第1話「出会い~直衛彼方と大地吉宗の場合~」第7幕(5/25・改稿)
数ヶ月前、人権も尊厳も何もかもを置き去りにして、自分の人生に大きな荷と試練が強制的に背負わされた。
それ自体は大した問題じゃない。起こってしまったことはもうどうしようもなく、そもそもこうやって学生の身ながらに魑魅魍魎相手に日々立ち回る荒事を生業としている以上、多少の厄介事が増えたところで対応は変わらない。
ただ本来、今も納得がいっていないこと。
それは、百鬼夜行ひしめくこの業界とは無縁に暮らしていた一人の少年が、自分のとばっちりを受けて戦場に立っているということだ。
「おシゴトの都合上当たり前かも知れんけど、赤兎でバイトしとる時とはえらい違いやな。今そんなに切迫しとるんか?」
そんな冷静な分析を口にしつつ頬を掻いている彼――諏訪内大河の様子は、この非常時でも泰然としたものだった。
ハチマキよろしく額に巻かれた手拭いの下で、こまっしゃくれた印象を与える眠そうな三白眼。黒とも灰ともつかない、鳩羽色、とでもいうべきくすんだ色の髪。浮き世離れしているという程ではないにしてもどこか超然とした雰囲気は、自分より二つ三つは年下の小学六年生であるという事実を忘れそうになる。
しかし、騙されてはいけない。ここぞというあの局面で投げつけたのがアレなのである。
「……キミね、この局面でさえふざけないと気が済まないの? 今の僕には君の奇行に慌てる時間すら惜しいんだけど」
「いや、これに関してはホンマ不可抗力なんやて。『あの鏡』使って何か威力ありそーなもんイメージしてみたら、丁度開店準備サボってた時にばーちゃんが投げつけて壁に刺さったアレのこと思い出してあーいう形になってな」
「ねぇ、いくら金属製でもへらって手裏剣じゃないよね!? 振る為のものではあっても投げつけたり挙げ句に刺さったりしないよね!?」
老婦人の孫にも容赦ないバイオレンスぶりには敢えてツッコまずに、鳴はそこだけ指摘するのが手一杯だった。曲がりなりにも乱破素破の血に連なる者としては、あれが手裏剣と同様の扱いを受けるというのは見過ごせない。
「安心せい、オレかてヘラは振ったりはしても刺せるなんて本気で思ってへん。……何十回もの練習と挫折を繰り返してようやっと受け入れた現実やけどな」
「投擲練習する位には夢見てたの!? いや、普通のお好み焼き屋には必要のないスキルだから!」
「確かにな。あー、そう考えると今回あの鏡のお陰で間接的には夢が叶ったっちゅー感じかもわからんわ」
肩先に鳴を俵抱きにした体勢のまま、大河はまさに柳に風といった感じでツッコミの数々を受け流す。
『今代の鏡の式鬼人は随分な好き者だな。太刀の一つでも出してくるのかと思いきや、今の世において斯様に珍奇な武具を得物の一つとするか』
鳴が再び殺気を感知するのと、それまでどこか軽佻浮薄を体現したようだった大河の身体が、急に旋回するのはほぼ同時だった。
間を置かず、すぐ横合いに伸びてくる幾筋もの鞭が空中でしない、『標的』の移動に伴ってすぐ様またこちらへ迫ってくる。
軽く舌打ちしてから、大河は空いている右手を天に翳した。ボゥ、と指先に点り始める淡い蛍火で、虚空に円が描かれる。
すると、まるでその燐光に紛れるかのように、精緻な青銅細工を施した一枚の鏡がくるくると回りながら現れた。
淡い山吹色に輝くそれは、猛禽の嘶きのような甲高い音と共に、一層の強い燐光を周囲に飛ばして鞭を四散させる。
大河の腕の中から抜けて再び地面を踏みしめると、鳴は声の出所を探ろうと首を回し、次の瞬間目にしたものに軽く息を呑んだ。
吊されていたわずかな間に、周辺の地面に広がっている黒のぬかるみ。それだけならばいざ知らず――
「――お初にお目にかかる、鏡の式鬼殿とその主よ。折角の挨拶がこのような形となってしまったことは甚だ遺憾だが、まずは自己紹介を」
戒めを解き放たれた黒馬の鬣を撫でながら、自分のフルネームをさらりと唱えるその人物に鳴は勿論見覚えがない。それは大河も同様の筈だ。
