鯨波の勢い
どんな人間も、大抵の場合仕事の範疇でなら我慢ができる。
これは仕事だから仕方がないのだと、割り切ることができる。
もちろんそれにも限度はあるが、ともかく「仕事じゃないなら我慢できない」というのは一定の理解を得られるだろう。
突き詰めていえば、なんで俺がそんなことをしなくちゃいけないんだ、なのだから。
この基地のハンターたちは、皆がプロフェッショナルである。
相手がどれだけ膨大でも、この森のモンスターが相手なら一歩も引くことはない。
だがこの森に生息していない悪魔に巻き込まれる、ということは全面的に拒否するだろう。専門家がいるのならなおさらである。
彼らの直接の雇い主である大公も、今回のことは討伐隊と無関係であると言っていた。
ならばなおのこと、関わる義理は一切ない。専門家である狐太郎とブゥにすべてを任せて、ことが終わるまで全員が待機していた。
あるいは森に入って、もしくは街に行って。とにかく狐太郎たちに関わらないようにしていたのである。
その彼らにとって、ことの収集が早々についたことは、かなりいいことだったのだろう。
ともあれ新しい悪魔との契約が済んだことによって、彼らは自由となった。
各隊の隊員と隊長は、神経をすり減らした表情の狐太郎とブゥ、そして新しく加わった悪魔の様子を見て概ねを察する。
今この基地のハンターたちは、全員が城壁の森側に出ていた。
「……君の強さに感服する。簡単な道、安易な手段に走らず、しかしここまで早く契約を終えることができたのは君の尽力だろう」
「……悪魔は飽きるまで遊ぶというけど、飽きるより早く屈服させたのだとしたら、それに支払ったものは大きいんでしょうね」
「はははは! なんだ、疲れてるってことはやることやったってことか! 大したもんだ、Bランク上位をどうにかするなんざ、そうそうできねえぞ!」
この場に一灯隊がいれば話は違ったかもしれないが、三者三様に狐太郎たちが努力したことをねぎらっていた。
どんな手段を使ったのかわからないが、セキトやササゲの力で強引に押し切ったのではない。狐太郎やブゥが頑張った結果であると、顔を見ればわかるのだ。
何もしていなかったら、疲れる理由がないのだから。
「しかしそれにしても……ええ、この地の人間たちは精強ですねえ。私とその眷属が束になっても蹴散らされそうです。そこの英雄がいなくても……ええ、私と契約した王子も、これぐらいそろえるべきだったのに」
アパレは封印される以前を思い出して怒っていた。
悪魔を騙し、利用し、最後には殺す。
それはそれでありだった。ナシよりのアリではあるが、自分をどうにかできるほどの戦力を動かせるのならアリだ。
少なくとも、舐めている、とは思わない。
まあそれだけ戦力を動かせるのなら、自分で何とかしろよ、と思わないでもないが。
「しかしそれにしても……ふふふ、面白いわねえ、セキト」
「アパレ、何が面白いのですか?」
「決まってるでしょう、この基地の存在です」
ハンターたちがアパレを見て驚いているように、アパレもまたハンターたちを見て感心している。
悪魔が好む人間ではないが、それでも優秀で強力であることに疑いはない。
「これだけ優秀な戦力をそろえて、やっていることが事故物件の尻拭いなんですもの」
「ははは、そうですね。まったく人間は面白い」
自分達が酔狂であると知っている悪魔をして、この基地はまさにバカ丸出しだった。
ここまで大規模な冗談は、悪魔では思いつきもしないだろう。
さっさと引っ越せばいいのに、これだけの戦力で封じ込めをしているのは何とも人間的で滑稽だ。
この基地そのものが、人間の命を賭けた冗談と言っていい。
(その通りなんだけどもな……)
優秀な人材を使い潰していく、人間の愚かさの証明。
欲深い人間が既得権益を守るために、強大な戦士を配置する愚行。
悪魔の言っていることが分かる一方で、人間の理屈もわかる狐太郎であった。
