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 ぽつりと雨が、晴太の頬を打つ。だんだん激しさを増すそれは、まるで今の自分を表しているようで、晴太は強く、唇を噛み締めた。冷たいそれはすぐに晴太の服を濡らし、肩が寒さに小さく震える。

 友人の家にでも転がり込もうかと思ったが、徒歩で行ける距離に住む友人の数は少なく、また彼らに上手く事情を説明できる自信がなかった。どこかの店に入ろうにも、持ち物は携帯しかないため、それも叶わない。

 ただ家には戻りたくなくて、行くあてもなく歩き続ける。突然降り出した雨のせいで、道に人影はない。たまに車が通ったりするが、それだけだ。

 何やってんだろ、俺。

 自嘲気味な笑みが、晴太の唇に浮かぶ。

 二人の関係を認めるとか考えておいて、結局このざまだ。優人の傷付いたような表情が忘れられない。きっと、二人をひどく傷付けた。

「…………」

 雨のせいなのか、目の前の景色が霞む。手の甲で目を拭い、晴太は、住宅街の方から、いつの間にか駅へと向かう歩道に来ていたことに気が付いた。

 駅へ向かう道だというのに、やはり人の姿はない。しかし先ほどよりは、車の数は多くなった。

 信号の手前で、ランプが赤を示しているのを見、晴太は足を止める。瞬間くらりと、目の前が揺らいだ。ふらりと足が、体重を支えきれずに、一歩二歩を軽く踏み出す。

 あ、と思った。

 霞んで見える景色の中で、車が近付く気配を感じる。早く体を後ろに引かなければと思うのに、何故か上手く動かない。

「晴太ッ!」

 不意に、突然後ろから腕を引かれた。引っ張られる力のまま晴太は倒れ込む。

 倒れ込むと同時に、目の前を車が横切った。あのままでは引かれてしまうところだったと、ぞくりと背筋に悪寒が走る。

「義父……さ、ん……」

 ゆっくりと晴太が振り返れば、自分の体を抱え込むようにして下敷きになっている優人と、目が合った。首だけで振り返り、何を言えばいいのか分からないでいると、上半身を起こした優人に、強く抱き締められる。

「よかった……」

「え……?」

「このまま、晴太がいなくなるんじゃないかと思って……」

 悲痛そうな声に、晴太は唇を噛んだ。

 わざわざ追いかけて来てくれたのだろうか。自分達のすぐそばに、つい先ほどまで使っていたらしい開いた傘と、まだ折り畳んだままの傘が落ちていた。どうやら優人が持っていたものらしく、それらは無情にも強い雨の中に曝されている。とっさに投げ出して、助けてくれたのか。

「結との、約束なんだ……。晴太を守るって……」

 まるで泣き出しそうな彼の声音に、ずきりと胸が痛む。

 今まで、この雨の中自分を探しに来てくれたのか? 彼の手を振り払ったのに。傷付けたのに。

「で、も、俺……血、繋がってない、し……」

 優人の言葉に反論するように、晴太は唇を開く。立ち上がるのも億劫で、彼に抱かれた形のまま、小さく息を吸い込んだ。

「この、まま……橘さんと義父さんが一緒になるなら、俺なんか、……いらなくなるんじゃ、ないかって…………」

 無意識のうちに唇から漏れる言葉に、優人が息を詰めた気配がした。しかしそれは、晴太も同じだった。

 こんなこと、考えたこともなかったはずだった。なのに、口にしてしまってから初めて、自分がそんなことを考えていたのだと知る。

 激しく降り注ぐ雨が体を打ち、痛い。

 自分を守ることが結との約束だと優人は言った。だが眞一郎と一緒になることで、優人はその約束を忘れるのではないだろうか。そうなれば、自分が彼らと共に過ごす意味はなくなる。――自分はまた、両親を亡くしたときのように、一人に――…………。

「何言ってるんだよ!」

 瞬間優人が叫んだ。雨音に負けじとした音量だったため、驚きに晴太の肩が大きく揺れる。

 同時に、自分を抱き締める優人の腕に、さらに強く力がこもった。痛いくらいに抱き締められる。

「おれは男とか人とかそんなものの前に、優人の父親でありたいんだ!」

 はっきりと聞こえたセリフに、晴太は一瞬言葉を無くした。大きく目を見開き、今の優人の言葉を頭の中で反芻する。頭の中で彼の言葉を整理するのに、少しだけ時間がかかった。

 ――父親でいたいと、思ってくれてるの? ずっと義父さんは、父親としていてくれるの?