一本の杖をつき、真っ白い流砂のような白髭を口元に蓄えた老人だった。やや褪せた浅黄色の狩衣に包み込まれた身体は肩幅が広く、筋骨隆々とまではいかずともしっかりと筋肉の厚みがある。リラックスしきった体でこちらと対峙しているその様は、一見すると隙だらけの佇まいだ。しかし、頭頂部から伸びた二つの角の禍々しい湾曲と、何よりつま先から発せられる洗練された霊気は鳴達の警戒をより強固なものとした。
頬を伝う血を乱暴に手で拭いながら、鳴は老人と距離を取って苦無をその手に構える。
「……さっきからの蛮行で『夜警』の不興を買っている癖に、そんな堂々と挨拶をされると少し困りますね」
「ああ。生憎と、私含めて手癖が悪い上に不作法な輩ばかりの陣営なのでな。しかし、無礼への報復は見ての通りだ」
そう言って、自らの頭頂部を指先で示すと、蜘蛛の巣のように広がって罅割れた角の有様が目に焼きついた。よく見れば服の裾もところどころ焦げついているので、他の面子と遭遇して既に一戦やらかした後であるらしいのは言わずと察せられた。……同僚達の怒り(※ただし私怨多し)をその身を以て思い切り受け止めたのかと思うと、一見すると好々爺然としたお祖父さんが相手なだけに流石に同情の念が湧いた。
「……おーい、そこ。ついさっき黒光りするご立派なモンで思う様身体をねぶり回された変態爺相手に変な仏心出しとる場合やないんとちゃうか。角なんてボンドでくっつければ屁でもないやろ」
「頼むから真剣な戦闘に卑猥なフィルター掛かるような表現はやめてくれないかなっ!?」
「はっはっは。正直そなたの言っておることの半分は今一つ理解出来なんだが、流石に落とした食器辺りと一括りにされるとこの疲れ切った老体に鞭打ってでもその面に泡でも吹かしてやりたくなるところだ」
いや、前半の方が食器扱いより遙かにヒドい暴言なんですが……とか思っても、流石に一から説明するのは心底嫌だったので静かに口を噤んだ。藪を突いて蛇を出したくはない。
「おー、そうか。……じゃ、ええボンド売ってるとこ教えたるからとっとと帰れジジイ」
「……やんわりと暗示したこっちの地雷をそうやって容易く踏み抜くからには、単純に喧嘩を売っているとみていいのかな?」
――ああもう、明らかに格上であろうということ位、いくら覚醒して日が浅いといってもわからない大河ではなかろうに。最早大河だけでもこの場から逃がすという選択肢を捻り出せる状況でなくなってしまい、鳴は本日何度目かわからない目眩を覚えた。
「じゃあ言わせてもらうけどな――それなりの対応してもらいたいんやったら、懐にしまっとるもん、捨てろとまでは言わずとも表に出しとく位はしとけ。そんな物騒なもん隠しながら、無害そうな面晒して相手の油断待つっちゅーんがそちらさんのやり方なら見上げたもんや」
え、と鳴が思わず呟くと同時に、老人の片眉が一瞬だけ意外そうに跳ね上がる。
そして、次の瞬間その手の中には淡い光の粒子が渦を為し、最終的には一本の巨大な鎌となった。頭の双角にも負けぬ凶悪なラインを描く幅広な得物は、存外透明度が高いのかその切っ先にうっすらと鳴と大河の姿を映している。
「少々君を侮り過ぎていたようだな。子供とはいえ、存外にいい眼を持っている」
「『鏡』のお陰か知らんが、もっぱらお供えされとるガードレールや電柱の隅っこ辺りで色々視えるようになっとってな。ま、普段は正直使い道ないと思っとったけど、今回みたく敵の手の内探るには向いとる」
大ぶりな凶器を構える相手に怯む様子すらない大河に、鳴は思わず歯噛みする。
(――大河が気づかなければ、今頃不意を突かれていたかも知れない)
不意を突かれて若干のダメージがあったとはいえ、これではどっちが先達かわかったものではない。
鳴のそんな、一瞬垣間見せた悔恨の表情に何を思ったのか、老人は何とも軽い調子で肩をすくめてから黒馬の目前でパチン、と一回指を鳴らす。途端、薄闇の中でも存在感の濃かった筈の黒馬は、スッと空気に溶けるように掻き消えた。
「そこまで気に病む程のことではない。少年も言ったことだが、元々鏡の神器の真価は『見通す』ことにある。それに……君の場合は私の調伏よりも、まず優先して知りたい情報がいくつもあったからこそ、対話に耳を貸す構えだったのではないか? ……『巫女殿』」
