バレたっ
廊下の方を見たのは、無意識のうちに助けを求めたのかもしれない。もちろん、このマンションには蒼士しか住んでいないし、助けなどどこからも来るはずがないのに。
しかし……少なくとも魔王は蒼士の視線が気になったらしく、「なんだよ?」とふいに後ろを振り向いた。
――今しかないっ!!
内心で絶叫した蒼士は、ためらいなく手の中のカプセルを口に放り込み、ミネラルウォーターを飲み干した。
「お、飲んだか? 最初からさっさと飲めばいいんだ」
向き直った魔王は、馬鹿にしたように言い捨て、蒼士の前に立った。
「なら、もうはじめるぞ――身体を交代する魔法にかかるからな」
「ど、どうぞ」
今度は蒼士もガクガク頷くことができた。
むしろ、今は逆に、とっとと変わってほしいかもしれない。致死量の毒物を飲み込んだ後だからだ。
五分は保つというのは、所詮は胃の外でやった実験であり、本来なら体温その他の要因で、もう少し早めに溶け出すだろう。四分か三分か……あるいはもっと早いのか? こればかりは、蒼士には全然読めない。
ただ、言うまでもないが、蒼士の気分的にはとっとと交代してほしいところだった。
なにしろ、致死量を上回る毒物を飲み込んでいるのだ。
しかし……なぜか魔王は、自分から言い出したくせに、その魔法とやらを使う素振りがなかった。なぜかじろじろと蒼士を眺めていて、何か考え込んでいるように見える。
「おまえ……最初に会った時より、今の方がよっぽどひどい動揺ぶりだな。冷や汗をかいているじゃないか」
「そ、そりゃ、身体を交換するなんて、人生初めてですし」
「それにだ」
蒼士の言い分を簡単に無視して、魔王は目を細める。
「おまえはなぜか、どれくらいの期間、身体を交換するのかとか、エグランティーヌをしばらく生かしてくれるというのは、どの程度の期間を指すのかとか、そういう質問を全くしないな。こりゃどういうわけだ?」
――まずいっと蒼士は思った。
おそらく自分の態度に、何か不審なものを感じたのだろう。事実、蒼士はいわば命を賭けてこの場に臨んでいるので、当然ながら後のことなど考えている余裕がなかった。
魔王の指摘は、確かに蒼士が当然すべき質問だ……今更、わざとらしく質問できないが。
あと、そんなことより、こうして問答している間にも、刻一刻と胃の中でカプセルが溶けていくのだ。もうあまり猶予はないはず。
「だ、だって」
「なんだ?」
疑わしげな声に、蒼士は見るからに怯えた態度を作って答えた。
状況柄、非常に簡単だった。
「だって、貴方はどうせ思い通りにするじゃないですか。だったら俺としては、貴方が約束を守る方へ賭けるしかない……それとも、交換を取りやめて、エグランティーヌの処刑もやめてくれますか?」
わざとガタガタ震えるところを見せつけて両手を合わせて見た。
……気のせいか、気分が悪くなってきた気がする。
無論、本当にあの劇薬が溶け出していたら、そんなこと感じる前にもう倒れているだろうから、あくまで気のせいだろう。
しかし、もはや自分の命が秒読み状態なのは、間違いようのない事実だ。それもあり、別に演技に精を出す必要などなく、蒼士は本当に全身で震えていた。
……幸い、蒼士の態度は実に効果的だったらしい。
微かに疑いを持ったような態度だった魔王は、すぐに顔をしかめ、「ちっ」と舌打ちなどした。
「人間はめんどくさすぎて、よめねーから嫌いだ。……まあどのみち、中止なんざしない。しばらくじっとして動くな」
最後にそう言うと、魔王は有無を言わさず大きな掌を蒼士の頭に乗せた。
そのまま目を閉じてなにかブツブツ呟き始める。
確か、高レベル魔族が魔法を使うのに詠唱など必要なく、発動のためのコマンドを口にするだけだったはずなのだが――おそらくこの魔法に限っては、何か面倒な手順がいるのかもしれない。
ともあれ、さらにビクビクしながら三十秒ほど待つと、魔王の身体が一瞬、赤く光ったのがわかり、蒼士はふいに目の前が真っ暗になった。
――とはいえ、意識を喪失しかけていたのは、半秒ほどにも満たなかったはずだ。
なぜなら、次に目を開けた時、蒼士は同じキッチンにぺたんと尻餅をついた姿勢だったからだ。
慌てて立ち上がると、ちょうどきっちんの中央に立っていた人物が、振り向いたところだった。
……覚悟はしていたが、自分自身の顔と向き合うというのは奇妙な気分である。
それも、相手が本来の自分が絶対に見せないであろう、傲慢な笑みを浮かべているとなると。
「おぉ、これが人間か……なるほどなぁ……確かに大幅にパワーダウンした気がするぜぇ。弱々の生き物の気分ってのは、ぜってーにわからないが、これで少しは獲物の気分も――」
そこまで言いかけ、蒼士の顔をした魔王は大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間、ぎらっと蒼士の方を睨む。これも蒼士なら絶対に見せないであろう、震えが来るほどの殺意を放つ目つきをしていた。
「このゴミがあっ」
――バレたっ!
そう直感した瞬間、蒼士はいきなり動いた。