色の世の中、苦の世界
暗殺者、あるいはスパイ、もしくは裏の仕事人。
それらに対して、表の人間は無駄に夢を見る。
しかし実際には、そんないいものではない。
少なくともネゴロ一族は、夢のある豊かな暮らしをしていたわけではない。
高額の報酬を受け取っていたわけではない。
はっきり言って、小銭で雇われていた。
仕事の依頼方法が特殊で、その内容を一々調べるなんてこともない。
頼まれればどんな仕事でも受けざるを得なかった、金がなかったから。
全員が仕事に誇りを持っていて、大真面目に鍛錬していたわけでもない。
大多数の者は他の生き方がないから、嫌々それをしていただけだった。
奴隷だとか、家畜だとか。
亜人の中には、そういう身分になっている者もいる。
もちろん決して幸福ではないだろうが、それでも『所有者』にとっては資産である。
奴隷だろうが家畜だろうが、必要な食事を与えなければならない。そうでないと死んでしまうし、所有者にとって無駄に資産を減らすことになってしまうからだ。
加えていえば、外部から守られもする。
仮に金持ちの家の馬に石を投げればどうなるだろうか、その者は相応の罰を受けるだろう。
同じように奴隷の身分であっても、どこの誰かの所有物だからこそ、外部から攻撃を受けることは避けられる。
もちろん、幸福ではない。
人権と呼べるものを与えられていない彼らへ『貴方達は幸福ですか』と聞けば『そんなわけがない』と言うだろう。
これは、下には下がいるという話だった。
ネゴロ一族は、誰にも飼われていなかった。
戸籍などもなく、ある意味では自由だった。
だがそれによって、不幸を回避できたことはない。
自由は、何も与えてくれない。
食事も、住処も、衣服も、尊厳も。
何にもとらわれていないということは、誰も与えてくれないし、守ってくれないということ。
結局自由を楽しめるのは、懸絶した強者だけ。
弱者で自由というのは、生きることさえできないということ。
幸福の定義で悩むことができるものは、幸福である。
彼らへ『幸福を定義しろ』と言えば、迷わず返ってくるだろう。
家族全員が、飢えず乾かないこと。それ以外に幸福などあるのかと、真剣に考えるだろう。
そして、彼らに好機が訪れた。
大公の使いが現れ、一族の長を招集したのである。
最初は質の悪い詐欺かと思った、はっきり言って疑っていた。
だが実際にカセイの城の中へ案内され、さらに壮健な警備兵に監視される中で、如何にも高価な服を着ている男と面会が叶えば、詐欺だと思う要素がない。
たかがネゴロ一族を騙すことに、ここまでの労力を割く意味がないからだ。
「私は、優秀な斥候を欲している。危険な任務であるため、死者が多く出るだろう。だからこそ、一人二人ではなく……多くの斥候を育てるノウハウのある組織を、一族をまとめて雇用したいと思っている」
平伏して怯えるネゴロ一族の長は、心臓が爆発しかけていた。
優秀で命を惜しまない斥候を、大公が大量に欲している。
そして自分の仕事を知っているからこそ、老いた彼は興奮のあまり全身から汗を噴き出させていた。
「私のために死ねる斥候を用意できるか、それも一人二人ではなく何十人と。それができるのなら……お前たちを、私の家来にしてやろう」
かろうじて生きてきた一族だった、身を寄せ合って生きてきた一族だった、今日のことしか考えられない一族だった。
横柄な権力者の傲慢でも気まぐれでもなんでもよかった、大公に一族ごと飼われるなど、現在の状況を打破するどころの騒ぎではない。
「お、お任せください! 必ずや……必ずや!」
「……言っておくが、これはカセイの存亡がかかった仕事でもある。仕事を受けないのならともかく、もしも失敗をすれば……わかっているな? それでも受けるか」
「お任せください!」
「それはお前の意志か? それとも一族の総意か」
ひれ伏しているこの老いぼれた亜人が、闇に生きて闇に死ぬと言われた、ネゴロ一族の長とは誰も思うまい。
ただの弱り切った老人であり、希望に縋り付く枯れ木にしか見えなかった。
「大公様! もしもその足元に飼っていただけるのであれば! このネゴロ一族、全員死することさえ惜しみませぬ!」
「……その言葉が、嘘ではないことを祈るとしよう」
そこから先のことは、まるで夢のようだった。