「っ!?」
瞬間、周囲の気圧が一気に下がったかのように、息が詰まって息が出来なくなる。大河もまた片眉をつり上げて、浮遊する鏡を自分達の目前へと移動させて警戒態勢を強める。
「不思議なことでもないだろう。これまで遭遇するなり有無を言わせず襲いかかってきた夜警の仲間にしては、いっそ慎重すぎる程こちらの言葉に耳をすませているようだったからな。それに、そこの少年がそこまで神器の力を振るえるということは、それ即ち庇護すべき巫女の存在が近くにあるということだ」
庇護すべき巫女。老人にとっては特に他意のない一言が一瞬胸に刺さったが、懐の苦無に再び手を伸ばし、鳴は自分が出来うる限り精一杯の不敵な表情を顔面に張り付けた。
「……それで? 随分僕らの事情にも通じている貴方は、これからどう出るおつもりですか? こちらとしては結界を破ったその咎だけでも、徹底抗戦の構えを取らせてもらいますが」
『あの日』、自分を拉致した連中と同族らしいということは会った時点――角や風体を見た時点でお陰で察しがついていたが、そもそも今は歴とした男の自分を巫女の一人と看破出来るなど、あらゆる意味でただ者ではない。
「……随分嫌われたものだな。ただ言わせてもらえば、私に課せられた命は巫女の一件とはまた管轄外だ。丁度今し方撤退を命じられたばかりで、君と一戦交えたのも本当に偶然というか行きがかり上に過ぎない。余計なことを考えず、自らの責務を果たせばいい」
情けないことに、嘘か本当かも判断出来ないその言葉にフッと身体の緊張が一部緩むのを感じた。……知らず知らずの内に、やはりトラウマじみたものは残っていたのかも知れない。
「そうかそうか。……じゃ、どないするめーやん」
「……君は出来るなら後ろへ下がって――というか何度も言うがめーやんはやめてくれ」
手に持った苦無をパシッと空中で翻しながら、鳴は迷いのない足取りで老人に向かって真っ直ぐ歩みを進める。大河の方は、一応こちらの言葉に素直に従って今は様子見をしているようだが、展開した神器はまだ下げてはいない。
「僕の任務は貴方を拘束し、現在の結界無差別破壊に関する真意を訊き出すこと。それが叶わぬ場合は討伐。――出来れば投降を願いたいのですが」
我ながら、身の程を弁えない挑発だとは思った。見かけは老人だろうと、宮内庁ないしは陰陽寮の術者にも引けを取らない仲間達相手に五体満足で逃げ延びたのだ、これまで相手をしてきた有象無象とは訳が違うだろう。
無論、投降してくれたところで、討伐されるよりも惨い仕打ちが待っていそう、とは絶対言えないが。
しかし、こちらの割と真剣な忠告に対し、老人はむしろ微苦笑すら浮かべて、
「手負いの獣と見なしているなら、侮られたものだな」
足を踏み出す素振りどころか、構えを取ってこちらに向かう素振りも見せなかった。
瞬きの一瞬程度の時間で、老人はあっさりと鳴の眼前に肉薄していた。最早ビデオをコマ送りしたとしか思えない、神速にも届くその速さ。
しかし、ここで驚愕に身を竦める程彼も抜けてはいない。意識が、自分の左足から袈裟懸けの弧を描いて上方に迫りつつある鎌の穂先に一点集中する。
殆ど考えるよりも前に上体を屈めて、その下腹辺りに肘打ちを見舞い、そのまま両手を床について足払いを――試みたところで、スッとスマートに射線上に差し込まれた鎌柄によって阻まれる。細いシルエットの割にえらく硬質なその感触に、足先が僅かに痺れを覚えた。
「――筋は良い。しかし、浅いな」
戦闘中とは思えない、どこまでも平坦なその呟きに、冷たい寒気を覚えたのも一瞬。
老人が再び鎌を振り下ろさんとしていることに気づきながらも、鳴は敢えてそれを一顧だにせず、足元の地面に移された老人の影目掛けて、苦無を真っ直ぐに突き立てた。
苦無全体から迸る金色の火花を見て、老人の顔に初めて僅かな動揺の色が浮かんだが、鳴はそのまま手早く印を結んで、
「オン・バサラ・クシャ・アランジャ・ウン・ソワカ!」
