壱
[1]
チクタクッ、チクタクッ…。手の中で銀色の懐中時計が時を刻む。その勤勉な秒針の動きを急かす様に、コツッ、コツッと、ブーツの踵が大理石の床を叩く。
ここ『紅魔館』の使用人には、幾つかの取り決めがある。その一つが、『毎朝午前五時、使用人並びに妖精、小悪魔は、エントランスホールへ集合。朝礼を行った後、一日の仕事内容を確認する』というもの。
ちなみに、現在の時刻は午前五時二分。本来なら、とうに朝礼を始めている時間のはずなのだ。しかし今朝は、どう言う訳か、待てど暮らせど朝礼が始まらない。…そう、待っているのだ。さっきから、ずっと…。
また、コツッ、コツッ…。ホールに整列した妖精たちの前で、エプロンドレスの女性が行きつ戻りつする。彼女が行ったり来たりする度、秒針は文字盤を一回り、妖精たちの瞳も右へ左へ。時間は刻々と過ぎて行く。
こんな状況でも誰一人、抗議の声を上げないのには理由があるのだ。それがつまり、使用人の取り決めその2…『使用人並びに妖精、小悪魔は、メイド長である十六夜咲夜の指示に従う』。
要するに、エプロンドレスの彼女が…懐中時計の文字盤と睨めっこしている咲夜が足を止めるまで、朝礼は始まらない。そして、彼女を待たせ、こうまで苛立たせているものこそが、『紅魔館の午前五時』を遅らせている原因なのであろう。
咲夜の目の前で、長針が更に傾く。勿論、彼女だってよく承知しているのだ。もう午前五時を過ぎているのも…懐中時計を睨んだところで、『誰かさん』が遅刻した事実は動かないのも…。それでも、
(だから、あれ程…『二度寝しては駄目』と、口を酸っぱくして言っているのに…毎朝、毎朝…。)
どうやら、『誰かさん』を起こすのは彼女の役目らしいな。そう言った事情と、責任ある立場との板挟み。彼女が苛立つのも無理ない話だろう。
その様な状況を察してか。…と言うより、こんな具合の、忙しない朝には慣れっこらしく…妖精たちは盛んに、かつ喧しくない声量で談笑。息抜き、暇潰しに余念がない。
茜色の髪をした小悪魔も、静かに目を閉じ…訳知り顔で笑みを噛み殺しながら…落ち着き払った様子。
良くある事で済ませ様としないのは、咲夜だけ。無論、遅刻する方が、スケジュールに従わない『誰かさん』の方が悪いに決まっている。だが、一端こうした構図が出来上がってしまうと…今更、気を取り直すというのもな。何だか、『誰かさん』に振り回されている様で、格好が付かない。
竜頭のフック部分からは、懐中時計と同じ銀色の鎖が伸びている。それが咲夜の手で、ジャラッ、ジャラッと引き延ばされ、気忙しい音を立てた。
繰り返して言うが、彼女だってよく承知しているのだ。鎖の絡みついた前掛けエプロンの紐。それに、こうも引っ張れるまでもなく…『誰かさん』が遅刻した事実は…自分が『誰かさん』を待っている事実は動かせないと…。
どうやら吹雪いてきたらしい。エントランスホールを外れた廊下で、カタカタッと、小刻みに震える窓。
咲夜は誘われるかの様に、その音の方へ。固い大理石の床から、ウィルトン織の絨毯へと歩み寄っていく。木の枠に沿って霜が浮かび、霞んだ景色の向こうは一面の深雪。
そこに広がるのは、彼女が思った通りの光景。彼女が思った通り、『誰かさん』を見付けた日と…アナタを初めて起こしたあの日と同じ…白い雪の舞う、凍える様な冬の朝だった。
[2]
アナタと咲夜が初めて出会ったのは、丁度、一年と一時間…それに五分前のこと。
窓から見える深雪の上に、足跡を見付けたのは彼女であった。
午前3時。まだ誰も居ないエントランスホールを横切り、寒風吹きすさぶ館の外へ。
館の主に遠慮したかの様に…いいや、恐れ避けたかの様に…雪の敷き詰められていない玄関前を抜け、まず、目に入ったのは門扉の片隅の雪だるま。
咲夜はそれを無言で蹴飛ばすと、雪の中から転がり出た『門番』を一睨み。それから、自分の見た『足跡』について問い質した。…無論、期待した通り…否、彼女の期待していなかった通り、『門番』は一晩中居眠りしていて、何も気付いていない様だが…。
一頻りまだ暗い空に降る雪を眺めながら、一頻り『門番』の言い訳を聞く。咲夜は大きな溜息を吐き出すと…何はともあれ、雪の上に座り込む『門番』を立たせ…彼女の形の良い尻を叩く。そして、
「その毛玉みたいに成っている雪も、ちゃんと払い落しておきなさい。折角の綺麗な髪が台無しだから…。」
「は、はい、すいませんでした。でも、『綺麗な髪』だなんて…私の茶髪なんかより、咲夜さんの髪の方がずっと綺麗だと…って、あれっ、咲夜さん、どちらに行かれるんですか。」
「どちらって…勿論、足跡の続いている先によ。入り込んだのが何者かを、確かめない訳にはいかないでしょ。」
「えっ、でも、そんな…。それは私の仕事だから…。」
「あのね、美鈴。まだ寝惚けている様だけど、貴女は門衛。招かざる訪問者を丁重にお断りして、帰って頂くのが仕事なの。それがお客様だろうと、侵入者だろうと、一歩この『紅魔館』に入った以上、その方を『お世話』するのは私の務め。貴女はここで、自分の仕事にだけ励んでいれば良いのよ。」
「…でも、そんな…。咲夜さんに、私の尻拭いをさせるみたいな真似は…。」
「お尻を拭われるのが嫌なら…今度からは、雪の上に座り込んでまで居眠りしないことね。はしたないったらない。」
「あっ。」
タイトスカートがびしょ濡れなのに、やっと、気付いたか。美鈴は、両手で形の好い尻を押さえ、顔を真っ赤にした。
『門番』の情けない姿に、溜息とも、苦笑ともつかない吐息を漏らす、咲夜。余程、館の空気が澄んでいるのであろう。彼女の息遣いにも曇る事はない。こんなにも…鈍感そうな『門番』でも、我が身を抱き締めるくらい…凍える様な寒さだと言うのに…。
「仕方ないわねぇ…。10分だけここを預かっておいて上げるから、着替えてきなさい。」
「い、いいんですか。」
「いいも、悪いもないでしょ、この場合。幾ら丈夫な貴女でも、そのままじゃ風邪引くわ。」
「だけど、咲夜さん、お忙しいんじゃ…。」
「だぁっ、もう、うだうだと間怠っこしい。『忙しい』、その通りよ。それが解かっているんなら、さっさと着替えて来い。ほらっ、駆け足。」
「は、はい。行ってきます。」
急き立てる声と、懐中時計を取り出した姿に、美鈴はそれ以上の否応もなく館の方へ走る。そして、扉の前ですっ転んだ。
咲夜は文字盤から目を離す事なく、『やれやれ』と溜息を漏らして…。ふと、視線と長針の間を擦り抜けて行った雪に、雪の舞い落ちた方に顔を向ける。
例え美鈴が10分以内に戻らなくとも、しっかりと雪を踏みしめたあの足跡なら心配はない。自分もあの跡を追って歩いて行くのだ…。そんな事を考えている胸を微かにざわつかせ、咲夜はまた目線を懐中時計へと戻した。
予感があった訳ではない。ましてや、期待していた訳なんか…。あの時から一年と一時間…それに六分後の、今も、咲夜は雪を見ている。窓の外に降り積もる雪を見て、思っている。…これは運命なんかではないと。『あんなもの』は断じて、運命であるはずがないと…それでも…。
それでも、昨夜は思ってしまうのだ。あの朝、もしも足跡を見付けなかったら、もしも足跡を追わなかったら…こうしてアナタを待つ朝は訪れなかった。…一分、一秒を、命の鼓動の様に、深く、深く、胸へ刻み込む事もなかった…だから…。
だから、昨夜は思ってしまうのだ。これが運命でなければ、何なんだと…。これが運命であったならと…。彼女の回想は更に、雪深い森へと踏み込んで行った。
[3]
ガサッ、ガサッ、ブーツで雪を踏み締める音も高く、咲夜は歩む。どうやらまた、吹雪いてきたらしい。
エプロンのポケットから取り出した懐中時計。それによると、美鈴と別れ、足跡を追って歩き始めてから、早6分が経過している。
(もう10分だけ…4時まで跡を追って、それで見付からないなら、引き返そう。)
勿論、『訪問者』の事は気になる。しかし、彼女は『紅魔館』のメイド長。
惚けがちの妖精たちを機能させ、低血圧の主を起こす等々。仕事は山積み。『それで』なくとも、持て余せる様な時間はないのだ。一端引き返すのも止むを得ない。
(案の定、美鈴は10分以内に帰って来ないし…。何より、お嬢様の寝顔を見逃す訳にはいかないし…。)
そうと決まれば、流石はメイド長。クスクスと思い出し笑いに勤しみつつも、歩を進め、同時に頭の片隅で…と言うか、愛らしい『お嬢様』の笑顔の片隅では、
(間を置くとなると、次は足跡に頼れないわね。やっぱり、妖精を使っての虱潰ししかないか。まぁ、出来る事なら、業務に支障がないよう、これで見つけておきたいけど…。)
と、一秒も無駄にはしない。麗しの寝乱れた姿を夢想しながら、ニヤニヤと…もとい、ザクザクと、新雪を長い脚で踏み越えて行く。
また幾分か、吹雪が強くなった様だ。そうして視界が利かなくなるに連れ、段々と、『お嬢様』の寝顔も遠くの方へ。雪も、寒さも、咲夜にはどうと言う事はない。しかしながら、こっちは相応に答えたらしい。
ちょっと詰まらなそうに歩みを止め、懐中時計を取り出す。時刻は3時58分。
(少し早いけれど…。)
胸中で呟き、捜索に区切りを付けようとする…その時だった。
懐中時計の文字盤から上向かせた、彼女の瞳。白金色の眼差しが見付けたのだ。雪の上に…人が倒れ込んだ様な膨らみを…。
咲夜は何よりもまず、冷静に、懐中時計をポケットへ押し込む。いいや、その冷静さこそ、彼女の気が動転していた証しだったかも知れない。
ポケットの中で指に絡まる鎖を懸命に払い落す。そうして、少しだけ速まった動悸に急きたてられながら、咲夜は膨らみの方へ歩み寄った。
(獣…いいえ、違うわね。独特の臭いがない。あるいは、『幻想郷』の住人の誰かが…幽霊か、妖怪でも入り込んで、居眠りをしている。…だと良いのだけど…。)
膨らみの傍に跪いて、覆い被さる雪を払う。すると程なくして、咲夜の手は柔らかい感触に触れる。
「この手触り…。こっちで買い求められる品じゃないわね。そうなると、やっぱり…。」
ポツポツと、深雪に降る雨粒の様な呟きを落としながら、彼女の手が雪を払う。
露わに成ったのは、膨らみの主が身に着けたダウンジャケット。一見したところ、厚手で、表面の素材にナイロンを使用している。つまりは、極々、一般的な代物のはずだが…。こちらでは…幻想郷では、出回っていないらしい。…とすれば…。
粗方雪を払い終え、咲夜の手が止まった。
「異世界からの迷い人…。私とした事が、考えが足りなかった。まさか…普通の人間が『紅魔の森』へ踏み込んでくる…頭から、その可能性を見落とすだなんて…。」
深雪に力なく横たわるのは、彼女の言う通り一目で『普通の人間』だと解かる、青年。
ややあどけなさを残した横顔。その眠る様な耳元から、雪をもう一払い。咲夜は溜息を漏らす。
「何はともあれ、息があるのかを確認しないと…。」
払っても、払っても降り積もる雪に見切りをつけ、青年のか細い唇の隙間へ手を寄せる。すると、冷え切った彼女の手の甲に、微かな温かみが纏わりついた。
「これはいよいよ、放っては置けないわねぇ。参ったなぁ。」
不謹慎とは思いつつ、またも咲夜の口を衝く雄弁な溜息。『思いも寄らぬ仕事を抱え込んでしまった』と、それくらいの意味だったのであろう。
…窓辺から降る雪を見つめながら、咲夜は一年と一時間…それに2分前の、その時の心境を思い出し溜息を重ねる。柔らかく、温かい溜息を重ねる。
(あの日、アナタを見つけさえしなければね。こんな苦労を抱え込む事もなかった。嘘じゃなくて、これは本心。だって、あの時の私には…吹雪の中、どれだけ粘ってでも『訪問者』を見付けなくては…なんて、そんな気はさらさらなかったもの。だから、アナタの命を拾う事に成ったのは…ちょっとした廻り合わせ。べ、別に、アナタの好きな言葉を…『運命』を意識しての事じゃないけど…んんっ。)
胸中で言い訳に奮闘していた咲夜が、窓へ映り込む小悪魔の、クスクスと可笑しそうに笑う顔を見付けた。…多分、向こうからは、咲夜の照れた顔が窓に映って見えるのだろう。
