第1話「出会い~直衛彼方と大地吉宗の場合~」第2幕
第1話「出会い~直衛彼方と大地吉宗の場合~」第2幕
――その場の誰もが無言を通す他なかった。
春。4月。エイプリル。土の中からあらゆる生命が芽吹き、老いも若きも男も女も、あらゆる人が形のない始まりの予感に胸躍らせ、全てが鮮やかに色づき始める、言うなれどこまでも続く果てない希望を抱かせる季節。――だからこそ。
その明朗な陽気に似つかわしくない凍りつくような現実は、人々を物理的に沈黙させた。
麗らかな春を象徴する可憐な桜の下、花びらが舞い散る中で屍の如く沈黙するのは、約2名程のひょっとしたら要救助者。
コンクリートに突っ伏す形で、微動だにせず倒れ伏している彼ら――いや、迷わず小さい方に駆けつけたのは、誰あろう直衛青年であった。
「オイッ!大丈夫かしっかり!………ああもう、徳川のアホがこんなトコに突っ立ってるから……っ!」
「い、いや、普通にコンクリートにぶつかってたら、その方がよっぽど危なかったと思うんですけど………あの、そっちの大きい人は大丈夫なんですか? 何かピクリとも動かないような」
「ああ大丈夫。そいつ頑丈だから」
(――いやそんな。ゴィンだよ? ゴィンって音してたんだよ今!? 『頑丈』だけで済ませられるの!?)
内心そんなツッコミを飛ばしながらも、結局少年の方へと駆けつける皐月。
彼方によって介抱されている少年は見たところ、年の頃は小学校高学年か、せいぜいが中学入学したてといった印象で、やはり皐月と同い年位だろう。灰色のパーカーとシンプルな黒いシャツ、焦げ茶の七分丈デニムパンツという服装はどこかくたびれていて、手にしていたボロボロのズタ袋と相俟って、この年にしてバックパッカーじみた感じがする。
そして更に印象的なのは、微妙に逆立っているような毛先の短い、赤みがかったもふもふした頭だった。どことなくだが懐っこい大型犬じみた雰囲気から、あまり顔を直視していると今が緊急時だということを忘れてしまいそうな気さえした。
やがて皐月と直衛、2人の様子が『ガチ』であることをようやく悟ったか、遅れる形で周囲の人々も遅すぎる狼狽を露わに騒ぎ出す。
「おい落ち着けっ! 誰か119番――って俺携帯持ってたんだ! 早く――」
緊急時にも鮮やかな一人ボケツッコミをこなしつつ、彼方が懐に手を突っ込んで携帯を取り出そうとした、まさにその瞬間だった。
「……か……」
音にしてみれば本当に微かで、ともすれば喧噪の中に紛れてしまいそうだった、その、声。
気づいた瞬間、皐月は常になく「ちょっと待って下さい!」と、ダイヤルに手をかけようとしていた彼方の手を押しとどめる。
「今何か、声がしたような気が――」
「――かな、た」
囁くような、祈るような。
呟かれた名前が一体誰のものか、という疑問を抱く間もなく、右肩に何か軽い衝撃が走ったと思った瞬間、視界が急速に頭上の青空へとスライドした。
「え」
そこから先は言葉が続かず、バランスを失った皐月の身体がアスファルトへと不時着する。背負ったデイパックが緩衝材になっていなければ、背中をしたたかに打ちつけていたかも知れない。
数瞬の間、呆然と視界いっぱいの蒼穹に見入った後、自分が何かに突き飛ばされたことにようやく気づく。
次いで聞こえてくる、ドタバタと何事か争っているような物音に慌てて上体を起こすと、さっきまでいた筈の直衛と少年の姿は見えなかった。
いや、正確には元の視界よりやや下方に見える位置にいた。
少年は、体格差を物ともせずに直衛を地面に組み伏せて、口づけていた。
「…………………………」
何だろう。今。物凄く変な――突き詰めて言うと倫理的に有り得ない光景が見えた気がする。
ゴシゴシと瞼を擦り両目の焦点にブレがないことを確かめて、やり直し。
やっぱり少年が体格差を物ともせずに直衛を(以下同文)。
「…………………………」
たっぷり数十秒。
