学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し
ドルフィン学園。
学園と名がついているだけに初等部や高等部を含めているが、各学年に一つのクラスしかないため、必然的に生徒は少ない。
というよりも生徒が少ないので、各学年に一つのクラスしかない、ということだろう。
このドルフィン学園は公爵に次ぐ爵位、侯爵家の子息が通う学園であり、彼らへ指導を行う教員や理事たちもまた侯爵家の出身である。
もちろん侯爵家の子供であれば全員が通うというわけではないが、それでも多くの子供はここに通っている。
よってこの学園を卒業すれば、良くも悪くも同じ爵位で同じ年代の貴族と、幼馴染のような関係になるのだ。
各地に散らばっている侯爵家の人間同士が触れ合う機会、という点では意義がある。
だが当然ながら、学校であるがゆえに学業も課されている。
それは必ずしも面白いわけではないが、すべてが必ず求められる常識でもあった。
「皆さんもご存知の通り……およそ一月後に修学旅行があります。その旅行先の一つとしてカセイに向かいますが……大公閣下と王女殿下、そしてAランクハンター様のご厚意によって、玉手箱の見学を許可していただけました」
中等部の教室の中で、生真面目な顔をしている教師が、やはり生真面目な口調で説明をする。
だがその内容は、面白くもおかしい、子供心をくすぐるものだった。
流石に大声を上げて喜ぶ生徒はいないが、それでも体を震わせて興奮する生徒が多い。
無理もない話であろう。一時期は無料で一般公開されていたが、この学校で生活をしている彼らは当然赴くことができなかった。
一度見た者はその美しさに心を奪われたというし、見たことがない者はその者へしきりに土産話を求めたという。
クラウドラインがもたらしたという玉手箱は、この地において失われた伝説の秘宝。
何かの物語や伝説があれば、必ず登場すると言っていいメジャーな品である。
それの実物を、時間に追われることなく鑑賞できる。他の学年の生徒から嫉妬されかねない、とんでもない幸運な話だった。
「現地に赴いた際には、大公閣下へ失礼のないようにしてください。場合によっては、この学園の者の首が飛びますので」
真剣な口調から出る、冗談めいた隠喩。
それを聞いて一部の生徒は笑いを漏らした。
この場合の『首が飛ぶ』というのは、解雇されるという意味である。
物理的な意味で首が飛ぶ、とは誰も思っていなかった。
大公閣下の前で生徒が粗相をすれば、教師に責任が及ぶのは当たり前。
それを大げさに言うので、思わず笑いが漏れたのだ。
「……ふぅ」
だが教師は、比喩のつもりで口にしたわけではない。
本当に物理的な意味で首が飛ぶのだと、彼は知っているのだ。
「では皆さん、法律の話をしましょう。皆がそうとは限りませんが、この学園を卒業すれば家督を継ぎ、場合によっては国政に参加することもあります。もちろん高等部に行けば自ずと習うことになりますが、今習っても損はありません」
警告が必要である。
そう判断した教師は、淡々と法例を語り始めた。
「皆さんが窺うカセイの近くには、シュバルツバルトという魔境があります。そこは国内屈指の危険地帯であり、Aランクの危険なモンスターが大量に生息しており、Aランクハンターが常駐することで封じ込めています」
カセイを知らない貴族など、そうはいない。
国内でも王都に次ぐ第二の都市であり、物流の拠点である。
だがその近くに危険地帯がある、ということを意識している貴族は少ない。
常に封じ込めが成功しているからこそ、危機意識は低いのだ。
「如何にAランクハンターといえども、その負担は計り知れません。なにせ常駐です、別の地へ気軽に赴くこともできない。だからこそ我が国は古くから、その地で務めるAランクハンターへ特別な報酬を与えてきました」
確率こそ低いが、この場の面々にとっても他人事ではない。
この国の貴族は、皆当事者なのだ。
「貴族の娘と結婚する権利です」
生徒の中で、知っている者は少ない。
隠しているわけではないが、あえて子供に教えるようなことではないからだ。
男子たちでさえ驚き、女子たちは口を押さえる。
「勤続年数に応じて結婚が許される爵位も変わってきますが、王族とさえも結婚が可能です。というより、今の王族は皆さまがAランクハンターの子孫にあたります」
Aランクハンターと言えば、それこそ最強の男である。
一国を代表する大将軍に匹敵する実力を持ち、その拳一つで強大なモンスターをねじ伏せる化物。
それに対して、恐怖や嫌悪感を抱く女子は多い。
「もちろん貴族に、断る権利はありません。それどころか、結婚を渋った場合、そのハンターには免罪符が与えられます。つまり……その貴族の治める領地において、あらゆる悪行蛮行が許可されます」