咲夜は恥ずかしさを、耳にまで広がる血の気を、咳払いで堰き止める。そして、ポケットから取り出した懐中時計に目を落とす。一年と一時間…それに、1分前と同じ仕草で…。
『廻り合わせ』…そう、確かに、『廻り合わせ』が良かった。
一つは、咲夜が彼のジャケットを見逃さなかったこと。雪に埋もれていたかに思われた、青年。しかし実際は、ジャケットがアイボリーと言う紛らわしい色だった為、そう言う風に見えただけ。
もしもこれが、雪だるまになって一晩を明かせる様な、神経の図太い門番であったなら…。『見当たらない。あっ、何か膨らみが…なんだ、ただの雪の塊か』で済ませ、それこそ間違いなく、青年をただの雪の塊に変えていただろう。見付かるのは、白い雪から白い骨に成って、春先頃か…。
吹雪は強大な生き物の遠吠えの如く、猛烈な突風となって二人に吹き付ける。美鈴の惚けた顔を思い出し、ほくそ笑んでいた咲夜も…流石に、目を開けているのが難しくなってきた。
それでも咲夜は、食い入る様に懐中時計を見つめて、
(自分で運ぶにしろ、応援を呼ぶに戻るにしろ、この人には一刻の猶予もなさそうね。)
…青年に…アナタにとって『廻り合わせ』が良かった…そのもう一つの理由。そして、最大の理由がこれ。
そう、つまり、彼女が…十六夜咲夜が、誰よりも時間の大切さを知る女性だったこと。加えて、咲夜が、誰よりもり時間の扱いに長けていたこと。アナタの命を救ったのは、まさに、この二つ『廻り合わせ』だった。
凍える様な寒さの中、常人の指ならばとうに悴んで、使い物にならないところ。だが咲夜は、平然と、優雅にすら見える指使いで、懐中時計を握り直す。次に、時計を持った右手の人差し指と中指で竜頭を挟み…カチリッ…長い指を駆使して、それを持ち上げる。
こんな切羽詰まった状況にあって、時計の時刻合わせか。彼女は『誰よりも時間の大切さを知る女性』ではなかったのか。アナタに意識があれば、そう思ったとしても当然であろう。しかし、ご心配には及ばない。
なぜなら、咲夜が竜頭を引き上げた時点で…いいや、その時刻で、時間など彼女には幾らでもある。同時に、アナタには、生きる為の幾らの時間も必要なくなった。
立ち上がり、横たわるアナタを見つめる、咲夜。矛盾する時間の観念を両立させる答えは、二人を取り巻く光景に浮かぶ。そう、まさに浮かんでいるのだ。
耳を澄ませれば、ほら、聞こえるはず…。耳をつんざく様だった吹雪の声。それが微かにも、聞こえなくなっているのを…。そして、瞬きをすれば、静まり返った視界に浮かぶ雪。
比喩ではない。一秒前まで降りしきっていた雪が、音もなく、隈なく、浮かんでいる。まるで空中に張り付いたかの如く。
それは周囲の全てが透明なゼリーに沈み込んだ様な、奇妙で、ふわふわとした違和感。その最中でも咲夜は、慌てず、騒がず、確認の必要がなくなった懐中時計をポケットに仕舞う。
(さてと、これで時間の方は問題ないとして…。やっぱり、人を呼びに戻るとしてもこの人、どこか雪のやり過ごせる所へ移さないといけない。人手を借りるのには時間が掛かるし…止まった時間の中で動けるのは、私だけなんだから…。)
制止した景色の中に溶け込む様に、咲夜が頷いた。
プラチナブロンドの髪を揺らし、見下ろす眼差しは考えを廻らせている。それはそれは生真面目に、ただし悠々と…。固着した時間の内で一人、楽しむでも、誇るでもなく、動かない運命の輪の前で立ち尽くし、一瞬の永遠を過ごす。
彼女は十六夜咲夜。『時間を操る程度の力』を有する女。そして、『紅魔館』のメイド長。この二つの肩書きが、時の刻みから外れた彼女の全て…。
虚空に浮かぶ雪の一つ摘まみ、指ですり潰す。冷たく、濡れた感触が指を伝い、咲夜の掌の上に落ちる。そこで、ふと思い出した。
(本館とは反対の方向になるけど、少し離れた所にコテージがあったわね。あそこなら、雪をしのげるし、暖を取る事も出来る。何より、あそこには本館と直通の内線電話があるから…よしっ。)
咲夜は手の湿り気をエプロンで拭う。それから、ドレスの腕を惜しげもなく、肘まで雪の中へ突っ込んで、
「うん…しょっ。」
大息を吐く様な掛け声と共に、アナタを…深雪の上で転がし、うつ伏せに…。
しかし、あれだ。息も絶え絶えな人間の口を、顔ごと雪で塞ぐなど言語道断。まぁ、本来なら、その通りであろう。…とは言え、ご案じ召されるな。止まった時の中では、元より、アナタの呼吸も止まる。だから、何ら問題はないし、問題にはならい。例え、顔が雪塗れに成っていたとしてもだ。
転がした拍子に跳ね上げた雪さえ、躍動的なその状態のまま固着する。屈み込んだ彼女は、スカートの裾でその雪の王冠の形を整えながら、アナタを抱き起こしたり、抱き上げてみたり、やっとの事で細い肩に両腕を背負った。…またも大息を吐いた様子をみても、腕力の方はどうやら、人並み、普通の女性並らしい。
大の男を背負っていては、立ち上がるだけで一苦労。それに、アナタは咲夜よりも、優に10センチメートルは長身なのだ。雪の上で足を引き摺る事に成るのは、仕方ない。
それでも…肩へ当たるアナタの顎の感触で、寒くもないのに身震いしながらも…咲夜は、すぅっと息を吸い込み。
「よしっ。」
決意を奥歯で噛み締め、コテージへと向けて歩み始める。止まった景色の真ん中に、二本の溝を引きながら…音のない世界に、雪を踏みつける音を響かせながら…。
耳の奥に残る乾いた足音。そこに、コッ、コッ、絨毯の床を踏みならす音が重なる。
咲夜は、はっとして後ろを振り返ると、
「何分、遅刻したと…。」
言い掛けた言葉の続きは、目の前の、気の毒そうな小悪魔の表情に消えた。
「あの、良ければ私、彼の様子を見に行きましょうか。」
彼女の長い髪の間、耳の上辺りから生えている、二本の小さな羽。髪飾りの様なその悪魔の羽へ目線を逃がして、咲夜は短い吐息を漏らす。
心臓の鼓動が速い。イメージの中とは言え、一年と一時間…それに1分を行ったり来たりしているのだ。まぁ、すぐに応えられないのも、無理はない。小悪魔の後ろからは、心配そうにこちらを見る妖精たちの視線。
懐中時計を持った右手を下ろして、咲夜は首を横に振って見せた。
「いいえ、彼が遅刻するのは毎朝なんだから…。わざわざ、迎えに行く事ないわ。それよりももう、5時を過ぎたみたいだし、朝礼を始めましょうか。」
口振りは和やかに、そしてニッコリッ、小悪魔たちを安心させようと微笑む。だけど…深い雪の中にはまり込んだ様に…彼女の足は窓辺を離れようとしない。
小悪魔はそんな咲夜の胸中を察しってか、ポツリッ、静かに呟く。
「そう言えば、今日で…彼がここへ来てから、丁度、一年に成るんですよね。」
「えっ、えぇっ…。そう…だったかしらね…。」
曖昧な言葉が少しずつ降り積もって、胸を塞ぐ。十六夜咲夜ほど時間に正確な女はいない。そして、十六夜咲夜ほど時間に愛された女はいない。…彼女が、時の経過を失念するはずがないのだ。
小悪魔も、妖精も、皆…咲夜自身だって知っている。咲夜は、たった十分の後れを見逃せないと知っている。そんな時間に正確な彼女が、時間に誠実でいられなくなる程…そんなにまでして、待っている人がいるのだと…。
「あと五分だけ、待って上げませんか。」
カチッ、カチッ、秒針の音に咲夜が息を詰まらせ掛けた瞬間。優しい微笑みを浮かべ、小悪魔が呟いた。
それは誰でもない、自分へと向けられた労わり。そうと知りながら…否、そうとしればこそ咲夜には、素直に、小悪魔の言葉に甘える事など…。
「五分だけ待って…それでも来なかった時は…。」
「その時は、彼抜きで朝礼を始めちゃいましょう。十五分も待って上げたんです。彼だって後から、文句を言ったりしませんよ。何だったら私、『十五分は間違いなく待ちました』って、彼に明言します。」
「『文句』って…私は別に…。」
悩ましげな声を漏らしながら、くるくる、咲夜は親指に鎖を巻き付けていく。手繰り寄せようとする先にあるのは、『彼から文句を言われるのが嫌で、待っている訳じゃない』の一言。
窓から伝わる外気に触れ、霜焼けの如く熱っぽい頬。咲夜はその内側を奥歯で噛むと、弱弱しい呟きを続ける。
「私の事は別に言いの。それよりも、貴女たちの、他の使用人たちの事を…。私はここのメイド長だから、使用人の世話をする義務があるわ。でも、貴女たちまでそれに付き合う義理はないでしょ。だから…私としては、貴女たちさえ良ければ…。」
そんな咲夜の、あらゆる意味で不明瞭な発言を聞いて、
(ごちゃごちゃ言った割には、結局、それですか。まったく、妙なところだけおぼこ娘なんだから…。)
と、小悪魔は、笑っていいやら、呆れていいやら、微かに眉を潜める。しかしながら、事はアナタの為…と言うより、他ならぬ咲夜の為だ。
ほんの少し馬鹿らしさを、それに、ほんの少しのやっかみ抑え込み、小悪魔は優しい笑みを浮かべた。
「義理ならありますよ。」
彼女のその『とんでもない』と言いたげな声が、人知れず伝えている。馬鹿らしさの方は兎も角、どうやらまだ、やっかみは抑え切れていないと…。まぁ、ここまで初い姿を見せられれば、冷やかしたくもなろうよ。そもそも、小悪魔だからな。
咲夜は…どこまで自覚があるのやら…親指の動きを止めると、瞼を吊り上げる。
一瞬、時の止まったかの様な沈黙。聞こえるのは吹雪が窓を叩く音、そして、閉じて行く咲夜の瞳孔から聞こえる静寂だけ…。小悪魔は、険の籠った目線を平気な顔で受け流して、言葉を継ぐ。
「同じ使用人なんですから、待って上げる義理はあります。そうは言っても、こう毎朝だと、ちょっとうんざりですけどね。」
見かけは屈託のない、悪魔的な小悪魔の笑顔。咲夜はその口振りに、安堵の吐息ともとれる…固い、固い溜息で答えた。…だがそれでも、その後に続く言葉は…自然と口を衝きそうになった『ごめんなさい』までは…まだ、踏み込む勇気を持てない様だ。
「とりあえず、もう五分だけ待ちませんか。この一年間、遅刻続きでも、彼は頑張っていました。だから、節目の今日までは、大目に見て上げましょう。私も、皆も…ねっ、いいよね、みんな。」
振り返りそう尋ねた、小悪魔。彼女の肩越しから、整列した妖精たちの一斉に手を挙げる姿が覗く。それはそうと…妖精たちは何故、掲げた手をワキワキさせているのだろう…。
些細な疑問には目もくれず、小悪魔は茜色の長髪を翻して、
「皆は大乗り気みたいです。私もあと五分くらい苦になりません。咲夜さんは…大丈夫ですよね。」
「私は…皆がよければ…構わないけど…。」
「…じゃあ、決まりですね。今朝は、あと五分だけ待つ。でも、それも今朝まで…。一年と一日目の明日からは、午前5時を回った時点で一秒も待たない。彼だってもう、立派な『紅魔館』の使用人。いつまでもお客様気分でいられては困りますもんね。」
「そう…よね。そう言う事なら…。」
と、咲夜が振り子の様に揺れる瞳を、懐中時計へと落とす。その瞬間、カチリッ、長針が文字盤の『Ⅱ』を指した。
ここからあと五分だと、丁度、5時15分。区切りの良さに何とも…言いたかったこと、思っていること…全部、見透かされている様で…。咲夜はそれ以上の言葉もなく、赤らめた頬を隠す様に顔を背ける。
窓に映るのは、妖精たちの方へ戻っていく小悪魔の背中。それに…アナタを背負い、歩いたあの日の…彼女自身の姿。
二人を巡り合わせた『運命』を染める様に、白い雪が咲夜の胸の奥へ降り積っていく。
[4]
固着した雪を散りばめた世界は、瞬く事のない星空の様にどこまでも広がっている。その黒い背景と、森の木々の焦色で繋がる真っ白な足元。疲労とアナタの重みで、いつ引っ繰り返るとも知れない…そんな世界。
どれくらい歩いただろうか。止まった時間の中ではそれが解かるはずもなく…ただ黙々と、荒い息を吐いて、一人…否、二人分の思いを背負い、咲夜は歩みを進める。
無限に続く一年と一時間…それに十分前の出来事。しかし、時の歯車が凍りついたとしても、『運命』が遠ざかることはない。少しずつ、だが確実に、二人は進んで行く。…そら、見えてきた。
