17
毒の多頭竜、ラードーン。
その種族としての強さは、火竜や悪魔、雪女や大鬼を超えている。
狐太郎が遭遇した個体は、ラードーンの中でもひときわ強いというわけではない。
だがそれでも、生物としての性能だけ言えば、四体をはるかに突き放していた。
いいや、それどころではない。
ラードーンより強いモンスターなど、アカネたちの世界には存在しない。
四体が力を合わせて倒した魔王でさえも、生物としてはラードーンに劣るだろう。
だがそれは、生物としての性能だけを比べた話である。
高濃度の毒煙が散った後、そこには姿を変えた四体のモンスターと、彼女たちに守られた狐太郎の健在な姿があった。
「……どれだけ強いか知らないけど、臭い息を吐く相手を間違えたわね」
はるか古の時代。
人は強大なモンスターに立ち向かうため、『職業』の加護を受けていた。
儀式によって後天的に人間へ力を加算し、凡庸な素質でも一流の力を、勇者とも呼ばれる者にはさらなる力を授ける。
モンスターに勝利し支配した後では、もはや必要性を失った魔法技術。
「野生動物風情が……身の程を知りなさい」
大鬼クツロは『格闘家』、火竜アカネは『騎士』、雪女コゴエは『侍』、悪魔ササゲは『呪詛師』。
武装した彼女たちは、ひるむことなくラードーンと対峙する。
「人類の積み重ねた、科学と魔法、叡智の結晶。味わわせてあげるわ」
恐怖に立ち向かうことを勇気と呼ぶのなら、脅威に打ち勝つことを知恵と呼ぶ。
モンスターに対抗するために生み出された『職業』を、『武装』を、『技術』を、モンスターが使用する。
人間を、守るために。
「さあ、駆除の時間よ!」
クツロの口上が、ラードーンの耳に入るわけもない。
四体が変化したことに気付いているのかも怪しい多頭竜は、その頭のほぼすべてを使って襲い掛かる。
長い首、巨大な顎、毒の膵液。それらが大量に殺到してくる。
「ショクギョウ技! ドラゴントレイン!」
一番槍こそ騎士の誉。盾と槍を手に、騎士となったアカネが突貫する。
「うううああああああああ!」
ラードーンの頭一つよりも小さい彼女は、それでも突撃の足を休めない。
騎士の加護を得た彼女は、それによって炎のブレスの威力を大幅に落としてしまっている。
今の彼女にできることは、手にした突撃槍で突き進むのみ。
「だああああああ!」
しかし、その突破力たるや先ほどまでの比ではない。
最新の魔法技術によって鋳造された盾、兜、鎧は、ラードーンの牙や鱗に当たってもびくともしない。
むしろぶつかってくるラードーンの体が逆に削られ、鱗は剥がれて肉がえぐられていく。
「うん、ふりゃああああああ!」
そしてその槍は、ラードーンの胴体に達した。
ラードーンに比べればはるかに小さいアカネは、その手にした槍を深々と突き刺す。
そしてそれだけで終わらない、その屈強な下半身の力に更なる力を込めて、ラードーンの巨体を押し込み始めた。
「アカネ……」
狐太郎は見た。
己を慕う火竜が、死の危機も顧みずにラードーンを押し返していく姿を。
自分を守るために、自分から遠ざけるために。
ラードーンも押されるがままではない、巨体を支える太い脚や尾を使って踏みとどまろうとする。
だがそれでも押し返せない。自重の百分の一にも満たないはずのアカネに、圧されたまま下がっていく。
それはまさに電車道、ラードーンが地面に刻んだ足跡はまっすぐの平行な線になっていた。
「は、はあ、はあ、はあ……」
だがアカネの体力も無尽蔵ではない。
大きく押し込んだところで、アカネは息を切らして止まってしまう。
そしてラードーンには、ほとんどダメージがたまっていない。アカネの猛攻は、しかし体に浅い傷をつけただけだった。
ラードーンの懐と言う死中に飛び込んだアカネは、無防備なままになってしまった。
