実るほど頭が下がる稲穂かな
特に面白みがあることにはならなかったが、何の面白みも必要なかった。
狐太郎がカセイを守っているのなら面白みが必要ないように、パン屋に面白いも面白くないもない。
彼が来てくれたおかげで、狐太郎はとても美味しいパンを食べられるようになった。
狐太郎はたくさんのパンを知っている割に、さほど違いが判らないので、故郷のパンとの違いも判らなかったが、逆に言えば同じぐらい美味しいパンを食べているということだった。
もちろん用意できない種類の食材も多いので、まったく同じものは望めない。しかしそれでも食事のストレスは大幅に低減されていた。
そんな、ある日のことである。
「狐さん、ちょいといいですかね?」
仲良くなったホーチョーから、狐太郎は愚痴を聞くことになった。
普段のホーチョーは公私を分けており、狐太郎と仕事以外のことは話さなかった。
その彼が話をふってきたので、その時点で狐太郎は概ねを察していた。
狐太郎の屋敷の中にある、ホーチョーの私室。
多くの資料が並んでいる中で、彼は小さな机の上に水の入った杯を二つ並べた。
「……狐さん。実はあっしは、ちょいと前に物珍しさで、アンタたちの倒したモンスターを見に行きましてね」
「……見ないほうがいいですよ」
「いえいえ、まったくその通りで。怖いの怖くないのっていったらねえ。あんなバケモン、どうやったらあんな……いや、言わねえほうがいいな。狐さんはあっしにかまどを任せてくださってるんだ、それであっしが狐さんのやってることに文句をつける方がどうかしてる」
この森のモンスターは強いとは聞いていたし、それを四体が迎え撃っているとは聞いていた。
しかし実物、その結果を見れば、おぞましさを感じても不思議ではない。
だがそんなことよりも、あんな化物がカセイの近くにいることの方が驚きだった。
「……情けないことですがね、あっしはこの国の生まれなんですが、王都からそうそう出たことはねえんです。とはいえ花のカセイには何度も来た。それに子供のころは、カセイの近くにある『こわい森』の話を聞かされたもんですが……こんなに近いと知ったのは、ここに来たときなんでさあ」
「まあそんなものですよ。興味があることには詳しくなりますけど、興味がなかったら詳しくなりようがない。誰もが知っている常識って、知っているだけにとどまるもんですからね」
結局のところ、人間は自分の行動範囲を『近く』だと認識する。
一本道を横にずれるだけで着くような場所でも、そうだと知らなければ遠くにあるんだろうと思ってしまう。
実際に行けば近くだと思っても、興味がなければ遠いところのままだ。
カセイの近くに怖い魔境があると知っていても、馬車で一日半だとは普通思わないだろう。
少なくとも狐太郎は、こんな物騒な森の近くに大都市があることを信じられない。
「狐さんがいなくちゃ、この基地は持たねえって大公閣下から聞きましたぜ」
「正確には、俺のモンスターがですがね」
「いえいえ、何をおっしゃる! あんな化物の棲んでる地獄に、狐さんが足を踏み入れるから、あのお嬢さんがたも奮起なさってるんでしょうよ!」
よく物語に、勘違いというものがある。
周囲と当事者に、著しい認識の違いがあるものだ。
狐太郎はこの世界の基準だと異常に弱く、そして狐太郎に従っている四体の魔王は、この世界の基準でも相当な強さを誇っている。
明らかにおかしい主従関係なのだが、実際にここで働いているところを見れば、勘違いなく理解できる。
狐太郎が死地に行くから、彼女たちもそれに従っているのだと。実際そうだから困っているのだが。
「狐さんは立派なお人だ。あっしもそんな人に雇われてるなんて鼻がたけえ……」
水を、一杯煽った。
そして、置く。
「狐さん。あんたがいないと、カセイは一年だって持たねえ、明日滅びてもおかしくねえそうで」
「ええ、そうです」
「……あっしがいなくなった後、あっしの働いていたパン屋がつぶれたそうで」
狐太郎もまた、一杯煽った。
そして、置く。
「そりゃそうでしょうね」
一点の疑いもなかった。
国一番のパン屋がつぶれたというのに、なんの驚きもなかった。
世の物語には『超重要な人物を無能だと勘違いして追い出したら、その組織が崩壊した』というエピソードがたくさんある。
中には無理やりすぎる設定や展開によって、整合性が感じられないこともしばしばだ。
だが今回の件では、あまりにも露骨である。
パン屋からパン職人がいなくなったら、そりゃあ潰れる。
もちろん職人が一人抜けたぐらいではつぶれないだろうが、職人頭が抜けたら大損害である。