薄く張った氷が鈍く朝の光を反す。その湖畔に、目当てのコテージが佇む。
咲夜の吐く熱い息が、虚空に浮かぶ雪へ掛かる。時が動き出せばこの雪も、溶けて、滴となるのだろうか。
しばらくの間…いいや、時の『間』などない世界の真ん中で、そうして息を整え…。咲夜は再び、コテージへと向け歩み出した。
湖畔が目の端に入ってからも、然したる難所はなく、ただただ、アナタの両足が二本の線を伸ばす一本道。木々を抜け、轍の跡が湖と同じ目の高さに達し、ようやく、コテージの全景が凍った湖に映る。
あと少し、あと…湖の反対側に回れば、コテージへ辿り着く。さて、咲夜は顔を上げる気も、コテージの外観を一望する気もなさそうなので、著者が代わってその見事さをお伝えしよう。なに、彼女が反時計回りで、湖を半周するまでのこと。少々、お付き合い願いたい。
コテージは平屋造りで、一見するとバンガローの様にも見える。正面から張り出したベランダは湖に面し、氷が解ける頃には直接、そこからボートを下ろす事が出来るだろう。
しかし、そうした構造から『簡易宿泊所』などと思ったら、痛い目を見る。
夏場の滞在を目的としているのか、ベランダのみならず、通気性の良い木材が目立つ。その壁面や床を、石造りでふんだんに補強してある様は…とても、とても…『バンガロー』という言葉では及びもつかない情緒を醸し出ているのだ。
そして何より、咲夜の目前に迫ったコテージで特質すべきは、その大きさ。一口に、コテージ、バンガローと言い表してみたが、規模だけでみれば恰も要塞。本来ならヴィラと呼びにふさわしい、贅を尽くしたカントリーハウスである。
これで、外観の説明は一段落。そして丁度、アナタを運ぶ咲夜の足も、ベランダのステップに掛かった。…と言う訳で、残すコテージの内装については、彼女と共に見て行くとしよう。
大の男を担ぎ、引き摺ってのこと…。足取りは重く、ギシッ、ギシッ、乾いたステップへ圧し掛かる。
ガツンッ、ガツンッ、アナタの爪先がステップに当たるのもお構いなしで…いいや、むしろ、朝から重労働をさせられた腹立ち紛れに、態とぶつけていたという事も…あるかも知れないな。しかしまぁ、とにかくだ…。
とにかく咲夜は、ベランダに浅く積った雪を蹴っ散らかして、コテージの正面入り口へと辿り着いた。
時刻はアナタを担いで歩き出した時のまま…。早鐘を打つのは唯一つ、彼女の心臓の鼓動だけ。
咲夜は深く、大きく、息を吐いて、吸い込む。雪道を歩いた膝は、今にも落ちてしまいそうに、微かに笑っている。その小刻みな震えに苦笑いを返すと、もう一歩、彼女は入口へと近付く。
それにしても…果てさて、どうしたものか。勿論、咲夜の目の前にある両開きの扉の話だ。
まさか、これほど豪壮なコテージが、戸締りはしていない…訳もないだろう。そうすると、どうやって鍵を開けるのか、どうやって扉を開くのかが問題に成ってくる。
いいや、要らぬ気を遣って、遠回しな言い方を弄するのは止そう。だいだい、このコテージを選んだのは咲夜なのだから、鍵の用意のないはずがない。…と成れば、手近にある問題は唯一つ。そう、手近な…ずばり、彼女の両手を占領している、アナタの両腕の事だ。
言うまでもなく、咲夜にとって、背負っている荷物を離すのは容易い。ここまで来るのに、息を荒げ、荒げ、それこそ語り尽くせぬ程、親切にしている。だから、アナタの身体をベランダの冷たい床に放り出す…もとい、預けるのも、良心を傷める事はないだろう。しかし…今の彼女には、心情などより余程、差し迫った苦しみが…。
更にもう一歩、扉へ歩み寄ろうとして…ガクリッ…笑いっ放しだった咲夜の膝が、崩れ落ちそうになる。引き摺られていたアナタの靴の爪先が、思いがけず、積った雪を深く掻いた。…多分、その反動が原因。
この場に座り込み、浮かんだ雪でも数え、ぼんやりとしたい。だが、一度、雪の上に尻を付けば、アナタの膝を落とせば…二度とは、立ち上がれそうもない。まず間違いなく、二人揃って使用人たちに世話を掛ける事だろう。いいや、世話を掛けるだけならまだ、大した問題ではないのだ。
どうしても尻もちだけは突けない。そう頑なに咲夜を踏ん張らせる最大の理由…それは…、
(あれだけ偉そうな事を美鈴に言って置いて、その私がドレスを濡らす訳にはいかない。率先して『紅魔館』の風紀を守るのは、メイド長である私の役目…。)
歯を食い縛り、足元の雪を押し潰しながら…この言葉を胸中で何度となく呟き、自分を鼓舞する。まったく、ご立派。一年と一時間…それに1分後の彼女自身へ、ぜひ、聞かせてやりたいところだ。
しかし、冗談や、咲夜の崇高なプライドはとかくとして…。現実問題、両手が塞がっていては、鍵を開けるどころか、扉のノブを掴むことも出来ない。
やはり、流石のメイド長さまも進退極まったか。咲夜はぼんやりと虚空を見上げ、まるで雪の粒を数えるかの様に、語り掛ける。
「私よ、開けてちょうだい。」
音の凍り付いた世界に、言葉と、熱い吐息が広がっていく。だが…じんわりと広がっていく彼女の声に、一体、誰が応えると言うのだろう。彼女以外は誰一人として気付く者のない、止まった時間の中で…。
咲夜が声を掛けてから、数秒。重苦しい息遣いの他、何の音もなかった景色に…ガチャッ…金属音が響く。そしてまた数秒後、すぅと、音も立てず、両開きの扉がコテージの内側へ引き寄せられた。
これはつまり、このコテージを管理している者が居て、二人の有り様を見かね手を貸してくれたのだろうか。しかしながら、止まった時間の中、咲夜以外の何者にそんな真似が出来るのだろう。正直、気になるところではある…が、それを考察している暇はなさそうだ。
幾ら『時を止めている限り、アナタが死んでしまう事はない』にしろ、そしている間もどんどん、咲夜の疲労は増しているのだ。アナタの為にも今は、彼女の心と膝が折れてしまわぬよう、二人を見守るべきだろう。
コテージへ一歩踏み込むとまず目に入る、メダリオン模様の絨毯。足拭きマットにするには明らかに高価なそれを…残念ながら、迂回して進む体力が咲夜には残されていない。
せめて少しでも損傷を減らそうと、息を吸い込み様、背中の荷物を担ぎ直す。そうしてから…結局…アナタの靴の爪先で酷く絨毯を引っ掻きつつ、咲夜はコテージの中へ進んで行く。
「ありがとう、もう扉を閉めて良いわよ。それと、居間を使うから、暖炉に火を入れる準備をしておいて。」
絨毯の事は覚悟が出来ていたらしく、表情は変えず…それでも、声付きは心苦しそうに…咲夜はまた、誰にともなく語り掛けた。…と、今度も返事はないが確かに、彼女の指示へ応じるかの如く、背後で扉が閉まっていく。
両開きの扉が閉じ切ったと同時に、玄関から締め出された朝の薄明。だが、その暗闇の中でも一つだけ…明らかなことがある。それは、『このコテージには確かに、何者かが存在している』と言うこと。そして…。
二人の進む広い玄関スペース。四方から一斉に…キュキュッ…壁に設置されたガス灯の、コックを捻る音。…どうやら『何者かは、見えない何者か』で、『指示には忠実、加えて気が付く奴』らしい。ただし…、
「折角、気を配ってもらって悪いのだけど…。止まった時間の中では、ガスは流れ出ないし、火も付かないわ。そのまま時間を動かすと危ないかも知れないから、元栓は閉じて置いて。」
と、咲夜。
彼女にしてみれば、歯を食い縛りたいところを押して指図をした訳で…今出来る最大の労いだったのだろうが…。また四方の壁から一斉に…キュキュッ…返ってきたのは、如何にも寂しげにコックを戻す音。
少し素っ気なくし過ぎたと思い直したのだろうか。咲夜は、それでも自分と、引き摺られるアナタの足を止めず、それとなく言葉を付け加える。
「照明はいいから、居間の扉を開いてもらいたいの。頼めるかしら。」
額に汗を滲ませ、息切れ寸前の、渇いた喉を削る様な言葉。彼女の気苦労へ思い至れたかは別として、『見えない何者か』にすれば、まさしく値千金のご用命であった事だろう。
俯き歩む咲夜の額が扉にぶつかる寸前、ふわっと、プラチナブロンドの前髪を引き込み、居間への道が開かれた。
勢い込んで、そして、どこか誇らしげに…。そんな『見えない何者か』の表情を脳裏に思い浮かべ、咲夜は、
「仕方ない事だけど…いつまで経っても子供なんだから…。私にこんな頃があったなんて、我ながら信じられないわ。」
と、苦笑いで見せた歯を食い縛り、最後の一踏ん張り。暖炉を囲む様に並んだソファの方へ。
何分、暗がりのこと、ソファの色さえ定かではない。だが、灰の一欠けらもない綺麗な暖炉には、一つ、二つ、三つと薪木が据えられ、注文通りいつでも点火できる準備が成されていた。
咲夜は暖炉の正面に位置する寝椅子へ、アナタを横たえる。いや、流石に一度で寝かせるのは難しかったか。まずはアナタを寝椅子に立て掛け…お次は押し込み…そして、放り出された両足から靴を脱がせ…やっとこさ、横たえさせ終えた。
アナタを縦へ、横へと動かす度、居間の床に散らばる雪の粒。その多いこと、多いこと。それだけで十二分に、ここへ至るまでの彼女の苦労が窺い知れると言うものだ。
二つあるエプロンのポケットから懐中時計…ではなく、ハンカチを取り出し、額を拭う。咲夜の顔には疲れの色が濃い。すると、そんな憂鬱な表情を吹き飛ばすかの様に…サァッ…窓を覆っていた分厚いカーテンが引かれ、居間の中へ朝の光が差し込む。
朝の光とは言え、それは吹雪の朝の薄明かり。だがむしろ、憂鬱な心境には、垂れこめる様な淡い光が心地良い。
咲夜も少しは寛ぐことが出来たらしいな。エプロンのポケットへ突っ込んだハンカチを懐中電灯に持ち替え、それから…時間が止まっている内にと、大きな欠伸を一つ。きっと窓辺から見守っている『見えない何者か』へ、笑い掛けた。
「それじゃあ、止めていた時間を動かすから、暖炉に火を入れてちょうだい。あとは、そうね…。私は濡れた服を脱がせているから、何か、気付け薬に成りそうなものを…。そう言えば、地下の保存庫にスコッチがあったわね。あれを持ってきてもらおうかしら。当然、グラスと、オープナーを忘れずにね。」
返事はない。あるのは信頼と、愛嬌のある沈黙だけ。咲夜は笑い返すかの様に、また、口元を綻ばせる。そうして、右手に持った懐中時計の竜頭を戻す。
チクタクッ、チクタクッ…。最初に動き出したのは秒針。瞬く間にその動きが、か細いアナタの息遣いへと…いつの間に火を入れたのか…燃え上がる暖炉の火の揺らめきへと、窓の外の吹雪のへと広がっていく。最後に『見えない何者か』が居間の扉を閉めて、この世界に流動的な静謐さが返ってきた。
さて、こうなっては一刻の猶予もない。早速、アナタの濡れた服を脱がせに掛かる、咲夜。ちょっと嫌そうに眉をひそめながら、まず、靴下を剥ぎ取り…これだけは防寒性の高そうなグローブから、指を引っ張り出し…いよいよ、ダウンジャケットへ手を掛け…すると、
(あらっ、この手触りは…懐に何か忍ばせているみたい。)
率直に言って、彼女には興味があった。凍死寸前のお荷物を…もとい、アナタを助けるのに、好奇心は少しの手も貸してくれなかった。…と言ったら、嘘に成るだろう。
どうして、普通の人間が『紅魔の森』には迷い込んだのか。何を成す為に、雪深い中を進もうと決意したのか。その疑問の答えが、もしかしたら…、
(この懐の何かなのかも…。)
『紅魔館』のメイド長という職に不満などない。日々を平穏無事に過ごせるなら、それが何よりのこと。全ては、主の健やかな成育の為に…しかし、それでも…。
彼女の中でずっと止まっていたものが、安寧に刺激を求める気持ちが、ほんの少しだけ、アナタという異邦人の存在で動き出したのかも知れない。
ダウンジャケットを脱がせた拍子に、アナタが背中を見せる。勿論、これは寝椅子の上で転がっただけ、アナタにすれば完全な不可抗力。…だとしても、咲夜にとってはまたとない好機に思えた事だろう。
