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私が一代で立ち上げた会社を、妻は自分の若いアシスタントのために使った

作者: 熾星
掲載日:2026/10/03


 LUMINA株式会社の株価がストップ安をつけ、時価総額が一日で数百億円吹き飛んだ日、水野真由は秘書を社長室へ呼んだ。


「直人は? こんなことになってるのに、CTOがどうして来てないの?」


 秘書の表情がわずかに強張った。手元の資料を確認してから、真由を見返す。


「高瀬副社長でしたら、六週間前に正式に退任されています。その後、技術本部からも何名か退職者が出ています。関連書類は……水野社長にもご確認いただいています」


 真由は答えなかった。


 六週間前は、LUMINAの創立十周年記念パーティーだった。


 その夜、ASTERの技術チームへ贈られる予定だった一千万円の特別報奨金を、真由は発表直前になって新規事業企画室へ回した。その少し前、忘年会の抽選で欲しがっていたドローンを外した小川悠斗は、見るからに落ち込んでいた。


 理由を尋ねた直人に、真由は平然と言った。


「会社はもう、技術だけで伸びる段階じゃないの。悠斗たちが見てるのは、新しい市場とこれからのユーザーよ」


 そう言って、余っていたスクラッチくじを一枚、彼の前へ滑らせた。


「直人にもあるじゃない。最高二百万円よ。当たれば、こっちのほうが面白いかも」


 真由は笑いながら悠斗のネクタイを直した。


「新規事業のほう、これから期待してるから」


「はい、水野社長。頑張ります」


 悠斗は一度言葉を切り、声を落とした。


「ありがとうございます、真由さん」


 近くにいた何人かがこちらを見たものの、何も言わずに目を逸らした。


 直人はグラスをテーブルへ戻した。


「真由」


 振り向いた彼女に告げる。


「離婚しよう」



1



 真由は数秒、俺の顔を見つめていた。


「直人……今、離婚って言った? 一千万円のことで?」


 まだ宴会場には大勢残っていた。俺たちの周囲だけ会話が途切れ、帰りかけていた役員や取引先まで足を緩めている。


 悠斗は真由の後ろに立っていた。ついさっきまで受賞を喜んでいたはずなのに、今は目を伏せ、居場所を失ったような顔をしている。


「金の話じゃない。もう、このまま続けるのは無理だと思っただけだ」


「だったら、ちゃんと説明して」


 十年前、LUMINAを立ち上げた頃の俺たちは、本当に金がなかった。最初に買ったまともなサーバーは中古品で、壊れれば俺が自分で分解した。真由は最初の法人契約を取るために一日で何社も回り、靴擦れだらけの足で戻ってきても、そのまま俺と一緒にデスクを組み立てていた。


 忙しい時期は事務所に簡易ベッドを二つ置いた。深夜に仕様変更が飛んでくれば、そのまま作業を続ける。限界になれば数時間だけ横になり、目が覚めたらまた仕事へ戻った。


 ずっと、LUMINAは二人で作った会社だと思っていた。


 けれどこの一年、真由は自分と違う意見を、やたらと「古い」と片づけるようになった。そして俺と技術本部は、いつの間にかその側に入れられていた。


「最近のお前、誰かに反対されると、それだけで相手が古いみたいな扱いするよな」


 真由の顔が険しくなる。


「直人、言い方ってものがあるでしょ。LUMINAはもう十年前の小さな会社じゃないの。上場もしたし、技術だけ見てればいい時代でもない」


 彼女は悠斗へ目を向けた。


「市場もブランドも、新しいユーザーも必要。悠斗は海外の大学院で勉強してきたし、私たちより今の若い層を分かってる。経験が足りないところはあっても、それと能力がないのは別よ」