ホーチョー本人に問題があって、周りの職人が有能なら違っただろうが、少なくとも狐太郎にはそう思えなかった。
おそらく彼が抜けたことで、他の職人たちも抜けていったのだろう。
「言っては悪いですが、出るときには潰れるだろうなと思ったのでは?」
「もちろんでさあ。不満に思ってたのがあっしだけならまだしも、他の職人連中もむかついてたんでねえ……手前味噌ですが、あっしのところの職人たちの腕は確かだ。店を抜けても何とかなると思って抜けたんでしょうねえ」
国一番のパン屋も、パン職人が全員抜けては味を維持できるわけもない。
それどころか、まずパンを売れないだろう。これで潰れなかったら、逆にパン屋ではあるまい。
「困ったのはオーナーだけだと」
「いえいえ。店をやめるときに覚悟していましたが……いざ潰れちまうと、緩くねえ……」
屈強な体をしているパン職人は、せつなそうな顔をしていた。
おそらく彼には、そのパン屋の看板に思い入れがあったのだろう。
「狐さん。言っちゃあ悪いですがね、王都でお貴族様相手に取引しているパン屋ってのは、どこもすげえ旨いんですわ。その中でウチの店は一歩前に出てましたが、抜きつ抜かれつ……いつ一番の座を奪われるのか、気が気じゃなかった」
「つまり……その、『メギュロ』がつぶれても、困ったのは本当にオーナーさんだけだと」
「ええ。惜しまれつつも、助けてはもらえなかったようで」
パン職人が全員抜けたパン屋など、助けようも救いようもなかっただろう。
それこそ、惜しみつつも諦めるしかなかったはずだ。そして、別のパン屋に注文するようになったのであろう。
「……わかってなかったんでしょうねえ、坊ちゃんは」
おそらくオーナーを引き継いだのは、先代の親戚、というか子供だったのだろう。
だからこそ勘違いしていたのだ。自分の店が『国内一番で固定されている』と。
自分が継いだ店は、何があっても落ちぶれることはない。
世界が明日も続くように、この店も未来永劫続くのだと。苦境に陥ることがあっても、王都の人間は大騒ぎして、自分を助けてくれるはずだと。大王陛下に納品しているのだから、大王様が助けてくれるのだと。
「あっしらだって、旨いパンを焼いていれば客が絶えないなんて、信じちゃあいない。そろばんの弾き方は知らなくったって、このままじゃあ潰れちまうって危機感を持てます。具体的に言えば……作ったのに捨てるパンが増えるときですね」
「……」
「先代のオーナーもそうでしたが、そういう時はみんなで知恵を出し合うもんです。なんでパンが売れなくなったのかって、必死で分析したもんです」
村に一件しかないようなパン屋ならまだしも、王都にいくらでもあるパン屋の内一件なら、いつ潰れても不思議ではない。
不思議ではないのならなにか理由がある筈だと、必死で分析していたはずである。
「味に飽きられただとか、よそにもっと美味くて安いパン屋ができたとかなら、あっしらが頑張ることでしょう。ですがね、王都全体の景気が悪くなってパンが売れないだの、不作気味で材料の値段が高騰しているだの、どうしようもない理由で売れなくなることだってあるんです」
分析したってどうしようもない、そんな結論に達したこともあったようだ。
確かにただのパン屋なのだから、国内の情勢を変えることはできない。
どんだけ温かいパンを作れても、客の懐を温かくすることはできないのだ。
「そういう理由なら、あっしらだって危機感を持ちます。いろいろと今までにない試みをすることだってあるでしょう。合理やら効率やらを追求することだって、やぶさかじゃあない。少なくともいきなり首を切るよりは、よっぽど温情だ」
「でも経営が順調な時に大改革をするのなら、協力的にはなれなかったと」
「ええ、おっしゃる通りで。変えるってことが、今までより悪くなることにつながることだってある。儲かっている時に、そのもうけを貯めておいて、嫌な時に使えるようにしておくってのもある。なんでも変えればいいってもんじゃない」
変えないことが、必ずしもいい結果につながるわけではない。
しかし同様に変えることが、常にいい結果につながるわけでもない。
「あっしらはいつものように、ちゃんと話をしようとした。オーナーになって舞い上がって、いろいろしたいってのはわかる。でも順調な時にいきなり大舵をきるのはよくねえ、ちょっとずつ試しながら変えていくのはどうですかい、と言ってみましたよ」
「……聞いてくれなかったんですね」
「なお悪い、言わせてもくれなかった」
両者、黙り込んだ。
二人はしばし、痛ましい胸の内を分かち合った。
「黙って俺に従っていろ、ですか」
「話にならねえ、やってられねえ」
