした前線基地に現れたのは、やはり飢えであろう。
もしも何も食べずに帰れば、そのまま死ぬ。その危機感を持つ猿は、当然のように必死だった。
満腹になるまで帰る気がない、恐るべき怪物。軍隊が出動しなければ勝てない、脅威のサル。
その猿の前に現れたのは、『まわし』を付けたクツロだった。
「うっふっふっふっふ……」
彼女は、とても嬉しそうに笑っていた。
肉を食べている時、酒を飲んでいる時と変わらない、恐るべき笑顔。
飢えた獣が、まるでご馳走のように見えているようだった。
「ふふふふふ!」
笑いを隠し切れない彼女だが、しかし猿はひるまない。
如何にクツロが大きいとはいえ、大箕猿に比べればとても小さい。
彼女の頭が、猿の胸にあたる程度と考えれば、体格差は大人と子供である。
しかし、だからこそ、飢えた猿にとってもご馳走だった。
空腹で目が回りそうな猿と違い、クツロは栄養をきちんと取っている。
肌の艶や筋肉の張りは、運動と食事の両方が十分であることを示している。
もしも食べれば、さぞ美味しいだろう。
クツロの屈強な筋肉さえ、この猿は顎で噛みちぎるつもりだった。
この猿は自分よりもさらに大きいモンスターさえ、軽々と捕食する。
その猿からすれば、自分よりも小さい鬼など前菜程度の存在だった。
もう我慢できない。いや、最初から我慢する気はなかった。
大箕猿は、無造作に、しかし恐るべき怪力で、その腕を振るう。
彼女を押さえこみ、そのまま食べる気だったのだ。
両手で固定し、足で踏みつけ、腹を食う。
それはこの猿にとって、狩猟というより食事の行動だった。
「ふん!」
しかし、我慢できないのはクツロの方だった。
興奮して熱を持った体は、既に汗にまみれている。
その汗を拭き飛ばしながら、猪の様に突撃していた。
「つっかまえた~~!」
二足歩行であれば、必然的に弱点となるのは腰である。
相手より大きかったとしても、腰を掴まれ浮かされれば、行動のほとんどが不可能となる。
「はああああ!」
ましてや、猿は浮かされたどころではない。
猿の腰に抱き着いたクツロは、猿を持ち上げるのではなく、抱えたまま走ったのだ。
猿の体がくの字に折れ曲がるほどの速さで、自分よりもさらに大きい相手を運搬する。
そして、森の入り口にある木へと激突させたのだ。
もちろん猿は、その程度では死なない。
腰をしたたかに打ち、さらに後頭部さえも木にぶつかったが、それでも痛いとさえ思わなかった。
自分よりも大きな相手に吹き飛ばされて、木や地面にぶつかるなど、この猿にとっては日常茶飯事であるがゆえに。
「う、ふふふふ!」
腰に抱き着いている彼女は、当然猿の鼓動を感じていた。
もしもマンイートヒヒにこれをやっていれば、腰の骨が折れて、さらに頭も潰れていただろう。
そうなっていない手ごたえに喜びながら、彼女は更に行動する。
「ちぇええあああ!」
ただの、張り手。
それが急所でもなんでもない、大箕猿の胸板をしたたかに打っていた。
「りゃああああ!」
一撃ではない、何度も何度も打ち込んでいく。
しっかりと腰を落として四股を踏んでいる彼女は、機動力を失っている代わりに連続で体重を込めた攻撃が可能だった。
打ち込んでも死なない肉の塊に、大喜びで暴力を振るっているのである。
だが打たれるままの大箕猿ではない。
ふざけるな、と叫ぶように吠え、その爪で彼女の肌をひっかいた。
Bランク上位モンスターのひっかきは、当然ながら肌に赤い線が残る程度ではない。
大量に出血させるどころか、肉を裂き骨を貫き、さらに大地にまで爪痕を残すほどである。
「……!」
それが、顔にあたった。
普通であれば、顔が残らないはずである。
「やるじゃない!」
だが彼女は笑っていた。
肌が少し切れて、浅く血が流れているが、それだけだった。
「お返しよ!」
大箕猿の名の由来になっている、とても密集している長い体毛。
それを左手でつかみ、足を下げながら、腰を落とす。