「若い社員を否定したことなんてないし、新規事業にも反対してない」


 悠斗へ視線を移す。


「でも、数字すら詰め切れてない企画が、社長に気に入られたってだけで通常の審査を飛ばして予算を取るのは違うだろ」


 悠斗が顔を上げた。


「高瀬副社長、それは言いすぎじゃないですか?」


 目元が赤くなっている。


「経験が足りないのは分かっています。でも、俺だって勉強してます。水野社長もマーケティング部も、方向性は評価してくれています」


 そこで少し迷い、彼は続けた。


「今日の報奨金が気に入らないなら……俺、受け取らなくてもいいです」


「そうか。じゃあ当初の予定どおり、ASTERの技術チームへ戻してくれ」


 悠斗の表情が止まった。


 スマホを取り出したものの、その指は画面の上で動かない。代わりに真由を見た。


「もういい」


 真由が一歩前へ出る。


「特別報奨金は会社の予算よ。最終的な配分を決めるのは経営側でしょう。私が代表取締役CEOとして変更した。それの何が問題なの?」


 悠斗をかばうように立ちながら、俺を見る。


「異論があるなら言えばいい。でも、こんな人前で入社して一年も経ってない社員を追い詰める必要はないでしょ」


 もう言い争う気はなかった。


 ジャケットの内ポケットから、用意していた書類を取り出す。取締役辞任届と退職届だ。


 創業者として保有している株については、すでに弁護士と証券会社へ相談していた。必要な手続きは分かっているし、ここで真由と話すことでもない。


「会社は真由の好きにすればいい」


 書類をテーブルへ押し出す。


「俺はもう降りる」


 真由は書類を見つめたまま動かなかった。


「……どういう意味?」


「取締役を辞める。会社も辞める」


 技術本部長の中村浩一が、いつの間にか近くまで来ていた。八年近く一緒に働いてきた男だ。彼は書類を見てから俺の顔を確認したものの、余計な口は挟まなかった。


 先に我に返ったのは真由だった。


「直人。これ、報奨金を元に戻させるため?」


「違う」


「じゃあ持ち株で私を脅すつもり?」


「それも違う。知らせただけだ」


 宴会場のあちこちで、話し声が止まっている。


「会社の十周年パーティーで、わざわざこんなことする必要ある?」


「引き継ぎはちゃんとする。会社に迷惑をかけるつもりもない」


 コートを手に取った。


「今日は祝いの席だ。これ以上ここで揉める気もない」


 そのまま会場を出た。



2



 ホテルの出口まで来たところで、真由が追いついてきた。


「直人!」


 足を止める。


「本気で、LUMINAがあなたなしじゃ回らないとでも思ってるの?」


「そんなこと言ってないだろ」


「だったら何なの? 社員は何百人もいるのよ。ASTERだってまだ途中。報奨金が思い通りにならなかっただけで、辞任して、会社も辞めて、おまけに離婚?」


 俺は彼女を見る。


「まだ報奨金の話だと思ってるのか」


 真由が新規事業に力を入れること自体は間違っていない。上場後、LUMINAの法人向け事業は成長が鈍っていた。新しい事業も若い顧客層も必要だし、その点は技術本部だって理解していた。


 問題は、悠斗が入社してからだった。


 最初は社長室付きの特別アシスタントとして市場調査を担当していた。数か月後には新規事業企画室の中心になり、予算や人員の調整にも口を出すようになった。そのうち、技術本部とプロダクト部門で決めるはずの開発優先順位まで、彼のチームを通すようになった。


 先月も一つ、俺が却下した企画がある。技術的なリスクが高いのに、収益予測が楽観的すぎた。


 ところが翌日、悠斗は技術審査を飛ばして直接真由へ企画書を持っていった。結果、試験予算は当初案の倍。技術本部ではかなり反発が出た。


 それでも俺は、「新しいことをやるなら失敗も必要だ」と真由をかばった。


 今になれば、理由をつけて自分を納得させていただけなのかもしれない。


「真由さん、もうやめましょう」


 悠斗が後ろから追いついてきた。


「俺のことで高瀬副社長と喧嘩しないでください。足りないところがあるなら、技術本部でもう一度勉強します。報奨金だって要りませんから」


 言いながら、真由の腕へそっと触れる。


「会社のほうが大事です」


 その距離感も、「真由さん」という呼び方も、あまりに自然だった。


 周囲の反応を見る限り、二人の近さに気づいているのは俺だけではなさそうだった。ただ、真由はCEOで、しかも俺の妻だ。誰もわざわざ口にしないだけだ。


「あなたのせいじゃないから」


 真由は悠斗へそう言い、それから俺へ向き直った。


「見てよ。あなたよりずっと若い悠斗だって、会社を優先してる」


 声を落とす。


「直人、昔のあなたはこんな人じゃなかった」


 十年一緒に会社を作った女が、入社一年にも満たない男をかばいながら、俺に「変わった」と言う。


 もう返す言葉もなかった。


「引き継ぎはする。取締役を辞める手続きも、株のことも弁護士に任せてある。会社に余計な迷惑はかけない」


 それだけ言って歩き出した。


「直人」


 後ろから真由の声が飛んでくる。


「今日このまま出ていくなら、あとで後悔しても戻ってこないで」


 振り返らなかった。


「そのつもりだ」


 ホテルの外は冷え込んでいた。


 回転扉を抜けたところで、スマホが立て続けに震え始める。技術本部のプライベートなグループLINEに、メッセージが大量に届いていた。


【高瀬さん、本当に辞めるんですか?】


【ASTERどうするんです?】


【十周年の報奨金って、最初からASTERチーム向けでしたよね?】


【最近、企画室が技術側にまで口出ししてきて、正直もう限界です】


【高瀬さんが辞めるなら、俺も転職考えます】


 みんなが怒っているのは、一千万円そのものじゃない。あれは最後のきっかけにすぎなかった。


 この半年、予算や人員配置、開発の優先順位まで、技術を知らない人間の都合で何度も変えられた。その不満が、もう限界まで溜まっていた。


【明日の十時、直接話そう。今夜は勢いで退職届なんて出すな】


 それだけ送った。


 タクシーを捕まえ、海浜旧市街の住所を告げる。そこには、創業当初に借りていた小さな事務所が残っている。


 会社が移転したあとも、賃貸契約だけは俺個人の名義で残してあった。


 もう何年もまともに行っていない。


 なぜか今夜は、あそこへ戻りたかった。



3



 鍵を回す感触が、少し固かった。


 扉を開けると、古い木材と埃の匂いが流れてくる。隅には昔使っていた折り畳みベッドが残り、塗装の剥げたデスクの向こうには、黄色く変色した付箋が何枚も貼ったままだった。