世界から音という音が吹き飛んだ。
凍結していた思考回路は、少年の肩からズタ袋がずり落ちてくるドサッ、という音によって思いの外早く復旧した。
しかし、いくら忘我ぼうがの状態から回帰したといってもこの眼前に広がる光景の意味を汲み取るには、少女はまだまだ無知であり無垢だった訳で。
つまり、どうすればいいかわからず立ち尽くすしかなかった。
「……っ!――――っ!!?」
押さえつけられたアスファルトの上で、直衛は唯一自由になる両足をバタつかせていた。心なしか、うっすらと眦に涙すら浮かんでいるような気がする。
しかし、両足の間に身体を割り込ませている少年はそんな抵抗など意にも介さず、微かな水音すら響かせながら彼の唇を味わっていた。
最早唇を重ねているというより、むしろ啄ついばんで貪むさぼっているような勢いだ。パッと見自分とそう変わらないように見えるのに、どこにそんな力があるのだろうか。
呆然と一連の行為に見入っていた次の瞬間、組み伏せられている直衛と目が合ってしまう。年端もゆかぬ少女+街の人々に一部始終ガン見されてることに気づいた瞬間、怒りか羞恥かその両方か、直衛の顔は瞬時に紅潮し、それこそ死に物狂いで抵抗が強まった。
(え、えーと、えーと……)
皐月は考えた。苦手な算数のテストの時もここまで悩まなかったと思う。
出会って数分、上の名前も又聞きで知った程度の仲でしかないといっても、助けてもらった相手を無碍に見捨てられる程彼女は不義理ではない。直衛にとって不本意な状況であることは確かだし、
さっきまで突然の事故に戸惑っていた人々も、どうすればいいのかわからず目を丸くして――
「え、マジ、あれ直衛が押し倒されてる?
「白鐘一高が誇る野菜星人系ケンカザルがまさかの右側!?」
「受け!? まさかの総受けだったの!?」
「そしてショタっ子攻めってどんな方面へのサービス!? 写メよ写メ!」
……目を丸くして容赦なく面白がっていた。というか、さっきも思ったけどこれは流石に誰か止めようよ、と皐月は内心ツッコむのだが、流石に今の自分に出来もしないことを他人に強要出来るほど彼女は厚顔ではない。
しかしマジであれだ、直衛にとってはこのままでは家に引き篭もるのでは、というレベルの辱めだ。
これ以上恩人に要らぬトラウマを植えつけぬ為にも、一縷の希望に縋るように、意を決して自分なりに少年の行動を掣肘すべく口を開こうとした、その時だった。
「――え」
我が目を疑う光景が、開きかけた彼女の口を塞いでしまった。
いつの間にか重ね合わせていた唇を離し――それでも、互いの息がかかる程の距離を保ちながら、少年は直衛を見つめていた。
――何か、おかしい。何がどう、とは説明しにくい。(そもそもこの状況そのものがおかしいというか矛盾だらけ、という内心のツッコミは黙殺した)けれど――
少なくとも、このような無体を他人に強いている人間のする表情ではないと感じた。
こんな――見ていて胸を打つようなものが込み上げてくる、苦しげな、堪えるような、それは。
「―――――」
風が吹く。少年の唇が言葉を紡いで動きを見せる。
皐月や周囲には風の音で遮られ、届かなかった言葉。
しかし、誰よりも近い場所で向けられた当人ならば聞こえない筈も――まして拘束されている今ならば、聞こえずに済んだ訳もなく。
結果として、言われた言葉の意味を理解してしまった瞬間。それこそが起爆装置になったらしい。
――数秒後、ロータリーに響き渡った鋭い打撃音は、世界の端から端にまで波及していったのではと錯覚するほど、皐月の鼓膜を揺るがした。
この、浮かれ狂ったような一連の騒ぎこそが、今にして思えばすべての始まりだったのだっと、後の皐月はこう語る。
そして、この時点ではまだ『青年』だった直衛彼方にとっては、自身の相棒となる運命の相手――大地 吉宗との、最悪のファーストキス及びコンタクトであった。