最大の敵は己自身
夜の闇に守られる前線基地の中で、誰もがブゥの奮戦を振動で感じ取っていた。
壁や天井に損傷はないが、それでも地面を通して揺れが伝わってくる。
間違いなく大物と戦っているのだろう。今の彼がAランクハンターに達しているのなら当たり前だが、Aランク上位モンスターを単独で討伐しようとしているのだ。
それを少し羨ましく思うガイセイはともかく、他のハンターたちは嫉妬を禁じえない。
わかり切っていたことではあるが、才能の羽化を見る心境は複雑なのだ。
そしてハンターではないとしても、ネゴロ十勇士たちは同じ護衛であるブゥに羨望を隠せない。
「……正直に言って、羨ましいと思ってしまうな。いいや、羨ましいと思うことさえ許されないのだが」
ロミオはそうつぶやく。
それに対して、事情を知っている他の十勇士も頷いていた。
「そうだな……強いことはまず羨ましいが、それだけではない。あの狐太郎様が、彼のために骨を折ったことがまず羨ましいのだ」
狐太郎に迷惑をかけたものの一人、ロレンスもそれに続く。
「お前のこともそうだったが……我らが迷惑をおかけした時、狐太郎様はお怒りだった。特にフーマが自分の命を狙っていると知った時は、品性を捨ててまで怒っていた」
「……怒って当たり前だがな」
「ああ、まったくだ」
当時は、当事者のほとんどが怒っていた。
無理もないことばかりだったが、やはりプロ意識に欠けていたのだろう。
その自分たちが、どの面を下げて狐太郎の怒りをバカにできるものか。
自分に一切非がなく、責任もないのに、命を殺し屋に狙われればそりゃあ怒る。
しかもその原因が、自分にまったく役立っていない者たちなのだから、全員まとめて処刑されても文句は言えなかった。
すくなくとも、ロミオとロレンスは、その運命を受け入れていた。
結果として麒麟の力を借り、全員で大公を騙して事なきを得たが、本来全員殺されて終わっていたのである。
重ねて言うが、極めて正常な反応である。
狐太郎が怒ったことは、何も悪くないのだ。
狐太郎は聖人君子ではなく、割と普通の感性を持っている。
その彼が、自分から積極的に悪魔を騙した。
関わるだけで損をする悪魔に、自分から積極的に関わって、気に入られるという結果になってしまったのだ。そうなってしまうと分かったうえで。
これがネゴロやフーマであれば、絶対に何もしなかっただろう。
悪魔へ積極的にかかわる以前に、対策を講じようともしなかったはずだ。
つまり狐太郎は、ブゥをこの上なく評価し、自分にとって有用な相手だと思っているのである。
悪魔に関わってでも、ブゥのことを気遣うべきだと思ったのだ。
自分ならどうしようかと思った時点、挑戦しようと思った時点で、彼の心中が窺える。
少なくとも自分達よりも、ずっと親密に思っているのだ。
「以前も思ったが……狐太郎様は、ブゥ様を信頼しているのだな」
「ああ、骨を折っても構わないと思う程にな」
もちろんネゴロもフーマも、既に骨を折らせた後である。
彼らは非しかないのに、大公への気遣いの関係で生かされているだけである。
今生きていること自体が、返せないほどの恩だった。
だからこそ、ここからさらに狐太郎に苦労をかけさせたいわけではない。
既にさせてしまった苦労に、報いるだけの働きをしたいと思う十勇士。
その彼らは、狐太郎と対等に近いブゥへ、羨望を隠せないのであった。
※
Aランク上位モンスター、ベヒモス。
非常に頑健な肉体を持つ、非常に巨大で重いモンスターである。
古代の象を思わせる巨体は、見上げるだけで首を痛くするだろう。
飛翔してみたブゥではあるが、全貌を見ようとして苦笑いを浮かべる。
