夜話
「この町を出ようと思う」
「わかりました」
私の迷いのない返事に、なんだかマスターのほうが呆気にとられているようでした。
「え?いや、え?」
「なにをそんなに戸惑っているのですか」
「だって」
なんだか、出ていくと決めたマスターのほうがまだ、悩んでいたり迷っていたりするようでした。
「聞かないの?理由とか」
「関係ありません。マスターがそう決めたのなら、私は従います」
「……プラムはこの町、好きだったんじゃないの?」
「はい、好きです。大好きです」
ここでマスターと出会いました。
この町でマスターと過ごした半年は、穏やかで幸福に満ちていました。
けれど。
「でも、マスターと一緒がいいです」
私は、マスターのほうが好きなのです。
「マスターと一緒なら、何処でも、いいです」
きっとその幸福と、いくつかの小さな持ち物だけが、私の全て。
「そうか」
その一言はマスターの背中をきちんと押すことができたようです。
「聞いてたんだね、プラム」
「はい、実は、地下からこっそりと」
「全く、悪いメイドだ。……ありがとう、プラム」
もう、マスターが傷つく必要はありません。
ここはきっとあの気に食わない人たちに奪われてしまうでしょうが、構いません。
出ていく私達には関係のないことです。
「そうだよね。うん、そうだ。決闘なんてバカらしい。僕は衛士じゃないんだ。逃げればいいさ」
「それで、いつここを出るんですか?」
「うん、それなんだけどね。明日中には出ようと思う」
「それは、随分急ですね」
あの組合の衛士さんが来たのは今日の夕方。
決闘とやらの準備にはもう数日かかると思うのですが。
「組合がどんな手を使ってくるか分からないからね」
可能な限り早く、ということでしょう。
「向こうが果たし状を持ってきたらこの工房はもぬけの殻っていうのがベストだ。あいつが悔しがってる時には、僕らはもうとっくに手の届かない場所に逃げたあとってのは気分がいい」
なるほど、ちょっとした意趣返しにもなるというわけです。
「お金のことは、まあそんなに心配しなくてもいい。蓄えは意外とあるんだ。あとここの機材はジャックに引き取って貰うことにしよう。捨てるよりはましだろうし」
それから、とマスターはいいます。
「どこに行くか、それも決めなくちゃね。いっそ、首都の方にでも行ってみようか」
なんだか、マスターの顔はだんだん明るくなってきていました。
今しているのは夜逃げの算段なのに、どこか旅行にでも行く計画でも立ててるようで。
「首都ですか。お城があるんですよね?」
でも、私も今だけはそんな暗い気持ちを忘れるように話をしました。
「ああ、そうだよ。遠く望む王城に、広大な城下町。世界中の品物が並ぶ市場。僕も話でしか聞いたことはないけど、きっと素晴らしい場所だよ」
それは、未来の話です。
「海もいいかもしれないね。すっごく綺麗なんだって聞いたことがあるよ。それに、見たことも食べたこともない魚介類がたくさんあるだろうし」
「海、ですか。なんだか私の義体に潮風は大変そうです」
「そしたらさ、僕が毎日メンテナスをしなくちゃならないね」
まだ来ていない、未来のはなし。
「僕としてはさ、魔道人形が生まれた町っていうのにも行ってみたいかな。学術都市ってやつでね、すごく貴重な資料なんかがたくさんあるはずだよ」
「そこに行ったら私も、すごくパワーアップとかできそうですね」
きっと、こんな気楽に話しているようなことにはならないでしょう。
新しい仕事探しも、新しい拠点探しも、容易ではないはずです。
それでも、今だけは。
「私は、メイドの聖地と呼ばれる場所に行ってみたいです。そこでは、年に一度、究極のメイドさんを決めるコンテストが開かれるとか」
「またジャックに変なこと吹き込まれて。そんな町、あるはずないだろ」
そんな風に、取り留めもない話を一晩中していました。
明るく楽しい未来の話を、ずっとずっと、していました。
「じゃあ、ジャックのところに行ってくるから」
夜が明けて、少しお寝坊して、お店も開けないままに、マスターは出かける準備をしていました。
「一応、今日中に町を出るってこと、伝えてくるよ。ついでに機材、高く売りつけてやる」
「いってらっしゃいマスター。私は荷物の整理をしておきますので」
今日の夜には私は、この目覚めて半年過ごした町を出ていきます。
「うん、任せたよ」
一抹の寂しさはありますが泣き言なんて言ってられません。
マスターのほうがよりつらいはずなのですから。
「……ごめんね、プラム」
出かける直前になって、マスターは足を止めて、謝罪の言葉を口にしました。
「君の解析は、随分先のことになってしまうと思う」
「そんなことですか」
「うん、そうだね。君にとってはそんなこと、なのかも知れないね」
私は目を伏せるしかありません。
それは私のことなのかも知れませんが、私にとってはあまり重要なことではなかったからです。
「いいんだ」
そのマスターの声には、なにか吹っ切れたような明るさがありました。
「時間ならあるんだ。僕とプラムはずっと一緒にいる。いつまでだって一緒だ。だから、きっと大丈夫だ」
「はい。ずっと一緒です」
それだけ確かめると、マスターは、じゃあ今度こそ行って来るよと言ってジャンク屋さんに向かいました。
「よし」
私はマスターが留守の間に、地下の工房で夜逃げの準備を始めます。
まずは私の荷物から。
ですがこれは、あまり多くはありません。
替えのメイド服と、お気に入りのティーセット、以上です。
私の持ち物などこれくらいしかありません。なので次は昨日指示された必要な物あれこれです。
数日分の食料に、二人分のランタン。マスターが使う工具セットに、魔道人形の整備に必要な持ち運び可能なモニター端末。それにお金です。
それらを準備しているうちに、あることに気が付きました。
ランタンの油が、あまり多いとは言えません。
「ふむぅ」
これは大変です。
普段ならそれほど問題がある量とは言えませんが、今夜は大いに使うことになるでしょう。それを考えれば買い足しておいた方がいいように思います。
「マスターが帰ってからでもいいような気がしますが」
それでも決行は今夜です。
なるべく準備は早い方がいいでしょう。
幸い、油の売っているお店はよく買い物に行っていたお店なのでわかります。
「ちょっと、行ってきますか」
本音を言えば、最後にこの町を少し見ておきたかったという気持ちが心のどこかにあったのかも知れません。私は簡単なメモを残して出かけることにしたのです。
けれど、準備をしなければという思いを胸に立った私は、マスターの出していた命令のことをすっかり忘れてしまっていました。
それはとっても、重要なことだったというのに。