 要件、システム構成、初期のプロダクト案。俺の字と真由の字が混ざり、互いのメモを上から書き直した跡まで残っている。


 金も時間もなかったのに、あの頃は今よりよく笑っていた。数十万円の小さな案件が取れただけで、夜に居酒屋へ行くか真剣に悩んだし、月末で金がなければコンビニ弁当で済ませた。


 真由はいつも髪を一つにまとめていた。


 二晩続けて徹夜したある日、床に座って弁当を食べながら、彼女が言った。


「直人、会社が大きくなったらさ、広い家に住もうよ。リビングは絶対、大きな窓がいい」


 少し考えてから笑う。


「猫も飼いたい」


 会社は大きくなり、海浜市の湾岸を見下ろせる高層マンションに住むようになった。リビングには大きな窓もある。


 猫だけは飼わなかった。


 最初は忙しかったから。そのうち真由が「毛の掃除が面倒」と言い、それきり話題に上がらなくなった。


 古いデスクにもたれ、引き出しに残っていた煙草を見つけた。何年も前に禁煙しているのに、なぜか一本だけ火をつける気になった。


 最初の一口で咳き込んだところへ、スマホが鳴った。


 中村だった。


「直人。今日出したあれ、水野社長を脅すためじゃないよな?」


「俺がそんなことするように見えるか?」


「見えない。だから困ってる」


 電話の向こうで、中村がため息をついた。


「お前が抜けたら、技術本部は少なくとも数か月は組み直しだ。ASTERも大事な時期だし、もう何人か俺のところに来てる」


「何て?」


「お前がどこへ行くのか。あと、本当に辞めるなら自分たちもついて行けるのかって」


 窓の外を見る。


「勝手に返事するなよ」


「してない。ただ、最近みんな会社に不満があるのは知ってるだろ?」


 中村は、先月俺が止めたのに、真由が再承認した企画の話をした。


「小川たち、今はマーケティングだけじゃない。プロダクトの方向にも普通に口出してくるし、開発から人を引っ張ろうとする」


 少し間を置く。


「下じゃ、水野社長が技術本部の権限を少しずつ削るつもりなんじゃないかって話まで出てる。本当かどうかは知らんけど、そんな噂が出る時点でどうかしてる」


 反論する気はなかった。


「お前らにも分かってたんだな」


「分からないほうがおかしい」


 中村が苦笑する。


「お前だけだよ。ずっと奥さんと正面からぶつからないようにしてたの」


 その通りだった。


 真由とは会社だけの関係じゃない。夫婦で、共同創業者だ。


 普通の取締役がCEOに反対すれば、ただの仕事上の対立で済む。俺が反対すると、真由は夫婦の感情まで持ち込まれたように受け取る。


 だから言わずに飲み込む。そうすれば今度は、会社の問題が大きくなる。


「これからどうする?」


「まず引き継ぎを終わらせる」


「そのあと」


「まだ決めてない」


 グループLINEのやり取りを思い出した。


「本気で辞めたい奴がいるなら、自分で考えさせろ。守秘義務も引き継ぎも退職手続きも、全部きちんとやる」


 灰皿へ煙草を押しつける。


「俺と仲がいいからって、LUMINAのコードやデータを持ち出すような真似だけは絶対させるな」


「分かってるよ。お前と八年も仕事してりゃ、そのへんが一番うるさいのは知ってる」


 電話を切ったあと、しばらく古い事務所に残った。


 次に鳴ったのは知らない番号だった。


「高瀬直人さんでしょうか。黎明ホールディングスの長谷川玲子と申します」


 名前には聞き覚えがあった。


 黎明ホールディングスは、ここ数年急速に事業を広げている大手テックグループだ。企業投資だけでなく、クラウドやデータセンター、複数の技術会社も傘下に抱えている。


 LUMINAが上場する前後、真由も何度か戦略出資の話を持ちかけていた。結局、まとまらなかったが。


「長谷川さん、耳が早いですね」


「狭い業界ですから。それに、高瀬さんのことは以前から注目していました」


 彼女は遠回しな言い方をしなかった。


「LUMINAを離れるおつもりなら、一度うちで話しませんか?」


「今、デジタル事業を再編しています。大きなシステムを立ち上げて、チームも率いてきた人を探しているんです」


「まだ退職手続きの途中ですよ」


「ですから、まずはコーヒーでも」


 長谷川はそれ以上踏み込んでこなかった。


「契約の話はあとで構いません。お時間ができたらご連絡ください」


 その距離感は悪くなかった。


「分かりました。引き継ぎが終わったら連絡します」


 通話が終わり、壁の付箋へ目を向ける。


 十年前、ここにいた頃は、会社が上場するなんて想像もしていなかった。


 こんな形で離れることも。



4



 その後一か月余り、俺はほとんどの時間を引き継ぎに使った。


 技術本部にはプロジェクトが多く、ASTERも重要な局面にあった。何もかも放り出して辞める気はない。


 システム権限、コードリポジトリ、社内文書、設備、プロジェクト履歴。会社のPCや貸与機器も含め、一つずつ確認して返却した。


 中村たちも、一斉に退職届を出したわけではなかった。


 家族に相談する者もいれば、次の仕事に迷う者もいた。住宅ローンや子どものことがあって、簡単には動けない人間もいる。