『意識を失っている人間の持ち物を探るなんて』、『このままジャケットに包んで、気付かない振りを決め込むことだって』、そんな頭をもたげる理性的な考えを、
(この人が『紅魔の森』へ入り込んだ理由を、私は知っておく必要があるもの。それに、これが身分を示すものなら、意識が戻らない場合の対処にも役立つはずだから…。)
と、少々、都合の良い解釈でねじ伏せた。
美鈴に『はいしたない』と言った事を、今更ながら、可笑しく思えてくる程…彼女の心臓は高鳴っている。
そして遂に、そしてやっぱり、咲夜はアナタが忍ばせていたものを手に取った。
茶色の細長い紙袋に突っ込まれた中身。それは殊更に珍しいものでなく、しかし、だからこそ意外なもの。咲夜も驚いた顔をその表面に映して、不思議そうに呟く。
「ワイン…。これまた随分と、用意の良い…でも…。」
…だとしたら、何故、これを飲んで身体を温めなかったのか。確かに、その通りだ。
コルクを開ける手段が無かったとして、大の男の力があれば、瓶を叩き割る成り、方法はあったはず…。そうしなかったと言う事は、このワイン…余程、アナタとって大切なものだったのであろう。…だとしても…。
「どれだけ高価な代物か知らないけれど、死んでしまったら、元も子もないでしょうに…。だいたい、これ…ラベルもないし、ガラス瓶の細工も雑だし…自分の命と天秤に掛けられるとは、とても…。」
嘲る様な言い回しが、益々、彼女を高揚させていく。気付いているのだろうか。徒労を強いられたかも知れない腹立たしさ、あるいは、命を粗末にする事への義憤で、一滴の酒も必要としない自分の方が熱くなっているのを…。
革靴を履いた足首に、靴擦れの痛み。咲夜は胸に湧き上がる苛立ちを、その疼きの所為だと踏みしめ、押し殺す。真冬の寒さすらものともしない彼女には、容易いことだ。
そうこうしている間に…ガチャリッ…解かり易い物音を立て、『見えない何者か』が返って来た。
扉を抜け入ってくるのは、取っ手付きのサービストレイ。純銀製のそれの上には、30年物のバランタインのボトルが一本、ソムリエナイフが一つ、それから、ショットグラスが一個。間違いなく咲夜の指示した通り…なのだが、不法侵入の末に行き倒れた者へ施すのには、豪勢すぎる気もするな。
取り揃えた一級品を乗せシルバートレイは、どう言う訳か低空飛行で…それこそ、まるで子供が運んでいるかの様な高さで、二人の元へ。扉は後ろ足で蹴飛ばしたかの如く、パタンッと閉じる。
咲夜は脚を伸ばし、背筋を伸ばし、『見えない何者か』を迎え…そして…トレイの上の品々を見るや、顔をしかめた。…残念ながら、著者の危惧が当たってしまったか。
「『スコッチを持って来て』とは頼んだけれど、バランタインの30年でなくても…。調理用に使っている12年があったでしょう。どうせ気付け薬なのだから、あれで良かったのよ。それにグラスも、タンブラーでも、ジョッキでも、もう少し口へ流し込み易いものを…あぁ、取りに行かなくても良いの。それより、暖炉の火を見ていてちょうだい。大丈夫よ。気付け薬だったらちゃんと、この人が持参していたみたいだから…。」
薪木の燃える匂いに照らし出されるワインの赤、そして、悪戯っぽい咲夜の笑顔。そりゃまぁ、行き倒れていたところを助けてもらったのだから…勝手にボトルを封切られたとして、文句を言われる筋合いはなかろう。しかしながら、アナタが命懸けで運んでいた…かも知れない…品だからなぁ。
事情を知らないはずの『見えない何者か』方が、かえって、躊躇っているかの様にも見える。
そんなぼやぼやしているトレイから、さっさとソムリエナイフを取り上げる、咲夜。アナタの方へは一瞥もくれずに、ボトルを開けに掛かった。
まず、ガラス瓶の安普請さの割に、厳重なキャップシール。これを瓶の口に沿って一周、ナイフで切れ目を入れる。
キャップシールを剥がしたら続いて、コルクにスクリューの先端を刺す。それから、慣れた手付きで、淀みなく、スクリューを捻り、ねじ込んでいく。
コルクを貫かぬ、程良い所までスクリューが通った。
ここまでくれば、もう一息。あとは、ソムリエナイフの梃子をガラス瓶の口へ引っ掛け…チラリッ、アナタの背中を目で窺ってから…まっすぐ、コルクを瓶から引っ張り出す。
キュポッと、小さく瓶の内側を擦る音。数秒遅れで鼻をくすぐる、芳しさ。
安物だと決めつけていたワインの案外な幽香に、思わず、
「好い匂い…。」
ソムリエナイフをトレイへ返す手が止まる。これは、軽率だったかも知れない。そんな咲夜の心情が、仕草に、コルクを付けたままのソムリエナイフに、刺さっていた。
そうかと言って今更、封切ってしまったものは仕方があるまい。
咲夜は意を決して、トレイからショットグラスを取り上げる。それから、少しぎこちない手付きでボトルを傾け、グラスへワインを注ぎ込んだ。さぁ、こうなれば後へは引けないぞ。
ボトルをトレイに預けたその手で、アナタの肩を掴み、仰向けに…。その際、勢い余って、引き倒すかの様な形に成ったが…まぁ、問題ではないな。
暖炉の火に当たり始めて間もないとは言え、そこは若者の身体。体温の上昇に導かれ、早くも、アナタの吐息に苦しげな呻きが混じる。
目覚めようと眠りの縁でもがくその様子に、緊張の色を濃くする、咲夜。そろり、そろりと、左手をアナタの口元へ近寄らせながら、潜めた声で呟く。
「聞こえていますか。今、気付け薬を飲ませて差し上げますからね。ゆっくり、少しずつでも、飲み込んで下さい。」
彼女自身、馬鹿丁寧すぎたと思う口調に、罪悪感が滲む。だが、滲んだ罪悪感はすぐさま霞んで、暢気そうにも見える寝顔への怒りに変わる。
「失礼…しますね。」
言うや咲夜は、左手でアナタの下顎を掴み、右手のグラスの縁を薄く開いた唇に押し当てた。
アナタは、今の今で苦しげな吐息を漏らしていたのだ。その唯一の逃げ道を塞いでしまったら、気付け薬を含ませても、むせてしまうのではないか。咲夜はともかく…見守る『見えない何者か』には、気係だったらしい。トレイが、すぅっと、アナタの顔を覗き込む様に近付く。
しかし、どうやら心配するまでもなさそうだ。ゆるゆると注ぎ込まれる赤紫色の液体を、喉を鳴らし、アナタは飲み込んでいる。そうして『蓋を開ければ』、息を詰まらせる事もなく、ワイン一杯をペロリッと飲み干してしまった。
咲夜はグラスをトレイへ戻しながら、『ねっ、大丈夫だったでしょ』とでも言う様に、誰にともなく微笑む。『見えない何者か』は頷くともなく、トレイを暖炉脇のカフェテーブルへ。当然、そこからは足取りも見えなくなる訳だが…。おそらくは、咲夜に言われた通り見ていたのであろう。暖炉で燃える炎を、そして…これから始まる風変わりな物語の、一部始終を…。
寝椅子の肘掛けに頭を押し付け、喉を反らし、アナタが一声大きく呻きを漏らす。程なくして、瞼を震わせながらも、少しずつ目が開いていく。
「お加減はいかがですか。」
と、流石は、メイド長。さっきまでの苛立ちや、小さな反感など吹き飛ばし、至極穏やかに、優しい声で尋ねた。
分厚い雪雲の間から覗く朝日の如く、朗らかでいて、優美な笑顔。『見えない何者か』よ、よーくっ、見ておく事だぞ。これが、成熟した大人の女の粧いというものなのだ。
この魅力的な表情を前にすれば、自然と、瞼が持ち上がっていくのも解かる。アナタだって、急がず、じっくりと、広がっていく瞼の間から青空を…いいや、白金色の彼女の瞳を見つめた。
寝起きの熱っぽさそのままの、少し湿り気を帯びた視線。これには咲夜も、恥ずかしそうに、大きく口元を綻ばせて、
「その…唇が重い様なら、無理にお答え頂かなくても大丈夫ですよ。どうぞ、目を閉じて、もうしばらくお休みに成って居て下さい。」
と、気付け薬を飲ませた勢いとは真逆の、優しい言葉遣いで語り掛ける。
見えない手が放り込んだ薪木で、一層強く燃え上がる暖炉の炎。だが、彼女の指先が、首筋が汗ばんでいる理由は、ドレスの背中に当たる熱っぽさだけではなかろう。
アナタの目は、その瞳で意識の光を反すまでに開いて、開いて、更に開いて…『一体、どこまで開く積りか』と尋ねたくなるくらいに、見開かれる。
こうも…穴が空きそうな程、しげしげと見られてはな。うなじに感じていた火照りは、乾燥したうすら寒さに変わり…咲夜は上手く戸惑いを隠せず、アナタから目線を逸らした。
「きっ…着替えお持ちしますね。それから、毛布も…。」
最後の一声は、心ここにあらず。一刻もここを離れたいという気持ちが、はっきりと表れている。
…チクタクッ、チクタクッ…ドクンッ、ドクンッ…時計の様に正確で、揺ぎない、彼女の胸の歯車。それが少しずつ、遅れて、早まって、自分の思いが何時の方向を指しているのか解からない。
咲夜はこんな眼差しを知らなかった。今まで生きてきて、こんなにも真っ直ぐに見つめられた事なんて…なかった。
だから、アナタが何を訴えかけようとしているのか、知る由もなく…。咲夜は逃げる様に、逸らした視線の後を追う。それなのに…。
背中を向け、視界からアナタの姿が消えった、その時。彼女の細い腕を、大きな手が掴み止める。
「待って…待ってくれ…。」
冷え切った手に籠る力は、酷く弱弱しい。だがそれだけに、強く、強く、アナタの真剣な思いが伝わってくる様だ。
手を引かれた止まった靴の踵が、タイルの床を打つ。雪の粒を噛み砕いた様なその音に、『見えない何者か』の手で浮かび上がった薪木が止まる。
…チクタクッ…ドクンッ…。まるで時間が遠退いていくかの如き心細さの中、もう一度、振り返った咲夜にアナタが希う。
「待って…お願いだ…。」
その消え入りそうな声を聞いて、また、得体の知れない感覚に囚われる、彼女。掴まれた左腕を、肘を固くしながら、しかし、返事をする語調は穏やかに、
「は、はい、どうしましたか。」
相手を安心させようとする笑顔、声…それとは裏腹に、胸中ではもう察しが付いていた。
アナタのひた向きな眼差しは、きっと、こう質問したいのであろう。ずばり、『自分が懐に忍ばせていたワイン。お前はそれを、どこへやったんだ』と…。
(意識を取り戻したばかりで…ここまでして、私を引き止める理由…それ以外にはないでしょうね…。いつかはこうなると知れていたけど、まさか、そんなに大切なものだったとは…。こんな目で、私を見るくらいに…。)
咲夜も確信に近いものを覚えていながら…だがしかし…白金色の瞳に罪悪感は見られない。むしろ、少し悪戯っぽい、高揚した気配が浮かんで見える。それでいて彼女はまだ知らないのだ。アナタの眼差しの…『こんな目』の正体を…。
腹を括って、あるいは、刺激を求めて、咲夜が言葉を継ぐ。
「何か、仰りたいことがおありですか。」
彼女の問いに応えようと、懸命に口を開ける、アナタ。しかし、伝えたい言葉が纏まらないのか、声を上手く発せられないのか、喉から漏れ聞こえるのは苦しげな吐息のみ。
結局、口を半開きにしたままで、アナタは頷いた。
それにしても、どうして…咲夜の胸は、こんなにも高鳴っているのだろう。どうして…早鐘を打つ鼓動に、彼女は気付かないのだろうか。
足を戻し、自分の腕を掴むアナタの右手へ、微かに震える右手を重ねる。咲夜はそうして、自分の仕草と寄り添う様に、柔らかく呟く。
「それを今、どうしても仰らないといけないんですね。」
数瞬、何事か答えようと口を動かして…アナタはまた、無言の内に頷く。
いよいよ、力強い調子で、歯の根を痺れさせ時を刻む、咲夜の心臓。素直に謝罪しようという気持ちと、困った顔を見てやろうという悪戯心、それからほんの少しのスリルを混ぜこぜにして…アナタへ頷き返す。
アナタは口を開くのではなく閉じ、ゴクリッ、生唾を飲み込んだ。痛む喉を湿らせ、必死に言葉を紡ごうとしている。そう察した咲夜は、寝椅子の傍らに屈み、アナタの口元へ耳を近付けた。
甘い酒気を帯びた…熱い吐息が掛かる距離で…たった一言…アナタはたった一言だけ、彼女へ囁く。
「…好きだ。」
一秒、二秒、三秒と、咲夜の思考だけを置き去りにして時間だけが過ぎて行く。そして…秒針の刻みから遅れること、八秒…ようやく、彼女が問い返す。