戻った長の話を、誰もが信じられなかったが、何もかもがあれよあれよという間に変わっていった。
まず、引っ越しが始まった。
今までは街の外にある掘立小屋で暮らしていた彼らは、住所を与えられた。
彼らが暮らすための新しい住居と田畑が与えられ、さらに戸籍を調べに役人までやってきた。
当の役人たちは『なんで自分がこんな連中と話をしなければならないのか』と嫌そうな顔をしていたが、そんなことはどうでもよかった。
今まで石を投げられても文句が言えなかったネゴロ一族は、正式にこの国の民として認められた。
もしも今彼らに石を投げれば、それは大公の家来に石を投げたということになる。それは、法的に許されないことだった。
加えて、多くの食料と衣服が持ってこられた。
村には元々井戸があったこともあって、安全な食料と水が確保されたのだ。
飢えと渇きは、ここに解決したのである。
もちろん寒さも、雨風も、何もかも解決した。
彼らはようやく、人並みの生活を送れるようになったのである。
彼らは大公に感謝した。そしてこの生活を、何に変えても守らなければならないと、強く思ったのである。
ただの事実として、大公は無償で提供したわけではない。あくまでも先払いの一環として、彼らへ報酬を渡したのである。
その対価を労働で返さなければ、大公はあっさりとそれを引き上げてしまうだろう。
そして、実際に辛い試練が始まった。
ネゴロの腕自慢があっさりと脱落していく、過酷を極める試練だった。
如何にある程度の事前指導があったとはいえ、モンスターから要人を守る訓練が容易であるわけもなく、失敗すれば厳しい指摘が雨あられと飛んできた。
しかし、それに誰も文句を言えなかった。
試練を終えて家に帰れば、お腹を満たしてすやすやと寝ている弟妹や子供がいる。
老いた自分の親たちも『絶対になんとしても頑張りぬいてくれ』と言ってくる。
一族の期待だとか希望だとか、そんな曖昧なものではない。
一族の存亡を背負った働き手たちは懸命に頑張りぬいて……実際に大公を連れての魔境横断を行い、最終的にその技を認められた。
「合格だ。お前たちを、私の友人に紹介する。ネゴロ一族はこれよりその男の護衛となり、耳目となり、影となり、壁となり盾となるのだ。良いな」
任務の地は、シュバルツバルト。
凄腕のハンターでさえ近づくことも恐れる魔境。
そこで働くことを初めて聞かされたネゴロ一族は、ようやく納得した。
そう、納得である。
大公が自らネゴロ一族をここまで厚遇するのだ、それぐらいの理由がなければ筋が通らない。
「お任せください」
今までと同じ仕事をすれば、この生活が守られる。
命がけなど今更であり、臆するほどのことではない。
彼らを捕らえていた貧困は、あらゆる猛獣よりも恐ろしい怪物だったのだ。
過酷な試練に耐えぬいた十人の精鋭、ネゴロ十勇士。
出立の前日、彼らはそろって里を見下ろしていた。己たちが守る、里を眺めていたのだ。もしかしたら、もう二度と戻ってこれないかもしれない場所。
これから己たちは、死を前提とした任務を全うしなければならない。
カセイを守るAランクハンターを、あらゆる脅威から守らなければならない。
死ぬことは仕方がないが、それでも守ることだけはまっとうしなければならない。
一族のことを想えば、己の死など取るに足らなかった。
「ふっ……正直に言えば、優越感さえある。この場に残った十人は、まさに精鋭中の精鋭。能力だけを精査され、評価された本当の精鋭だ。あそこでのんきに過ごしている、偉そうに振舞っている誰よりも、己たちは優れている」
そう言ったのは、誰だったのだろうか。
その傲慢なる言葉を、しかし誰も咎めない。
誰もが少なからず、そう思っていたのかもしれない。
「過酷な任務だ……任期は四年だが、生きてこの土を踏めるとは思えないな」
「ああ……任期が終わるころには、全員死んで、あの里の中の誰かが引き継いでいるだろう」
死地に赴くことを想えば、何を言っても許される。
この場では、弱音も大言も流される。あるいは、未練さえも。
「できることなら、私たちで終わらせたい。犠牲が出ることは仕方がないが……あそこで健やかに暮らしている子供たちを、まっとうに暮らさせたい」
「そうだな……ああ、そうだとも! 俺達が生き残って誰が咎める! 十勇士の名を大公閣下から賜ったのだ! ええい、俺は生きてやるぞ! お前たちもその気概で行け!」