すると大箕猿は、前に大きくつんのめる形になった。
「じやゃああああ!」
空いていた右手で猿の頬をひっぱたきながら、投げる。
それは猿の体を地面にたたきつけながら、頭を地面と右手で挟みつぶす攻撃だった。
やはりこれも、Bランク下位であれば致命傷。
頭が砕けて、そのまま死ぬはずだった。
だが大箕猿は、この程度では死なない。
気絶さえせず、手足を動かして反撃しようとしていた。
「だめ」
しかし、体勢はコントロールされていた。
仰向けに転がる形になった大箕猿の腹の上に、物凄く嬉しそうな顔でクツロが乗っていた。
馬乗り、あるいはマウントポジションである。
「だめよ、逃げちゃ!」
振りかぶった拳が、何度も何度も大箕猿の顔に叩き込まれていく。
極めて原始的で、しかし合理的で、単純に反撃が難しい体勢。
子供でも分かる圧倒的有利な状況で、クツロは拳を返り血で染めながら殴り続けている。
「もっと付き合ってちょうだい!」
しかし、猿に殴られ続ける理由はない。
そしてもっと言えば、体格差がありすぎればマウントポジションも絶対ではない。
あるいは、クツロの腕力が大箕猿より数段上だったとしても、体重も体の大きさも、どちらも大箕猿の方が上である。
であれば、子供に胸の上へ乗られた大人が起き上がるように、普通に起きることが可能だった。
「そう、それよ!」
大鬼クツロは、蛇のように動いていた。
太く長く、そして硬く強い腕で、猿の頭をしっかりと抱えたのである。
つまりは、裸締めである。相手の顎の下へ腕を回して、背後から首を絞める。
とてもシンプルに、マウントポジションよりもさらに有利な体勢だった。
「いいわよ~~! 貴方、良いわよ~~!」
このままだと殺される。
大箕猿は、ここに来て自分の死を感じていた。
喉は動物にとって急所である。
仮にここへ噛みつかれれば、そのまま窒息や大量出血を起こす。あるいは、その太い首の骨を折られてしまうだろう。
他の部位であれば死に至らない骨折や噛みつきも、喉、首においては速やかな死を意味するのだ。
故に、猿は暴れて、もがいた。
自分の頭のすぐ後ろにいる、自分を絞め殺そうとする大鬼を、なんとしても引きはがそうとする。
喉が潰されたまま枯れたような叫びをあげ、なんとか立ち上がって木や地面に背中を叩きつける。
あるいは背中に手をまわして、力づくで引きはがそうとする。
Bランク上位モンスターが、必死で抵抗しているのだ。
当然、組み付いている方もたまったものではないだろう。
だがそのクツロは、まるでロデオを楽しむように笑顔だった。
いや、こんなにも幸せそうにロデオをするものが、この世にいるかはわからないが。
「とっとっと……」
その必死の抵抗が実ったのか、喉の拘束は剥がれた。
そうなれば、猿であれなんであれ、大慌てで息をしようとする。
とにかく体の中に、酸素を入れなければならなかった。
殴られて潰された鼻で、なんとか息をしようとする。
「せえ……」
まるで父親の背中へ抱き着く女児の様に、クツロは前かがみになっている猿の背中に抱き着いていた。
そして弓の様に反りながら、大箕猿を持ち上げる。
「のっ!」
バックドロップだった。
受け身を知らぬ猿は、その一撃を受けて、流石に目を回す。
体の中に、圧倒的に酸素が不足している。
回らない頭で、なんとか這う。
四つん這いになって、息をしようとする。
顔からの出血が、地面に滴り落ちていった。
「よし!」
その背中に、彼女は乗った。こんどこそまさに、馬乗りである。
両足でしっかりとホールドし、そのまま左手で猿の頭を押さえて、右手で殴る。
「それそれそれそれ!」
翌日の試合を前に、最終的な調整ができる。
遠足の前日にはしゃぐ子供のような顔で、クツロは試合でもできないようなことを楽しそうに行っていた。
もちろん、大箕猿が苦しむことなどお構いなしである。
「……あいつに試合させて大丈夫なんだろうか」
それを見守る狐太郎の不安を、誰も否定してくれなかった。