結果を出せば、通じると思ったのだろう。
いい方向に向かえば、理解を得られると思ったのだろう。
自分の経営手腕に畏怖し感嘆し、尊敬してくれると思ったのだろう。
まさかやる前から仕事を投げ出して、全員辞めるとは思わなかったのだろう。
「職場に不満があれば、やめたくなるのが人情ですよね」
「ええ、おっしゃる通りで。あっしがここに来たのも、狐さんの不満を解消するためですしねえ」
大公は、いろいろと気を配っている。
もちろん狐太郎だけではなく、一灯隊にもだ。
彼らだって立派な討伐隊である。
一灯隊が我慢できずに討伐隊を抜ければ、狐太郎の負担は大幅に増す。
それを回避するために、衝突を未然に避ける努力を大いにしている。
「大公様は、立派なお人ですよ」
「ええ、まったくです」
気を配っていることが伝わるだけでも、気は楽になる。
狐太郎とホーチョーは、当たり前のことをしてくれる大公の偉大さに安堵していた。
「狐さん。あっしはお好みのパンを焼きますし、一灯隊の兄ちゃんが怒らねえように配慮もいたしやす。あっしにはそれしかできやせんが……狐さんは……大公閣下のことを、よろしくお願いします」
「ええ……頑張りますよ」
おそらくはオーナーが求めていたものを、大公はもっていた。
下の人間からの、偽りない敬意と献身。
それは命令やら結果やらではなく……同じように偽りない敬意と献身によるものだった。
※
さて、時系列はかなり飛ぶ。
王女ダッキとの婚約が内定して、彼女が足しげく通うようになった時期のことであった。
「おおっほっほっほほ! 妾が美味しいお料理を持ってきてあげたわよ~~! 王族の大人のお味、体験させてあげるわ!」
ダッキがそう言って持ってきたのは、物凄く固そうな焼き菓子であった。
指でつまんだだけで固さが分かる、食べ物とは思えない物体であった。
まあ狐太郎の故郷にも、鰹節やら『めちゃくちゃ硬い氷菓子』もあったのだが、それはそれである。
少なくともこの焼き菓子は、食べられる硬さではなかった。
「あの……ダッキ様、それダッキ様も噛めませんよね?」
「それって、大王様や大公様がお好きですけども、ご婦人にはちょっと……」
「大人の味って言うか、珍味ですぜ」
「そうなの?! え、でも、その……狐太郎はAランクハンターだし、噛めるんじゃないの?」
「無理です」
キンカクたちの助け舟によって、なんとか歯が立たない食べ物を無駄にせずに済んだ狐太郎。
どうやらダッキも噛めない硬さの、固いことが売りの料理は食べずに済んだようだった。
「……あの、よろしかったらどうぞ」
「へい、どうも」
そして、実際に食べてもらってみた。
キンカクギンカクドッカクの三人は、見るからに豪傑であり咬筋力も高そうである。
だからこそ彼らは、その焼き菓子を食べていた。
ただ、食べ物を食べている音に聞こえなかった。
プレス機で金属に圧力をかけているような、とんでもない音がしていた。
サメが金属板に歯形を残しているような、そんな音であった。
(工事現場みたいだ……)
割と美味しそうに食べているので、不味くはないのだろう、たぶん。
多分それなりに手間もかかっていて、お高いのだろう、たぶん。
よって、とにかく珍しくて驚かせるような、そんなものを特に考えずチョイスして持ってきただけだと思われる。
「き、狐太郎も、これぐらい食べられれればいいのに!」
「無理言わないでくださいよ、王女様。私は顎の力が弱くて歯も小さいので、特別な料理じゃないと食べられないぐらいなんです」
「……へえ、そうなの? どんなの?」
「食べてみますか?」
硬くて食べられないということはあっても、柔らかすぎて食べられないということはない。
狐太郎はちょっと頼んで、ホーチョーに沢山の種類のパンを持ってきてもらった。
しかしまあ、顎の力が弱い上に、そもそも柔らかいパンが好きな狐太郎のためのパンが、ダッキの口に合うわけもない。
並べられたたくさんのパンを、期待しつつ食べてみたダッキは、そのたびに顔をしかめていく。
「なに、このすっかすかのパンは」
「いや、私はこれぐらいが好みでして」
「貧乏な舌ね! 世の中にはもっとおいしいパンがたくさんあるのに! これを作った奴を呼びなさい、説教してあげるわ!」
大王の娘であるダッキは、自慢げに自分のグルメを明かす。
「ダッキが一番おいしいと思ったパンは、もう潰れちゃった幻のパン屋さんね! 職人さんが全員辞めちゃったから潰れちゃったんだけど、本当に美味しいパンだったんだから!」
(……あっ)
彼女がこれから何を言うのか、狐太郎は察する。
「やっぱりパンは『メギュロ』に限るのよ!」
次回から新章です