「えっ、何…が…ですか。」
頭に入り込んでまま居座る『好き』の言葉。その一言が『封切ったワイン』と混じり合い、シェークされて、彼女の耳たぶを赤く染める。彼女だって女。薄々は…薄々は、アナタが何を好きだと言っているか、知っているのだ。ただほんの少し、自分が人から思われる事に懐疑的なだけで…。
勘違いと甘い言葉で出来たカクテル。そんな咲夜を酔わせる響きへ、アナタは、フルーツの様に爽やかな思いを加える。
「君がだよ…俺は、貴女が好きなんだ。」
あまりにも真っ直ぐなアナタの好意に、咲夜の顔には…何とも言えない苦笑いが浮かぶ。どうやら、アナタの思いはグレープフルーツの味だったらしいな。
不意に、大きく息を吸い込む音。混乱で無防備に成っていた咲夜は、慌てて、左肘を引く。
それでもアナタは彼女の腕を離さず、満身に力を込めるかの如く、胸を膨らませた。…意識が戻って早々の深呼吸。勿論、苦しくない訳がない。
微かに呻いて、眉間に皺を寄せながら…。ゆるゆると、息を吐き出す。アナタのその様子を咲夜は、一瞬、心配そうに見つめる。
しかし、アナタが大柄な身を起こそうとするや、弾かれた様に、
「は、離して…離して下さい。」
と、遮二無二、腕を掴む手を振り払った。
アナタは案外と素直に、彼女の手首を離す。…両者の顔を見る限り、相手の態度に驚いているのはむしろ、咲夜の方であろう。あれほど冷たかったアナタの手の感触が、今は、燃える様に熱い。
背中へ左腕を回し、暖炉の熱気の中へ手首を隠した、咲夜。揺す振られ続ける彼女の瞳に、ソファのシートへ両手を埋め、上体を起こすアナタの姿が映る。
咲夜はそのふらつく身体を見て、少しだけ、自分の心の揺れを抑える事が出来た様だ。そうなると…色々、馬鹿らしく感じられ始めてくる。
「無理しないで…まだ、横に成っていて下さい。」
前のめりに倒れこみそうになるアナタの肩を支え、咲夜は溜息を漏らす。さっきまでの血の気はすっかり引いて、残るは疲労と、ちょっとした疑問だけ…。
そんな彼女の冷静さに触れて、アナタは俯き、首を横に振った。…で、目眩にますます俯くことになる…。
さぞかし、咲夜は呆れている事だろうな。アナタの為体に、そして、『好きだ』と言われただけで少女の如く狼狽した自分に…。しかし、このままでは、アナタも、彼女も、決まりが悪いのは確かだ。
背中を焼く暖炉の火から、アナタから二、三歩距離を取る、咲夜。腕組みして、逆光にもたれ掛かり、冷たい声で呟く。
「そう…。それでは聞かせて頂けますか、アナタがここへ…私どもの主の土地へ入り込んだ理由を…。」
「君の主の土地…。吹雪に方向感覚を奪われて、森へ迷い込んだのは覚えているんだが…いいや、知らなかった事とは言え、人さまの土地を勝手に踏み荒らして、申し訳なかった。」
「『迷い込んだ』…ですって…。」
と、咲夜は、馬鹿にしているとばかりに鼻を鳴らした。…あとは…どうやら、『君』呼ばわりされている事が、気に入らないらしい。まぁ、外見だけで判断すれば彼女、十六、七の少女にしか見えないからなぁ。
そう言う事情もあって、やや刺々しい追及が続く。
「それを信じろと…。アナタの様な何の能力も持たない方が、迷ったあげく『紅魔の森』へ張り込んだなんて…。与太話もいいところだわ。」
咲夜は鼻で笑いながらも、自分の喋っている事の矛盾には気付いている。
アナタが行き倒れていたのも、それが彼女の主の土地だったのも、確かに、異例の出来事。だがそれを言うのなら、別世界の住人が『幻想郷』に入り込んだこと自体が、普通ではない。
『迷ったあげく、妖怪に食べられる』と言う憂き目に遭わなかった。…その幸運を思えば、『紅魔の森』へ踏み込んだ事など…些細な巡り合わせだと言える。それに、
(敷地を囲む鉄柵には、侵入者対策の結界が施してあるけど…。あれは、各々力を有している『幻想郷』の住人たちの侵入を阻む為のもの。何の力を持たない常人の方が、むしろ、入り込むのは容易いのかも知れない。取り溢しをなくすはずの門衛にしても、昨晩から今朝にかけては…あの様だった訳だし…。)
コツッ、コツッ、床を踏み鳴らして、咲夜が暖炉のこっちから、あっちへ。俯き加減のアナタが、そんな動きを目線で追う。…と、スカートとエプロンを翻し、くるり。何かに思い当たってか、咲夜は踵を返した。
(偶然…本当にそうなのかしら…。あまりにも、都合が…巡り合わせが良すぎるんじゃないの。)
問い掛けは声に出さず、白金の瞳も…さっきから、アナタの視線をヒシヒシと感じているのだ…真っ直ぐに向こうの壁を見据える。
これだけのコテージならば、居間の壁には絵画の一枚でもありそうなもの。しかしながら…いいや、ここへ飾るに相応しい絵など、どこを探したってあるはずがない。窓の外へ目を向ければ、それが解かる事だろう。
吹雪は和らいで、しらしらと降る雪の狭間に朝の薄日。淡く、優しく照らし出された湖の情景は、どんな絵画にも勝る美しさ。そして、白い雪に包まれた湖が幻想的である程、どうしようもなく際立つ思い。
(この人が現れたこと…やっぱり、偶然とは思えない。)
咲夜は再び、床を踏み鳴らし、暖炉の前を横切る。続いてそれを追うアナタの目線…いや、視界を軽く揺らしただけでもう、目を回してしまったらしい。瞼を落とし、肩を落とし、一先ずは脱落だな。自分の吐く息が、酒気を帯びている。それに気付くのがやっとだった。
「あの…訊いても良いかな。」
二日酔いにも似た頭痛に苛まれながら、離れて行く背中を引き止める声。言われるまでもなく足を止めていた咲夜は、革靴の裏でキュッと、如何にも頭に響きそうな音を立て振り返る。
「どうぞ。」
アナタは歯を食い縛り、眉を潜め、それでも言葉付きは力強く、
「名前を…君の名前を教えてくれないか。」
「名も知らない相手に、アナタは…。」
と、不愉快そうに溜息を吐き出す、咲夜。これは、彼女が口にし掛けた言い分そのまま、少しも間違っていないだろう。何せ、初対面の相手へいきなり告白するなど、一昔前の『いい加減な男』の代名詞。今時、少女漫画でも、『幻想郷』であってもやらない演出だ。呆れるなと言う方に無理がある。
しかしまぁ、そうは言ってもだ。こうしてアナタを保護し、かてて加えて、これから取り調べ紛いの事をやろうというのだし…な。『紅魔館』の責任者である彼女の名前は、一応、アナタへ告げて置くのが筋。それも確かであろう。
理性からの懸命な指摘を入れて、渋々、咲夜は己の身分を明らかにする。
「申し遅れました。私はここ『紅魔館』でメイド長を務める、十六夜咲夜でございます。どうぞ、お見知りおき下さい。」
「えっと、それじゃあ、咲夜…さん、が、良いかな。…んで、『紅魔館』って言うのは、このお屋敷のこと…。」
そう言うとアナタは、キョロキョロッ、再確認するかの様に辺りを見渡した。…まぁ、この立派な居間を見たなら、ここがコテージ…小規模に作られた別宅とは、考えにくわな。
だが、そんな認識の隔たりよりも厄介なのは…。なかなか問題の根っこへ辿り着かせない、堆く積み上がったアナタの無自覚であろう。
アナタにとって、ここが『紅魔館』なのか、目の前の女性は何と言う名なのか…それ以前に、興味を示すべき事があるはずだ。例えば、
(迷ったあげく入り込んだと言うのなら、ここがどこなのか、知らないのは当たり前。でも、どうしてそれを、一番に訊こうとしないのよ。)
と、これが一点。そして、もう一つ。
(この人、腕時計をしていないようだし…それに、この部屋にも時計は置かれていない。…なのにどうして、今の時刻を私に訊こうとしないの。夜通し『紅魔の森』を彷徨い歩き、朝方に気を失ったとして…。私だったら、目覚めて最初に知りたいと思うのは…何よりもまず、お嬢様のこと。次に現在の時刻。少なくとも、その二つがはっきりしない内は、頭も、身体も、回らない。)
彼女の意見はやや大袈裟だが、概ね妥当な範囲にある。
自分を取り巻く状況と、認識とのズレを埋めるのであれば…時間と場所、そして大切な人の安否…これらが優先されるべき選択肢の上位を占める事になるだろう。常識的に考えて、初対面の相手の名前などは…『どうだっていい』の部類に入るはずだ。
チクタクッ、チクタクッ、時間が進む程に、考えを巡らせる程に、咲夜の頭の中で疑念が膨れ上がっていく。そう、やはり、そうだ。
(やっぱり、不自然すぎる。こんなにも偶然が重なって、果ては、この人のこの反応。普通じゃない。)
思えばアナタと咲夜の出会いは、見えない色で雪の上に掛かれた矢印を…『偶然』の矢印を進んだ先に在った。
片や、魑魅魍魎の跋扈する『幻想郷』を彷徨い歩き、幸か不幸か『紅魔館』に迷い込んだ、アナタ。片や、そんなアナタの足跡を、存在を、雪の下から見つけ出した、咲夜。これが巡り合わせの妙だとしても、確かに、出来過ぎている。
(…だとしたら、これは…お嬢様が演出した『運命』…やっぱり、何らかの意図を持った巡り合わせと言うことか。)
咲夜は肘を撫でながら胸中で独り言ちた。…それにしても、『運命を演出』とはまた、随分とスケールの大きい話だ。
しかし、時間の流れを止めた彼女自身の『能力』を思えば…相手はそんな彼女の主…『運命を操る程度の能力』を有していたとして、不思議はないか。
(どんな意図にせよ、まっ、私をからかおうと…その辺りに落ち着くのが、せいぜいのところでしょうね。)
と、当たり前の様に、咲夜だって考えを纏めている。
さて、こうなると益々、アナタの素性やら目的を知っておく必要が出てきた訳だ。場合によってそれが、メイド長として恥ずかしくない『表情』を保つための、生命線になるかも知れない。
長い沈思黙考を終え、暖炉で燃える火の影から、咲夜が振り返る。アナタは座り込んだまま彼女を見上げて、小さく安堵の吐息を漏らす。
「あの…。」
「どうぞ、私の事はアナタの良い様にお呼び下さい。ところで、もうあと幾つか伺いたいお話があります。よろしいでしょうか。」
「あ、あぁ、よろしい、よろしい。幾つかなんて言わずに、幾らでも訊いてくれ。」
この際、理由はどうあれ、乗り気で応じてもらえるのはありがたい。だが咲夜としてはどうにも、年下扱いが気に食わない様だな。
苛立たしげに擦っている内、赤くなった肘。その腕を下ろして、咲夜はなおも丁寧な口調で問い掛ける。
「幾らでも…そうですか。では、遠慮なくお尋ねいたします。アナタが仰る通り、当家へは迷い込まれたとして…。何故、『幻想郷』へ。ここは、アナタにとって文字通り別世界。『能力』を持たない方がお出でになるべき場所でなければ、ましてや、迷い込めるほど近くに存在してもいない。何か、明確な理由があるからこそ、踏み込まれたのでしょう。」
アナタへと語り掛けながら、咲夜は暖炉の方に目配せ。…と、それを受けて、ふわりと見えない手で持ち上げられた薪木が止まった。
燃え上がる炎に焼かれ、冷え固まる事のない沈黙。『見えない何者か』は、そんなやり取りを数秒眺めた後…ポイッ…薪木を火口へ投じて、また、行方を眩ます。果たして、咲夜のアイコンタクトはちゃんと届いたのやら…。
まぁ、姿の見えない者の事は一端、置くとしよう。今はそれよりも、のったりと口を動かし始めたアナタが、何と答えるかだ。
熱気に乾いた目を瞬かせ、アナタはやや重たい口調で呟く。
「探し物があって…来たんだ。この『幻想郷』に…。君の主さんの土地へ迷い込んだのは、どうにか探し物を見付けて、元の世界に戻ろうとしていた…その途中で…。吹雪に巻かれながら歩いている内、方向を失って…この様か。そうだ、そうだった。すっかり忘れていたけど、俺…雪に足を取られ、ぶっ倒れて、そのまま…。咲夜さんは多分、それを見付けてくれたんだろ。運ぶの、大変だったろうな。雪の中を、しかも、この通り図体だけはでかいからさ。」
そう言って笑いかけるアナタの瞳は、暖炉の火に…いいや、熱情に潤んでいた。
咲夜は、胸を締め付けられる様な感覚を味わいながら、『好きだ』と言われた感触を思い出しながら、小さな声で応える。