――地上から空へ、彗星が落ちるとしたらあのような感じかと、見守っていた大河は後に語った。
それは、喚び出した当人の鳴ですら目眩を覚えそうな程の、陽炎のように尾を引く白光の塊だった。こちらも消耗が激しい上に喰らっている当の老人の様子も確認出来ないが、自分の持ちうる技能では必殺技に近いレベルのこれで全く効いていないとは思いたくない。
昔彼方から借りたRPGのように、敵のHPゲージがクリアに展開していれば――なんて埒もないことを考えていた時だった。
「っ!?」
膨れ上がった殺気に咄嗟に半歩後じさり、光柱の中から伸びた何かが胸元を掠める。引き裂かれた詰め襟の黒い繊維が宙を舞うも、肌にはギリギリ届かなかった。
「……せめて本日最後の勲として一太刀でも……と思っていたが……成る程、これは侮りすぎた」
弱々しげだが気骨のある声音が、収束して消えつつある白光の向こうから耳をくすぐる。
「正直に言おう。先程先手を取ったことで少々侮り過ぎていたようだ。……やれやれ、このような無様な敗走は部下達のいい笑い物だが、引き際は弁えよう」
「――待てっ!」
鳴の制止を振り切り、光柱の中から風切る音と共に飛び出してきた黒い流線が、木々の間をすり抜けるように去っていき、瞬く間に見えなくなっていく。
やがて光柱が完全に消え去った時、中央に残っていたのはわずかながらに積もる、何かの燃え滓のような黒い灰。
逃走時のスピードからは想像もつかないが、それなりに痛手を負ったことがそれを見てわかる。『彼ら』は肉体に傷を負えば、血液の代わりにこの黒い灰を散らすという妖異の中でも稀有な性質だ、というのは先日の一件で得た数少ない発見の一つだ。
「……とっておき使ってもあそこまで……。いや、この場合は僕の修行不足か……」
撤退命令が出た、ということは、今回の結界破壊に携わった連中は、老人のようにあらかた離脱していることだろう。先輩達への申し訳が立たないなぁ、と頭を抱えつつ後ろの大河に向き直る。
「大河。とりあえず僕はこれから街の方へ戻るけど、君はこれ以上――」
「だが断る」
「イイ顔で言っても駄目なものは駄目っ! ……そりゃあんな醜態晒して助けられた僕が、保護者ぶってこんなこと言ったって説得力ないのはわかるけど――」
言い聞かせるように口にしている内に先程の失態をありありと思い返し、また忸怩たる思いに囚われる。それでも、どれだけ異能の力を得ようと彼自身は夜警の構成員ではない――と懇々と言い聞かせようとしていた時、予想もしなかった返答が返ってきた。
「深刻そうな顔してるとこ悪いけど、自分その考えはえらい見当違いやからな。悪いけど手ぇ貸してほしいねん」
言うだけ言ってから、こちらの返答も待たずに手首を無造作に掴み、あそのまま展開されたままの鏡にもう片方の手を伸ばす。
途端、鏡面は水のような波紋を生んだかと思うと、次の瞬間予想もしなかったことを引き起こした。
「え」
間抜けな響きと共に、大河に引っ張られる形で鏡の中を『潜った』瞬間。
足を着ける地面も壁もない。目に見えるのは全て蜃気楼のようにぐにゃぐにゃに歪んだ白一色というその空間を、強い引力に引っ張られるように進んでいるというその現状を把握した時、鳴は先程以上の取り乱してしまった。
「ちょ、まっ!? 何やったんだよ大河っ!?」
「ああこれ? ワープやワープ。カッコよく言うと亜空間移動。瞬間移動みたいにゃいかんけど、流石に普通に山下りるよりはよっぽど時間の節約や」
「い、いつの間にそんな技――っ!? ……というかっ、手を貸してほしいって一体何なんだ!? 僕の方も一刻も早く先輩達に合流しないといけないんだって!」
「あの何ちゃってヤンキーのおる神社の方やろ? 大丈夫、オレの最終目的地もそこなんや」
「……へ?」
「で、途中で回収せにゃならん連中が二人おるから、めーやんはそいつらがホンマに『アタリ』か判断してくれればええ」
そして、また何てことのないという表情のまま、しかし決して見逃せない一言をツルッと紡ぎ出した。
「今朝わかったんや。『勾玉』と『剣』がいっぺんにやって来よった」