言葉の異様さに、誰もが困惑する。
この場の生徒は貴族だからこそ、逆に貴族の権限がそこまで強くないことは知っている。
仮に領民へ悪さをすれば、それこそ親や世話係の鉄拳が振り下ろされるのだ。
にもかかわらず、Aランクハンターへ免罪符が発行されるなど、穏やかどころの話ではなかった。
そしてその話を聞いて、数人の生徒が思い出す。
二年ほど前。ハクチュウ伯爵家の領地が、Aランクハンターによって徹底破壊されたという大事件を。
「この免罪符は、一年前……いえ、二年ほど前に使われています。カセイを治める大公ジューガー閣下が、Aランクハンターアッカ様に同行し、ハクチュウ伯爵家の娘を嫁入りさせるように要求しました。ハクチュウ伯爵はこれに即答できず、アッカ様はそれを理由に領地を徹底して粉砕しました」
人死には出なかったが、実質的には大量殺人のような物だった。
その領民や伯爵家は、財産のほとんどを失ってしまったのだから。
「あの、先生! 大王陛下は、何もおっしゃらなかったんですか?」
一人の生徒が挙手し、質問をする。
いくら許可されているとはいえ、自国の領土を粉砕するなどありえないことだ。
だが大公に文句を言うとなると、侯爵家では不可能。公爵家でも、王族でも無理だろう。
それこそ大王だけである。
「もちろん、お怒りになりました。大王陛下はその報せを受けると、自ら現地に赴き……」
大王は激怒した。
大王には政治が分かる。
だからこそ、許せないことがある。
「領民たちへは新しく暮らす土地を約束し、自ら謝罪なさったそうです。そのうえで、伯爵家には罰を与えました。爵位を返上させ、貴族としての地位を奪ったのです」
大王が怒った相手、それはハクチュウ伯爵だった。
もはや伯爵でもなんでもないが、なんとも残酷なことである。
「その後に、ハクチュウ伯爵の長女と結婚の予定があった伯爵家の長男が、大王様へ抗議の文章をしたためて直訴なさいましたが、大王様はその長男にも謹慎という罰を与えました」
大王でさえも、Aランクハンターに従っている。
そう解釈した侯爵家の子供たちは、思わず絶句した。
「……さて皆さん、これは合法的な行為であり、今後も繰り返されうることです。皆さんは自分の娘を全員差し出せと言われるかもしれませんし、それを断ればAランクハンターによって領地は壊滅させられ、そのAランクハンターは誰からも罰を受けることがありません」
誰もが当事者意識を持つべきである。
教師はあえて、これが繰り返される可能性を提示した。
「皆さんには、国政に関わる可能性があります。あるいは皆さんが、この法律を廃止させられるかもしれません。それではこの場で、議決の真似事をしましょう」
たいていの国民は、法律に不満があっても文句を言うことしかできない。
しかし侯爵家の人間であれば、法律そのものを変えることができる。
その可能性は、無いとは言えなかった。
「一、ハンターへの委託をやめ正規軍を配備する。二、カセイを危険地帯から遠い場所に作り直し、防衛の必要性をなくす。三、現状を維持する。この三つの内、どれかを選んで挙手なさってください」
女子たちは、自分が粗野で野卑な大男と結婚しなければならない、という可能性に震えた。
領地や家族のために、自分の身を差し出す可能性に震えたのだ。
そんな女子たちを見て、男子たちも義憤に燃える。
自分の娘と言わず、自分の婚約者さえ奪われうる。
そんな法律は、変えるべきだった。
「では正規軍の配備に賛成なさる方は、挙手をどうぞ」
生徒たちのほとんど全員が、高く手を挙げていた。
ハンターに自分や大切な人を差し出すぐらいなら、ちゃんと正規軍を送り込むべき。
そう考えるのは、なるほど自然である。
「なるほど、賛成多数のようですね」
もちろん教師にとって、この状況は想定内である。
この問題が、そんなに簡単であるわけがない。
もしもそうなら、とっくに解決している。
「では皆さんには、自分の息子や自分自身が、シュバルツバルトのモンスターに食われる覚悟があるということですね?」
思わぬ言葉に、生徒たちはひるんだ。
「正規軍を派遣するのですから、当然皆さんかそのご兄弟、或いは将来生まれるであろう息子さん方もそこで兵役につくということです」
貴族の娘を差し出す、ということは他人事ではない。
だが正規軍を派遣する、ということもまた他人事ではない。
カセイを守る正規軍なのだから、当然貴族出身の軍人も多く参加しなければならない。