「いえ、そんな事は…。」
と、言い差した途端、その先を口籠る程に、何とも言えず恥ずかしくなったのであろう。咲夜は、頬を染めた朱色を押し返す様に瞼を閉じて、
「アナタの足を取って、雪の上を引っ張っただけですから…ソリみたいに…。大した労力ではありませんでした。」
きっぱりとそう…嘘を…言い切った彼女に、ニコニコと、アナタは朗らかに笑顔で返した。
「へぇ、夢現に、背負われていたのを覚えているんだけど…勘違いだったかな。」
口調から面白半分なのは伝わってくるが、ここまで悪意なく、むしろ好意的に人を冷やかすとは…。頑なに、懸命に素っ気ない態度を貫く彼女からすれば、これほど性質の悪い反応もなかろう。
閉じた瞼を震わせながらも、冷静に、落ち着いて、だが堪え切れないか。羞恥の熱が遂に、咲夜の瞳を開かせた。
「それよりも…。私には、アナタに対して謝らないといけない事があります。」
「『謝る』…まさか、それ、俺の気持ちには応えられないって話じゃ…。」
弛緩しかけた空気を引っ叩く様な彼女の口調も、アナタの絶望的な表情で台無しだな。一体、どこまで本気なのだろうか。
しかしながら、ここまで空気を読み違えた反応を連発されると、かえって肩の力も抜けようもの。馬鹿らしくて…。面倒を通り越し、呆れと疲労だけが残った顔で、咲夜が溜息を吐く。
「『はい』と言いますか、『いいえ』と言いますか…。ややこしくなりますので、勝手ながら、そのお話は後に回させて頂きます。」
気だるそうに一礼すると、後ろの方を、チラリッ。自分の無言の指示を受けて、『見えない何者か』がトレイを持ってきたのを一瞥すると、
「まず何より先に、私が謝らせて頂きたいのは…こちらです。」
咲夜はトレイの上から、栓の抜けたワインボトルを取り上げる。しかも、片手で、鷲掴みに…。
そうして、『謝りたい』の言葉が『馬鹿ばかりをほざくお前に、見せつけたい』の聞き間違いかと思えてくる程、勢い良く、安っぽいガラスの地肌をアナタへ突き付けた。
「懐にお持ちだったこれを、勝手ながら、気付け薬にと封切らせて頂きました。」
彼女の言葉を聞くより前に、ワインボトルを見て、ガラス胴回りを見て…ほろ酔い気分のアナタから笑みが消える。だがしかし、驚いている様には見えない。怒っているのか…悲しんでいるかに至っては、見当もつかない。
アナタは、ボトルに映った歪んだ己の顔を見つめて、小さく問い掛ける。
「このワインの中身を、俺に飲ませたって事か。」
「はい。」
言下にそう答えるところは、如何にも咲夜らしい。生半可な肝の据わり方だと、頷くか、この気に謝罪の言葉を述べてしまうか、とにかく後ろめたさが前面に出てしまう。…とは言え、彼女とて繊細な女性。
奇妙に穏やかな声、涼しげな表情。アナタのそんな様子に、ふと、不安の影を覚えたか。図太いばかりでも居られず、『はい』と返事をした声は、気持ち高め。
おそらくはまだ、自分の発した声の違和感が、細い喉首に残っている。だから咲夜は、喉の渇きを潤すかの如く、舌を急かす。
「吹雪の森にあってアナタは、それでも、このワインを飲まなかった。飲もうとしなかったのを思えば…アナタにとってこれが、替えの利かない物なのは想像できます。ですが、掛け替えのないのは、アナタの命だって同じこと。いいえ、どれだけ大切な物であったとしても、命とワインを天秤にはかけられません。」
そう言いつつ、ワインとスコッチ・ウイスキーを天秤にかけた事は、内緒にして、
「私の判断は正しかった…間違ってはいない。だからこそ、そう思うからこそ、謝らせて頂きたいんです。非常時とは言え、意識のない方の懐を探り、あまつさえ懐に抱えて…。」
流し目で歌詞を読み上げる様な、滑らかな口上。少し良い気分になっていた彼女の酔いを醒ましたのは、可笑しそうな、アナタの笑い声であった。
それが咲夜には、余程の驚きで、余程喉に引っ掛かったのであろう。
「えっ。」
自分でも思いがけないくらいの、大きな疑問の声を返した。無論、『アナタが笑ったこと』を驚いた訳ではない。
咲夜には自分の御託をアナタが一笑に伏すと、解かっていたのだ。…なればこその、『好きだ』に対する…、
(しゃんとしない事を言っているから、こんな…大切な物を見落とすのよ。)
と言った具合の当てつけだったのである。それならば、悔しさの滲む、後悔の笑いが漏れても可笑しくはない。否、可笑しい。大いに、嘲笑ってやれたはず…。羞恥心も…まぁ、多少は折り合いを付けられたのだ。
…なのに、咲夜の言葉を遮ったアナタの笑い声は、納得感と、解放感に溢れていた。それのみならず、若干の安堵感すら漂っていた。
今も残るそんな余韻に、彼女の表情が険しくなるのも無理はない。
驚きの声を気に留めなかったアナタだが、咲夜の怖い顔は放って置けなかった様だ。苦笑交じりの口調で、喋り始める。
「あぁ、いや、謝ってもらう必要はないよ。これっぱかしもね。何より、君は…咲夜さんは命の恩人だし…俺としてはただただ、ワインと天秤に掛けられなかった事を感謝するしかない。あとは、まっ、そこに浮いているウイスキーボトルが、ちょっと気になるくらいかな。」
本心を述べている気安さからか、如何にも暢気そうに笑う、アナタ。しかしながら、咲夜は…咲夜の腹の虫は…気楽な言葉じゃ満足できないだろう。
ムッとした顔で、空いた左手をトレイの方へ伸ばす。諸手にワインとスコッチを持ち、一体、彼女は何をしようと言うのか。考えるだに恐ろしい。
アナタも同じ意見だったらしく、自分を睨んだままスコッチに手を掛けた咲夜へ、慌てて何度も頷いて見せた。
「い、いや、やっぱり、何も気にならない。気にならないから。あっ、そうだ。俺、『探し物があって、この幻想郷へ来た』って言ったろ。多分、それが何なのか気付いたから、咲夜さんは俺に謝ろうとしたんだろうけど…まっ、当たりだよ。俺はそれを探しに…そのワインを見付ける為に、こっちの世界へ来た。…ある人と一緒に、それを飲もうと思っていたんだ。」
言い終えるやアナタは、まず自分から距離を取って見せようと、寝椅子の背もたれにもたれかかり天井を仰ぐ。虚空へ吹き上げた吐息が、燃える様な熱気に吸い込まれていく。
咲夜はそれを見て、左手を引っ込める。その代わりに、右手のボトルをトレイへ返して…ピシッ。背筋を伸ばし、両手を前掛けの上で揃えて、深々と一礼。
「誠に申し訳ございませんでした。」
儀礼的、形式的で、声も凛として清々しい。それ故、彼女が本当に申し訳なく思っているのかは…不明瞭。
それでもアナタは、咲夜の謝罪を受け入れ、頷き返す。一端、そうしてから、
「謝ってもらう必要はないんだ。本当に…。あの森に迷い込んだ時にはもう、手遅れだったろうし…。考えてみれば、俺一人だけとは言え、ワインは飲んだ訳だ。当初の目的の半分は、まぁ、達成できた。だから、もう、謝らなくて良い。」
と、途切れ途切れに、疲労と苦笑の入り混じった声で、改めて答えた。
赤々と燃える暖炉の火の中、パチッ、パチッ、時と変化を刻む音。そこへ…カタッ、カタタッ…宙に浮いたトレイが震え、ソムリエナイフの跳ねる音が重なる。もしかしてこれは、トレイを持つ『見えない腕』の限界を示す音ではなかろうか。
まるで暴れる魚の如き躍動に、自然、釘付けになる二人の視線。
数秒、様子を見守って…。先にアナタが、トレイの方を指差す。
「まさか、誰か居るのか。そこに。」
その問いには答えず、咲夜は溜息を一つ。ボトルを倒されかねない以上、このままと言う訳にも行くまい。
「もう下げて良いから…。薪入れの方へ戻りなさい。」
お許しを得て、『見えない何者か』と銀製トレイが、180°ターン。ヒョコヒョコ、暖炉脇のカフェテーブルへ急がず…と言うか、今にも引っ繰り返しそうで急げず…歩いて行く。
もう少しで、トレイがテーブルに到着。アナタはそこまで様子を見守ってから、目を咲夜の方へ戻した。
「もしかして、君の妹。」
藪から棒な問い掛けに、声もなく咲夜が振り返る。その不思議なものを見る様な、尋ね返したそうな瞳へ、アナタは苦笑を漏らす。
「いや、何だかさ。親しみが籠っていたと言うか…あのちっちゃい透明人間に呼びかけた声が、すごく優しかったから…妹なんじゃないかなって…。」
アナタにそれ以上の他意はない。ただそう思ったから、ただお前に興味があって…。口振りの端々で感じるそんな気配に、咲夜は生唾を飲み込む。どこか不安で、どこか高揚したこの気持ち。異性から好意を持たれるとはこんなにも、落ち着かないものなのだろうか。
ざわつく胸中へ耳を傾けていた咲夜の背後で、カタリッ。『見えない何者か』が、トレイをテーブルに乗せる音。思えばこれが引き金だったかも知れない。張り詰めた彼女の心を掻き鳴らす、引き金…。
死角からの物音に、小さく背中を震わせた、咲夜。次にアナタへ尋ねるべきこと、勿論、彼女にはそれが解かっている。
(『幻想郷』へ来た理由を、『紅魔の森』で倒れていた理由も聞いた。本当の事を言っているのかは解からない。でも、形式は踏まえた…間違いなく。なら、私のすべきは…意識を取り戻したこの人に、休息を取って頂くこと…。心身が休まる様に、お部屋を用意すること…。ご自分でお部屋へ向かわれるのか、それとも、私が肩を貸す必要があるのか。確認をすることも…。だったら…だったら、私が次に尋ねるべきは…。)
頭の中で散々順序立てて、考えた末に口を開く。だがしかし、最優先で尋ねるべき質問は舌の上で溶け消え、唇を熱く濡らす、微かな吐息へ変わった。
「理由があるのに、どうして…あんなこと…。」
ポツ、ポツと、拗ねているかの様にも聞こえる声。アナタは彼女のその言葉を、『妹なんじゃないか』の返事と思った様だな。無遠慮、かつ無防備に…いいや、暢気と言える口振りで、
「えっ、やっぱり、妹なのか。そうだろうと思った…。」
「違う。いいえ、違います。」
アナタの言い差した話の続きを、ピシャリッ、咲夜が撥ね付ける。声だけは間違えを寄せ付けぬほど強く、しかし、表情は、素振りは、思い悩んだまま落ち着こうとしない。
振り子の様に逡巡を繰り返す、彼女の白銀の瞳に…それでも…。アナタは躊躇ことなく、見計らうだけの距離も、時間も取らず、口を開いた。
「あぁ、違うのか。妹じゃない…。」
間髪入れないで『そうだけど、そうじゃない』…そう言おうとした唇を噛む、咲夜。同じ言葉を、同じやり取りを続けているだけでは、そんなもの時計の針と変わらない。堂々巡りの末、進むのは時間だけ。
咲夜は濡れた唇を薄らと開けて、鼓動を刻む胸苦しさを呟く。
「私には…アナタの気持ちに応える事は出来ません。」
「俺の気持ち…あぁ、そ、そうか…。そう…だよな。初対面の相手に、いきなりじゃな。当たり前だ。」
面と向かって振られたアナタは、案外と冷静であった。…この反応一つで、著者には、そして咲夜にも解かる。アナタは根拠や自信があったから、彼女へ告白した訳ではない。ただただ、彼女が好きで、好きで…。だから、交際するとか、彼女から好かれるとかは二の次にして、ただただ、彼女へ好きだと伝えたかったのだ。
それは思いをぶつけられる側からしたら、いい迷惑かも知れない。手前勝手だと映る事だろう。咲夜だって…尖った目を更に吊り上げ、小さく舌打ちして、
「ご理解いただき、ありがとうございます。」
と、やや不機嫌に応じた。…彼女は別に、『どうして駄目なんだ』とか、やいのやいの言われたかった訳ではなかろう。だがしかし、怒りの矛先がアナタの冷めた態度に向いているのも確か…。
(どうでも良い、そんなこと…。もう良いから、お部屋に案内して…何か、温まるものでもお出ししよう。良いから…。この人は、こちらの事情を汲み取ってくれただけ…態度が素っ気ないのも…。だからって、嘘を付いた訳じゃ…『好きだ』と私に言った事が、嘘だと決まった訳じゃないし…。そもそも、私の方こそ、この人を何とも思っていないでしょ。それに…お酒の勢いで言ってしまったけど、酔いが醒めてきたのかも…。)