 ゆっくりと、優人と視線を合わせる。首だけで振り返り、唇を噛み締めるような表情を向けると、優人はふわりと、微笑んだ。

 晴太の目頭が、じわりと熱くなる。雨とはまた違う理由で、目の前にいる優人の姿がぼやけた。

「だから、どこにも行かないでくれる? こんなおれだけど、晴太の父親のままでいてもいいかな?」

 笑みながらも、自信のなさそうな声。微かに震えている気がするのは、きっと、自分の勘違いなどではないはずだ。

「……――当たり前、じゃん」

 ぽつりと、晴太は呟いた。泣き笑いのような表情で、首を縦へと振る。

「義父さんは、義父さんのまま、だよね……?」

 眞一郎と一緒になったとしても、結のことを忘れるわけではないのだ、と。

「当たり前だろ」

 優人が頷いた。途端に涙が溢れそうになってきて、晴太は慌てて、自分の両目を手で擦る。

 するとそんな晴太に触発でもされたのか、優人の瞳からボロボロと涙が零れ始めた。頬を伝うそれは、地面に落ちる前に雨と混ざり合い、涙とは違うものへと姿を変えていく。

「なんで、泣くのさ」

「だって……」

 次は晴太が笑う番だった。まるで子供のように泣きじゃくる彼を促し、二人で立ち上がる。

「俺ら、超変な人だよね。こんな雨の中、男同士で」

 せめてもの救いは、雨のせいで人が一人も通らなかったことか。偶然ににも、車すらも通らなくて、今の二人は誰にも見られてはいない。

「はい」

 苦笑する晴太に、落としていた傘を拾い上げ、優人はそれを晴太へと差し出した。

「もう、ほとんど意味ないかもしれないけど」

「ありがと」

 畳んであるままの傘を受け取り、晴太はそれを広げる。頭上に広がる屋根に、雨が体を打つことはなくなった。しかし優人の言う通り、短時間とはいえ二人で雨を浴びたせいで、ズボンどころか下着までもが重く濡れそぼっている。正直今さら傘を差したところで、状況に何ら変わりはない。

「そういえば、橘さんは?」

 傘を持ち上げ、自分へと顔を向けた優人に、晴太はそのとき初めて、眞一郎の姿がないことに気が付いた。

 家で待機でもしているのか、それとも、優人と同じように自分を探してくれているのだろうか。

 軽い気持ちで尋ねて首を傾げると、優人の表情が暗くなった。

「別れたよ」

「え?」

 聞き間違いだろうか。そう思い、反射的に聞き返す。

 今彼はなんと言った? 雨の音がすごすぎて、きちんと聞き取れなかったのだろうか。

 優人は苦笑のような笑みを浮かべ、唇を開く。だがその表情が、無理に作っているものであるということに、晴太は気が付いていた。

「おれは、晴太を第一に考えたいんだ。さっきのあれで……分かった。やっぱり、眞一郎とは一緒にいない方がいい」

「そ、んな……」

 晴太は緩く首を左右に振る。優人の言葉が信じられなくて、ただ、彼を見つめるしかなかった。

「そんなの、間違ってる」

「え?」

「好きなんだったら、一緒にいればいいじゃん!」

「っ、そ、そんなわけにはいかないだろ! 晴太が嫌だって言うなら……」

「俺、嫌だなんて言ってないじゃん!」

 優人へと、晴太は一歩足を踏み出す。勢いが付きすぎたせいで、ズボンに水が跳ねた。差した互いの傘がぶつかりそうになる。

「ただ、驚いただけで……。だから別に、義父さんと橘さんのこと反対する気ないし……」

 二人が恋人だということは、きちんと分かっている。だがいざ目の前でその光景を見てしまうと、逃げてしまって。しかしだからといってそれは、気持ち悪いとか、受け入れられないとか、そういうことではないのだ。ただ晴太は、初めて見た『男』の姿に、驚いただけで。初めて見る二人の姿に、改めて恋人なのだと思い知らされて。だから――……。

「俺だって、義父さんには幸せになってほしいんだ。だから、好きになった人とは、一緒にいてほしい」

「で……も……」

「母さん、義父さんと再婚して、たった七年で死んだだろ? なのに義父さんは俺を育ててくれた。今までを俺のために使ってくれた」

 血は繋がっていないのだから、途中で放り出されてもおかしくないと思っていた。本当の家族ではないから、と。それなのに結が死んだあとも、ずっと、自分のことを育ててくれて、一緒にいてくれて。

 晴太は一度、そこで言葉を切った。雨でぼやけて見える優人に、笑う。

「次は義父さんが、幸せになって」

 優人が息を呑んだ、気配がした。それから彼は、小さくしゃくりあげる。顔をくしゃくしゃにし、必死に手で、自分の顔を擦っていた。きっと我慢したいのに、涙を止めることができないのだろう。

「橘さん、確か地下鉄だよね」

 泣きじゃくる優人に、晴太は静かに問うた。前に三人で出かけたときに、眞一郎が地下鉄に乗っていたことを覚えている。

 優人は何も答えない。違うともそうだとも言わず、俯いたまま、泣いていた。しかしそれを肯定なのだと勝手に解釈し、晴太は優人に背を向け、走り出す。

 早く、迎えに行かなければ。手遅れになる前に。自分はもう後悔したくない。失くしたくないのだ。大切な人が、大切に想う人を。――自分の、少しでも、大切な人を。


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