第1話「出会い~直衛彼方と大地吉宗の場合~」第9幕
「……ええ、と」
「うん、何だ?」
「お、おおおお落ち着いて聞いてほしいん、だけど」
「うん、じゃあ皐月こそ深呼吸しような」
直視している訳ではないが、直感でわかる。今、彼女の全身はその言動と同じくらい、つまり携帯のバイブレーションも斯くやというほどガクガク震えている。
「……な、何か急に寒くなってきた気……しないかな?」
「ああ、寒いっていうか悪寒のレベルだな」
足元を、まるで黒いドライアイスでも焚いているようなぼやけた黒霧が通り過ぎていく。氷柱の水滴が霧になったような鋭い冷気で、靴を履いているにも関わらず、つま先そのものが氷塊化したようににピリピリと張りつめる感覚。
「そ、それと何か後ろから……いや、やっぱ何でもな」
「じゃ、確かめてみるか」
このままじゃ埒があかない、と皐月には悪いが割と恐怖も躊躇いもなくそう決断し、強引に彼女の手を引っ張り揃って振り向いた。
霧の中から、段々と輪郭をハッキリさせていくそれは、直視すればする程こちらの目を疑いたくなるものばかりだった。
ひび割れた白の鱗で覆われた頭部から下が、グラデーションを描くように黒灰色に染まったうねる胴体へと続いている大蛇。
落ちくぼんだ眼が無数に張り付く緑青の肌色が如何にも不健康そうな、それでいて筋骨の逞しさが目立つ角の鋭い猛牛(ただし、二足歩行の)。
しかしああいう、辛うじて見てくれだけは動物としてそれ程逸脱していないタイプならまだ良かった。この場合もっと恐ろしいのは、彼らの背後で次々に姿を現している小さな――しかし、無数ともいえる数にまで増殖してこちらを見据える、浮かぶ『眼球』の群れ。
ゾワ、と背中を過ぎったものが、恐怖か嫌悪だったのかは、今の吉宗にはわかりかねた。おおよそ誰かと諍うとか、何かに憤るといった経験が乏しい彼にとって、それはどちらも縁遠い筈のものだったから。
「――あ……、あれ……」
戸惑いと確かな恐れを以て、皐月は恐らく無意識だろうが吉宗の手を強く握って(結構痛かった)、
「……あれ、人間じゃないよね?」
今更過ぎる事実を吉宗に確認してくる。
その瞬間、棒立ちしているのにカクッと足を踏み外しそうになる位、全身の力が一瞬だけ抜けていくのを感じた。とりあえず今ので、余計な緊張はそぎ落とされたように思う。
だからだろうか――前方から血のように赤黒い、握り拳大の無数の火の玉がかなりギリギリのライン飛来してきているのを見ながらでも、普通に彼女の言葉に頷くことが出来た。
「うん、人間じゃないな」
煉瓦作りの舗装の上に火の玉が着弾したその瞬間、水風船を割るような容易さと呆気なさで、暴虐ともいえる熱量の炎が弾け、近くにあったペットショップと書店が紙のようにごうごうと燃え、瞬く間に黒い塵と化していく。
鼻をつく焦げ臭さ、目にくっきり焼き付いた血のような赤い炎。五感に突きつけられる現実は、しかし海外の火災報道でも見ているように遠い場所のように思って。
でも、確かに目の前で起こっているのだと――今し方肌を掠めた火の、打たれた鉄で触れられたような熱さで理解出来た。
後方で膨れ上がる光が攻撃の第二波と悟って、即座に行動したのは意外にも皐月の方だった。
青ざめた顔はそのままだったが、さっきのビビりようとは裏腹に悲鳴一つ上げずに吉宗の手を取り、商店街を駆けだす様は陸上競技選手さながらである。
「おーい、今どこに向かってんの?」
「とりあえず後ろの人たちが見えなくなる所までだよっ!」
「いや、今人じゃないって自分で言ったばっか……」
「揚げ足取る前に走ってお願いっ! ていうか何でそんなに落ち着いてるのーっ!?」
皐月が先陣切って慌てふためいてくれているお陰、などと流石に正直に言えはしなかった。
とりあえずその高圧的なのか卑屈なのか判断しづらい要請にひとまず従いつつ、改めて後ろの追っ手連中を黒い瞳でじっくり観察する。
主に団員同士のふざけ合いで追いかけっこに戯れた時とは違い、ハッキリわかる。追いつかれたら間違いなく終わる、その位のヤバさは流石に感じられた。
(とりあえず、確かにコイツだけでも安全な場所に連れてった方が良いよな)