ピクリッ、ピクリッ、痙攣する咲夜の頬。ドレスの背中がまたじっとりと汗ばむのは…もう隠しようもない。吹雪の中の様に、平然とした顔は出来ないようだ。
咲夜は微かに戦慄く指を持ち上げ、胸元で腕を組む。あとはまさしく意のまま、感情のまま…言葉を、思いを、アナタへとぶつけ始める。
「男性って、そんなにも簡単に…気持ちを打ち明けたり、引っ込めたり出来るんですね。私にはとても、信じられない…。」
そう口にする事で初めて、思いは浮き彫りとなる。血が通っていく。羞恥に染まる頬の熱さが、一層、咲夜の胸の炎を焚きつけた。
「だいたい、『ある人』と一緒に飲む為、こっちらの世界へワインを探しに来たんですよね。その『ある人』って…女性じゃないんですか。」
「確かに、あのワインを一緒に飲む積りでいた相手は、女だけど…。でも、それはもう、どうでも良くて…。」
「はぁっ、それは、私に乗り換える積りだからって意味ですか。意識を取り戻したばかりだと思えば、大目にも見てきましたけど…。そろそろ、大概にして下さいよ。」
まるで汚いものから顔を背けるかの様に、咲夜は瞳を目尻へ追いやり、溜息を一つ。当初は、アナタが『幻想郷』へ入り込んだ理由とか、あのワインにどれ程の価値があるのかだとか…そう言った事への、探りを入れる目的で始めた会話。それが今や、単なる腹立ち紛れの詰問となっている。
しかしながら咲夜は、やはり、解かっていない。幾らアナタに尋ねたところで、見つかりっこないのを…。こんなにも彼女が苛立っている原因は、答えは…彼女自身の心の内にあると言う事を…。
不快感を放り出すかの様に、組んだ腕を解く、咲夜。その細い手首をまた、アナタの右手が掴む。
「そうじゃない。そうじゃなくて…。このワインを探しに来たのは、多分、自分の気持ちを確かめたかったからで…。彼女とあのワインを一緒に飲もうなんて積り、俺には…そこまでする度胸も、覚悟もなかった。だから、君を思うこの気持ちは、『乗り換える』なんて事じゃな…。」
「それはつまり、『アナタの中で諦めが付いているから、乗り換える訳じゃない』と…そう言いたいんですか。そんなのは、私からすれば同じです。どっちにしろ良い迷惑…それに…。アナタの気持ちの問題なんて、私には関係ありません。」
厳しく、決め付ける様な語気がアナタを打つ。言い返そうとせず、しかしながら、彼女を見つめる眼差しは強い。その自分の気持ちに一切の疑いを抱いていない瞳が、益々、彼女を苛立たせる。
咲夜はアナタの手を振り解こうと、腕を引いて、
「好きな女性を諦めたアナタの前に、私が現れた。偶々(たまたま)、私がその場に居たから…寂しさを紛らわしたいばかりに、告白した。私には、アナタがそう言っている様にしか聞こえない。さもなければ、起き抜けの霞んだ目が、アナタの思い人と私を見間違えたさせたとか…。それで、引っ込みが付かなくなって、私の事を好きだと言い張っている。」
「違うっ。」
強く、痛いほど強く、アナタが咲夜の腕を引き返した。
咲夜は顔をしかめながらも、頑なに、問い質し続ける。
「何が違うって言うんです。思い人の身代りでもなければ、一体、私を好きになるどんな理由があるって言うんですか。見も知らない…初対面の私に…。」
また咲夜が腕を引く。しかしそれは、尋ねかけながら引くその腕は、手を振り解こうと言うより、アナタを痛め付けようとしているかに見えた。…アナタの思いを疑い、否定したがっているはずの咲夜が、アナタは手を放さないと知っている。不思議なものだ。
そして、アナタはやはり彼女の手首を放さず、肩を痛めてしまったらしい。それでも歯を食い縛って、
「初対面だとかそんなもの、俺には…。」
と、アナタは呟き掛けた言葉を止めた。
言いたい事は、伝えたい気持ちは解かっている。形式や、理由なんてもの必要ない。自分の思いはそんなものに依存していない。だが、アナタ自身はそうであっても、彼女は…咲夜は納得しないであろう。『結局は、誰でも良かったんだ』と、そうとしか思わないはずだ。
アナタは歯痒そうに眉間を寄せ、呟く。
「理由は…ある。咲夜さんを好きになるだけの理由が…俺には…。」
それはまさしく、苦渋の決断であったのだろう。恰も、自分の気持ちに不純な色を加える様な…。咲夜に思いを伝える為とは言え、自分の思いを浮き彫りにさせる為とは言え、忸怩たる思いだったに違いない。
ドキリッと、またも不安に苛まれる、咲夜の胸。無理もあるまい。彼女の知らない強さで、彼女の知らない熱意を持って…そんな風に、アナタからの好意はいつだって不躾なのだから…。
息を止め、アナタへ向けた右手で握り拳を作る。そうして、あくまで抵抗の意思を貫く咲夜にも、アナタは怯む事なく、顔を上げた。
「咲夜、君と俺との出会いは運命だ。運命が俺たちを巡り合わせた。…それが、理由だ。それが俺の、君を好きに成った理由だ。」
気の利いた台詞を吐けるとは思わなかったが…言うに事欠いて『運命』とはな…。
咲夜は多分、アナタの荒唐無稽な言葉を、聞き返そうとしたのであろう。思わず喉をついた疑問の声が、息を止めていた彼女を咳き込ませる。
心配そうな顔で腕を引いたアナタを、咲夜は右手を広げ制止。乱れた呼吸が落ち着くなり、大きく息を吸い込んで、
「『運命』っ。運命ってそれ…正気で言っているんですか。さもなければ、私をからかっているとか…。」
「いいや、俺は正気だし、適当な事を言った訳でもない。それどころか、確信しているんだ。君と出会ったこと。君を見初めたことだって…運命に違いない。絶対に、単なる偶然なんてありえないと…。」
さながら病の様に、益々高じるアナタの熱意、細い手首を掴む力。裏腹に咲夜の方は…相手の底を見たかの如く、その正体を知ってしまったかの如く…急速に冷静さを取り戻していく。
(恋の病…解かってしまえば…。)
そう解かってしまえば、自分の知識の及ぶところへ落とし込めてしまえば、馬鹿らしい。ドギマギして、振り回されていた自分自身も…。この境地まで達してしまうと憤りは消え、残るのは、熱病に侵された憐れな迷い人への同情だけ。
腕を引く事すら止めて、咲夜は気の毒そうに口を開いた。
「あの…思いを寄せて頂いたこと、光栄です。その思いにお応え出来ないのを心苦しくも感じております。ですが…気休めかも知れませんが…私がアナタとお会いしたのは、偶然ではないかも知れません。運命だったとしても可笑しくない。でも、その『運命』はおそらく、アナタの考えているものとは違うんです。その『運命』はきっと、私の主が弄んだ…いいえ、定めたもの。」
と、ここまで話を聞いてなお真っ直ぐ自分を見つめるアナタに、咲夜は溜息を零して、
「アナタも、『幻想郷』がどの様な場所か知った上で、こちらに来たはず…。そう言った事が出来る、そう言った『能力』を持った者の存在しているのを、当然、御承知でしょう。お気の毒とは思います。でも、アナタが『紅魔の森』へ迷い込み、私と出会ったのは運命…ただし、私の主によって演出された運命。それもおそらく、戯れに呼び寄せたものなのでしょう。ですから、どうか…。」
「この気持ちは…俺が君を好きだって気持ちは、演出じゃない。そうだろ。」
頭を下げようとした咲夜を遮り、尋ねかける、アナタ。自身に満ちたその口調には、彼女も、
(どうして、そんな…断言できるのよ。)
と、重い吐息で吹き消し掛けた苛立ちを、再燃しそうになる。
へばりつく様なアナタの手の感触。そう今や、咲夜の手首を掴んでいるのは、引き寄せようとする力ではなく、寝椅子に倒れそうな身体で縋りつく重さ。
咲夜は、一心にこちらを見つめる…本当に、本当にまっすぐアナタの眼差しに…それとなく目を向け、ぼんやりと思う。相手の底が知れた以上、不安はない。『紅魔の森』へ迷い込んだのも、好きだと訴えかけて来た事も…多分、十中八九、彼女の主の悪戯で…目を吊り上げる必要もないと解かった。のみならず、むしろアナタは被害者とも言える。その点は憐れむべきなのかも知れない。
…じゃあ、それじゃあ、嫌悪感の方はどうだろうか。見も知らない男性に、行き倒れているのを助けただけの縁で、『好きだ』、『運命』だと騒がれ、腕を取られているのだ。そこのところは、
(まぁ、気にはなるけれど…。特別、怖がる気も起きないわね。私は『幻想郷』の住人で、この人はただの人間。例え、こっちが思いを受け入れないからと言って、この人が乱暴狼藉にでても…何程の事もない。)
確かに、その通りだろう。しかし咲夜を見つめるアナタからは、燃え上がる様な恋情は感じられても、強さへの憧憬は覚えない。それは彼女だって承知している。
…じゃあ、それじゃあ…しつこいようだが…嫌悪感はどうだろうか。幾ら自分より脆弱な存在だとしても、アナタは男、咲夜は女。この馴れ馴れしいまでの躊躇いのなさ、臆する様子を見せない態度を、本能的に拒んだとして少しも不思議はないはずだ。
いいや、男だ、女だとか、それ以前…御託をつらつらと並べるまでもない。要は、こういう事だ。咲夜はこうして居る今、アナタに腕を掴まれているのが嫌ではないのだろうか。何故、嫌がらないのか。嫌がって見せる事が、この状況をシンプルに終わらせる一番の方法だろうに…。そうしてもらわないとアナタだって、いつまで経っても、『自分の思いの丈を伝えさえすれば』と…こんな呪いの様な考えを捨てられないのだから…。
心の中の引っ掛かりに繋がれた咲夜を、アナタの手が、声が引き戻す。
「俺達の出会いが誰かに仕組まれたものだとして…君の主に運命を定める程の力があるとしても…俺の心はどうなんだ。この感情まで、君の主に仕組まれたものなのか。」
「それは…。」
現実感を取り戻した彼女を待っていたのは、胸苦しさ。自分は未だ、アナタの手を振り解こうとしていない。そんな自らの内面が、はっきりとした肌触りとして伝わってくる。
咲夜はせつないものを喉の奥に抱えたまま、自分の思いの見えないまま、口を開いた。
「感情は…運命の一部だから…。」
「だから、俺の思いも誰かに作られたもの。…そんな訳ないだろ。どんな過程を踏んでいようと、好きになるのに理由なんてないはずだ。」
そう言い放ってからアナタは、ゼーハーッ、ゼーハーッ。遂さっきまで…咲夜が止まった時間の中を運んだ事もあり…本当に、遂さっきまで雪に埋まって居たのだからな。酷使するたび確実に、身体は限界へ近付いている。
アナタのそんな荒い息を見つめながら、咲夜は…休息を勧めようと考えている…否、もう自分の事で精一杯なのだろう。胸中の動揺に立ち向かうかの如く、棘のある声を俯いたアナタへ向け、
「『運命』がその、私を好きな理由なんでしょ。アナタがそう言ったんじゃないの。」
「確かに、そうは言ったけど…そうじゃなくて…。そうでも言わないと、君が納得してくれないと思ったんだ。でも、本心では…運命だろうと、君の主の作為だろうと、そんなのはお膳立に過ぎないんだ。咲夜さんに出会わせてくれたものがあるとすれば、感謝してもしきれないけど…。それでも、やっぱり、理由なんて後付けでしかない。俺が君を好きだって事が、順序よりも、時間よりも、何よりも先にあるんだ。例え、どんな過程を踏んでいようと…。」
「それ、今しがたにも言っていましたよね。」
「えっ…言った。何を…。」
「ですから、『どんな過程を踏んでいようと』と…そう仰られるの、二度目ですよね。」
咲夜の鋭い一言が、背景に、灰の中に埋まりかけた音を掘り起こした。
パチッ、パチッ、薪木が炎に弾ける度に、遠退いては近付く、二人の意識。その狭間にアナタの心を見透かした咲夜が、冷たい言葉で語り掛ける。
「失礼を承知で申し上げます。『君が納得してくれないと思って』…馬鹿馬鹿しい。『運命』なんて…言葉だけで納得する女が、どこの世界に居るっていうんですか。何とはなしに、不自然なものは感じていたんです。私に思いを寄せて下さるお気持にも…。」
と、そこでアナタが、
「本気なんだ。君を好きだって気持ちは、誓って偽りじゃない。」
言葉の繰り返しを指摘されてから、明らかに口籠っていた。…しかしながら、これだけはと食い下がる。そして、尚も続けようとするアナタに…、