(これは公共事業の失敗だ。その意味では、俺の世界と変わらない。賢いのならそもそも起こらないし、多少馬鹿でも状況が分かったなら逃げるべきだ。なのにそうしていないってことは、人間がバカすぎるってことなんだろうな)
悪魔が笑うのも当然だろう。
確かに社会全体が体を張ってギャグをしている。
「ははは。とはいえ、これも人間でしょう。どうにかしている以上は、決してバカにできるものではない」
長く人間に仕えているセキトは、あくまでも上品だった。
「従事すると決めたのなら、文句があると思われるようなことは控えるべきでは?」
「うふふふ……そうねえ、まったくその通り」
Bランク上位の悪魔たちは、不敵に笑う。
この森において、最強でも無敵でもない化物たちは、しかし死を恐れずに笑った。
そして、死を恐れる己たちの主に、慇懃無礼な挨拶をする。
「さあ、我らが主よ」
「どうぞ我らをお使いください」
果たして、どちらが主なのやら。
いいや、考えるまでもない。
(僕は悪魔使いではあっても、所詮は伯爵……大公様に逆らえる道理はないか……)
矛盾はない。ブゥは悪魔使いではあるが、その戦う相手を好き勝手に決められるわけではない。
それを知っているからこそ、悪魔たちは己の主の不自由さを笑うのだ。
「狐太郎さん」
ブゥは、自らの護衛対象に声をかけた。
「ササゲさんのお力をまたお借りします。そのうえで……」
彼は自分が恐れる姉を見た。
彼個人にとって、力を示さなければならない唯一の人を見た。
「僕の価値をお見せします」
「……そうか。ササゲ、頼んでいいか?」
「ええ、もちろん」
ズミインは嫌がらせや悪戯をするような人物ではない。
それは狐太郎やササゲも理解している。
酔狂を知る者でも、合理が分からないわけでも嫌うわけでもない。
今出せる最大戦力を、把握しておく必要は確かにあった。
「それじゃあもったいぶるのもなんだし……やりましょうか、悪魔使い」
「……そうですね」
※
勝手なものだ、とブゥは思う。
才能がある、負担がない、限界もない。
なるほど事実で、なるほど正しい。
才能があろうがなかろうが、みんな努力している。
才能が有り環境の良いものが、努力しなくてどうすると言われた。
まあそうだろう。
少なくとも、以前に出会ったケイも、相応の努力をしていた。
そういう意味では、共感もできた。
自分は嫌なことを嫌々やって、結果強くなった。
彼女は好きなことを進んでやって、結果強くなった。
だが多分、苦しみは同等だ。
好きなことをやれば苦しみはなくなるというが、あれは嘘だ。好きなことをやっていても、辛いし苦しい。
普通の兵士を目指すだけでも辛い、精鋭を目指すのなら尚辛い、超一流を目指すのならば……。そして、その能力相応の責任を負うとなれば。
小物には、耐えがたい。
まあ結局のところ、ここでの仕事がそれなりに続いていて、期限までは頑張ろうと思えるのは。
同じような小物が、同じように責任を負っているからだろう。
「ギフトスロット、レギオンデビル」
膨大な力が、一点に集まっていく。
この体は悪魔使いの理想形。強化に限界はなく、負荷を受けることもない。
だがこの強大な力を、自分の意のままに動かせてしまえることは恐怖だった。
何か壊せば自分のせい、何か殺せば自分のせい。
完全に制御され他力の及ぶところではないからこそ、その重圧は甚だしい。
しかし……。
『この契約形態のほうが貴方の代では正しいのかもしれませんね』
それも一理ある。
これだけの力を自分の責任だけで運用するなど、どう考えても胃が壊れる。
狐太郎から力を借りているというと卑屈だが、自分に責任が集中していないのはいいことだ。
要するにどっかの誰かが「貴方の裁量でこの問題を解決してください」と言ってきても「いえいえ、狐太郎さんの許可を取らないと」と言えるのである。
当主なのに。
(上司ってありがたいなあ……)