 俺が正式にLUMINAを離れてから、最終的に十七人が決断した。


 十五人が退職し、二人は会社へ残った。


 最後にみんなで食事をした。データエンジニアの一人は家を買ったばかりで、子どもの進学も控えていた。


「高瀬さん。俺、行きたくないわけじゃないんです。ただ今は、どうしても動けなくて」


「何で俺に言い訳するんだよ。残るなら、今の仕事をちゃんとやれ。それでいい」


 グラスを軽くぶつける。


 もう一人も、「またどこかで一緒に仕事がしたい」と言った。もちろんだ、と答えた。


 長く一緒に働いた仲間を、退職届一枚で味方と敵に分ける気はなかった。


 真由との生活も、その間に少しずつ切り離していった。


 共同で暮らしていたマンションから、服や本、PCなど自分の物を運び出す。家具や共有財産については、弁護士に任せた。


 真由は結婚後も、仕事では旧姓の水野を通していた。


 離婚協議書の案と離婚届は、弁護士から彼女へ送った。


 署名はされなかった。


 戻ってきた弁護士が、真由の言葉をそのまま伝えた。


「直人本人が来て話して」


 行かなかった。


 協議でまとまらなければ、次は調停へ進めばいい。会社の会議室や自宅のリビングで、どちらが悪かったのかを延々話し合う気にはなれなかった。


 LUMINAを離れたあと、長谷川とも会った。


 黎明の条件は思った以上に明確だった。


 単にCTO候補を一人採用したいわけではない。デジタル事業そのものを再編し、チームを組み直せる人間を求めていた。


 数日かけて保有する技術基盤や人材、進行中の案件を確認し、俺は執行役員兼CTOの話を受けた。


 その案件一覧に、ASTERがあった。


 黎明はもともと、ASTERの代替候補ベンダーとして登録されている。独自の基盤と開発チームがあり、本契約を取れていなかっただけだ。


 俺が入社したあと、中村たちも順番に黎明へ移った。俺たちが手をつけたのは、黎明側ですでに進めていた代替案だった。


 LUMINAからシステムを持ち出したわけではない。


 退職から六週間ほど経った午後、ASTERの内部ミーティング中に、真由から電話がかかってきた。


 画面に表示された名前を見て、何人かが気づく。中村は何も言わず、椅子にもたれた。


 俺は電話に出た。


「直人、ASTERで問題が出た」


 いつもの落ち着いた声ではなかった。


「最終性能試験が通らなかった。昨夜、先方から最終の是正要求が来たの。次も基準に届かなければ、契約を解除して別のベンダーに切り替えるって」


「知ってる」


 黎明にも、代替候補ベンダーとして再評価の連絡が来ている。


「知ってるの?」


「この業界、そこまで広くないだろ」


 電話の向こうが少し静かになる。


「だったら、この案件がLUMINAにとってどれだけ大きいかも分かってるよね」


 声が少し低くなった。


「今の技術本部に、初期アーキテクチャをあなた以上に分かってる人はいない」


「直人、一度だけ戻って見てくれない?」


「復職してって言ってるんじゃない。どこが悪いか確認するだけでいい。あとはこっちでやるから」


 すぐには答えなかった。


「小川は?」


「え?」


「会社の未来は若い人間に任せるんじゃなかったのか」


「今、昔の話をしてる場合じゃないでしょ」


「昔の話じゃない。俺はもう六週間前に辞めてる。今さらLUMINAの内部システムに触るほうがおかしい」


 しばらく沈黙が続いた。


「……あなたも十年、この会社をやってきたじゃない」


 真由の声が低くなる。


「本当に何とも思わないの?」


 その言葉には、少しだけ返事に詰まった。


 何とも思わないわけがない。どうでもよければ、離れるだけであれほど疲れたりしない。


「最終技術審査、明後日の午前だよな」


「うん」


「会場には行く」


 向こうで真由が息を吐いた。


「分かった。じゃあ資料を――」


「要らない。行くからって、LUMINAのシステムを直すとは言ってない」


 彼女は黙った。


「それと一つ。小川には、技術予算への介入や、審査を飛ばして企画を進めた件について正式な説明をさせろ。会社として内部調査も必要だ」


 真由の声音が変わる。


「悠斗までコンプライアンス調査に入れる必要ある?」


「彼はまだ若いの。正式な記録が残ったら、今後のキャリアにも響く」


「意思決定に関わったなら、説明するのは当たり前だろ」


 返事はなかった。


「それが無理なら、この話は終わりだ」


「待って」


 電話の向こうから、足音が聞こえた。


 しばらくして、真由が言う。


「……分かった。手配する」



5



 二日後の午前、ASTERの最終技術審査は発注元企業の本社で行われた。


 非公開の会議で、メディアはいない。参加しているのは、発注元の技術、法務、調達担当者と、LUMINA、それから代替候補ベンダー数社のプロジェクトチームだけだった。


 審査前、悠斗は社内対応として、これまでの権限逸脱やプロセス上の問題について説明した。


「これまで、リソース調整や部門間の進行で混乱を招いた点について、技術本部と関係者の皆さんにお詫びします。自分の経験不足から判断を誤った部分があったことも認識しています。今後の社内調査には協力します」