「君を好きな気持ちが何かの一部であるはずがない。」
「解かっている…積りです。いいえ、解かっています。嘘じゃないのは…アナタが私を好きなのも…。解かるんです、私には…。」
手首を掴む力が、淡雪の様に溶けて行くのを感じる。そんなアナタの動揺をなぞって、もう一度、咲夜も言葉を繰り返す。
「解かるんです、私には…。時の経過が…人の感じている時間の流れが…。時の刻みは厳格で、揺るぎないもの。けれど、同じ一秒を過ごしていても、そこにどれだけの思いを込めるかは、人それぞれ。心の持ちようで時間は、短くも、長くもなります。アナタの一秒は…アナタの過ごしている時間は、とても長い。どれだけの思いを詰め込んでいるのか、ちょっと、怖いくらいに…。ですから、私、アナタの思いの強さは解かっています。伝わっています。ですから…。」
咲夜は震える唇を噛むと、きっぱりとした口調で続ける。
「それだからこそ、私には不自然に感じられるんです。アナタは少しも、ご自分の思いを疑ってはおられないようでしたから…でも、今しがたの『過程』という言葉で、何となく察せられました。やはり、理由がおありなのではないのですか。」
口を挟もうとするアナタを、また、手で制して、
「私に思いを寄せて下さること。それに理由がなくとも、そうなる切っ掛けには理由があった。だから、過程、過程と二度も、自分を納得させるみたいに…。」
『手で制した』…どうやら、それは違った様だ。その手の動きは、掴み握り締める前のもの…。ざわめく思いを握った小さな手が、気不味そうな顔のアナタへと突き出された。
「アナタはその理由を、ご存じなんじゃないですか。それで、そんなにも簡単に…見ず知らずの私を好きだって…受け入れられた。考えてみれば、そう…目を開けて、私の顔の輪郭がはっきりとしない内から、アナタは自分の思いに確信をもたれていましたよね。あの時から…いいえ、意識を失う前にはもう、アナタには気持ちがあったんじゃないですか。私じゃなく…誰かを好きになろうとする気持ちが…。」
握りしめた彼女の手を、言葉を見つめながら、しかし、アナタは言い返す事が出来ずにいる。そんな様子を見るに付け、
(やっぱり…。)
胸のざわめきは一層強くなっていく。俯いたアナタの瞳から、彼女自身の気持ちのありかから、目を逸らす事が出来なくなっていく。
アナタの告白は自分が思うより、そして、咲夜が思うよりも強く、彼女の心を揺らしていた。…咲夜がアナタに抱いた感情は、愛情でも、好意でもない。しかしそれでも、掛け値なしに、アナタの口にした『好きだ』の一言は、十六夜咲夜をのぼせ上らせていた。
だから、起き抜けで告白しておいて突然、目を覚ました様に冷静な態度をとったり…振られてもそれを、まるで自分の気持ちとは別だと言わんばかり…。そして、たった一言…たった一言さえ、アナタが言わなかったこと。咲夜にはそれが、気に入らなくて仕方がないのだろう。
『運命』だなんだとあやふやな言葉を弄さずとも、『君が素敵だから』の一言で、思いを寄せる理由には充分。そして何より、そんな風に思っている『アナタを好きでもない自分』が、咲夜は気に入らないのだ。
(これじゃあまるで、小娘か、世間知らずのお姫様…はしたない…柄にもない…。)
彼女は自分が色恋沙汰に疎いのを心得ている。心得ている積りだったのだがな。こんなにも簡単に色めき立つ自分に、忌々しさを抑えられなかった。…無論、それは、自分の見たくもない一面を見る切っ掛けを作った…アナタへ対してもだ。
白金色の瞳がまた一段と強く、アナタを睨み付ける。その視線の前でアナタの目は、逃げる様に…いいや、違う…確かめるかの様に、眼差しを動かして行く。奥歯を噛み締めた咲夜の顔から、暖炉の火へ。そこからまた、少しだけ戻して、銀のトレイの置かれたカフェテーブルへと…。
「まさか…まさかとは思っていたけど、あのワインがそうなの。」
自分の視線は、咲夜の目になぞられている。アナタがそれに気付くより一瞬早く、彼女の唇から零れ出る呟き。それは確かに、咲夜への思いを疑っていない…疑っていないはずのアナタの、核心を突いていたらしい。
「あ、ああっ…。」
返ってきたのは、『違う』と言下に応える声ではなく…苦しい胸の内を吐き出した…締め上げられたかの様な呻き。
アナタは否定しなかった。咲夜にはそれだけ、充分だった。
カフェテーブルの方へ近寄ろうと、彼女は一歩踏み出して…しかし…。
「待ってくれ。説明する。俺が説明するから…。あれは、君の考えている様なものじゃ…。」
必死の訴えと、彼女の細腕を掴む手で引き戻そうとする、アナタ。咲夜は、特に驚いた風もなく、つんのめる事もなく、端然と振り返って、
「『私の考えている様なものじゃない』。そう言いたいんですか。…では、説明して頂けますか。『私の考えている様なもの』とは、一体、どのようなものを指して仰っているんです。」
「それは…。」
と、『説明する』とは言ったものの、いざその時が来るや、重くなるアナタの口。
咲夜には当然、この展開もお見通しのこと。アナタの手を引き剥がそうと、強く右腕を抱き寄せながら、
「無理に仰って頂く必要はありませんよ。アナタの口から聞かずとも、それくらい…自分で舐めてみれば解かりますので…。」
「それは駄目だ。それだけは駄目だ。君は…君まで、あれを飲んじゃいけない。」
唐突に慌てだしたと思えば、グイッ、アナタの手に力が籠る。咲夜が身体ごと引き寄せられる程だ。確かに、あのワインには何かある。病み上がりのアナタをして、ここまで興奮させる何かが…。
足を踏ん張り、咲夜がアナタを引っ張り返す。
「誰も飲むとは言っていないじゃないですか。『舐める』と言っただけです。」
「駄目なんだ、それでも、舐めるだけでも…。」
「どんな秘密があのワインにあるかは知りません。ですが、封切ってしまったからにはもう、口が付いたも同然。そうまで惜しむ理由はないはずです。第一、手を付けたのは私なんです。弁償するにせよ、同じものをお返しするにせよ、私には品物を確認する責任がありますからね。」
「そうじゃなくて…弁償なんて必要ない。ましてや、あれが惜しくて、飲むなと言っている訳でもない。あんなもの、捨ててしまって良いくらいで…。」
「捨てるくらいなら、私が飲んでも構いませんよね。」
「いや、いやいやいや…それは駄目だ。なんだったら、あれは君に預けても良い。でも、君が飲むのは駄目なんだ。」
飲む、飲んではいけないの押し問答。この議論に終わりの見えない原因は、『駄目』の一点張りを貫くアナタの態度だけ。
そんな相手には咲夜も、踏ん張ったまま一歩だって譲歩せず、細腕で抱き締めた胸襟を開かず、徹底抗戦の構えを貫く。
「自分から『説明する』と言っておいて、それですか。もう充分。もう結構です。あくまで、肝心な事は仰らない積りなのでしたら…。」
と、そこで少しだけ、自分の中の欺瞞に、自分が本当に聞きたかった『肝心な事』に、胸をつつかれながらも…腹立たしげな咳払いを一つ。
「私自身で確かめます。」
咲夜には最早、メイド長の領分とか、客人への配慮とか、今が何時なのかすら見えていなかった。…彼女の頭にあるのは、アナタとの綱引きと、それに、
「貴女もそんな所で見物して居ないで、こっちへワインを持って来て。ほら、ぼやぼやしない。」
アナタにも、著者にも見えてはいないが…この修羅場はばっちり、『見えない何者か』に目撃されていた模様。正直、教育上大丈夫なのかと心配にさせられる。
そんな彼女とのやり取り、一騎討ちの最中。しかも、相手が援軍を要請したと言うのにアナタときたら…のんきなのか、あるいは、無邪気なのか…ちょっと、楽しそうに口元を綻ばせて、
「妹さん、巻き込んだら可哀想じゃないかな。」
やはり、弱ってはいても大の男。まだ大分と余裕がある。そんなアナタに比べ、必死そのものの、咲夜。それでもなんとか、言われっ放しでなるものかの一念でもって、口を開く。
「ご心配には及びません。あの娘にとっても、これは他人事じゃない。それから、あの娘は私の妹ではなく…そもそも…。勘違いされているみたいですけど、私、アナタよりも随分と年上ですから…。」
と、これでようやく、言ってやれた。…彼女の顔にも、心地良い疲労感が浮かんでいる。
さて、名前すら知らないまま、彼女に『好きだ』と告白したアナタは…どんな反応を示すのだろうか。まずは目を丸くして、
「えっ、そうなの…いや、そうなんですか。けど、年の差なんて関係ありませんよ。俺が咲夜さんを好きだって気持ちには…。」
自信と喜びに満ちた笑顔で、アナタは彼女へとありのままを伝えた。
ところで、著者からアナタへ忠告したい事がある。『理屈抜きに貴女が好きだ』…確かに、素晴らしいことだと思う。そしてこの一言には、恋人へ安心感を与えるだけの力があるのかも知れない。
しかしだ…。それは、千の言葉で彼女の美点を褒め称えた後のこと。対して、アナタの今の言動は横着どころか、『貴女を好きな気持ちに、貴女の個性なんて関係ない』と言っているに等しい。
ここへ至って遂に、咲夜の堪忍袋の緒が切れた。
「そうですか、関係ありませんか…。アナタの中でそれで済むのでしたら、結構です。私だって、アナタの気持ちなんて関係ありませんから…。私は、私の意思と義務感で、あのワインを調べさせて頂きます。」
と、腹立ち紛れに呟いて、グイッ、右腕を引く。すると…どうも今度は、具合が違う様な…アナタの腰が寝椅子から浮き上がる。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。」
「待てません。もう良いですから、手を放して頂けませんか。」
「そうじゃなくて…ワインのことじゃなくて…変に力が抜けて、手が放れない…おっ、おい、そんなに強く引いたら…。」
アナタの必死の説得も虚しく、咲夜は足を踏ん張って、満身の力で腕を引っ張る。細腕は面白い様にすんなりと、彼女の元へ。そしてなお面白い事に、細腕にはカエルの如く跳び上がった…いいや、引っ張り上げられたアナタも付いてくる。
この瞬間、もしも普段の咲夜であれば、時を止めて凌いだであろう。しかし今朝の彼女には、覆い被さる影に目を見開くのが精一杯。
結果、二人は物理的時間に押し流され、床へと倒れ込んだ。
「大丈夫ですか。」
驚きの声を上げたのは、咲夜だった。…まさか、タイルの床へ激突する刹那、抱き寄せ助けられるとは…。
身を呈してアナタが庇ったお陰で、咲夜は身体を打ちつけず済んだ。しかしながら、彼女の分の痛手までその身に受けたアナタは…当然、ただでは済まない。
クッション代わりの胸板に咲夜の頭を乗せたまま、苦しげな呻きを漏らす、アナタ。今だったら簡単に、この手を振り払えるだろうが…いいや、少し意地悪だったか。
咲夜だって身を離す事を忘れ、アナタを心配している。…と、二人の背後で、扉の開く音が…。
「こっちへ来て、私の所為で…とにかく大変なの。」
入って来たのが、『見えない何者か』だと思ったのだろう。咲夜は躊躇いなく声を上げ…だが…。
コツンッ、コツンッ…足音が近づいて来るに連れ、彼女の顔から血の気が失せていく。そう言えば、透明な彼女は足音を立てず移動していた様な…。
制止しようと口を開くも、一足違い…そう、まさしく一足の差で…恐る恐る、来訪者が寝椅子の後ろから顔を覗かせた。
さらりっとした茶髪を揺らし現れたのは、見間違いようもない…『紅魔館』の門番の美鈴。多分、気不味い空気を察したのであろう。
「あの…『面白い事になっているから、自分の代わりに見て来い』って…お嬢様が…。」
と、申し訳なさそうに呟く。勿論、『面白い事』に成っている二人を、まじまじと見つめながらだ。
アナタの胸に耳を寄せたまま、咲夜には…美鈴の言葉など聞こえてはいない。きっと彼女の内側では、繊細な時計が、『心の時計』の歯車が狂っているのだろう。それでも…ドクンッ、ドクンッ…アナタの胸の高鳴りは、力強く時を刻んでいる。