この四年で、すべてが決まる。
気概を持って、乗り切らなければならない。
こうして語り合って成功の確率が上がるなら、それで悪いことなど何もない。
「大体俺はな、気になっている女がいたんだ! 今日はアタックを仕掛けるぞ! なに、絶対に断るまい! 俺は十勇士だからな!」
「おいおい……十勇士の肩書を、女を口説くことに使うのかよ」
「やれやれ、みっともない……」
「おおう?! なにが悪い! 稼ぎのいい亭主なら、嫁さんも大喜びだ!」
夢を語る。
今まではまさに夜の夢だったが、今回は明確な目標だった。
地獄を四年耐える、なんとも明確な目標である。
「そういえばロミオ、お前はどうなんだ? ロザラインが好きなんだろう?」
「なっ?! なんでそれを知っているんだ、ロレンス!」
「あれだけ熱視線を送っていれば、誰でもわかるさ。なあみんな」
うんうん、と頷く一同。
ロレンスが言うように、ロミオはロザラインなる一族の娘に恋を患っていた。
しかしながら今回のこともあって中々告白できず、そのまま出立直前を迎えてしまったのである。
「どうなんだ、ロミオ。ロザラインに告白するなら今だぞ?」
「そうとも、ロミオ。俺たちは四年の任務に就くんだ、今日が最後だと思えば何も怖くないだろう?」
「告白しちまえよ、ロミオ。そのまま夫婦になっちまえ」
「そうだそうだ! このまま死ぬなんて嫌だろう?」
皆がはやし立てるが、顔を赤くしていたロミオはそれを断る。
「いいや、やめておく。俺は自分のために生きるんじゃない……一族のために死ぬんだからな」
彼は、愛おし気に景色を眺めた。
そこにあるのは、金銀財宝に囲まれて、豪遊する暴君の暮らしではない。
今まで彼らが何度も見てきた、しかし手に入れられなかった牧歌の暮らしである。
「恋は目を曇らせる……愛は判断を誤らせる……欲は己を大きくする……夢は視野を狭める。それは皆が知っていることだろう」
彼らは裏の仕事で、多くの破滅を導いてきた。あるいは、その破滅を見てきた。
どれだけ強い戦士でも、どれだけ偉い貴族でも、どれだけ賢い学者でも、どれだけ美しい姫でも。
本当に些細なことで、平民でも陥る恋や愛によって、そのまま身を持ち崩す。
それも、周囲を巻き込んで。
「もしもいざという時……我が身を盾として、かのハンターを守らなければならないとき……もしもロザラインや、生まれるかもしれない命へ未練を感じたら。俺は……身を投げ出せなくなってしまうかもしれない。たとえ生き残っても、その後に大公閣下の怒りが待っているとしても……それでも、生きてさえいればいいと思ってしまうかもしれない。それに、俺は耐えられないんだ」
絶対に失敗できない仕事だからこそ、危険性は下げるべき。
その真面目さに、誰もが失笑しつつ受け入れる。
「でもそれが終わった後なら……この地にまた戻ってきた時なら……恋をしてもいいかもしれない」
ロミオは、決意を表明する。
ただ生き残りたいのではなく、任務の達成を願って。
「皆で、この場所にまたこよう。必ず……どんな姿になってでも、この場所で、この景色を見よう。全員一緒に……ネゴロ十勇士がそろって!」
頷かない者が一人でもいただろうか。
彼らは一族の命運を背負って死地に赴く、まぎれもない勇者であった。
「ああ! 約束だ!」
「全員で! この地に再び!」
「たとえどんな姿になっても!」
「おう!」
翌日、彼らは旅だった。
涙を流しながら送り出す、一族の声援を追い風にして。
※
十日後、彼らは全員無傷で帰還した。
「……」
傷心の住人は、体育座りをして里の光景を眺めていた。
物凄く悲し気に、虚無という闇を纏って。
「……」
ここに、誓いは果たされた。
ここに、約束は達成された。
どんな姿になってでも、必ず全員ここに集まる。
その尊い願いは、達成されたのだった。
もちろん、誰も喜んでいない。
むしろ誓いの存在を脳内から排除しようとしていた。
自分たちは何も約束なんてしていなかった、そういうことにしておきたかった。
「……」
なお、その背中を一族の者は見ている。
申し訳なさそうな顔の大公が『気にしなくていいよ』とわざわざ送ってくれたぐらいである。
おそらく、想像を絶する何かがあったのだろう。
まさかあれだけ頑張って試練を超えて、不退転の覚悟を決めて死地に臨んだのに。