そしてそれを逃すほどラードーンは愚かではない、大量の頭が彼女めがけて殺到していく。
「シュゾク技、鬼炎万丈! ショクギョウ技、拳骨魂!」
「シュゾク技、一面吹雪花畑! ショクギョウ技、乾坤一擲!」
そうはさせまいと、助走しながら自己強化を行ったクツロとコゴエが襲い掛かる。
「シュゾク技、鬼拳一逝!」
籠手に守られたクツロの拳が、頭の一つを殴り砕く。だがラードーンにとって、百分の一にも満たない頭を潰されただけだった。
「ショクギョウ技、鬼拳二逝!」
元より、大鬼クツロは格闘に優れている。
その力を職業によって上乗せすれば、一撃必殺の拳を連発することさえ可能だった。
「鬼拳三逝! 四逝! 五逝! 六逝! 七逝! 八逝!」
力まかせに殴っているのではない、身体能力にあかせているのではない。
大鬼の骨格に合うように生み出された格闘技術によって、クツロの拳はより合理的に頭を砕いていく。
格闘技とは理合いであり、身体操作。肉体を構築することも含めた、叡智の結晶である。
「鬼拳九逝!」
この世界の鬼が、彼女と同じことをしても、同じ威力にはならないだろう。
彼女という大鬼は、元の世界において決して特別な存在ではない。だが、大鬼という生物そのものが、この世界では存在しないのだ。
馬と言う生物からサラブレッドになったように、鬼という生き物を改良し続けることによって至らしめた大鬼という怪物。
より強く、より大きく、よりたくましく。人間が計画し人間が改良し、そして人間が育て上げた大いなる鬼。
その心技体は、余すことなく叡智の結晶である。
「ショクギョウ技! 鬼拳全逝!」
鬼の猛攻によって、アカネを襲おうとしたラードーンの頭のすべてが弾かれた。
大量に過ぎるその頭はもつれあい、首が絡み合っていた。
すべての頭が飢えているがゆえに、同体でありながらも一心ではない。
もつれあった首同士が、合力することなくうなっている。
「堪えないのか!?」
殴って殴って殴りまくった。
その手ごたえは拳にある、数多の頭を砕き首を折ったはずだった。
それでもラードーンは、まるで弱ったように見えない。
混乱こそしているが、それもやがては振り切るだろう。折れた首や砕けた頭を自ら引きちぎってでも、反撃をしかねない。
「ショクギョウ技」
そのわずかな間に、コゴエは準備を終えていた。
すでに一面は銀世界、彼女の技が最大威力を発揮できる環境になっていた。
「電光雪花」
雷の如き神速で、百もの首が並ぶラードーンの胴体の上を駆け抜ける。
手にしていた氷の刀を振りぬいて、氷の鞘にゆっくりと納める。
「御神渡り!」
納刀と同時に、ラードーンの首に異変が起きた。
まるで今まさに攻撃を受けているかのように、首が一本一本、凍結しながら切断されていく。
それはコゴエが駆け抜けた後を追うように、しかし確実に息の根を止めていく。
「首級、確かに頂きました」
一本一本、首が凍りついて折れていく。
抵抗もできないまま、ラードーンの首は悲鳴を上げながら、しかし悲鳴さえ凍り付いて散っていく。
一面の銀世界に、氷漬けにされた首が百本以上も転がっている。
「さすがに百本すべての首が落ちれば、多頭竜と言えども……」
「ちょっと、コゴエ? それフラグ! 言ったら復活しちゃうよ!?」
勝利を確信したコゴエに対して、息を整えたアカネが叫んでいた。
そしてそれに応えるように、すべての首が斬り落とされたはずの胴体が暴れだす。
「ほら!」
「ほら、じゃないでしょ! コゴエ、もう何回か攻撃する?」
「その必要はない」
アカネだけではなくクツロも攻撃の体勢に入るが、それでもコゴエは動じていなかった。
