蒼士(そうし)の、自治区内生活
――昔は、ここも普通の人間しか歩いてなかったのにな。
森岡蒼士は、背中を丸めるようにして通学路を下校しつつ、自嘲気味に思った。
ところが今はどうだ?
駅周辺を歩けば、およそ半時間に一度は(人間から見れば)醜い半獣の魔獣か、あるいは場違いな長い槍を持った、ゴブリン兵士に出会ってしまう。
ちなみにゴブリン兵士とは、その名の通り、着ぐるみでなんでもない、本物のゴブリンである。ごつごつした緑色の皮膚をしていて、目玉は真っ黄色で大きく、そして腰巻きのようにしか見えない、ぼろぼろの布を腰に巻いている。
奴らは魔族軍からの命令で、自治区に住む人間を監視しているのである。
たまに女子高生などが通ると、涎を垂らして見るが、襲うことまではしない。別に遠慮しているわけではなく、魔王直々に「無闇に人を襲うな」と命じられているからだ。
ただしその魔王ジェイガンの出した命令も、本当は自分の楽しみが減るから、という理由に過ぎない。
自分が気まぐれで「ハンティング」をする時に、めぼしい獲物がいないと面白くないからだ。
配下への「人を襲うな」という命令は、そのためである。
とはいえ、所詮はゴブリンなどは実体化した邪悪な精霊に過ぎないので、時に抑制が弾け飛んで人が襲われ、食われたり犯されたりする。
当然ながら、若い女性はもちろんのこと、男女年齢問わず、監視員である彼らと目を合わせないよう、俯くようにして歩く者が多い。
……大声を上げたり、楽しそうに会話したりすると、これも連中の関心を集める原因となるので、周囲は都内とは思えぬほど辛気くさかった。
それでも、ここはまだ自治区に指定されているだけ、マシなのだ。
自治区以外の魔界そのものへ引きずり出されると、周囲はほぼ魔族しかいないので、もはや人間は最低限の安全も保証されない。人間が迷い込むと、おそらく一時間も生きられない。
そもそも自治区内であっても、定期的に「ハンティング」の時間が設けられ、食人を好む魔族や、単なる楽しみで人間を襲う魔族兵士などが、駅周辺で暴れ回る。
これ全て、魔界の――いや、魔王の方針らしい。
あえて自治区などを設けているのは、人間達にわずかな希望を持たせるためと……そして、魔王ジェイガンその人の命令があるからに過ぎない。
……ぼけっと考えていた蒼士は、ちょうど信号のところでその監視員のゴブリンと目が合ってしまい、慌てて顔を伏せた。
最悪なことに、目が合ったせいか、奴はドスドスと蒼士のそばまで来て、間近から顔を覗き込んできた。既に切れ込みのような口元から涎が垂れていて、蒼士は血の気が引く思いだった。逃げたいのは山々だが、逃げた途端に後ろから槍で殺されるか――あるいは、「魔族への敵対意思あり」と見なされ、やはり処刑される。
耐えがたい体臭に吐きそうになりつつ、化け物が睨むのに我慢するしかなかった。
幸い、向こうは蒼士などにさほどの興味はなかったらしい。怯えているのがわかると、満足そうににんまりほくそ笑み、そのまま離れていった。
立ち去る際に、「まずそうな臭いだ」などと吐き捨てていた。
これが現実だ……嘘みたいだけど、本当に現実なんだ。
そう、蒼士の住む街は異世界から来た魔族達に占領されている。
具体的には、都内秋葉原駅を中心とした、半径二キロの範囲に及ぶ地区が、丸々本来の日本、本来の都内から遮断され、異世界の魔界と繋がっている。
どんな魔法を使えばそんなことが可能なのか蒼士にはさっぱりわからないが、自分が都内に居ながらにして、狭い地域に隔離され、魔界と地続きの状態にされていることは間違いない。
……自治区内は、白く霞んだドーム状のもので覆われ、見上げる空は完全に魔界のそれである。そして、境界線の向こうを越えると、もはやそこは魔界の領土と地続きになっている。 ブラックサンデーと呼ばれた、三年前の二千二十八年五月七日から、もはやここは魔界の一部なのだ。
都内の秋葉原界隈がそっくり日本から消され、そのまま魔界の領土へ強制転移させられたようなものだ。理屈はどうあれ、この有様では、そうとしか思えない。
「……やっぱり俺もそのうち、アレを使う日が来るかなあ」
蒼士はぼんやりと呟いた。
アレとは、異世界から奴らが攻め込んできた数日後、絶望した蒼士がある化学工場に逃げ込んだ時にたまたま見つけ、隠匿した劇薬である。
今後戦うためではなく、自分が使うために。
少し落ち着いた今は、家族と再会するまでがんばるつもりではあるが、どうしても耐えきれなくなった時はアレを使う気でいる……その思いだけで、なんとかこの三年を生き抜いたようなものである。
しかしそんな蒼士でさえ、まさかその劇薬を思わぬ用途で使う日が来るとは――まだ思ってもいなかった。
魔王の住む異世界と、今住んでる街が地続きになってしまった世界を書いてみました。主人公はいきなり魔王になってしまう(かもしれません)が、強くなるのはそこからです。
序盤は書いたので、そこまでは連日更新で。
読んでくださる人が多いようなら、これも続けたいです。
……もちろん、俺魔は俺魔で続けます。