狐太郎だって判断に困ったら大公に仰いでいるし、自分だってそうしたいのである。
集まってくる力が大きければ大きいほど、そう思ってしまうのだ。
「代行王権、魔王戴冠」
自分の中で、悪魔が混ざる。
ただ一つしかない王冠に、すべての悪魔が繋がっていく。
「タイカン技、混王一塊!」
覚悟できていたことだった。だからこそ身じろぎもせず、ブゥはそこに立っていた。
それは、まさに魔王だった。
ブゥという、決して大柄ではない彼の全身に、悪魔の手が浮かびあがっている。
手の形をした翼、手の形をした鎧、手の形をした兜、手の形をしたアート。
通常の様に厚みのない影の手ではなく、立体的に彼を掴んでいた。
「……」
まず、止まる。
ブゥは身に余る力を、掌握するまでもなくまず止まった。
息もせず、瞬きもしない。可能なら、鼓動さえ止めたかった。
鼻息一つ、ため息一つで、目の前の森を吹き飛ばしそうになる。
ただそこにいるだけで、その威圧感だけで、周囲をなぎ倒しそうになっている。
「こ、これは……!」
毎度のことながら、狐太郎はササゲ以外の三体に囲まれて、守られていた。
そのうえで、ブゥの圧に負けそうになっている。
(ヤバい……! そう、ヤバい!)
狐太郎は多くのモンスターを見てきたし、ブゥの成長も見てきた。
そのうえではっきりと言える。
今のブゥは、今までよりも段違いに強くなっている。
(安定感があるというか……なんだ? いや、少なくとも……俺じゃあ、身動きもできない!)
呼吸困難になるほどの圧力だった。
脳に酸素が回らず、心臓が爆発寸前になっている。
寝ている恐竜の口の中にうっかり入ったネズミの様に、生きるための機能が死を恐れて動きを止めていく。
「……ちっ、先を越されちまったぜ」
少しだけ悔しそうに、ガイセイはそういった。
どんな形であれ、そこには英雄が立っている。
「どうだ、ガイセイ。Aランクハンターに達していると思うか?」
「私たちには、わからないわ……」
ジョーもシャインも、その懐かしい圧力に負けかけている。
「旦那にゃまだおよばねえさ。だが……その域には達してるんだろうよ」
各隊員も、Aランクハンターが戦闘態勢に入った時のことを思い出していた。
歴代最強と名高い、この基地の守護神。アッカ。
彼の帰還を思わせる威風だった。
おおっ!
という音がした。
目の前の森が、突風で揺らぐ。
Aランクモンスター以外ではへし折ることもできない頑丈な木々が、大いに揺らいでいる。
「ごふっ、ごふっ、ごほっ!」
呼吸を止める限界に達したブゥが、むせた。
Aランクハンターの出力でむせて、その息で森が揺れている。
仮に後ろに向いて咳をしたら、狐太郎など吹き飛んでいただろう。
「げふっ……げふぅ……!」
慌てて両手で口を抑えようとした。
するとその手の動きで、目の前の森に大きな爪痕が刻まれる。
両手を勢い良く動かし過ぎたせいで、大気の刃が発生したのだ。
「あだあああ!」
自分の顔を、自分で思いっきりひっぱたいてしまった。
それで悶えるブゥは、さらに大きな声を出してしまった。
その声もまた、Aランクハンターの域。
周囲の面々は、思わず耳をふさいでいる。
「か、か、か……加減ができない……!」
強大なモンスターと言えども、自らの力に対して無敵ではいられない。
彼は自分の力を扱いきれず、自傷をしていた。
「……まずい、このままだと」
背後にいる、姉の視線を感じる。
(できるようになるまでぼこぼこにされる……それだけは嫌だ! 落ち着け、初めてセキトを使った時を思い出して……どこに力を込めるかじゃなくて、どの程度の角度動かすかに集中するんだ)
なんのかんのいって、ブゥは努力を強いられた者である。
悪魔の制御をおこなうという意味では、既にベテランだった。
身に余る力をどう制御すればいいのかも、既に知っていることである。
(技を使え。技を使えば、その方向に力は逃げる。最初からこうなると分かっていたんだ、できるはず!)
