第1話「出会い~直衛彼方と大地吉宗の場合~」第3幕
朱塗りの鳥居と、そこから続く真っ白な玉砂利の敷き詰められた参道を、多少履き古したスニーカーで荒々しく駆け抜ける。
彼方は未だ唇をグシグシと、短ランの袖で擦り切れそうな位拭いながら、鳥居近くに控えた二頭の狛犬、冷たい清水を湛えた手水舎、休憩時間中故か今は無人の社務所を通り過ぎた後、本殿の斜め後ろにある母屋――昭和の古民家を思わせる2階建て木造家屋の我が家へと飛び込むように帰宅した。
玄関を潜るなり荒々しく靴を脱ぎ捨てると、全速力で板張りの廊下を駆け抜けて、目的の洗面所へと着いた辺りで横滑りに急ブレーキをかける。コップに並々と水を注ぐと、そのまま一気飲みしそうな勢いで口腔内に含み、頬のみならず顎の筋肉までもを総動員させて全力で口内をゆすぎ続ける。
そしてふと、鏡の中に映る自分の姿を凝視してみた。
そこに映っているのは、間違いなく『男子高校生』の姿だ。
時たま周囲から「前髪下ろしてるとなんか『努力賞』って感じだよな」と童顔を揶揄されることもあるが、喉仏も出てるし痩せ型なものの年相応以上に筋肉だってついている。
そして上記の評価を覆すべく、なけなしの努力で前髪を上げて無理矢理オールバックに固めた髪に、それなりに高いと自負している背丈を包むのは、この春に袖を通して間もない黒い短ラン。
飲酒・喫煙・恐喝にも興味はないが、ナリそのものは完璧にヤンキーのそれである(現に駅前で声をかけたあの皐月という少女も、最初はやや怯え気味だった)。
女性に間違えられる要素なんて微塵もない――筈なのに何をトチ狂ったらああなるのか。そして『あんな』台詞を吐けるというのか。
寝惚けてたのか正気だったのか(正気だったら色々な意味で怖い気がする)はわからないが、確実に言えるのはただひとつ。
次にあの少年の顔を見たら、問答無用で襲い掛かって息の根を止めようとしてしまうかも知れない――そう自分で確信出来るほど、今の彼方はアレであった。良識ある大人(?)として非常にいけないのはわかっているが、子供相手なんだからと犬に噛まれたのと同じ感覚で済ませようにも、青少年としては衆人環視の前でのあのファーストキスの屈辱は到底忘れられない。あの場に居合わせた全員の記憶を消す術があるなら、今後の為にも是非習得したいところである。
まさかツウィーターで拡散とかしてねーだろうなあいつら、とか思いつつも、最も地元の人間ならば七十五日どころか三日もしない内に噂の肴を変えて話を忘れ去る可能性の方が高いのが、救いと言えば救いだとも思った。
――そして、半ばヤケクソ混じりのうがいを十数回ほど繰り返した後、ふとある不自然な事柄があったことに思い当たった。
(……っていうか)
あの衝撃の黒歴史が綴られる直前、確かに聞こえた、その名。慣れ親しんだ響き。
(あいつ、何で俺の名前を――)
しかし、彼方がその、懊悩と呼ぶには些細な疑問について考え込んでいられたのも、ごく数秒の間に過ぎなかった。
本人にその意図はなかったのだろうが、図ったような絶妙のタイミングで、廊下から呆れたような声が投げかけられる。
「帰宅早々いきなり荒れてるな。また徳川に喧嘩でも吹っかけられたか?」
「……それこそ今更過ぎるだろ。あのヤローが時と場所顧みねーのにイチイチ苛立ついてたらキリがないっつの」
どうせあれだけの人数に見られたのだ、その内コイツの耳にも絶対入るだろうが、自分の口でで説明するのは絶対に御免被る。げんなりした声で辛うじて返答すると、ひょい、と興味深げにこちらの顔を覗き込んでくる。
「だろうな。最近はもうあしらい方にも慣れてきてたみたいだし。……その顔から察するにあまり口に出したくない事か?」
「わかってんなら確認すんな。八つ当たりでいらん火の粉浴びても知らねーからな」
「八つ当たりしてみたところで、返り討ちされるという想定はしてないのか?お前、最後にオレから一本取ったのはいつだと思ってる」
トレードマークの眼鏡の縁を音もなく持ち上げながらしれっと言ってのける。実際その想定の方が確率の数値としては高いというのがまた憎ったらしい。
素面でダチだの幼馴染だの言うには癪に障るが、他人から見ればその肩書きが一番妥当であるという―――春日野北都はそういう奴だった。
「まあ、何だっていいけどな。……あと、師範が随分と捜していたぞ。『顔もわからんのにどうやって迎えに行くつもりじゃ』とか何とか言ってたが」
「―――ん?」
サラリと友人の口を借りて再現された祖父の一言に、彼方の動きはピタリと停止した。
ちょっと待て。あの後堪らず駅前から離れていってしまったが、その前に。
(――あれ。そもそも俺どうしてあそこにいた?)