 法務が整えた文章なのは明らかだった。


 問題は認める。ただし、責任をすべて自分で背負う言い方は避けている。


 真由は隣に座り、何度か悠斗へ視線を向けていた。


 九時五十分。


 関係者が揃い、LUMINAの最終テストが始まる。


 結果は変わらなかった。重要な性能指標が、契約条件へ届かない。


 発注元の担当者は、その場で是正期限の終了と、現契約を解除手続きへ移すことを告げた。代替ベンダーについては、当日中に最終決定するという。


 会議が終わり、真由が廊下へ出てきた。顔色が悪い。


 悠斗も後ろについていたが、さすがに何も言わなかった。


 俺はちょうど、長谷川と別の会議室から出たところだった。


 真由がすぐにこちらへ来る。


「直人。来てくれたなら、一度だけ見て。テスト結果は中にある。もしかしたら、みんなが気づいてないところが――」


 途中で言葉が止まった。


 長谷川が持っていた資料へ目が行ったからだ。


「高瀬CTO、午後の説明会用の資料、最終版が上がりました」


 真由が長谷川を見て、次に俺を見る。


「……CTO?」


「今は黎明でデジタル事業を見てる」


 一瞬、表情が固まった。


「もう黎明に入ったの?」


「辞めて六週間だぞ。新しい仕事があってもおかしくないだろ」


 真由は何か言おうとした。


 結局、何も出てこなかった。


 午後、代替ベンダー決定の説明会と基本合意の締結が、近くのホテルで行われた。


 今度はメディアもいる。


 発注元は大型案件のベンダー変更について説明する必要があり、黎明も受注の決定を公表する。正式契約に向けたドラフトは、候補各社との間で事前に準備されていた。


 LUMINAも旧ベンダーとして招かれていた。


 真由と悠斗は会場の反対側。


 俺は黎明側の中央席に座った。


 司会が簡単に経緯を説明し、長谷川がマイクを取る。


「今回、ASTERの代替技術案は、黎明ホールディングスのデジタル事業チームが担当します」


 彼女は一度こちらを見た。


「また、高瀬直人は現在、当社のデジタル事業担当執行役員兼CTOとして、本案件の技術責任者を務めています」


 会場のあちこちから、小さなざわめきが起こった。


 真由はずっと俺を見ている。


 俺は検証報告書を開いた。


「今回の案は、黎明が保有する基盤と独立した開発環境を使っています。この六週間で改良を進め、性能、安定性、拡張性の全項目で要求値を満たしました」


 発注元の技術責任者も結果を確認する。


「当社技術部門でも再検証済みです。結果に問題はありません」


 資料を閉じる。


「黎明案を最終技術審査通過とします」


 カメラのシャッター音が重なった。


 悠斗が落ち着かない様子で身体を動かす。


「そんな……ASTERは元々LUMINAのプロジェクトですよね」


 発注元の責任者が彼を見る。


「元契約の是正期限は終了しています。LUMINAが期限内に検収条件を満たせなかったため、契約に基づき代替手続きを進めました」


 悠斗の顔色が悪くなる。


「でも、元の技術チームがそっちに移って、同じ案件をやってるんですよね? LUMINAの技術を使ってないって、どう証明するんですか?」


 記者席で何人かが顔を上げた。


 長谷川は声を荒らげなかった。


「小川さん。営業秘密や知的財産権の侵害があるとお考えなら、正式に双方の法務を通してください」


 それだけ言って続ける。


「当社には独立開発の記録があります。必要な確認にも応じます」


 俺も悠斗へ目を向けた。


「LUMINAのコードもデータも社内資料も、全部LUMINAに残ってる」


「これは黎明の既存基盤から作った案だ。問題があると思うなら、証拠を出して正式にやればいい」


 悠斗が何か言いかける。


 真由が腕を押さえた。


「もういい」


 今度は、彼女が悠斗を止めた。



6



 基本合意の締結を前に、黎明のプロジェクトチームが会場へ入ってきた。


 中村もいる。


 その後ろには、元LUMINA技術本部の顔が何人も見えた。


 ASTERの新チームなのだから、ここにいるのは当然だ。真由への当てつけで来たわけじゃない。


 それでも彼女にとっては、平気で見られる光景ではなかったのだろう。


 元々システム設計、アルゴリズム、データ基盤、テストを担当していた主要メンバーが、今はほとんど黎明側にいる。


 真由の目が中村で止まった。


「中村」


 呼ばれた中村が振り返る。


「水野社長」


「あなたも黎明に?」


「はい」


「いつ決めたの?」


「高瀬さんが辞めたあとです。少し考えて、環境を変えようと思いました」