火事場のナントカなのか秘めた才能なのかは知らないが、多分この勢いで長時間逃げきるのは彼女の場合難しいだろう。
一方、あれらを一掃出来るような力は皆無だが、隠れられそうな物陰を見つけてやり過ごす位の選択肢を望める位には、吉宗のスタミナは頭一つ抜けている。
「一応聞くけどお前、今更だけどこの街の住人じゃ――」
「来たばっかだよっ! ていうか、少なくともあんなのが出てくるのが知ってたら来なかったよ!」
「……うーん、そりゃそうだよなぁその荷物じゃ。そんなら道案内とかは期待出来ないか」
自然、さっきよりも脚にかかったアクセルは倍増していよいよ吉宗の息もあがる。しかし、困ったことに全速力の筈のこちらと違い気合いを入れて追いかけているようにも見えないのに、向こうとの距離は一向に埋まらない。嫌な蜃気楼現象だった。
「なぁ俺――ここから逃げられたらマケドのバジルニンニクフレーバーポテト食べようと思ってるんだ」
「早くもそんな遠い目で死亡フラグっぽいこと呟かないでー! っていうか、言いたくないけどどんだけマケド押しなのこんな命懸けの局面でまで!」
何を言う。こちとらあらゆる巡業地でよくチェーンを見かけては涎を垂らしても、女将やら板長の無言のプレッシャーでろくすっぽ手を出せず歯がゆい思いをしていたのだ。鬼の居ぬ間に享楽を貪りたいという、育ち盛りの切実な願望だというのに。
「もっと建設的に考えようよ! 例えば、えっと……お寺か神社探すとかさ!」
成る程、としごくシンプルだが的を得た意見だった。少なくともこれだけ古い街のどこかには、並の悪霊程度が立ち入れない神域の一つや二つ、あってもおかしくない筈である。それなら、と頭の隅で閃いた名前があった。
「よし、それで行こう。 ……なら、直衛神社って知ってるか? オレ、今日からそこで世話んなるから駅で待ってたんだけど、さっきのゴタゴタで迎え来る前に出ちゃったからさー。 アイツらいっぺんに祓ってもらいたいとこなんだけど」
とはいえ、正直なところアテにならない。座長こと祖父には『狸爺の神主とその孫のオカンヤンキーだけの潤いのない場所』という不安材料しかない特徴しか聞いておらず、迎え任せで地図すら持ち合わせていないのだ。
「わ、わたしだって今日この街に来たばかりなのにそう言われても――ってちょっと待って『なおえ』? それって――!」
しかし、何か琴線に触れたらしい皐月の言葉が続くより前に。
それは一種の虫の報せにも近かったのかも知れない。
周りの景色なんてもう見る余裕なんてなかったのに、追いかけてくる異形にばかり向いていた意識が、何故か強烈に『前』を意識する。
白いブロック塀が十字を描いている、その何の変哲もない四つ辻を。
ポリスチレン製の青いゴミ箱。古ぼけた張り紙が張り付けられた電柱。
そして、若干塗装が剥げてもわっとしたオレンジの色合いになったカーブミラー。ただ破壊の手が及んでいないだけの、本当にそれだけの光景。
そんな己の無意識の行動に首を傾げながらも、とにかく益々スピードを
上げて後ろとの距離を空けようとした時だった。
ペースもへったくれもない全力疾走で棒のようになっていた足先が、『空振った』。
へ、と虚を突かれたような声が、自分か皐月どっちの物だったのか。
気づけば彼らの身体は、傍目から見ればそれこそ断崖から足を踏み外すような体で、古い町並みから無窮の闇の中へと『落ちていった』。
またさっきの桜の木の下で朦朧とした意識の中のように、濃い焦りを含ませた『誰か』の呼びかけが聞こえた気がした。
※※※※※
四つ辻に繋いだ『門扉』が霞のように消えていくのを見届け、雑居ビルの屋上フェンスの外側に悠然と立っていたその男は、くわえ煙草を足下に放って無造作に爪先で握り潰した。
目の前にいた子供二人が消えても、妖異達は頓着することなく路地や商店を破壊しながらひたすら前進を続けている。揃いも揃って四つ辻を左手へと曲がったのを見た瞬間、抱いていた疑惑は確信へと変わり、男はひっそりと舌打ちした。
しかし次の瞬間、そんな苦虫を噛み潰したかのような表情も一瞬に消え失せる。そして、振り向くことも慌てることもなくごく自然な身のこなしでフェンスを飛び越え、屋上に身を屈めた。