彼は最初から使うつもりだった技を、抵抗なく発動させた。
「シュゾク技、笛を吹く悪魔」
横笛から奏でられる、妖しい音色。
それはまるで遠吠えの様に、広大な森へ響いていく。
「ふぅ」
来るものが来る。
それに何の疑問はなく、恐怖もない。
「ギフトスロット、レギオンデビル……サイドライツ」
ブゥの術によって、基地全体が防御壁に覆われる。
夜の帳に覆われた町は、夜同然の暗さになった。
「趣旨には反するけども……安全には代えられない」
そして、森の木々を打ち破って、大量のモンスターが殺到してくる。
その中には、下位のAランクモンスターさえいた。
「ギフトスロット、レギオンデビル……ルアー」
ルアー。
誘惑を意味する技である。
本来この技は、悪魔からより一層の侵食を受ける代わりに、悪魔の力をより強く引き出すことができる。
デメリット付きの強化技と考えれば、それでいいだろう。
しかし基本的には、下位の悪魔の力を引き上げるためであり、上位の悪魔を使う際には決して使用されない技である。
なぜなら、上位の悪魔から侵食をより強く受ければ、それだけで死んでしまうからだ。
ブゥだからこそ、セキトを使う際にも使用できる。
だが今のブゥに宿るすべての悪魔から侵食を受ければ、巨大なモンスターさえ汚染されてしまうだろう。
皮膚や体毛だけではなく、筋肉や骨格、臓腑や脳髄までも汚されてしまうのだ。
「うゎっ……」
自分が呼んだモンスターが、自分の放った技によって、一瞬で腐食して大量に死んでいく。
その光景をみて、その音を聞いて、匂いを感じて、ブゥは慄いた。
(僕が負荷を受けないからいいとして……もしも受けていたら、一瞬でこうなるの?! 嫌だなあ)
悪性汚染。
わかりやすく言えば、体を構成する細胞にデバフがかかったようなもの。
それは生物の持つ、生きるための機能が内側から破壊されるということ。
物理的な破壊さえ伴う病死と言えば、状況の説明もたやすいはずだった。
「こ、こわ……」
もはや、沼地だった。
大量のモンスターが腐敗して積み重なったことによって、汚泥の重なった沼が出来上がっていた。
「臭いし気持ち悪いし、吐きそうだし……別の技にすればよかった……」
あまりにも不衛生な、生物の死骸。
それを見てブゥは始末に悩んでいたが、それは一瞬で解決する。
「……うん?」
一瞬で、腐敗した死骸が吸い上げられていった。
ふと見上げれば、そこには巨大な山がそびえている。
「……うん」
哺乳類系最強種、ベヒモス。
カームオーシャンさえ呑み込むその食欲は、あっさりと汚らしいものを平らげていた。
「なんで僕はこれに気付かないんだろうなあ……」
ブゥは強いが強いだけで、別に警戒に秀でているわけではない。
だからこそ様々なことが雑で、それを補うためにネゴロという斥候役が招かれたのだ。
そういう意味では、まったく成長していないと言える。
「まあ、いいんだけどさ」
今までベヒモスは、常にシャインによって拘束されていた。
それでも驚異的な防御力を発揮し、容易に倒すことはできなかった。
しかし、今はどうか。
シャインが不在な今、このAランク上位モンスターは余りにも自由である。
「ギフトスロット、レギオンデビル」
それを迎え撃つのは、あくまでもブゥ一人だった。
「アビュース」
たった一つの、小さな鉄球。
それに込められているのは、膨大な悪魔の力。
「……やるしかないか」
ブゥは背中の翼を広げ、大空へと舞い上がる。