「それだけではなく、大将軍一人を常駐させなければなりません。必死になって戦場を駆け抜け、多くの武勲を挙げてようやく到達できる地位。軍の頂点へ至ったにもかかわらず、モンスターを封じ込めるために数年間常駐しなければならないなど……果たして受け入れていただけるでしょうか」
男子も女子も、難しい顔をして手を下ろす。
自分の娘をハンターに差し出すのも嫌だが、自分や自分の子供をモンスターの餌にすることもためらわれた。
さらに言えば、大将軍という夢の座にたどり着いたにもかかわらず、そんな地味でキツイ仕事に就くことなど想像したくもないことだった。
Aランクハンターに対しては、貴族の娘と結婚する権利を与えることで解決できた。
だが大将軍に対しては、どんな報酬を与えればいいのだろうか。それこそ想像できないことである。
「では皆さん、二の移転に同意しますか? どれだけ費用が発生するかわかりませんし、どれだけ反対が出るのかわかりませんし、移動した先で同じような収益が見込めるか保証できませんし、もしもの時にだれが責任を取るのかも分かりませんが、それでもいいのですね?」
一番穏当に思える二番の選択肢も、決を採る前から否定材料を並べられてしまった。
なんとも最悪なことに、これは確実に発生するリスクである。
なにせカセイは大都市であり、国家の大動脈だ。
必然的に、そこの商人は大金持ちで、各貴族に対して金を貸していることが多い。
もちろん一枚岩ではないだろうが、この状況では一致団結するに違いない。
「挙手はありませんか。では三の、現状維持でも構わないですね?」
生徒たちは、消極的な賛成をする。
なぜこの無茶苦茶な悪法が変わらないままでいるのか、その理由を理解したのだ。
数年に一度、十年に一度、どこかの家が損をする。
その程度で済むのなら、まだましだという判断だった。
しかしながら、女子たちの顔は曇っている。
男子たちを恨みがましく見つめて、『俺が守ってやります』と言い出さないことに不満を示していた。
もちろん女子たちの視線に男子も気付いている。つまり自分が死ぬのが怖いので、女子を差し出しているようなものだからだ。
「皆さんの気持ちは、よくわかりました。仕方がないことですが、まだ自分の一票の重さを理解していないようですね」
わかり切っていた結論を前に、教師はわざとらしく嘆息する。
「よろしいですか、皆さん。貴族には参政権があり、国家の方針を変える権利があります。もちろん一票ではささやかですが、膨大な票は一票の集まりでしかない。皆さんの一票が国家の存亡を分けると言っても過言ではない」
この場の生徒たちは、当事者意識を持った。
もしも自分が、自分の家族が、ハンターの餌食になったりモンスターの餌食になれば。
そう思うことは、とても大切である。
だがしかし、それだけでは不足もいいところだ。
「あえて申し上げますが……皆さんは『自分がやりたい』か『自分がやりたくないか』で法を決めてはいけません」
今回の件は、特殊なことに『貴族や王族が直接損をする』という法律である。
貴族だろうが平民だろうが王族だろうが、家族を強大なハンターに差し出す、というのは共通して理解できる『嫌なこと』である。
カセイを移転させる案に関しても、貴族の懐が多少痛むどころではなく、家がつぶれるほどだと分かってしまう。
だからこそ当事者意識が働いているが、他の法律はこうもいかないのだ。
「必要かどうかで、判断してください」
自分が嫌だと思うことを、他人に押し付けてはいけない。
それは一種の道徳だが、自分が嫌だと思う仕事をなくせ、という解釈は許されない。
自分が率先してやれ、と受け止めるべきなのだ。
「よろしいですか、皆さん。『自分がやりたいかどうか』という考え方は、極論をすれば『やりたくないことはしなくていい』ということになってしまうのです。それでは国家は立ちゆきません。必要だと判断したなら、嫌なことでもやらなければならないのです。貴方がたがやりたくない仕事でも、誰かにやってもらわないといけません」
もしも便所掃除が嫌だからと言って、誰も便所掃除をしなくなったらどうなるか。
もしも『自分の息子に便所掃除をさせたくないので、他の人にもさせない』という話になったらどう思うか。
嫌だろうが何だろうが、やらなければならないことは確実にあるのだ。
「誰にどれだけ頑張ってもらうか、その対価はどうするのか。それを議論することが、皆さんの仕事になるでしょう。そして多数決に参加する以上は、その決定が意に沿わぬものであっても従わないといけません」
教師は、最初の段階へ話を戻す。
「法律は変えてもいいのです、議論は積極的にされるべきです。場合によっては大公閣下や大王陛下と対立することもあるでしょう、それ自体は許されています。もしも一度法が決まっても、然るべき手順をふめば再度議論することも許されています」