「いくら胴体が生きているとしても、頭がなければ呼吸さえできまい。私の太刀傷は凍り付いている、その部位から再生することは不可能。もはや放っておいても……」
コゴエの言うように、ラードーンの胴体はもがくばかりで、攻撃もしてこなかった。
この怪物にとって首がさほど重要な器官ではないとしても、目も鼻も耳も首も失っている。どこに敵がいるのかわかる筈はなく、呼吸さえままならない。
どれだけ生命力があるとしても、時間の問題だった。
「な!」
「うそでしょ?!」
「バカな!」
だが、ありえないことが起こった。
コゴエの刃はラードーンの首をすべて切り落とし、その切断面を凍結させていた。
にもかかわらず、ラードーンの首が生えてきたのである。
凍結した場所からではない。巨大な胴体の、元々首がなかった場所から新しく首が出てきたのだ。
それも一本や二本ではない、先ほど同様の百にも及ぶ数が生えそろったのだ。
まるで切株から新しい幹が生えるような状況なのだが、巨大な胴体から再度首が生えるというのは余りにもおぞましい。
「本当に……動物なのか? 軟体動物か植物ならまだわかるのだが……」
「絶対に違うよ! 少なくとも竜じゃない! こんなのドラゴンじゃないよ!」
「こうなると、胴体を潰すしかないわね!」
三体からの攻撃を受けても、すべての首を落とされても、なお平然と戦闘続行の意思を見せるラードーン。
彼女たちの知るモンスター、ドラゴンの常識を超え過ぎた怪物は戦いを再開しようとする。
しかし……。
「ショクギョウ技、囁く悪魔」
ラードーンは、さらに体から首を生やし始めた。
もうすでに生える場所が見当たらないほどに首が生えているのだが、それでも隙間を埋めるように首が生えてくるのだ。
しかもラードーンの首は、それを見て困惑している。
新しく生える首自体が、なぜ自分が生えてくるのか困惑さえしているようだった。
「ああ、やだやだ。生命力が売りの野生動物はおぞましいわねえ」
黒を基調とする厚手の服を着たササゲが、嫌悪感をむき出しにして歩いてきた。
その表情に、もはや戦意はない。
「もう十分よ、これでこいつは御終いね」
ショクギョウ技、囁く悪魔。
それは相手に連続して同じ技を使わせ続けるという、単純ながらもいやらしい技である。
再生を行ったラードーンは、首を生やす以外の行動ができなくなっていたのだ。
再生能力が完全に暴走しており、健常な首から枝分かれするように首が生えていく。
「うわっ……気持ち悪い……」
この上なく醜悪だったラードーンが、さらに醜悪になり、そこから底抜けに気色悪くなっていく。
その光景をみて、アカネは再び顔色を悪くしていた。
「おしまいって……ササゲ、まだ相手は生きているでしょう? 今のうちに攻撃しないと!」
クツロが抗議した。
たしかに相手は再生しかできなくなっているが、それでも生きていることに変わりはない。
囁く悪魔の効果が永続ではない以上、もうしばらくすれば襲い掛かってくることは確実だった。
「ショクギョウ技、石で試す悪魔。もう問題ないわ、この下等生物は死ぬしかない」
人はパンのみで生きるにあらず。
しかしそれは、神をもつ人間の理屈でしかない。
急速な再生を繰り返していたラードーンは、猛烈な勢いでやせ細っていく。
「こいつらは、人間を食うのよ。つまり元々空腹だったはず、そこで再生を繰り返せば栄養が枯渇するのは当たり前だわ」
石で試す悪魔という技は、継続して対象の生命力を減少させる。
もちろんどんな相手にも効くというわけではない。しかしどれだけ生命力にあふれていても、ただの動物には抵抗の余地がなかった。
「大男、総身に知恵が回りかね。まあ再生能力がご自慢の下等生物には、お似合いの結末なんじゃないかしら?」
四本の足からも首を生やしていたラードーンは、ついにその動きを止めていた。