 真由は、その後ろのメンバーにも視線を向けた。


「みんなも?」


「それぞれ自分で決めたことです。LUMINAに残った人も二人います。事情は人によって違いますから」


 それ以上は説明しなかった。


 真由も何か言いたそうだったが、結局口を閉じた。


 中村は一礼して自分の席へ戻り、基本合意後の技術スケジュールについて話し始める。


 やがて締結式が始まった。


 発注元と黎明が基本合意書を交換し、俺も技術責任者として署名する。長谷川がグループ側の署名を終えると、記者から質問が飛んだ。


「急なベンダー変更になった理由について、改めて教えてください」


 発注元の技術担当役員は、余計な評価を挟まなかった。


「従来ベンダーが契約上の期限内に性能是正を完了できなかったため、規定に基づいて代替手続きを開始しました」


 記者席では、何人かがすぐにPCへ視線を落とした。


 まだ市場は開いている。


 スマホの金融アプリに速報が出た。


【LUMINA、主力案件失注で下げ幅拡大】


 真由も同じ通知を見たのだろう。


 スマホへ目を落としたあと、顔色がさらに悪くなった。


 説明会が終わり、資料をまとめて会場を出る。


 廊下へ出たところで、真由が追いかけてきた。


「直人、待って」


 足を止める。


 朝からきちんと化粧していたが、近くで見ると目元には疲労が浮いていた。


「辞めたときから、黎明へ行ってASTERを取るつもりだったの?」


「違う。黎明は元から代替候補だった。俺が入る前から別案を進めてる」


「俺が入って、そこを前に進めただけだ」


 真由は黙っている。


「LUMINAが期限内に検収を通してたら、今日ここに黎明はいなかった」


 彼女の唇が強く結ばれた。


「少しも悪いと思わないの?」


「何を?」


「十年やってきた会社でしょ。ASTERだって、私たちがずっとやってきたプロジェクトじゃない」


 俺は真由を見る。


「LUMINAはなくなってない。会社もコードも顧客も、俺が持ち出したわけじゃない」


 少し間を置く。


「辞めた連中も、自分で決めて会社を出た」


 真由は長いこと黙っていた。


「……じゃあ今、気分いい?」


 すぐには答えられなかった。


 一か月前なら、少しは痛快だったかもしれない。


 でも実際にここまで来ると、頭に浮かぶのは古い事務所のほうだった。二人で一つの弁当を分けていた頃。


「お前が思ってるほど、気分よくないよ。ただ疲れた」


 真由が顔を上げる。


「前なら会社で何か起きたら、どう直すかを考えた。お前と喧嘩しても、次はどうするか考えてた」


 そこで一度、言葉を切る。


「今はもう、それをしたくない」


 真由の目が少し赤くなった。


「じゃあ会社も捨てるの?」


「会社は俺一人の物じゃない。株は弁護士に任せてるし、経営はお前と取締役会の仕事だ」


 彼女は何かを堪えるように唇を噛んだ。


「私たちは?」


 その言葉には、少しだけ胸が重くなった。


 十年近い結婚生活だ。何も感じなくなるほうがおかしい。


 でも、感情が残っていることと、関係を続けられることは別だった。


「離婚の書類は、また弁護士から送る」


 真由の表情が変わる。


「まだ離婚するつもりなの?」


「離婚を言い出したのは、引き止めてほしかったからじゃない。小川を処分させるためでもない」


 俺は彼女を見る。


「協議でまとまらないなら、調停で進めよう」


 まだ何か言いたそうだった。


 けれど、待たなかった。


 背を向けても、真由は追ってこなかった。



7



 ホテルの外へ出ると、中村が階段脇で煙草を吸っていた。


 俺を見つけると、一本差し出す。


「禁煙したんじゃなかったか?」


「旧事務所で吸ってた奴が今さら何言ってんだ」


「誰に聞いた」


「翌日の会議室。お前、煙草臭かった」


 笑いながら受け取った。


 海浜市中心部の道路は車が多く、発表会帰りの記者や関係者も次々とホテルから出てくる。しばらく二人で黙っていたあと、中村が口を開いた。


「水野社長、何だって?」


「離婚の話」


「まだサインしてないのか」


「してない」


 中村が小さく舌を鳴らす。


「仕事じゃ決断早いのにな。自分のことになると長いな、あの人」


 横目で見る。


「昔は俺の前でそんなこと言わなかったよな」


「昔のお前ら、完全に同じチームだっただろ」


 中村は笑った。


「俺が水野社長の悪口一つ言ったら、お前、逆に三十分説教してきたぞ」


 それで、創業三年目のことを思い出した。