なぜ大王や大公が怒ったのか、その根源的な理由を話す。
「自分が嫌な思いをする段階になって、大公閣下や大王陛下に文句を言う。それがいけないのです。法が定められる段階では声を挙げず、法が施行される段階で反対してはいけません、逆なのです」
嫌かどうかではなく、必要かどうかで法を定め、それに従う。
それこそが貴族や王族のあるべき姿だった。
「大王様や大公様に逆らうのであれば、法を決める段階で逆らうべきなのです」
と、説明をし終えたところで、教師は一息ついた。
これだけ説明をしても、どうせ明日には忘れてしまう。
頭の端にでも残っていてくれればいい、そういう諦めも頭にあった。
現に一人の生徒は、自分の話を聞いているのかさえ怪しかった。
「とりあえず、ここまでとしましょう」
生徒に押し付け過ぎないこともまた、教師のあるべき姿であった。
※
「ちょっと男子。ここは俺が何とかします、ぐらい言えないの?」
「バカいえ、大将軍様が必要な土地に俺が行って何になる!」
「それに俺が大将軍になったんなら、モンスターの相手なんかしたくねえさ。モンスターのことはハンターに任せるのが一番だろう」
「どっちかって言えば、他の報酬で何とかしてもらうしかないんじゃないか?」
教師がいったん下がったので、とりあえず男子も女子も話し合いである。
今の議題はこの場の面々にとって、やはり当事者意識の強い問題だった。
先ほど教師は『自分がやりたいかどうかで法律を決めるな』と言っていたが『自分がやりたくないので別の方法を考える』というのはアリだった。
それはそれで、立派な動機である。もっといい方法が見つかれば、今までの手法は必要ではなくなる。それこそ人間の進歩であろう。
「でもさ~、Aランクハンターってお金持ちなんでしょう? だったらお金とかお宝じゃ働いてくれないでしょう」
「じゃあAランクハンターのお給料を下げて、お金持ちじゃなくするとか?」
「おいおい、それだったらよその国に行くだろ。絶対そこで仕事しないだろ」
「むぅ……Aランクハンターはどんなモンスターでも倒せるんだから、無料で働いてくれればいいのに」
「それ大将軍に言えるか? Aランクハンターは大将軍並みに強いんだぞ、その人に無料で働けって誰が言うんだよ」
「アンタが言えばいいじゃない」
「ふざけんな!」
「じゃあ大王様とか大公様が言うとか?」
「そんなけち臭いこと言ったら、沽券に関わるんじゃないか」
「じゃあ爵位をあげるとか」
「それ、今と変わらないだろ。公爵様になれたのに公爵家の嫁さんが来なかったら、俺だって暴れるぞ」
「これだから男子って……」
「無料でモンスターと戦えって言う女子の方が無茶だろ!」
「おいおい、そんなこと言ったの一人だろ。女子全体を敵に回すな」
先人の決めた法にとらわれず、新しいやり方を議論する。
それこそ先ほど教師が求めていたことだった。
とはいえ、それが全ての生徒にいきわたっているわけではないのだが。
「……なあバブル、お前はどう思う?」
一人椅子に座ったままの女子へ、男子が歩み寄る。
「もしかしたら、お前もハンターの嫁にされちまうかもな? なんっつって……わざわざお前を選ぶとかないだろ、絶対! 選り取り見取りなのに、選びに選んでお前ってのはない! うん、ない!」
結構な悪口を言いながらも、その表情は引きつっていた。
ちらちらと、彼女の反応をうかがっている。
「お、俺だって、俺だって、お前が婚約者ってだけで……親が決めた結婚相手ってだけで、別に好きとかそんなんじゃねえし? 勘違いするなよ? 別に心配をしているとかじゃないんだからな?」
顔を赤くしたまま、ずっとしゃべり続ける。
「でもまあ、奇特なハンターなら、お前がいいとかいうかもな……どうする、その時は嫁に行くか?」
バブルと呼ばれた女子は、一向に返事をしない。
「お、俺も貴族で、侯爵だ。大王様の命令には逆らえない! お前を差し出せって言われたら……差し出しちまうかもな!」
しかし、男子には熱が入っている。
「でも、お前がどうしてもって言うのなら……その時は、ほら……お前を連れて逃げてやってもいいんだぞ? お前がどうしてもっていうのなら、仕方ないなあって……」
「おい、キコリ。バブルは話聞いてないぞ」
「え?」
バブルは授業中から、ずっと上の空だった。
教師が最初の最初に伝えてくれたことを、ずっと脳内で反響させていた。
「玉手箱か~~……」
幼いころからずっと憧れていた、夢の詰まった宝箱。
それを直接目にできる機会を得た彼女は、まさに目を輝かせていた。
「玉手箱……うふふふ……」
夢見る侯爵令嬢、バブル・マーメイド。
失われたはずの宝を目にする機会を得た彼女は、夢見心地に浸っていた。