魔境という土地の性質上仕方ないことではあるのだが、どう見ても森より大きい。
このベヒモスにとって、森の木は雑草にも劣る。それこそ、足首と言える部分にさえかかっていない。
これが強いと言われれば、誰もが迷わずそうだろうなと言うだろう。
ただ大きく、ただ重い。どこからどう手を付けたものかと、悩んでしまう光景だった。
「途中で力尽きたらとか、考えたくないなあ……」
ブゥの弱みは、突き詰めれば外付けであることに由来する。
それは悪魔がいなければ戦えないことだけではなく、途中経過を吹き飛ばして強くなったため、加減が分からないことも大きい。
例えるのなら、いきなりモンスターマシンに乗り込んだようなものだ。
今彼は試運転の最中であり、どの程度アクセルを踏めばどの程度加速できるのか、どの程度ガソリンがあってどれだけ運転できるのか。
何もかもが初体験であり、勝手がつかめていない。
「……よし、やろう」
おっかなびっくりだった。
だがそれでも、攻撃を始める。
アビュース。
悪用、乱用を意味する鉄球を振り回し、ベヒモスの巨体へ投擲した。
影による鎖はどこまでも伸び、遠近感の狂う巨大な敵へとどこまでも伸びていく。
投げた本人からすれば不安になるような時間を経て、しかし数秒で着弾した。
「……うっ、うわ!」
強く投げた自覚はあった。
だがベヒモスの巨体に、いきなり痛烈な打撃を与えられるとは思っていなかった。
しかし不本意なことに、ベヒモスは明らかに痛がっている。
思った以上の威力が、その鉄球に込められていた。
「……こっち、見てるよなあ」
ベヒモスの目は、お世辞にも大きくない。
しかしその巨体故に、相対的に大きかった。
その眼が明らかにブゥのいる空間を見ている。
「このまま殴られまくってくれればいいんだけど、絶対にそんなことにはならないんだろうな」
戻ってきた鉄球を、高速で回転させ始める。
それも一つだけではない、大量の鉄球を鎖で連結し合わせている。
まるで恒星系の自転と公転の様に、或いは噛みあった歯車のように、その鉄球は複雑に回転し合う。
必然ただ翼を広げた人間よりも、その鉄球の軌道は大きく見える。
ベヒモスはその巨体に相応しい、低い大音量の咆哮をぶつけてくる。
その息の熱さ、臭さ、湿り気といったらない。
あまりの不快さに、ブゥは気持ちが切り替わった。
「……ふぅ」
今更、戦う気になった。
「いこう」
多すぎる悪魔たちの思念が、自分を叱咤し罵倒し、あるいは嘲る。
それを聞いたうえで、ブゥは顔を引き締めた。
もはや、鉄球と鎖を使った鞭だった。
多くの切っ先を持つ鋼鉄のキャットオブナインテイルが、巨大なベヒモスの体に打ち付けられた。
仮に、これと同じ形状の鞭を人間に当てれば、その皮膚は一瞬でズタズタになるだろう。
あるいは人間よりもはるかに強い肌を持つ犀や象に当てたとしても、大量の出血は免れまい。
だがしかし、ベヒモスは体から出血がない。
苦痛にうめきつつも、しかし痛いだけだと言わんばかりに反撃を行い始める。
「え?」
一瞬、茫然とした。
ベヒモスがその前足で、地面を細かく蹴り始めたのである。
まるで牛が走り出す直前の、足踏みのような動きだった。
考えてみれば、当然の動作。
特別な生態を持たないこの怪物が、攻撃をするとすればその巨体を生かしたものだろう。
だがだとしても、今からこの怪物がやろうとしていることは、巨体が仇となる行為のはずだ。
「うそだろう?」
それは、突撃だった。
本来重ければ重いほど威力を増す突撃だが、逆に重ければ重いほど加速に時間を要する。
にもかかわらず、ほんの一歩目で、その突撃は最高速度に達していた。
ある程度遠くにいたベヒモスが、高速でぶつかってくる。