初日で面談前に全員まとめて、まとめられるとは、誰も思い至るまい。
「……俺達って、なんだったんだろう」
すこし誇らしげな大公が『私が手を叩いたら、しゅばっと全員現れるように』というので、Aランクハンターの屋敷に潜んでいた。
その中にいるAランクハンターは確かに話に聞いた弱さであり、どう見ても虚弱な病人だった。
しかしその彼に従っている四体のモンスターは、想像を絶する強大な存在なのだと聞いている。
だがその四体をして、己たちに気付いていない。
大公と話をしている彼ら彼女らを見ている十勇士は、己たちが必要な存在であると、心のどこかで優越感を感じていたのだが……。
そこから先は、よく覚えていなかった。
「……うっ……うっ……!」
その前線基地に、少し前から務めていたという女。
その彼女は基地の外にいた段階で、己たちが潜伏していることを察したという。
それだけでもそうとう間抜けだが、彼女はそのまま十勇士の背後を取り、全員を気絶させながら捕縛した。
彼らには、覚悟があった。
AランクモンスターやBランクモンスターの跋扈する森で、モンスターに食われる覚悟があった。
自分達が強いと思ったことはなかった、もっと強い人間がたくさんいることも知っていた。
潜伏していたところを現地のハンターに発見される覚悟はしていなかったし、自分たちを十人まとめて気絶させられる女がいるとは知らなかった。
大公も驚いていたというか、初めて知ったようだったが。
飼っている大公自身が想像もできない程、前線基地の戦力は厚かったらしい。
専門家にとって辛いのは、己の専門分野で大きく後れを取った時である。
なまじ真面目に努力して、なまじ権力者から太鼓判を押されたからこそ、喪失した自信の大きさは計り知れない。
ネゴロ十勇士とは何だったのか。
多分推薦した大公も『ネゴロ十勇士ってなんだったのか……』と思っているに違いない。
ガイセイ曰く、負けた人が屈辱にまみれるからこそ、勝った時嬉しいというが……。
果たして、誰が嬉しかったのだろうか。
『ごめんなさい……てっきり大公様や狐太郎を狙う刺客だと思って……!』
恥ずかしがりながら、謝罪していた彼女の姿が脳裏に浮かんで離れない。
ネゴロ十勇士も彼女が動いた理由に理解できるが、『うっかり全滅させちゃった』と謝罪されるとは思っていなかった。
あまりにも、悲しい現実である。
「ううう……」
大公が喜んでいたことが嬉しかった。
推薦に値する人材を育成できたと、喜んでいた姿に安堵した。
彼に呼ばれるその時を、今か今かと待っていた。
狐太郎の驚く姿と、自分たちを頼る姿を描いていた。
ある意味、驚かれて、引き留められたのだが。
世の中には死にも勝る屈辱があるという。
傷心の十勇士には、蘇生が必要なほどの屈辱を癒す時間が必要だった。
「俺……ちょっと女に逃げるわ。女を抱いて、慰めてもらってくる……軟弱者って笑ってもいいぜ」
「そうしろ……俺もそうする……酒にも逃げる……」
「うん……こういう時は、酒と女が何よりの薬だ」
彼らの中の冷静な部分が、再起の必要性を訴えている。
大公の温情によって自分達は里に帰ってきたが、別に狐太郎の護衛が増えたわけではない。
あの千尋獅子子なる女も、狐太郎の護衛をする気はないらしい。であれば、やはりネゴロ十勇士は必要なのだ。
そもそも、今回の話をなかったことにされれば、この厚遇がなくなることにも変更はないのだし。
捨て駒である死兵になる覚悟ではなく、格上の存在がいることを知った雑兵になる覚悟。
それが必要なのだと、彼らは思い知ったのだ。
「で、ロミオはどうする? ロザラインのところに行くか?」
「……」
ただし、一名を除く。
「おい、ロミオ、どうした?」
他の九名は、ようやく気付いたのだ。
ロミオがどういう顔をしているのかを。
「千尋獅子子……」
顔を赤くして、恥じらいながら名乗った女性。
小柄で細身な女性ではあるが、自分たちを見事に取り押さえたその技を持ちながら、なんとも純情な姿だった。
「おい、ロミオ?!」
「千尋獅子子……いい……」
恋を知ってにやけ切ったロミオ。
その顔を見て、九人は思いっきり嫌な予感がした。
「千尋獅子子……ああ、獅子子……! なんて素敵な女性なんだ……!」
一族の存亡をかけた戦いが、ここに火ぶたを切ったのである!