瞬間、頭上スレスレに宙を滑るように飛来したその『銅鏡』と、その軌跡を辿った先にあった隣のビルの屋上に佇む人影を見た時、その口の端は妖しい三日月に吊り上がった。
※※※※※
「……ちっ。流石に見敵必殺は無理やったか」
ビルの塔屋に隠れつつ、流麗な軌道を描いてリターンしてきた銅鏡を受け取った大河は、一瞬舌打ちした後で眉をひそめた。回避行動を見せたきり目立ったアクションを見せない標的の様子が原因だ。
普通に考えれば、初撃をかわされた時点で防御の体勢を取るべきなのかも知れない。だが、こちらが先制攻撃を仕掛けた割に男の挙措に殺気のようなものはまるでない。その不気味さにどうしたものか、とさしもの大河も対策を考えあぐねていると、ダダダダダッと階段を凄まじい速度で駆け上がっていく足音。次の瞬間、バーン!と扉を開け放った人影は、鬼の形相でこちらを睨めつけてスタスタと襟首をひっ掴み、
「……おいちょっと! 今何やった、っていうか投げた!?」
どうやら待機していた地上から一部始終を見ていたらしい。
神器でひとっ飛びした自分と違い己の足しか移動手段がない筈なのに、こうも短時間でエレベーターもない全七階建ての廃ビルを一気に駆け上がってきたのは流石としか言い様がなかった。
「何や、あんだけぐったりしとった割に元気そうやん」
「誰のせいでああなったと……ってそうやって茶化さない!」
元気そう、とは言いつつも、力強く怒鳴っている一方でやはり顔色は悪い、というか先程同様血の気が引いて青ざめたままだ。これ以上こんな状態で相棒の血圧を上げるのは下策だと判断した大河は、冷静かつ悪びれることもなく話を進める。
「何って、屋上なんて意味深スポットからあの路上の百鬼夜行を見下ろしとる不審者に牽制の一撃を」
「無関係の人だったらどうするんだ! 結界内は夜警の人達だって入れるんだぞ!?」
大河が感知した『残り2名』と目されたあの少年少女が黒い穴に呑まれるその様は、鳴とてしっかりと目撃している。しかし、遠目で見ただけだが外見的には人間そのものな上に目立った武装及び呪装もしていないような男が下手人だと言い切るには、鳴の頭は攻撃的ではない。
「いや、絶対クロやってあれ。特に二人の霊あ……気配が消えたと同時にあんな笑い方する奴が単なる無関係の通りすがりやったら、逆にこの世の不条理を疑う」
「世の中そんなメタっぽい匙加減で動いてる訳じゃな――!」
しかし、どこまで続くかわからないと思われていた説教は一端そこで途切れた。
――すこーん。
sconeではない。そんな感じの擬音を伴い、あたかもオチの如く足元に軽く落ちてきたもののせいで。
鳴は幽かにだが口を半開きにし、大河といえば『ほう』と言わんばかりにその物体を観察してから標的の男を見やる――さっきまでとは違う、好敵手と相対するかの如き畏敬と親愛の念を以て。
或いは文化祭の出店の備品だったり、その打ち上げの容器として使う物。ポッカリ穴の開いた円筒形の白い物体――ぶっちゃけてしまえば紙コップだった。
しかも、目を凝らさなければ見えない程の糸、丁度円の真ん中に通って長く長く伸び――やがて男の元にまで行き着くのが見えた。
「…………………」
両目とも2.0という良好な視力は、皮肉なことに男の『クイクイッ』と手招くような、人差し指を小刻みに曲げる仕草までしっかりと捉えていた。
状況が五里霧中だったとはいえ、先制攻撃を仕掛けた側に対話を求めている。
客観的に言えばそう解釈出来るこの状況は、有り難いと言えば有り難い筈だが、その手段として差し出してきたのが『これ』である。
もうこの時点で、鳴は男から隣の少年と同類の気配――即ちあからさまなネタフリを怒ったり派手なアクションを見せれば喜びそうな気配を感じ取っていたが、流石に硬直し続ける訳にはいかない。
この後どんな戯けた返しが待っていようとも、ビルの真上で撃ち合いになるよりはマシな筈である。恐らく。
観念して、床に落ちた紙コップを手に取って呼びかける。ピィン、と底に通された糸が突っ張って、僅かに差し込む陽光をひっそりと跳ね返した。
「……もしもし」