それはまるで目の前に突如壁が現れたかのようであり、当然ながら避けきれるものではなかった。
Aランク上位モンスターベヒモス。
このモンスターは、普段こそ緩慢に動いているが、速く動けないわけではない。
最強の一角であるベヒモスは、普段大急ぎで動く理由がない。
その巨体を激しく動かせば、大量の栄養を消費してしまうがゆえに、できるだけ避けたいことなのだ。
だが一度動き出せば、その瞬発力はまさに猛獣である。
弾丸が発射されるように、巨大な質量をぶつけてくるのだ。
巨大すぎるベヒモスが、小さすぎるブゥに直撃する。
風圧で吹き飛ばされるではなく、ぶつかって跳ね飛ぶでもない。
ぶつかって、めり込んでいた。
硬質で強靭なベヒモスの分厚い皮膚に、ブゥの体はめり込んでいた。
真正面から、埋まるように打ち込まれていた。
「あ、あ……」
じたばたともがくブゥは、粘土につぶされたかのような体を抜き出す。
あまりの速度、あまりの不意打ちに、目の前がちかちかとしていた。
「てて……」
顔をぬぐうと、血が出ていた。
鼻をしたたかに打ち付けて、鼻血が出ていたのである。
「お、ど、ど、ど、ど……」
自分の血を見て、茫然とするブゥ。
黒い手でおおわれた自分の体に、赤い血が張り付いていた。
「あ」
追撃だった。
象に比べれば短い鼻が、ブゥの体を後ろから叩いていた。
まるでハエでも叩くように、何度も何度も鼻が打ち付けられる。
完全に不意打ちだった。
何度も何度も撃ち込まれるが、無防備に打たれることしかできない。
だが逆に言えば、ブゥは何度打ち込まれても、なおも生きていた。
それどころか、平然と反撃に移る。
「ギフトスロット、レギオンデビル。アパシー」
アパシー。
無関心、無感動を意味する技、影の方天戟がその鼻を打ち払う。
「死ぬかと思ったけど死ななかった……でも痛いものは痛い……普通に痛い……」
女性から平手打ちをもらったかのような体の腫れ具合だった。
お互いのサイズ差ゆえに相手の顔色など窺うことはできない。
だが双方にとって残念なことに、お互いまるで堪えていなかった。
「ついでに、内部から物凄い抗議が……」
無数の思念が、脳内に罵声を浴びせてくる。
同化した悪魔たちが、主の不甲斐なさに腹を立てていた。
常に一緒にいたセキトでさえ、呆れて擁護できなくなっている。
「わかってる、わかってる、わかってます……何倍にもして……削ぎ返します!」
方天戟を引っ込めて、鉄球の鞭を再度取り出す。
今度は回転させてぶつけるような真似はしなかった。
自ら高速で移動し、その後方に鉄球と鎖を追従させる。
己のことを見失ったベヒモスの、その体の表面を撫でるように飛んでいく。
それは必然、彼に追従する鉄球と鎖が、ベヒモスの体を『舐める』ということであり、鉄球の棘がベヒモスの皮膚を削っていくということだった。
まるで、おろし金だった。
拷問器具を用いた調理は、生きたままのベヒモスの表面を引き裂いていく。
無敵に思える分厚い皮膚には、大量の線が刻まれていった。
「このままうまくいく……わけ、ない、か!」
四足歩行のベヒモスは、体中を這うように飛ぶブゥに反撃できない。
表面を引き裂かれているだけとはいえ、痛くないわけがない。
その反撃の予兆を感じ取ったブゥは、一旦大きく離脱した。
「さあ、どう来る……って」
大きく離脱したからこそ、ブゥはベヒモスの跳躍を見た。
まるで巨大なクジラが、水面から跳びはねたかのようだった。
想像を絶する巨体であるはずのベヒモスは、己の身長ほどに跳躍して、寝そべるように着地したのである。
一瞬重量を疑うほどの跳躍だったが、大地を大いに揺さぶる振動は重さが健在であることを示している。