再生に次ぐ再生、呪詛による生命力の減少に耐えきれなくなったのである。
栄養失調という、あまりにも残酷な死。それは頂点の捕食者にとって、ある意味では必然の結末だったのかもしれない。
「お、終わったのか……?」
既に胃の中を空にしてしまった狐太郎は、口元をぬぐいながら四体の傍に寄った。
世にもおぞましい死に様を晒しているラードーンへ視点を合わせないようにしつつ、よろめきながら四体に近づいた。
「ご主人様……ええ、終わったわ」
少し慌てた様子で、ササゲが狐太郎を抱きしめた。
「無事でよかった……」
「みんなのおかげだよ……」
お互いに、安堵しかない。
上手く嵌めることができたが、まともに戦っていればそのまま負けていたかもしれない。
少なくとも一体では、勝ち目の薄い敵だった。
「ごめんなさいね、ご主人様。正直Aランクのモンスターといっても、程度が知れると思っていたのだけど」
「それは俺もだよ……マジでヤバかった」
狐太郎も抱きしめ返していた。
本当に正真正銘、全員無事であることが奇跡に思えたのだ。
「俺、生きてるよな? 死んでないよな?」
「ええ、生きてるわ」
ササゲと狐太郎は分かり合い分かち合っていた。
両者にとって、ラードーンは恐れるべきものだったのだ。
「あ、ご主人様! それ、私にも!」
「貴方とコゴエは鎧を着たままでしょう、自重しなさい」
「え~~でも~~」
「我らは周囲の警戒をするぞ。また別の脅威が現れないとも限らない」
「……そうだね」
改めて、アカネはラードーンの死体を見る。
本能的に同種だと分かる一方で、心理的に違うのだと判断していた。
「本当に、異世界なんだね……」
アカネの常識において野生のモンスターは、戦闘用として飼われているモンスターよりも弱い。
ましてや魔王を倒すまでに至った自分達よりも、はるかに強い個体がいるとは信じられなかった。
もちろん四体そろって戦えば、毒のブレスと再生能力しか能のない相手に負けることはない。
だが一対一では、苦戦どころではなかっただろう。
「こんなのがゴロゴロいるなんて、信じられないよ……」
「まったくだわ。いくら危険と知られている森だとしても、普通の野生動物として生息していいレベルじゃない……」
アカネもクツロも、この世界に震撼していた。
生物としての強さならば、魔王さえも超えるモンスターが大量に生息している。
その事実を前に、身を震わせるしかなかった。
「今日のところは、もう帰るとしよう。ご主人様が落ち着き次第、前線基地へ……何者だ!」
コゴエは、誰もいないはずの空間に向けて刀を抜いた。
彼女の力によって地面を覆っている雪に、足跡が生まれていたのである。
ゆっくりと、しかし確実に、主の見えない足跡が近づいてきている。
「ぐっ……はぁ……はぁ……」
雪に倒れる形で、一人の男が姿を現した。
見るからにモンスターではなく、普通の人間である。
「って、ええ?! ひ、人?! もしかして、怪我してる?!」
「なぜここに人が……」
背中から血を流している、マントを被った男性。
あきらかに普通ではない彼に、アカネとクツロは近づく。
「お、おい……ササゲ、怪我の治療を!」
「そうね、ここに変身する類のモンスターはいないらしいし……」
慰め合っている場合ではないと気づいた狐太郎とササゲは、直ぐに彼を治そうとした。
「い、いや、待ってくれ……それどころじゃない」
背中から血を溢れさせている壮年の男性は、自分の治療よりも優先すべきことがあるようだった。
必死の形相をしているが、それは自分が死にかけているからではない。
「君が、狐太郎だな?」
「あ、はい」
「私は、蛍雪隊の隊員だ」
「シャインさんの?!」
「そうだ」