逆再生で記憶を辿りながら、次第に脳裏に蘇るのはつい午前中のこと。
鼻歌なぞ歌いながら朝食の後始末に励むフリをしつつ、『祭』の手伝いをバックれる好機をチラチラと窺っていた時にくそ爺――もとい祖父から持ちかけられた頼みごとがあって。
要約すれば遠方からやって来る友人の孫を、駅前まで迎えに行ってほしいとかそういうものだった。
何かチラホラとそれに付随して、長ったらしい講釈があったような気もするがそこは右に左に聞き流しつつ、ともあれ二つ返事で引き受けて、祖父の止める暇もあらばこそ、せかせかと境内を飛び出していったのを覚えてる。
あわよくば迎えに行ったそいつに、親切のフリして観光案内でも申し出て時間を潰そうなどとコッソリ画策しつつ、駅前ロータリーまで辿り着いた訳だが。しばらく経っても現れないそいつにいい加減焦れてきた頃、よく考えたら顔も名前も聞いてないと気づいた矢先に困り顔で立ち尽くす小学生女子と出くわし、色々あって奪還したメモに書かれていた名前に嫌な予感を覚えたり、その後ご近所さん(という名の野次馬)が見守る中で黒岩と一戦やりかけて――
「……あ」
その先に起こった一連のシーンの再生は、本能的な拒絶によって差し止められた。
そうだった。ひょっとしたらあの近辺にいたかも知れなかった件の孫とやらを結局捜す事もなく、駅を飛び出してトンボ帰りしてしまったことになる。
今更の失態に、彼方は思わず額に手を当てた。
「くっそ抜かった……爺の奴に絶対色々言われる……」
「……要するに、また目先で何かしら気を取られるような事に出くわして、当初の目的を忘れた訳か」
つくづく学習しないな、と言わんばかりの大袈裟なため息をつく北都に対し、彼方はジト目を返しながらも反論の糸口を探そうとするが、昔からこの少年に対しては口で勝てた覚えはない。結果、やりきれない気分を抱えたまま、彼方は廊下へ踏み出すとそのまま大股で歩み去ろうとする。
「まあ、とにかく師範に会ったらしっかり申し開きはしておいた方がいいぞ。何か酒のアテでも作っておいたらどうだ?」
「ハイハイ、ご忠告サンキューな……」
投げやりに手を振ってキッチンへと向かって、仕切りの玉暖簾を潜り抜けると、思考は瞬時に家事モードへと切り替る。学ランを無造作に脱ぎ捨て、代わりに椅子に引っ掛けてあった怪獣プリントのショートエプロンの紐を後ろでキッチリ結ぶ。次いで開け放した冷蔵庫の中身を数秒でチェック開始。傷みの少ない食材を一瞬で選出し、片手で鮮やかに取り出してみせる。取り出した食材をジッと見つめて頭の中で数パターンのメニューが浮かんでは消えた後、カチリと彼方の中でピースが嵌る音がした。
(よし、刻み蓮根と豚のハンバーグに大学芋、あとは空心菜メインでテキトーに色々炒めるか)
直衛彼方(16)、とりあえず目先の昼餉の献立組み立てでさっきの屈辱をひとまず忘れられる程度には、彼は現金というか、図太かった。