卑しき弱者の小細工
その日、蒼士は初めていつもの慣例を破り、日付が変わった深夜に、もう一度あの立体歩道まで足を運んだ。
……どうしても、最後にもう一度、ティーヌに会わずにはいられなかったからだ。
明日の(もう今日だが)同じ時間まで、猶予を欲しいと頼み、ようやくジェイガンの許しを得たのである。ティーヌに気を遣わせるとは思ったが、会わずにいられるものではない。
ある決心をした今、その結果如何では、死ぬかもしれないからだ。
そう、ジェイガンの試みは、蒼士に大きなヒントをもたらしてくれた。そして、あの魔王は、少なくとも人間に関して重要なことを知らずにいると、蒼士は確信している。
つまり……人は時に、他人が見たらひどくつまらないであろうことに、平気で命をかける生き物だということを。
とはいえ、蒼士が自分の計画を説明すると、ティーヌは大きく息を吸い込んだ。
相変わらず、目を閉じたままではあるが、ひどく驚いているのはよくわかった。
「なにを……なにを考えているんです、蒼士さん」
魔族軍第三軍の司令官にしては、あまり他人に見せたことがないような狼狽の表情に見える。
「そんなの、死ぬに決まってます!」
「そうとも言えないよ」
蒼士はなるべく、悲壮感が出ないように肩をすくめる。
人気のない駅前の周辺を眺めてから、さらに声を潜める。
「ジェイガンが去ってから、俺はカプセルが溶ける時間とか調べてみたんだよ……飲んでから数分以内に交代すれば、十分勝算がある」
ただし、この数分というのがくせ者で、実はあれから家にある風邪薬のカプセルなどで実験してみたが、カプセルが溶けるスピードは、温度などの条件によって、かなり差があることがわかった。
静かな状態で温水に浮かべると、だいたい五分前後でぼろっと崩れるが、それも例えば浮かべた容器を揺らし、その結果、カプセルが容器に当たったりすると、誤差が出る。
衝撃でカプセルが崩れるからだ。
もちろん、人の胃の中に入れば、温度変化やその他の要因でどうなるか見当もつかない。
なるべく直前でカプセルを飲み、素早くジェガンと変わってもらうしかないだろう。
だいたい、身体を交代する前に、風邪薬を改造した毒物入りカプセルを飲み込み、本来の自分の身体を殺す計画なんて、あちこち無理があるに決まっているのだ。
しかし、それでも蒼士は、自分にチャンスがあるとすれば、この方法しかないと思っている。
交代直後に素早くナイフで刺すことも考えたが、相手が魔王だけに、そんな不確実な手は使わない方がいい気がする。
仮に身体を交換しても向こうは魔法を使えるとほのめかしていたし、それに素のままでも戦う術を心得ていそうだ。
極めつけは――どうも魔王は、身体を交代した後、なんらかの方法で蒼士を無力化する気でいるような予感がするのだ。
つまり、命がけの小細工をするなら、事前にやっておくしかない!
「上手くいったら、真っ先にティーヌの処刑を取りやめるから」
蒼士が淡々と告げると、ティーヌはしばらく、身動きもせずに蒼士に顔を向けたままだった。やはり目を閉じていても、どういう理由でかちゃんと見られている気がする。
事実、ようやく口を開いた彼女はこう言った。
「蒼士さんは……なんだかもう、死を覚悟しているように見えます」
長いまつげを伏せる。
「確かにわたしの知る限り、あの傲慢な男は治癒魔法など覚えてなかったと思いますが、それを計算に入れても、少し度が過ぎる冒険ですわ」
ち、治癒魔法っ!?
そんな可能性を微塵も考えていなかった蒼士としては、この時点で背筋が震えるような気分だった。ただまあ、幸いにして、魔王は治癒魔法なんぞは使えないらしい。
それだけ自分に自信があるのだろうが……そこは少し幸運だった。
「ま、まあ、遅かれ早かれだから」
気を取り直し、蒼士はそっと両手を広げた。
ティーヌには、あまり責任を感じて欲しくない。
「ブラックサンデーの時、科学工場から持ち出したアレは、微量でも即死間違いなしの劇薬なんだけど、どのみち俺がいつか使うだろうと思っていたものなんだ。毎日生きていくための保険みたいなもので」
「死ぬことがどうして保険に?」
誇り高い魔族戦士らしい質問に、蒼士は苦笑する。
魔族もゴブリンなどの化け物とか魔獣は全然プライドなどないが、人型の上級戦士になると、逆に下手な人間よりプライドが高い。ティーヌなどは、いい例である。
「耐えきれるところまで耐えて、家族と再会できるようにがんばる……それでもどうして耐えられない時はってこと。そういう逃げ道を作るのは、いかにもジェイガンの言う通り、弱々の人間らしいけどね」
「でも……今貴方がその手を使おうとしているのは、わたしのためではありませんか」
鉄格子の向こうから遠慮がちに訊かれ、蒼士は頷いた。
「それは確かに。でも、やっぱり自分のためでもあるよ。なぜから、俺は所詮卑しい人間なんで、ここまですれば、ティーヌも感謝してくれると思っているからね」
なんでそこまでぶちまけるのか我ながら謎だったが、しかし蒼士はどうしても言わずにはいられなかった。