今までお世話になってきたのだが、シャインの部下には会ったことがない。
だが以前に彼女が自宅に現れたのと同様に、彼は透明になっていた。
信じるには、十分である。
「まさか……ラードーンを倒してしまうとはな……」
「やっぱりヤバい奴だったんですね……」
「ああ……Aランクの中でも上位に入る」
(これより少し弱いのはごろごろいるのか……)
前線基地に務める凄腕の討伐隊をして、ラードーンは強敵中の強敵であったらしい。
いままではどれをどう倒したとしても、まるで驚かなかった人たちが、ようやく驚いてくれていた。
「これで、希望が見えた……」
(何か、いやな予感が……)
「今すぐ、前線基地に戻ってくれ!」
この魔境ともいうべきシュバルツバルトで負傷していたところで、助けてくれるかもしれない相手に出会えた。
それで喜んでいるのなら、狐太郎にとってこんな簡単な話はない。
だがそれで喜んでいるようには見えなかった。
「前線基地が、五体のAランクモンスターに襲われているんだ!」
「……」
狐太郎は、開いた口がふさがらなかった。
Aランクのモンスターを実際に倒したからこそわかる、その脅威的な強さ。
それが五体も、狐太郎に従うモンスターよりも多く現れた。
あまりにも単純極まる最悪に、口から出す言葉が見つからなかったのだ。
「今のところは、居合わせた他のハンターたちが持ちこたえているが……長くはもたない」
(長くはって……今のところは持ちこたえているのかよ……いや、ある意味当たり前だけども!)
狐太郎は、世を呪った。
さっさと、とっとと、この森や前線基地から離れるべきだったのだ。
それがどれだけ困難で当てのない旅だったとしても、Aランクのモンスターと戦う仕事に比べれば大したことではない。
そう、仕事なのだ。
世の中の仕事とは、つまり自分がやりたくない仕事を、他人に押し付けていることに他ならない。
狐太郎がどれだけAランクのモンスターと戦うことを嫌がっても、他の誰かへ押し付けることはできない。
(俺には、できない)
やるしかないのだ、狐太郎が。
(見捨てるなんて、できない)
人は傷つくほどに、他人へ優しくできるという。
狐太郎は既に、Aランクのモンスターに狙われるという傷を負っていた。
その痛みを、他の誰かが受けている。知っている人が、負っているのだ。
「……」
葛藤はある、恐怖はある、打算もある。
まさしく悪魔の誘惑が、心の中で囁いていた。
聞かなかったことにして、悠々と帰る。それができれば、どれだけ人間は楽に生きられるだろう。
だが、それができないからこそ、人間社会は発展してきたのだ。
「みんな」
アカネたちは知っている。
ここで他人を見捨てるような『人間』ではないと、悲しいほどに知っているのだ。
「今すぐに、前線基地へ戻って戦うんだ」
狐太郎は、後悔すると知って決断を下した。
だがここで、逃げられるほど、彼は強くなかったのだ。
「俺はここに残る、行け!」
今目の前に、倒れている人がいる。
彼のことさえ、見捨てられなかったのだ。
「早く、行ってくれ!」
狐太郎は、あまりにも弱かった。
「キンセイ技もタイカン技も使っていい! 俺の知っている人たちを守ってくれ!」
この弱さを守るために、四体はいる。
「……承知」
短く応じたコゴエは、誰よりも先に走り出した。
狐太郎の命令が合理的だと思ったからではない、彼の願いを尊重したかったからだ。
雪女にして侍であるコゴエは、彼の意思を何よりも大事にしていた。
「……ご主人様」
それに遅れて、ササゲは狐太郎に抱き着いた。
何よりも強く、彼を刻むように抱きしめた。
「ええ、任せてちょうだい」
呪詛師にして悪魔であるササゲは、気高く笑って走り出す。
「行くわよ、アカネ!」
「ねえ! ちょっと待ってよ!」
