わずかなチャンス
「――っ!」
なんだかやたらとよい香りが漂い、エグランティーヌが蒼士の前に立つ……鉄格子越しではあるが、これで蒼士は、初めて彼女と相対したことになる。
意外なことに、彼女は百七十四センチの蒼士より、若干低かった。なんとなく自分より高い気がしていたので、それも蒼士には驚きである。
「……いつも食事を置いていってくれて、ありがとう」
「うわっ」
まさか口を利いてくれるとは思っていなかったので、蒼士にしてみればこれも驚きである。この一週間、一言も話さなかったのに、なぜ今になって話しかけてきたのか。
それと……自分がいつも、こっそりパンなどを牢の中に素早く入れていくのを、気付かれていたことも意外だった。
付け加えるなら、どうせ魔族の高レベル戦士は、一ヶ月くらいは何も食べずとも平気でいられるので、お礼を言われたのも意外と言えば意外である。
「ま、まさか、俺に気付いているとは思いませんでした」
「気付いていましたよ、初日から」
エグランティーヌは静かに答えた……閉じた目を蒼士に向けたまま。
「ただ、気付かない振りをした方が、貴方のためだと思ったのです……わたしは、あの方に憎まれていますから」
あの方とは誰か、などという間抜けな質問を、蒼士はしなかった。
魔族軍の第三軍指揮官を処刑できるほどの権限を持つ者といえば、もはや魔王ジェイガンその人しかいない。
「では……どうして今日は話しかけてくれたんです?」
恐る恐る問い掛けると、エグランティーヌはあっさり教えてくれた。
「今日が、貴方の運命の分岐点だからです、モリオカ・ソウシさん」
言語変換の魔法ですらすらしゃべっていても、名前を呼ぶ時だけは、微かな訛りのようなものがあった。しかし、まさか名前まで知られていたとは。
「ど、どうして――」
「それが私の力なのです……いつもとはいきませんが、わたしは時に未来を視ることがあります。ソウシさん、貴方が立ち寄った初日に、私は未来を垣間見ました」
わけがわからないが、なぜか迂闊に遮ってはいけない気がして、蒼士は瞳を閉じた魔族戦士を見つめる。
鉄格子を握った彼女は怖いほど真剣で、蒼士をからかっているようには見えなかった。
「明日から二度とここへ立ち寄らなければ、貴方はこれまで通りの生活を送れます。もちろん、もっと未来はどうなるかわかりませんが、今は元の運命へと戻ることができましょう。でも……明日以降もここへ立ち寄ってわたしに関心を示せば、貴方の運命は確実に変貌するでしょう。それも、今の貴方が想像できないほど大きく」
淡々と紡がれた言葉を必死に理解しようとしても、やはり蒼士には何がなにやらさっぱりだった。
ただわかるのは、エグランティーヌが本気だと言うことだけだ。
おそらく本当に、明日以降もここに来れば、運命が変わるのだろう。
「それで……俺は死ぬんですか……明日以降もここへ来ると?」
「確率は高いです、残念ながら」
エグランティーヌは寂しそうに俯いた。
「来ない方がいいと告げるのは、貴方の優しさに触れたわたしにとっては残念なことですが、でも、だからこそお教えしないわけにはいきません」
魔族の概念を打ち破るような丁寧な言葉遣いで、エグランティーヌはそう告げた。
「そう……ですか」
自分を心配するが故の忠告は嬉しかったが、しかし今の蒼士の役には立たなかった。
なぜなら、間抜けにも自分ですら今まで気付かなかったが――蒼士にとっても、エグランティーヌに会えなくなるということは、ひどい喪失感を伴うことだとわかったからだ。
しばらく沈黙して考えた末、蒼士はかろうじて尋ねた。
「それで、俺の生死のことは置いて、仮に明日以降もここへ来れば、なにか貴女にとってはプラスになりますか?」
この質問に対し、なぜかエグランティーヌは即答しなかった。
まるで彫像と化したように、そのまま立ち尽くして蒼士を見つめている……いや、相変わらず目は閉じているのだが、蒼士自身は見られている気がしてならなかった。
「言っておきますけど、返事がなければ、どのみち明日も来ますよ」
半分やけくそで申し出ると、エグランティーヌは(見えないはずなのに)素早く左右を見て誰もいないのを確認するような様子を見せ、それからそっと訊き返した。
「なぜ、そこまでしてわたしに会おうとします?」
一瞬で頬が熱くなり、蒼士は自分こそ俯いてしまった。
まだろくに会話もかわしていないのに、まさか本心を告げるわけにもいかない。そこで、ぶっきらぼうにこう言っておいた。
「俺のことは置いて、貴女を助ける方法があるなら、なんとしても力になりたいからです」
少なくとも、嘘は言ってない。ただの人間がっと笑われるのを承知で言ったのだが、エグランティーヌは笑わなかった。
むしろ、彼女にしては珍しく、驚きの表情を浮かべた。
「どうして、近い先にそういう機会があると――」
言いかけ、蒼士が目を瞬くのを見て、口元を綻ばせる。
「そうでしたか……今のは貴方の未来予知ではなく、純粋な本心なのですね」
レジーナの言い草を聞いた時、蒼士は一瞬の間を置き、目の前がぱっと明るくなった気がした。
「つまり、そういう機会がこの先にあるわけだっ!?」
勢い込んで捲し立てると、エグランティーヌが少し眉をひそめた。
「声が大きいですよ」
「うっ」
蒼士は慌ててまた周囲を確認し、やはり誰もいないのを確かめる。
まあどうせ、この界隈の人口は以前と比べものにならないほど少ないのだが。
「とにかく……方法があるなら、教えてください。いや、教えなくても、どうせ俺は明日もここへ来るんですから」
断固として言うと、またしばしの沈黙があり……やがて、エグランティーヌはそっと息を吐いた。
「……わかりました。でも、これは貴方にとって、ひどく危険なことだと思います」