マンボウは寄生虫を退治するために水面を飛び跳ねて自分の体を水面に打ち付けるというが、それに近い行為だろう。
もうすでにブゥは離れているのだが、まだついていると思っているのか跳ねている。
地面が大いに揺れ、木々が潰されていた。
しばらく待ってから追撃するべきか。
そう思っていたブゥは、その巨体がだんだんと前線基地に近づいていくことに気付く。
「アパシー!」
普段使っている、人間サイズの方天戟ではなかった。
以前使っていたものよりも数段大きい、巨大であることに特化させた方天戟。
その一撃は、ベヒモスの胴体に深々と切り込みながら、大きく弾いて森の奥へ押し込んでいた。
「もう、十分防御力は下がったみたいだ……」
巨大な方天戟の切っ先に塗られた、赤黒い血。
その手ごたえを確かに感じて、ブゥはその血を振り払った。
木々が押し花の様に潰された森に、粘り気のある血がばらまかれる。
「後は……固定して切り込むだけだ」
何度か目の、鉄球と鎖。
しかし今回は極めて単純、三個の鉄球を三本の鎖でつないだだけである。
ボーラという狩猟用の武器があるが、まさにそれだろう。
ベヒモスの巨体に合わせて途方もなく長くなった鎖と、その突端にある鉄球が猛烈な勢いで回っている。
「これで……もう逃がさない」
ボーラ。
端的に言えば投げて使う武器であり、相手の足をからめとり縛り付ける武器である。
腹部に深く切り込まれたベヒモスはなんとか立ち上がろうとしていたが、そのうち三本の足に鎖と鉄球が巻き付いてしまっていた。
もちろん、立ち上がろうとする。
もちろん、引きちぎろうとする。
いくら長い鎖とはいえ、決して太くはない。
ベヒモスの体重と筋力をもってすれば、容易くちぎることが可能なはずだった。
しかし、ちぎれない。
それどころか、立ち上がることもできない。
健在な足は一本だけであり、他の三本はへし折れていた。
鉄球を出す技、アビュースは、相手の防御力を下げる技である。
当てれば当たるほどに相手の防御力を下げるこれが相手に絡みつけば、必然的にその部位が局所的に脆くなる。
では巨大なベヒモスの、足の防御力が下がればどうなるか。
考えるまでもない。その重量に耐えかねて、その骨格が粉砕されるのである。
重いものを持ち上げるには、筋肉さえあればいいというものではない。
もちろん筋肉も重要だが、それと同じように大事なのは骨格である。
仮に筋肉が十分でも、骨格が不十分であれば、物を持ち上げている最中に骨格が折れる。
たとえ己の自重だけだったとしても、その重さに耐えられなければ骨は砕けるのだ。
如何にベヒモスが俊敏でも、足が一本しか残っていなければ動ける道理はない。
身動きの取れなくなったベヒモスの頭の横に、ブゥは巨大な方天戟を一度置く。
「角度も距離も……これでいい」
まるで野球やゴルフのスイングを確かめるように、ブゥはゆっくりと方天戟を振りかぶっていく。
相手との間合いをしっかりと把握したうえで、確実に威力を溜めこんでいく。
それを前に、ベヒモスは動こうとする。しかし自らの重さと大きさが災いし、まともに身動きが取れなかった。
まるで砂浜に打ち上げられたクジラのように、自重に負けて潰れていく。
「これで、終わる」
当たりさえすれば、勝てると確信していた。
だからこそ、当てるために準備をした。
なんの疑いもなく、ベヒモスを殺すに十分な大きさの方天戟を、フルスイングして頭を粉砕していた。
巨大であり、堅牢な頭部。
それが軽い音とともに砕け散って、中身を周辺にばらまいていた。
あらゆるモンスターの中でも屈指の防御力を誇る獣は、ここに命を終えていた。