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ハロー1216  作者: エル
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小さな夜

 あの人は、きっとあそこにいるだろう。

 空気を揺らさぬように緩やかに、けれど俺が近づいていることだけは分かるように足音を刻みながら、石畳の道を歩いた。

 明るすぎる月明かりに、静かに過ぎる夜の気配。

 呼吸ひとつで壊れてしまいそうな小さな世界を乱さぬよう、同時に、騎士らしさを失わないよう、歩く、歩く、歩く。

 星の光が示す先、そこには薔薇園がある。

 彼女にとっての、秘密の場所。

 きっとあの人は、そこにいるだろう。

 俺はその姿を見つけて、不敬ながらも笑みがこぼれてしまった。

 なんというか、このほんの少し年下の御方は、可愛らしくすねるものだ。

「ここにいらしたのですか、姫様」

「遅いですよ、シンク。私は、待ちくたびれました」

 

 姫様のそのお言葉を許可と受け取って、俺は彼女の領域に足を踏み入れる。

 そこは薔薇園の中に作られた聖域だ。

 石造りの地面の上には純白のイスとテーブルが置かれている。入り口にこしらえられた薔薇のアーチを抜けてくる俺を、姫様はそのイスに座ってどこか不機嫌そうに眺めていた。

「待ち合わせのお約束には、覚えがないのですが」

「それでも察して来てくれるのが、騎士というものでしょう?」

 まだまだ、自分は修業が足りないな、と思う。

「夜会は退屈でしたか?」

「そうでなければ抜け出したりなんてしません」

 今日いらっしゃった来賓の方々は、確かに姫様のご興味を引くようなものではなかった。

 そんな中で、王族として相応しい振る舞いを求められ続けるのだから、辟易とするのは仕方のないことだろう。

「ねえ、シンク」

「はい、なんでしょう」

「私を連れ戻さないの?」

 俺はなるべく軽く、姫様が欠片の不安も抱かぬように答える。

「姫様がお戻りになりたいと思うまで、俺はここにいますよ」

 本当は連れ戻して来てほしいと言われていたが、それはあえて忘れることにする。

「ありがとう、シンク」

 俺は黙って微笑み、姫様のそばに控えた。

 あとで受けるお叱りのことは、気にしないことにしよう。

 それから少しの間、俺と姫様は静かな夜を過ごした。

 星々を眺め、楽しそうに話す姫様に相づちを打つ。そうして、夜は深まっていく。

「シンクは」

 姫様は、急に何かに不安を覚えたのか、一つの質問を、俺に投げかけた。

「はい」

「シンクは、私がお姫様だから、こうして傍にいて、守ってくれるの?」

 俺は、すぐには返事をすることが出来なかった。

 騎士として生を受け、この人に尽くすべく生きてきて、その人生に疑問など抱いたことは無かったけれど、姫様が姫様でなかったら、俺は……。

「ねえ、シンク」

 姫様の不安そうな声。

 それを聞いて、答えが出る。

 真実も本質も関係なく、今答えるべきことが、俺にはある。

 俺はさっと、騎士の礼をもって、姫様の前に跪いた。

「姫様」

 真っ直ぐに俺はその瞳を見つめる。

「俺は、あなたを守ります。あなたがこの国の姫であるかどうかなんて関係なく、あなたが、あなただから」

 それは一度目の騎士の誓い。

 この人を、なにがあっても守ると決めた、俺の、大切な時間。

「そう」

 姫が、右手を前に出した。

「シンク、この手を取って、口づけを」

「はい」

 それは本来、大掛かりな式典の場で行われるべき神聖な儀式で、俺と姫様のやっていることは、子供らしい、ほんのお遊びのような可愛らしいもので。

 けれど、意味を取り違えては、いない。

 その一瞬を、永遠のように、俺は誓いを終える。

「あはは」

 姫様の顔は、真っ赤だった。

「こんなに嬉しいことはないわ」

「俺にとっても、これ以上の誉れは、きっと」

 ないだろう。

 美しき夜の一幕。

 忘れえぬ、大切な、思い出。

「これであなたは私の騎士です」

「はい」

 無論正式なものではないが、それこそ些細な問題だ。

「これから先も、私のことをずっと守って下さいね」

 ね、シンク、とそう俺の名を呼ぶ、その響きが変わったのはいつからか。

 俺は、俺が、俺だけが、気づけるはずだと、そう。

 あの誓いの夜が、俺にとってどれだけ大切で、それを遠い日のことだと語ったあの姫様の、なんと。

「ああ」

 俺にとっても、最早遠い。

 手を伸ばしても、あの日の星空に手なんか届かない、けれど。

 伸ばした俺の手を、誰かが、掴んだ。

「あ」

 それは、いつかに見たことのある、義体の顔だ。

「大丈夫、ですか」

 なんで、出会った瞬間に気付けなかったのか。

 あなたが誰でも、守ると決めたのに。

「姫、様」

 まさか、騎士の誓いを捧げたこの人に、剣を向けたなんて。

 けど、もう間違えない。

「俺が、あなたを」

 絶対に元に戻すと、そう伝えようとして、体からあらゆる力が抜ける。

 ……限界だった。

 俺は、その不安そうな顔を見ながら、ゆっくりと意識を失っていく。

 今度こそ、必ずと、決意一つを、胸に秘めて。

  


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