しかしアカネは走り出せなかった。
この場の誰よりも早いアカネは、狐太郎の命令に従えなかった。
「クツロも、ご主人様を置いていくの? こんなところに!」
「ご主人様に従えないっていうの!」
「ずっと一緒だっていったじゃん!」
「アカネ!」
説得しているクツロも、彼女を否定する言葉が見つからなかった。
この場にケガ人と一緒に残す、その危険性はもはや語るまでもない。
騎士にして火竜であるアカネ、格闘家にして大鬼であるクツロ。
二人は、まだ狐太郎の前にいた。彼女たちは狐太郎が大事だからこそ、離れることができなかった。
「……アカネ、クツロの言うことに従うんだ」
そんな彼女を狐太郎は送り出す。
「大丈夫、絶対また会える」
最善からほど遠い提案だった。
あまりにも素人判断が過ぎる、バカ丸出しの言葉だった。
だがそれは、アカネの知っている狐太郎だった。
軍人でも警察官でも、正義の味方でもスーパーヒーローでもない。
ただの、少し優しい人だった。
「約束だよ!」
「ああ!」
アカネは走り出した。
彼女は、走ると決めたのだ。
「……ご主人様、私とも約束してください」
アカネへ動くように言っていたクツロが、最後まで残っていた。
「また、お会いできますよね?」
「もちろんだ、クツロ」
「約束です」
クツロもまた、走り出した。
長い後ろ髪を引かれながら、それでも走っていったのだ。
そして残ったのは、ケガ人と役立たずである。
「私が口を挟むことではないが……いいのかね?」
「いいんです」
「……まあ確かに、そこまで間違いでもない」
蛍雪隊の隊員は、全員が去ってから声を出した。
彼が言うように、狐太郎がこの場に残ることも、理屈の上では間違っていない。
まずただの事実として、今の前線基地は鉄火場と化している。
この森には未だ大量のモンスターが生息しているが、前線基地にはAランクのモンスターが五体もいる。
前線基地ほどの危険な場所はなく、ここも相対的にはましだった。
加えて、狐太郎や負傷した隊員を、アカネやクツロが抱えて走ることも現実的ではない。
全速力で走るモンスターに運ばれるなど、体がちぎれてもおかしくないのだ。
とはいえ、一体でも残したほうがいい。
それが一番いいのだろう、狐太郎の身を守るためなら。
守る筈だった前線基地が壊滅し、さらにそこへ送り込んだ三体が死ぬかもしれないが、それでも狐太郎を咎めることはできないだろう。
「……俺は、誰も選べなかったんです」
「そうか……」
戦力外の二人は、腰を下ろした。
そして二人の近くに、大量のモンスターが近づいてきている。
この場に残った一面の雪を、大量の足が踏んでいるのである。
「すこし、私の近くに来てくれ。ステルスエフェクトを使う、気休めにはなるだろう」
「正直、期待してました」
「そこまで万能ではないがね……そうでなければ、怪我などしていないさ」
二人とも、抵抗の余地がないからこそ逆に落ち着いていた。
今も大量のモンスターが集まってきているが、狐太郎たちには目もくれていない。
彼らの目当ては、死亡した頂点捕食者、ラードーンの死体である。
まさしく蠅が群がるように、彼らはラードーンを掃除し始めたのだ。
「手当を、頼んでいいかね?」
「わかりました……包帯でもまくんですか?」
「いや、それでは間に合わない。実はとげが深々と刺さっていてね、周りの肉ごとえぐらなければならないんだ」
「……それを、俺が?」
「ああ、助けると思って頼むよ。刃物はあるんだが、手が届かなくてね」
今この場もまた、鉄火場である。
二人は互いの命を守るために、最善を尽くそうとしていた。
しかしそれでも、前線基地には程遠い。
それに比べれば、ここさえ天国に等しいだろう。
(俺がやるしかないんだ……)