 サーバー購入費をめぐって、真由と大喧嘩したことがある。キャッシュフローを優先した真由が、必要な予算を半分に削った。


 俺は会議室で怒鳴った。


 同じフロアに全部聞こえていたらしい。


 結局、その日はどちらも折れなかった。それでも夜になれば、一緒にラーメンを食べに行った。


「あの頃は、喧嘩したあとも一緒にどうするか考えられた」


 煙草の灰を落とす。


「今はその気力がない」


 中村は何も気の利いたことを言わなかった。


 ただしばらくして、俺の肩を軽く叩いた。


「じゃあ、もう考えるな。プロジェクトも取ったし、みんなも来た。今日は俺が奢る」


 思わず顔を見る。


「お前が?」


「何だよ」


「この八年で『俺が奢る』って十回は聞いたけど、八回は俺が払ったぞ」


「残り二回は?」


「一回は長谷川さん。一回は会社経費」


 中村が先に吹き出した。


 ちょうど後ろのガラス扉が開き、チームのメンバーが何人かまとまって出てくる。午後の検証について話している者もいれば、新しいオフィスへいつ正式に移れるか聞いている者もいた。


 少し離れた場所では、長谷川が電話をしている。


 中村がそちらへ顎を向けた。


「新しいボス、お前より忙しそうだぞ」


「ボスじゃない」


「入って六週間でもう訂正するのか」


 ちょうど電話を終えた長谷川がこちらへ来た。


「私の話?」


 中村は一切動じなかった。


「今夜、高瀬さんが奢ってくれるって話です」


 俺は振り向く。


「今さっき誰が奢るって言った?」


「CTOのほうが給料高いだろ」


 周りから笑い声が上がった。


 さっきまでの張りつめた空気が、少しずつ遠ざかっていった。



8



 黎明のデジタル事業部が使う新しいオフィスは、海浜ベイエリアの高層ビルにあった。


 正式に移転した日は、まだ新しい内装の匂いが残っていた。窓側の席からは港が見える。


 中村は入ってすぐ、コーヒーマシンに一番近い席を選んだ。


「年取るとカフェインがないと動かん」


 若いエンジニアが横から言う。


「中村さん、この前の健康診断でコーヒー減らせって言われてませんでした?」


「医者はここにいない」


 周りが笑う。


 転職直後のぎこちなさは、思ったより早く消えた。


 長谷川は長い歓迎スピーチをしなかった。


 機材の準備が一段落すると、主要メンバーだけ会議室へ集める。


「まずは、改めて歓迎します」


 ASTERの次期計画を画面へ映した。


「契約を取ったから終わり、ではありません。先方の期待値はむしろ上がっています。次からの要求はもっと厳しくなると思ってください」


 俺を見る。


「高瀬さん。必要なリソースの配分は任せます。計算資源、人員、外部支援、足りなければ早めに言ってください」


 次に全員へ視線を向けた。


「技術判断は技術チームに任せます。マーケティングも財務も経営側も、条件やリスクについては当然口を出します」


 そこで少し笑う。


「でも、技術の分からない人間が、肩書だけで決めるようなことはさせません」


 一瞬だけ会議室が静かになった。


 LUMINAで何があったかは、ここにいる人間なら分かっている。


 長谷川はそれ以上、前の会社を引き合いに出さなかった。


「じゃあ、次のフェーズの話に入りましょう」


 会議が終わったあと、俺だけ呼び止められた。


 長谷川が外からコーヒーを二つ持ってくる。仕事を離れると、彼女は会議中よりかなり話し方がくだける。


「どう?」


「何が?」


「プロジェクトも、それ以外も」


 会議机に軽く腰を預ける。


「発表会のあと、水野社長が追いかけてきたでしょ。戻ってきて『やっぱり辞めます』とか言われたら困るなと思って」


「考えすぎだ」


「だといいけど」


 長谷川が笑う。


「十年夫婦で、会社まで一緒に作ったんだから、何も感じないほうが変よ」


「何か感じることと、戻るかどうかは別です」


「それなら安心」


 彼女はそこで仕事の話へ戻した。


「LUMINA、今日もストップ安。機関投資家が何社か動いてる。臨時取締役会は避けられないでしょうね」


「それは向こうのガバナンスの問題です」


「最近、その台詞ずいぶん滑らかに出るようになったね」


「じゃあ、何て言えばいいんです?」


「別に」


 長谷川は肩をすくめる。


「来週になって古巣の火消しに戻ったりしないか、確認しただけ」


「戻りません」


「ならいい」


 次は広報の話になった。


「ASTERの件で、業界向けの発信も増える。今までは技術の後ろに隠れていられたでしょうけど、執行役員兼CTOになった以上、取材もイベントも投資家向け説明会も避けられないから」


「その辺、長谷川さんがやればいいんじゃないですか」


「冗談。私は経営と資本の話はするけど、技術の説明まで代わる気はないからね」


 自分のオフィスへ戻ると、スマホに着信履歴が溜まっていた。


 業界メディア、昔の取引先、投資家。俺とLUMINAの間に何があったのか、知りたい人間は多いらしい。


 どれにも返事はしなかった。


 真由からも何通か来ていた。


【どうしてここまでしないと気が済まないの?】


【直人、一度だけちゃんと話したい】


【あなたもLUMINAの創業者だったでしょ。会社が今こうなって、本当に何とも思わないの?】


 十分ほどして、もう一通届いた。


【外に出たら、お互い困る話だってあるよ】


 脅しに近い。


 しばらく画面を見てから、一通だけ返した。


【会社と離婚に関する連絡は、今後すべて弁護士を通してください】


 ブロックはしなかった。


 通知だけ切った。


 届くたびに、自分の気分まで動かされたくなかった。



9



 それから数週間、ASTERは予想以上に順調に進んだ。


 黎明には自前のデータセンターと十分な計算資源がある。LUMINAでは何日もかけて他部署と調整していたことが、理由さえ明確なら短い手続きで進む。


 チームも少しずつ、創業初期のような空気を取り戻していた。


 ある日は、アルゴリズムのパラメータ一つで中村と若手が夜十時まで言い争った。結局、二人でコンビニのおにぎりを買いに行き、翌朝また続きをやっている。


 そういう揉め方なら、むしろ安心できた。


 ここでは、誰が上に気に入られているかではなく、全員がプロジェクトそのものを見ている。


 一方、LUMINAの状況は悪化していた。


 ASTERを失注したあと、株価は大きく下落。複数の機関投資家が、主要技術者の退職と経営判断について説明を求め始めた。


 経済メディアも連日取り上げている。


【LUMINA、大型案件失注 技術競争力を市場が再評価】


【LUMINA、相次ぐ技術者退職 経営体制への懸念強まる】


【機関投資家、LUMINAに説明要求 臨時取締役会開催へ】


 創立十周年パーティーの動画まで掘り返された。


 さらに、社内向けに配信されていた悠斗の謝罪映像が外部へ流出し、パーティーで一千万円の特別報奨を受け取る場面とつなげた短い動画がSNSで拡散された。


 入社一年未満の企画担当者に、一千万円規模の特別報奨を出したのはなぜか。


 そんなコメントも増え始める。


 社内関係者を名乗る匿名投稿まで出てきた。


 新規事業企画室が何度も通常審査を飛ばして予算を取った。


 すでに決まっていた技術案件が、悠斗の提案で後回しになった。


 事実と噂が混ざっている。


 俺は関わらなかった。


 金融アプリの通知が来ても、見出しを見るだけで記事を開かないことが増えた。


 金曜の午後。


 ASTERの第一フェーズのテスト結果を見ていると、中村から電話が来た。


「直人。さっき下のカフェで小川を見た」


「ここで?」


「そう。向かいにいたの、東栄インベストメントの野村だ」


 手が止まった。


 東栄は以前、LUMINAへ出資を持ちかけたことがある。企業が不安定な時期に入り込み、強い条件を突きつけることで知られる投資会社だ。


 真由は条件が厳しすぎると断っていた。


「野村で間違いない?」


「二回会ってる。間違えないよ」


 中村は声を落とす。


「けっこう長く話してた。小川、書類も持ってたぞ」


「追わなくていい」


「いいのか?」


「二人が何を話すかは、もう俺たちには関係ない」


 少し考えてから付け加える。


「ASTERか黎明の情報が絡むなら、法務へ連絡。それ以外は放っておけ」


「了解」


 通話が切れる。


 このタイミングで悠斗が東栄の野村と会う理由が、ただの挨拶だとは思えなかった。


 自分の次の行き先を探しているのかもしれない。あるいは東栄側が、LUMINAの混乱につけ込もうとしているのかもしれない。


 どちらにせよ、真由と取締役会が対応することだ。


 俺はあの会社で、何年も問題を片づけてきた。


 辞めたあとまで背負う必要はない。


 PCの右下に、新着メールが表示された。


 ASTERの発注元から届いた、第一フェーズの正式評価だった。


 性能、安定性、開発速度。すべて当初の目標を上回っている。


 最後には、このまま次フェーズも進めたいという一文が添えられていた。


 二度読み返してから、プロジェクトのグループへ転送する。


【第一フェーズ通過。みんなお疲れ。十五時から次の計画を確認しよう】


 すぐにスタンプが並んだ。


 誰かが「今夜は打ち上げですね」と書く。


 真っ先に中村が返した。


【先に言っとくけど、今回は俺は払わないぞ】


 すぐ下に返信がついた。


【発表会の日、中村さんが奢るって言ってませんでした?】


 中村からは返事が来なくなった。


 思わず笑った。


 会議室のほうから声が飛んでくる。


「高瀬さん、あとはあなただけですよ!」


 PCを閉じ、資料を持って席を立つ。


 会議室の扉を開けると、中村がアルゴリズムチームと次の方針でもめていた。その横では、長谷川が予算表を広げたまま、頭を抱えるような顔で話を聞いている。


 誰かが俺の椅子を引いた。


 座って、資料の一ページ目を開く。


「じゃあ、続けようか」






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